8.アラサー女は過去に戻る

 きつく目を閉じ、衝撃に備えて身構えていたが一向に痛みを感じない。おそるおそる目を開けると先程と変わらない阿波踊り会場の風景が広がっていた。



 一体何だったん……?



 暫く首を傾げていた実菜だったが、この短時間でいろんな感情が溢れ、冷静さを欠いていたのだろうと結論づける。30歳を前にしてこれでは大人気おとなげないと自省し、キャッチし損ねたスマホを探そうと地面へと視線を落とした。



「どしたん?」



 突然背後からどこか懐かしさを感じる心地よい声が降ってきた。ゆっくりと振り返ると高校2年生の、あの夏の日のままの先輩の姿が目に飛び込んでくる。



「……え?!」



 信じられない光景に固まってしまった実菜の顔を天文部の先輩ーー前島佑太朗まえしま ゆうたろうが不思議そうに覗き込んでいた。



 どういうこと?!



 慌てて口を抑え、喉まで出掛かった悲鳴を飲み込んだ。何故ここに前島先輩が?! 何故高校の制服を着て立っているの? 実菜は動揺を堪えながら必死で頭を回転させる。


 いや、これは夢だ。先程転んだ拍子に頭をぶつけたのかもしれない。久しぶりの阿波踊りや翔也との再会で心が乱れていたのだろう。


 まったく、なんて日なんだと若干やさぐれながら実菜は自分の頬をギュウと力を込めて捻る。夢なら早く醒まさなければ。



「……痛い」


「何やってんの?」



 頬に痛みは走るが一向に醒める気配がない。それでも捻り続ける実菜の手を佑太朗が苦笑しながら取って顔から離した。あまりにも自然な動きに呆けていると、「行こう」と声を掛けられ、そのまま手を繋がれる。



 ???!!



 耳まで真っ赤になってしまった実菜を見て佑太朗はクスッと微笑み、手を引いて歩き始めた。信じられないが、どうやら夢では無いようだ。



「えっと、先輩、お久しぶり……ですね?」



 しどろもどろになりながら告げると、前を歩いていた佑太朗に怪訝そうな顔を向けられる。



「何言ってんの? 今日は部活からずっと一緒だっただろ」



 その返答に思わず「えっ?!」と声を上げてしまった。慌てて辺りを見回すと自分も高校時代の制服を着ていることに気が付く。



 ???!!



 いや、今日は仕事が終わってそのまま山中さんと合流した筈……。



「あの……先輩。つかぬことを伺いますが、今って何年の何月何日の何時何分ですか…?」



 この不可解な状況の中で一つの可能性に思い当たり、そんな訳がないと否定しながらも恐る恐る尋ねてみる。


 佑太朗は不思議そうな顔をしたが、携帯を取り出して日付を確認してくれた。その光景に実菜は大きく目を見開く。


 彼が手にしている携帯は当時のままのスライドするタイプのガラケーで、教えて貰った日付は高校2年時の8月12日だった。



 え、これは、やはり……タイムスリップしてる……??



 いやまさか、漫画じゃあるまいし……というベタなツッコミが頭の中を巡ったが、制服を着た自分自身が、目の前の佑太朗の存在が、タイムスリップが事実であることを示している。


 それでも受け止め切れず、混乱のあまりあんぐりと口を開けたまま放心している実菜を見て、佑太朗が眉を顰める。



「さっきからどしたん? なんか変やぞ? 体調悪いなら帰る?」



 その言葉にハッと我に返った実菜はブンブンと左右に大きく首を振った。



「違います! 先輩とれたのが嬉し過ぎて、意識とんじゃってたみたいです!」



 状況はどうであれ、ずっと憧れていた先輩と再会できたのだ。このまま帰るなんてとんでもないと思い直し、慌ててそう伝えると、佑太朗の顔がキョトンとした表情を浮かべた後、みるみるうちに赤く染まっていった。



「ちょ、今日ほんまにどしたん? 普段そういうこと言わんやん」



 パッと実菜から顔を背け、唸るよう呟く。顔は見えないが耳は赤いままで、繋がれたままの手はその熱が伝わってくるように熱い。



 うわぁ、先輩可愛い……。



 実菜より頭一つ大きいスラリとした体格に、眼鏡から覗く切れ長の目がクールな印象を与える俗にいう塩顔イケメンである佑太朗に対して可愛いと思うのは初めてだ。現在の実菜より10歳程年下の彼が照れている姿に母性がくすぐられる。



 先輩の照れてる顔初めて見た!



 レアな表情を拝めたことが嬉しくて「先輩、照れてるんですか? 可愛いですね!」と続けると、「調子に乗るな」と赤く染まった顔のままで睨まれた。



「阿波踊り見に行くんだろ」



 ややぶっきらぼうな口調でそう言うと、佑太朗は再び実菜の手を引き、演舞場に向かって歩き始めた。

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