サチノ明日

 空がうんざりするほど澄み渡って、飽きないほど綺麗にどこまでも続いている。


 小さいときから見ているこの空の景色は、私の憂いた心を晴らしてくれる。私の大好きなもの。

 大好きなものはもっとたくさんあった筈だ。でも、今の私にはお母さんしかいない。お父さんと6つ年上のお姉ちゃんは私が生まれたその日に死んだ。本当だったら私たちはこの世界で出会って、一緒に生きて、一緒に笑って「幸せ」になる筈だった。あのテロ事件さえ発生しなければ。


 今年の4月、私は高校生になった。新しく買ってもらった赤いリボンが可愛い制服を着て、桜の花びらが舞う並木通りを歩く。

 入学式だったその日にはお母さんは来なかった。どうしても抜けられない仕事がちょうど当日入ってしまったと前の日に言っていた。今までの学校行事であれば毎回欠かさず出席していたお母さんにしては珍しいことだった。


 友達もろくにいない私は、知り合いが誰一人いない新しく通う高校に少し胸をこわばらせていた。


 私たち親子は私が進学するたびに学校のすぐ近くに引っ越した。学校の近くにあるマンションやアパートを転々としたのだ。自分の職場からどれだけ遠くなろうともお母さんは構わず、学校の近くに引っ越そうと言った。だから私は今まで一度も電車やバスを使って通学をしたことがない。きっとお母さんにとってはずっとトラウマなのだろう。朝の電車に乗ったせいで、お父さんとお姉ちゃんは死んでしまったのだから。

 

 入学式は体育館で行われた。床は濁った緑色のシートで覆われ、天井には等間隔に設置されている照明が無機質に会場の人間たちを照らす。

 舞台前に並べられたパイプ椅子に私を含む新入生が座った。向かい合うように、目の前には保護者席があった。そこは黒や白の礼服を着た親たちで満席だった。校長先生の祝辞を聞いていた時、いつしか私の目はそこにいるはずのないお母さんを探していた。でもどこを見てもいない。本当は私の制服姿を今日見れるはずだったお母さんのことを思い、胸が空っぽになる。

 来賓の挨拶も終わった。次に担任の先生がクラスメイトの名簿を手に取り、一人一人読み上げていく。体育館に響く新入生の名前たち。私はただ、どうでもいいという風に聞いていた。そして一組の担任が最後の生徒の名前を呼ぶ。


「ヤサカトオル」


 身体が一瞬にして固まった。担任から出た名前が、私を突き刺しているような感触だ。


 今、なんて?「ヤサカ」って言ったの?急に冷や汗が出てきたみたいで、冷感を感じた。

 ずっと下に向けていた目を正面にやる。最前列の一番端は誰も座っていなかった。

 「ヤサカトオル」はいないのか?先生が名前を呼んで、結局誰も立ち上がらずに空白の時間は過ぎていった。


「あの……大丈夫ですか?」


  隣の女子生徒が優しく声をかけてきた。気づけば私は頭を両手で抱えて息をするのにも苦しくて仕方がなかった。しかし、私は女子生徒の声を無視し、あの罪のないパイプ椅子だけを見つめていた。今の私には「ヤサカトオル」という名前しか頭に入ってこない。


 確信は持てないけど、その男はきっと矢坂迅の子供。そうじゃなくとも血を引いている可能性だってある。さっきは口頭で聞いてたからどんな漢字で書くか分からないけど「ヤサカ」の苗字はそんなに聞いたことがない。あの恐ろしいテレビニュースの字幕で見たときくらいだ。


 矢坂シュン……。私たち家族をめちゃくちゃにした凶悪犯。あの男のせいで、お父さんとお姉ちゃんは死んだ。お母さんも電車やバスに乗るのを極端に嫌い、事件当日の10月15日に近づくと誰もいないところで泣き出したり、悲しい顔をする。でも、私の目の前では絶対にそんな顔はしない。私のいないところでひっそりと悲しんでいるのを、気づかれないように見たことがある。本当はずっと我慢していることを私は知っていた。お母さんは今まで、やりきれない思いを私に隠しているんだ。   


 なぜなら私の誕生日の日には、私をちゃんと祝ってくれるから。私にめいいっぱいの笑顔を見せてくれるから。だからお母さんが大好き。お母さん以外に愛している人なんてどこにもいない。


 だからお母さんに迷惑はかけたくない。


 「ヤサカ」の名前を聞いた時は気が動転したけど、ここにはお母さんもいない筈だ。ある意味で良かった。もしこの状況でお母さんがあの保護者席に座っていればきっとトラウマが蘇ってしまっただろう。


 入学式が終わり、家に帰った。誰もいない玄関に「ただいま」と挨拶を告げる。返事はない。まだお母さんは帰っていないみたい。廊下の一番奥にある自分の部屋へ行き、学生鞄を投げ出してベッドの上に横たわる。


 今日は卑劣な思いをした。透明なガラス板にヒビが入ったみたいに、胸が傷ついていく。


 このことはお母さんには言わないでおこう。


 窓の外の景色は、つい一週間前に引っ越してきたばっかりだったから新鮮に見えた。どこまでも続く青い空と、街中に張り巡らされた電線が交わって、一つの写真のように視界に広がっている。  


 一羽の白い鳩がどこかの一軒家の屋根を離れ、空高く飛んでいった。いつか、あんな空を飛べることができる鳥になって現実ここからいなくなってしまいたいと思ったことがある。でも、私たちは今もなお、飛び立てずにいる。




 そんな空想を考えているともう3ヶ月が経ち、街には初夏が訪れ、白い半袖のブラウスを着る季節になった。梅雨が明けて、乾いた日の光だけが私を照らしている。でもその光を受けても、あの時の記憶は消えてくれない。これからどうやって生きていけばいいんだってずっと自問ばかりしてる。16年前に私の命と引き換えに死んでしまったお父さんやお姉ちゃん、他の人たちの命に問いたい。


 今生きている私たちの純粋な命はどこに向かっていけばいいの?

 

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