9.アラサー女は感激する



 まさか、この日に戻れるなんて……。



 これは部活終わりに「阿波踊りに行きませんか」と自分史上最大の勇気をふり絞って勝ちとった先輩との最初で最後のデートだった。


 受験勉強に本腰を入れていた先輩とは、この日を最後に殆ど接点を持てなくなった。現在の実菜にとっては、卒業式の日に天文部を代表して花を手渡して以来の再会である。


 繋がれた手これが人混みではぐれないための配慮だと理解しているが、手の平から彼の体温を感じると心が跳ねてざわつき、喜びと懐かしさと感激と……様々な感情がごちゃ混ぜになって視界が霞む。


 当時、一緒に過ごせるのはこれが最後だと分かっていたなら、もっと勇気を出せたのだろうか……? 最後に会った卒業式では半年以上振りの対面に恥ずかしいやら寂しいやらで胸がいっぱいになり、結局想いを伝えることが出来なかった。


 後日顧問の先生から、先輩が関東の大学に進学したことを聞かされて、その物理的な距離に唖然とし、二度と会えないことを悟って枕を濡らしたものだ。


 浮かぶ涙をこっそりと拭い、導かれるままに歩みを進めて両国本町演舞場に辿り着く。演舞場の周囲は踊り子達の勇姿をしかと拝むために、場所を取り合う人でひしめき合っていた。


 かなり人口密度の高い空間のため、どう気をつけていてもすれ違う人と肩がぶつかる。その度に握られる手にギュッと力がこもるので、実菜の心臓は切なく震えた。


 なんとか演舞場の端っこに陣取り、首を伸ばして歓声が上がる方向へ目をやると、少し前に鮮明に脳裏に浮かんだあの光景が広がっていた。



 凄い……。



 実菜は大きく目を見開いてその光景を見つめる。有名連の名が入った高張り提灯に先導され、男踊り、女踊りの順に隊列を組んだ踊り子達が踊り込んでくる。力強い掛け声と否応なしに観客を巻き込んでいく迫力に圧倒され、二人は暫くの間無言で目の前の熱気を堪能した。



「……すごいですね」


「うん、すごい……」



 苦笑してしまうような貧弱な語彙力だが、それは佑太朗も同様だったようだ。この熱気、この熱量、そして煩い心臓の音……。今この瞬間、五感の全てにフルパワーでびしびしと伝わってくる形容し難い刺激の数々を的確に表現できる言葉が見つからない。


 実菜は触れられたままの手を握り返し、あの夏の日と同じように目の前に広がる光景を、ただひたすらに記憶に焼き付けた。





*****





「先輩は関東の大学を目指してるんですよね?」



 熱気の余韻に浸りながら藍場浜あいばはま公園のボードウォークをゆっくりと歩く。屋台裏に当たるこの場所は人の流れが比較的まばらなので、繋がれていた手はいつの間に離れてしまった。


 少し残念に思いながら実菜は佑太朗の背中に向かって声を掛ける。



「え、話したことあったっけ?」



 振り返った彼に「なんで知ってんの?」と怪訝な表情で尋ねられ、顧問の先生から聞いたと答えて誤魔化した。先輩は一瞬眉を顰めたが「成る程」と納得する。


「やっぱり宇宙のことを学べる大学に行くんですか?」と尋ねると、佑太朗は少し迷ったように視線を揺らした後、こくりと頷いた。



「わぁ……やっぱり先輩はすごいです。私、自分のやりたいことすら分からなくて……もうすぐ受験生なのに進路なんて全く考えられてないですもん」



「いや、まだ目指してるだけやし。……実はちょっと迷っとる。親にさ、将来性はあるんか? 就職のこともちゃんと考えとるんか? ってすごい言われてて。先生にも他の希望も考えとけって言われるし……」



「宇宙に関連する仕事って確かになかなかイメージしづらいよなぁ」と佑太朗が苦笑する。



「ってか! 親と担任以外、誰にも進路のこと言ってなかったのに……加藤先生め、相変わらずお喋りや」



 苦々しげに口にする佑太朗を見て、実菜は心の中で「ごめんなさい!」と当時の顧問だった加藤先生に謝罪する。



「……でも、先輩はその大学に行きたいと思ってるんですよね?」



 実菜自身の天文部への入部理由は、プラネタリウムが好きだということと、格好良い先輩がいるという不純な動機だったが、先輩は本当に宇宙や天体が好きなのだということを一緒に過ごした1年半の間で実感していた。


 月の活動回数は少ないものの、暇な時に部室を覗けば必ず宇宙関連の本を読む佑太朗の姿を拝めたし、文化祭でのパネル展示も彼は一切妥協していなかった。去年はその内容を評価されて優秀な展示物に贈られる賞を貰っていた程だ。


 実菜の問いかけに少しだけ固まった佑太朗だったが、意を決したようにゆっくりと頷いた。

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