新路
島から帰って翌日、庸平と千紗は橘邸を訪れていた。
橘翁はこの上なく上機嫌である。
「いや、一時はどうなるかと思っていたが、君たちに任せて本当によかった」
「とんでもないです…」
と千紗は目を伏せながら反応に窮している。
この日は国防省の川島も来ていた。
「で、例の物は今どこに?
早く安全なところで管理しよう」
それまで黙っていた庸平が反応する。
「大丈夫ですよ。今焦って下手に動かす方が危険だ。
移動させるのは、内部の敵を排除してからだな」
話しながら、庸平の視線は川島を捕えて離さない。
川島はその獲物を見据えるような目に、一瞬背筋が凍り付いた。
庸平がまだ時々この目をすることに千紗は気づいていた。機嫌のいい顔をしているかと思えば、すべて作戦遂行のための芝居のこともある。
この男の腹の底が見えることはないだろう。
「わかった…そうしよう」
この場は川島が引き下がった。
「とにかく、よくやってくれた。
まずはゆっくり休んでくれ」
橘翁は終始笑顔を崩さなかった。
空は赤く染まりつつある。
橘邸を出た庸平は目を閉じ大きく息を吐いた。
まったく。こんなことより、殺し合っている方が気が楽だ。
でもこれが変わるチャンスかもしれない。美学のため、国のためだけの人生じゃなく、愛する人のため、そして自分の幸せも考える人生…。そうだ。普通の人生を選べるかもしれない。
遅れて千紗が出てきた。せっかく整えた庸平の呼吸が再び乱れ始める。
「っ…。じゃあ、行こうか」
案の定一言目からしどろもどろだ。
慣れないことをするもんじゃない。
「どこにする?」
いつも通りの微笑みで、千紗が庸平の顔を覗き込む。
「せっかくの祝勝会だ。うまい店をとってあるよ」
決して千紗の方は見ない。恥ずかしそうに目を伏せ、口元に微笑を浮かべている。
まったく、この恐怖はなんなんだ。
死ぬ気になれば何も怖くない。
「死ぬ気」という言葉を使う奴はよく見る。
そういう奴らのゴールには大抵、「死」の選択肢は存在しない。
「死ぬ気」というとき、選択肢は「成功」か「失敗」か、ではない。
「成功」か「死」、あるいは、「成功」と「死」であるべきだ。
命の最後のコインまでを、成功に費せるか。
そういう戦いは楽だ。自分にあるもの全てを注ぎ込めばいい。
しかしこれはなんだ。生きるための戦いなのだ。
この戦いに死ぬ権利はない。
この恐怖をいったいどうすればいい?
ちがう。
大事な人に必要とされ、その人のために時間の尽きるまで、肉体の尽きるまで何かできることがある限り、人間は生きていられるのだ。
死ぬために戦う、という逃げを選択してきた結果がこれだ。
「ありがとね。
今回の任務、庸平がいてくれてよかった」
歩きながら、ポツリと千紗が呟いた。
「いや、こちらこそさ」
と、庸平は照れを隠すように顔を伏せた。
そう、「照れ」があるのだ!そしてそれを恥ずる感情が!
生命が誕生して第一に体験する感情は泣くことだ。人として与えられた感情の重みが怖いのだ。
庸平という臆病者は今、新たに感情を与えられようとしている。
人を好きになり人に好かれる。
これが人間らしさというものだ。
少なくとも庸平が憧れる人間というものは、そうであった。
千紗だけが自分を人間に戻してくれる。そう信じていた。
「こうして終わってみると、やっぱり穏やかないい街だね」
「そうだな。この街にもだいぶ慣れたか?」
「そうねぇ。でも今のうちに行っておきたいとことかまだ色々あるかな」
「じゃあ今から行くとこはちょうどいいかもな」
そうだ、恐怖というものは感情に宿る。
今までの行動に感情はなかった。美しいか、美しくないか、それだけだった。
だがこれは、「愛する」という感情から始まっている。
そりゃ怖いはずだ。
後にも先にもこの人だけだ。俺を恐怖に陥れる相手は。
俺の精神が唯一勝てない相手だろう。
だが俺が今悩んでいるのは、ダメだったらどうしよう、関係が崩れたらどうしようと、結果論だ。本当に好きならそんなことは問題じゃないだろ?問題は、好きかそうじゃないか、その気持ちさえハッキリしているんだったら、やるべきことは一つじゃないか。
入った店内の仄暗い個室で向かい合う。
中央に鍋が置かれている。
「なんか雰囲気ある店だねぇ」
「いいだろ?永井さんが教えてくれたんだ。
永井組も政府要人も御用達みたいだぜ」
こうしてはしゃいでいる庸平だけは、芝居とは思えなかった。思いたくない千紗がいた。
「なんか、懐かしいね」
「ん?なにが?」
「覚えてるかな。最初に二人で御飯に行ったのも、鍋じゃなかった?」
「フッ、そうだったな」
そうだ、もうあのときの庸平じゃない。
変わらないところもあるが、確実に変わったところもある。
「もうだいぶ前に感じるねえ」
「そうだな。どうだい、あの頃に比べて自信もだいぶついたんじゃないか?」
「そうね」
グラスを傾けながら千紗が苦笑する。
「でもほんと庸平のおかげだよ」
「いやいや」
照れを隠そうと庸平はグラスの淵を噛む。
「千紗はまだこの仕事が好きか?」
「ええ、誇りに思ってるわ」
千紗が自分に誇れるものが、一つできたわけだ。
「それはよかった」
楽しい会話が続いた。
庸平は時に、顔をくしゃくしゃにして笑った。
それを見て千紗も、心から笑った。
「そろそろ行く?」
「ああ…行こうか」
夜道は人通りも少なく静まり返っている。
風が涼しい。
「久々にこんなに笑った」
「そっちの方が似合ってるよ」
「そうか?」
と言う顔は絞まりがない。
海の音が聞こえてきた。
「ちょっと、こっちに行ってもいいかな」
「ん?いいよ」
庸平の声が緊張している。
少し歩くと、海が一望できる公園に出た。対岸の街の灯が、こちらまでを照らしている。
「うわあ、綺麗」
「だろ?これを見せたかった」
千紗が、海に沿って立てられた柵に手をかける。
「庸平がこんなところ知ってるなんて、意外ね」
「俺はロマンチストだからな」
と真面目な顔をして言う庸平に、千紗は思わず笑ってしまった。確かにある意味、ロマンチストなのかもしれない。人とはだいぶずれたロマンな気がするけど。
「あのさ…」
先に声を発したのは、千紗の方だった。
第一声を制された庸平は呆気にとられる。
「私、庸平に会えて本当によかった。
でもね、まだちょっと怖いんだ。
庸平のこと、まだよくわからない。
でも、信じてるから。これからも、よろしくね」
庸平はそっと、告白のために用意してきたネックレスをしまった。。
「そっか、ありがとう。
でもひとつだけ、信じてほしい。
俺は、千紗の幸せを守りたいと思っている。これだけは、変わらない」
千紗の表情は苦い。
「いい加減自分の幸せも考えなよ。
庸平の犠牲の上の幸せなんて嬉しくないよ。
勝手に人のため人のためと思ってやっていることは、結局は独りよがりだよ」
自分の幸せがない庸平にはそんなことを言われても、そういう生き方しかできなかった。
それを否定されれば、庸平はどう生きればいいのか。
「やっぱり、庸平が何考えてるかわからない」
「俺ほど単純な人間はない」
確かに、庸平の思考原理はいたって単純、たった一つだろう。
ただその一つが、美学という、普通でないものだ。
そしてこの男は、その美学のためであれば何だってやるだろう。常軌を逸したことでも。
「全然わからないよ」
わかろうとした。
でもそれには、庸平の美学は難しかった。しかしその美学を捨てることはないだろう。
「それでいい。
俺は仕事に集中するだけだ。
だが千紗の力も必要だ。よろしくな」
「うん」
気まずい沈黙が流れた。
「じゃ、行こっか」
再び基地へ歩き始める。
「 」
「 」
何を話していたのかは覚えていない。
ただ庸平が努めて明るく話そうとしているのはわかった。
基地に着いた。何人かの部屋に明かりが灯っている。
「今日は、ありがとう」
「こちらこそ」
「じゃあ、また明日」
「うん」
自室へ入った庸平はベッドに横たわり、大きく息を吐き出した。
終わったな。だから言ったじゃないか。
お前は今まで道を選ぶ時はずっと俺に頼ってきた。
今さら俺無しでやっていけるとでも?
誰にでも目障りな人格というものがある。
庸平には、この桐野という人格が目障りだった。
だが桐野の言う通りだ。
桐野は、庸平が理想として掲げた人格なのである。
この人格が無くなれば、俺は誰になる?
庸平は天井を睨みつける。
今俺は、千紗のために何ができる?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます