7.アラサー女は思い出す
放っておくと気分は底無しに沈み続ける。3回程深呼吸を繰り返したことでようやく気持ちが落ち着いてきた。
「ヤットサー」「ヤット、ヤット」という張りのある大きな掛け声とズシンと心臓に響くような騒然たる鳴り物の音を追いかけるように、連名を紹介するアナウンスが響いてくる。
演舞場を囲う観客達の拍手や歓声があちこちから上がり、ピィィィという誰かの指笛の音も相まって会場のボルテージが高まっていることを肌でも感じる。すれ違う人々が皆、音のする方へと少し焦ったように駆けてゆく。
そろそろ戻らないとなぁ……。
翔也や里穂の彼氏はもうスタンバイしているだろうか。溜息を吐き、顔を上げて一番人が集まっている華やかな場所に視線を移す。鳥追い笠を被り、指の先まで綺麗に揃った一糸乱れぬ優雅な動きで演舞場へと踊り込んできた女踊りの隊列を見た瞬間、ふと懐かしい光景が脳裏に浮かび上がってきた。
ドクン、ドクンーー。
周りにも聞こえてしまっているのではないかと思うくらい大きな音で心臓が鳴り続けている。今日と同じようにたくさんの人で埋まった演舞場の端っこで、繋がれた手の熱だけを意識して心を躍らせた甘酸っぱい感情が蘇る。
周囲はたくさんの音で溢れているのに、騒きの音も踊り子達の掛け声も観客の歓声さえ不思議と全く耳に入ってこない。
この煩い心臓の音がどうか聞こえていませんようにと祈りながら、目の前の踊り子達ををただ見つめることしか出来なかった高校2年生のあの夏の日。
大好きだった先輩と一緒に過ごした切ない記憶が思い出され、胸がきゅぅきゅぅと鈍く疼いた。
「女性の恋は上書き式」とは本当に良く言ったものだ。嫌な記憶に上書きされてすっかり忘れていたが、自分にも甘酸っぱい恋心を抱いていた時期があったこと思い出し、懐かしくて堪らなくなった。あの時は彼と一緒に見るもの全てが、キラキラと輝いていたものだ。
先輩、元気にしとるかな……?
廃部寸前の天文部、月に2回の活動を心待ちにしていた日々。結局淡い恋心を伝えられないまま、先輩は県外の大学に進学してしまった。
行き場を無くしたこの気持ちは蓋をされたまま、随分と長い間心の奥底で燻ぶっていたように思う。皆に勧められながら翔也との交際に乗り気になれなかったのも、心のどこかで先輩への思いを引きずっていたからかもしれない。
随分ご無沙汰してたけど、やっぱり好きやなぁ、この空間。
社会人になるまでは夏の思い出に必ずリンクしていた阿波踊りの光景。普段は人通りの少ない寂れた場所がこの時期になると多くの人で溢れ返る。その人集りの中心で披露される団扇や弓張り提灯を手に跳ねるようにステップを踏むパワフルな男踊りや、女性らしさを感じるしなやかな腕の動きと艶っぽさが魅力の女踊り……
特に有名連と呼ばれる踊り手集団の細部にまでこだわった繊細な振りや表現力は多くの観客を魅力するのだ。腕の角度や呼吸まで完璧に揃った踊り子達が隊列を組んで踊り込んでくる様は圧巻で、どんなに激しい動きでもピタリと合わせてくるその精密さから、彼らの努力と踊り子としての誇りをひしひしと感じられる。
その有名連が集結し、踊り子千人、鳴り物百人という規模で演舞場へと踊り込む総踊りは更に雄大で、阿波踊りのフィナーレを飾るに相応しい光景と興奮に皆が酔いしれる。きっと神様や妖怪達も紛れ込み一緒になって踊りながらこの立ち込める熱気に陶酔しているのだろうと本気で信じてしまう程にどこか厳然で圧倒される光景が視界いっぱいに広がるのだ。
騒きのリズムに合わせて空気が揺れ「ヤットサー」という掛け声と共に、その空間にいる誰もが立場を忘れて踊る阿呆と見る阿呆と化してしまうこの感動はきっと
暫くの間物思いに耽っていたが、流石にまずいと我に返った。時間が経つ程にこの人混みで里穂と合流することが難しくなるだろう。実菜はスマートフォンを取り出して里穂へのメッセージを打ち込もうと立ち止まる。
ドンッーー。
スマホの画面に気を取られ、すれ違いざまに肩をぶつけられた。その衝撃でバランスを崩してし、手から離れたスマートフォンが宙を舞う。
やばいっ……!!!
カラカラと社長に貰ったストラップが揺れている。このまま地面に落ちてしまったら確実に画面が割れてしまうだろう。慌てて前につんのめりながら、スマホに向かって手を伸ばした瞬間ーー。
スマホの画面から眩い光が溢れて視界が遮られ、その光に包まれた瞬間、臓器が持ちあがるような浮遊感に襲われた。
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