変化

 小さな少年が、泣きながら歩いている。


 泣きたいときは泣けばよかった。そこに恥じらいなど必要ない。

 怖いものを怖い、痛いものを痛いと言って何が悪い。


 前から現れた母親に抱きつく。

「気が優しいからねえ」

 と端で初老の女性が笑っている。この子の祖母だろう。

「でも男の子なんだから強くならないと」

 母親が頭を撫でながら諭す。

「強くなくていいもん…」

 そう、男が強くなければいけない時代は終わろうとしている。

「でも、将来大切な人を守ってあげなくちゃ」

 母はニコリと笑った。


 そこで庸平は目を覚ました。

 殺風景な部屋である。

 まったく、千紗があんなことを言うから変な夢を見た。

 一階へ下りると、千紗と男が話している。情報局選抜の高橋だ。

 二人が楽しげに話しているのを見てなぜか少しムッとした。

「高橋、仕事だ。宝物庫の見取り図、警備システム、例の地図のできるだけ詳細な情報を洗い出せ。今週中だ」

「わかった。庸平はどうするんだ?」

「俺は用事がある」

 何か言おうとして立ち上がりかけた千紗には、

「今日の護衛は斎藤に頼んであるが、なるだけ外には出ないように」

 そう言い残して出て行った。

「いつも無愛想だが、いつも以上じゃなかったか?」

「そうね」

 千紗も千紗で、不機嫌になる。


 外に出ると小雨が降っていた。

 街路は雨のせいか人通りがない。

 嫌にどんよりしている。

 桐野は編み笠を目深にかぶり、歩みを進めた。何故か右手にも傘を持っている。

 しばらく歩くと小さな石段に差し掛かる。それを下りかけたところで、急に足を止めた。


 雨音だけが通りに響く。


 すると前から男が三人。傘もささずに歩いてくる。

 二人が石段の下で立ち止まった。一人だけが上ってくる。


 編み笠で顔はよく見えないが、桐野の口角は少しずつ上がっていった。


 上ってきた男は、そのまま桐野の横を通り過ぎた。

 その瞬間、男が反転し桐野めがけて刀を振りかぶる。

 桐野は右手の傘を握り直し、振り返りざま左手で男の腕を押さえ傘で胴を払う。


 ただの傘で殴った音ではない。中は鉄の棒である。


 さらに左手で掴んだ男の腕を引き、下段から迫る二人へ投げ飛ばす。

 と同時に右の男の顔面を傘で横殴りにし、そのまま左の男が振り下ろしてきた一刀を受け止め、傘を返し左から胴を払う。

 三人ともうめいていた。

 庸平は相変わらず不機嫌だ。今朝から虫の居所が悪い。


 永井組の事務所に着いた。

 門を叩く。中から反応はあるものの、様子が変だ。異変を感じ庸平も身構える。

 やっと門が開き、案内人が現れた。身体検査があり、武器は預けるように指示された。

 その後案内人の先導を受ける。

 庸平と案内人は一言も交わすことなく歩みを進め、客間に着くと椅子に腰かけるよう指示して彼は消えて行った。

 門からここまで人の姿は見えないが、気配は感じる。大勢の殺気だった気配を。


 十分ほど待たされて、永井が入って来た。

 やはり林も一緒。相変わらず一言も発せず庸平の方を見向きもしない。

「昨晩何かありましたね」

 単刀直入に庸平が切り出す。

「昨晩ここを銃撃した奴がいる。幸いに死者は出ていないが」

「私たちが来たからだと」

 庸平はうつむき加減で目だけを上に光らせている。庸平の殺気に林も懐に手を忍ばせる。

「あるいは、君たちの手引きか」

「昨晩襲われたのは私たちも同じです。敵はかなりデカい。だからこそ力を貸してほしい」

 永井が顔をしかめるのを気にせず庸平が続ける。

「まさか、昨晩の襲撃で躊躇しているんじゃないでしょうね」

 林がピクリと反応した。

「襲撃を受けたなら何故反撃しようとしない。それとも大人しく脅しに乗るのか。

 それにこれは損得じゃねえ。この国に生まれて、この国で勢力張ってんなら、少なからず報いにゃならねえ国への恩ってもんがあるはずだ。

 もう話も聞かれてしまっていることだ。もし引き受けられないのなら、ここで殺す」

 左手には鉄の傘が握られている。

 外も一斉に殺気だった。おそらく配下の者が聞き耳を立てて待機しているのだろう。

 林の懐から、撃鉄を引く音が聞こえた。

「問題は危険かどうかじゃねえ。

 やるか、やらないか。自分が何のために行動するかだ。危険はその結果にすぎない」

 それから言葉を発する者はいない。


 張りつめた空気を打ち壊したのは、永井のよく響く笑い声だった。

「本気だな?」

「もちろん」

「よし、その度胸買った。だが俺たちは連れて行くだけだ。自分たちの身は自分たちで守れよ。いいな?」

「もちろん」

 ニッと笑って庸平は立ち上がった。

「来週の月曜朝六時、ここに来い」

 という永井の言葉を背に、庸平は部屋をあとにした。


 千紗は部屋で斎藤と話していた。高橋もいる。

「庸平って昔っからああなの?」

「まあ、そうだな」

「あれじゃこっちも信用しようがないわ。

 あれに命預けなきゃならないんだからね」

「確かに、ちょっと近寄り難いな」

 と高橋。

 お前に近寄ってもらおうなんて思ってねえよと、庸平がいたら怒っただろう。

「私、庸平のことちゃんと知りたい」

 ほう、と斎藤は驚いた。そんな人間が出てくるとは。

 高橋が情報部の他メンバーに呼ばれて出て行った。斎藤からすればちょうどよかった。

二人だけで話がしたい。

「伊藤、桐野のことよろしく頼むぜ」

「どうしたの?突然改まって」

 千紗が笑う。

「いや、ああやって強がっちゃいるがあいつにも支えが必要だ。あんたなら理解者になってあげれねぇかなってね」

「でも庸平があの調子じゃねぇ」

「そうだな…。理解者ができるってのは嬉しいことさ。

 だけどな、だからこそな、ようやく現れたそんな大事な人には本性を見せるのが一番怖いんだ」

 千紗にはいまいちまだピンとこない。

「まあ、ゆっくりあいつが心開くのを待ってやってくれ」

「うん、わかった」

 千紗が嬉しそうに席を立つ。

「どうするんだ?」

「今夜の夕食に誘うよ」

 と微笑を残して出て行く千紗を見ながら、斎藤は思わずクスリと笑った。

 庸平の苦い顔が浮かぶ。さあ、どうなるかな。


 庸平は橘邸も訪れていた。

「進捗はどうだね?」

「ええ、順調です」

 いつものようにニコニコしている橘翁に計画を説明する。

 苦い顔をしたのは川島だった。

「永井組とはあの暴力団だろ?

 反社を使うのか?」

「はい。問題でも?」

 川島だけでなく橘翁も頭を抱えている。

「仮にも国からの任務に反社の力を借りるのは…」

「あなた方は国より先に盗み出せと言った。

 俺たちは国の援助を受けているわけじゃない。

 俺たちのやり方でやらせてもらう」

「……」

 二人はまだ険しい顔をしている。

「まだ何か?」

「君のこれまでのやり方は聞いている。

 永井組のことは認めよう。だがあんまり汚い手を使われると成功時の体裁が悪い。

 殺しも防衛にとどめてくれ」

 と言いながら川島は自分を見る桐野の目にゾッとした。

 こいつは必要とあらば自分も殺るだろう。

 桐野の目は、納得しているわけでも、不快感を表しているわけでもない。

 邪魔か、そうでないか。それだけを見極めようとしている。

 庸平の頭には任務を降りる、ということもよぎった。

 こいつらは俺の力の使い方をわかっていない。最大限活かしてくれるところでなければ、俺の力がもったいない。


 夕刻、庸平が本営に帰り玄関の扉を閉めると、千紗が階段を駆け下りてきた。

「ちょうどよかった。永井組から同行許可が出た。これから作戦会議を…」

「よかった!じゃあ今夜は決起集会ね」

「は?」

「今晩庸平を夕食に誘おうと思ってたの。せっかくだからみんなで決起集会にしましょ。

 じゃあ、時間を決めないとね」

 庸平が唖然としているうちにどんどん話が進んでいく。


 そうして夜、庸平は座敷の隅に座らされていた。苦い顔で杯を傾ける。


 結局、近くの料亭で決起集会がとり行われていた。

 蒼龍隊から情報部まで全員が来た。ただの宴会であれば庸平は来ないが、チームの正式な決起集会となれば隊長として参加しないわけにいかない。それで一人、黙々と隅っこで飲んでいた。

 上機嫌で酒瓶を持った斎藤が寄ってくる。

「飲んでるか桐野」

「おい、どうなってんだこれは」

「伊藤が言い出したことだ。彼女の言ってることも正しいよ。チームワークが大切だ」

「とぼけんな。お前は俺が困るのを見て楽しんでるだけだろ」

「でもみんなお前にとっつきづらいって言ってるのは確かだ」

「あえてだよ。あいつらに俺が同等だと思われないようにな。

 俺は将来的にもこのチームを率いていくつもりだ。同等のチームメイトと思われちゃやっていけねえ。だから一定の距離を保っている。

 それに、チームワークにしても仲良しごっこじゃねえんだぜ。仕事に集中していればいいんだ」

「じゃあそうやって伊藤に言うしかない」

 それはまた千紗に怒られるのが目に見えている。今の状況で千紗との関係は壊したくない。

「それが無理なら、輪に入るんだな」

 斎藤を無視して庸平は、舌打ちをしながらまた一人黙々と飲み始める。

 呆れて斎藤は酒宴に戻った。

 庸平の前の席は高橋の独壇場になっている。周りを囲むのは千紗、情報部の加藤に女性メンバーの上野、蒼龍隊の城島・野村だ。

 上機嫌な高橋の声が庸平のところまで聞こえてくる。

「城島くんは海外へ行ったことないのかい?」

「ああ、まあ…」

「今の時代、色々経験してみるべきだ!

 世界に出れば、物事の見方も変わる」

「だが仕事もあるしね」

「そうやって挑戦せずに人生終わっていいのか?たった一度の人生だ。面白い方を選ばないと」

 庸平はムッとした。

 そりゃあ現代的感覚で言えば、世界に出て自由に伸び伸びやることを成功と考えるのかもしれない。あるいは、社会的地位や名声を得ることか。

 もちろんそれもいいだろう。個人の勝手だ。

 だが堅実に、地道に国に尽くす人間も必要だ。

 それを挑戦しないやつだと否定するのはお門違いだろう。

 価値観を持つのもいいが、そりゃてめえの胸にしまっとくものだ。てめえの胸にしまって、誰に批判されようとてめえだけはそれを貫く。それでいい。

 わざわざ他人に誇ることでもない。

 今日は腹の立つ日だ。


 頭を冷やそうと、庸平は席を立った。

 ベランダに出ると通りが見下ろせる。

 手すりに寄りかかり、行き交う人々を眺める。


 彼らは何に生きるのだろうか。

 人生の価値を「幸せ」や「成功」に求めるならば、美学なんて余計なしがらみは邪魔な重りにしかならない。

 美学というのはあるいは、その重りに耐えることへの自己陶酔ではないか。

 その重りをもって生きられるか、これはゲームだ。


「どうしたの?」

 急な後ろからの声に庸平は我に返った。千紗が隣にやって来た。

「今日は庸平とも話したかったのに」

「どうも大勢でワイワイってのは苦手でね」

 この日初めて庸平が微笑を見せた。

「無理に連れ出して悪かったね」

「いや、いいんだ。気ぃ遣ってくれてありがとう」

「うん…」

 千紗は心ここにあらず、といった様子で通りを眺めている。

「どうかしたか?」

「迷惑だった?…」

「そんなことはない。チームや俺のことを考えてやってくれたんだろ?」

「そうだけど。よかれと思ってやってもいつも、空回って人に迷惑かけてばっかりだから…」

「いいじゃねえか。不器用でもな、まずは行動することが大事なのさ。

 それも周りのためにやってくれてるんだろ?そりゃちゃんと伝わってるよ」

「そうかな…」

 人を慰めたことなどない庸平にしては頑張った方だろう。

 二人の前から、心地のよい風が入ってくる。

 後ろではまだ高橋が騒いでいる。

「あいつはベラベラとよく喋るな」

「私はちょっと羨ましいな。ああやって自信持って考えを話せるの」

「千紗はそのままがいいよ」

 本心から言っていたが、千紗はまだうかない顔である。

 すると、後ろの宴席に締めの料理が運ばれてきた。

「あ!次来たみたい」

 と千紗がはしゃぎ出す。

「そう、そうやって笑っているのがいいよ」

「馬鹿にしてるでしょ」

「いやいや。ほんとに言っているんだ」

 千紗が頬を膨らませしかめっ面になる。

 それを見て庸平は思わず噴き出した。

「ほら!馬鹿にしてる」

「違うよ。千紗が明るくしているとこっちの気持ちも明るくなるな」

 一瞬の沈黙の後、今度は千紗が噴き出した。

「何それ、庸平らしくもない」

「まあ飯食って元気出しに行こうぜ」

 庸平の顔は少し嬉しそうだった。

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