5.アラサー女は愛想笑う



「永松さ〜ん! こっち、こっち!」



 8月12日19時。夜というにはまだ少し明るく感じる時間に実菜は里穂と待ち合わせていた。


 人で混み合う鷲の門わしのもん広場の一角で浴衣姿の里穂が伸び上がって手を振っている。ようやくその姿を見とめた実菜は行き交う人にぶつからないよう注意しながら小走りで彼女のもとへと足を進めた。



「すみません! 遅くなりました!」


「全然大丈夫だよ。お仕事お疲れ様」



 実菜は額に浮かぶ汗をハンカチで拭いながら呼吸を整える。里穂は今日お盆休みを取っていたので本日初の顔合わせだ。すれ違う踊り子達とは対象的な緩く結われた髪型と黒地に色とりどりの花火が描かれた浴衣から彼女の大人の色香が漂っている。



「浴衣素敵ですね!」


「えへへ、ちょっと気合い入れちゃった」



 恥ずかしそうにはにかむ笑顔が可愛らしい。自分も着替えを持ってくれば良かったなと仕事帰りの格好で来てしまったことを少しだけ後悔する。


 歩道に連なる提灯を辿りながらメイン会場となる両国本町演舞場えんぶじょうへと歩みを進める。集合場所からは少し距離があるが、阿波踊り独特のお祭り気分を味わいながら歩くのもいいだろう。桟敷さじきの設置された市役所前演舞場に近づくにつれて、立ち並ぶ屋台の数が増え、ソースの焼ける匂いや人々の歓声が濃くなってゆく。


 近くで戯れているのはちびっこ連の子どもだろうか。法被姿にねじり鉢巻を頭に乗せた子ども達が小さな輪を作り、大人達に見守られながら「ヤットサー」と高い声をあげ、高く掲げた腕を前後に揺らしている。


 メイン会場に近づくにつれてドン、ドン、と腹に響く太鼓の音やカンカンカンと耳に残る甲高い鉦のリズムに合わせて、よしこの節の旋律を奏でる篠笛の音が大きくなってくる。あちこちから聞こえてくる騒きの喧騒と歓声に実菜の心も弾み始めた。すれ違う人々も皆がどこか落ち着きなく、キョロキョロと辺りを見回しながら興奮したように頬を染めているように見える。



あつしくん!」



 メイン会場に近づいたところで隣を歩いていた里穂が嬉しげな声を上げた。久しぶりの風景に気をとられていた実菜も慌てて里穂の視線を追いかけると、有名企業の名前が書かれた浴衣を来た同世代くらいの青年が手を振っていた。



 これが山中さんの彼氏さんか。……優しそうな人やな。



 里穂に紹介され「初めまして」と頭を下げた後、失礼にならないようこっそりとその姿を観察する。笑うと濃くなる目尻の皺が印象的な優しい雰囲気を纏った青年だ。出番まではまだ少し時間があり、今は同僚達と待機しているらしい。



「あ、こっちも同僚を紹介するよ」



 そう言って敦は後ろでたむろしている集団に声を掛ける。既にある程度お酒が入りその場でかなり盛り上がっているようで、敦の声に反応しない者がほとんどだった。


 しょうがないなぁ……と呆れていた淳だったが「紹介しろって言ったのお前だろ」と一人の男性の腕を引っ張って振り向かせる。その男の顔を見て、実菜は浮かべていた笑顔が固まった。



「あれ? 永松やん!」



 長めの前髪をかき上げるチャラチャラした雰囲気の男に名前を呼ばれ、更に顔が引き攣っていく。後退りたい気持ちをなんとか堪え、プランナー時代に培った渾身の営業スマイルを浮かべて実菜は口を開いた。



「太田くん……久しぶりやね」



 紹介される前に名前を呼ぶと、知り合いなの? と表情だけで里穂カップルに問いかけられる。



「大学の同級生で昔、いろいろあった仲なんすよ」



 ニヤニヤした笑みを浮かべながら、「なぁ!」と意味ありげに肩を叩かれた。触られた場所からゾワゾワと鳥肌が立っていく感覚が走る。


 面白がって含みのある言い方をしないで欲しい。いろいろという程の関わりは無かったではないか。


 嫌悪感からヒクヒクと口角が痙攣しているのが分かったが、里穂やその彼氏の手前、たとえ関わりたくない男であっても無下にはできない。実菜は苛立つ感情を隠し、愛想笑いを保つために小さく息を呑み、腹にグッと力を入れた。

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