拾漆:叫び
「今日はマシな格好をしているのね」
「怖い人に墨を覚えられても困るしぃ?」
バスから降りてこちらへ向かってきた沙羅に対して、へらへら笑いながらそう返すと、機嫌の良さそうだった表情が一気に険しくなる。
「あなたにまともな回答を求めた私がバカでした」
むすっとしている沙羅を見ない振りして、オレはそのまま歩き始めた。
今日行く場所は、変に目立っても面倒だから……も真実ではあるが、言っていないだけで理由はもう一つある。静からのリクエストだったからだ。
珍しく服装に注文を付けてきた静に、
まあ、こいつが一度見限った相手にチャンスを与えるとは思ってなかったから当然といえば当然だし、そういうところが気に入って、こいつと居る。
だから、別に何も支障はない。いや、暑いし、首元はなんだか窮屈だし、動きにくい気がしてちょっとだけ支障はあるが。
スマホを頼りに、オレは昨日クラブで出会った女が教えてくれた場所へ向かう。繁華街を通り抜け、雑居ビルの間を縫うように歩き回り、辿り着いたのはラブホテルの前だった。
地産地消?
『横だ』
オレのボケを無視した静の言葉に従って、ラブホの横にあるボロボロのアパートに目を向けた。
見るからにどんよりとした雰囲気のそこには、うようよと良くないモノが漂っていて、そこにだけガスがかかったみたいに輪郭がぼやけて見える。
アパートの前に停まっているのは……恐らく呪い屋の関係者だろう。スモークガラスの向こうから警戒しているニンゲンの気配がだだ漏れになっている。
車を見ようとした沙羅の腕を引っ張って、こっちに引き寄せた。
肩を抱き寄せて、耳元で囁く。
「お嬢様ぁ、知らんぷり知らんぷり。こわーいおじさんに用事はねえからな」
すぐに出てこないって事は顔が割れてないからってことだろうが……出来るならこいつだけでも正体を隠せていた方が、今後色々やりやすい。
特に何も起きることなく目的の部屋へ辿り着く。看板も表札も何も無い。古ぼけてボコボコにヘコんでいる扉の上に、小さなカメラがあるが、沙羅は気が付いていないみたいだ。
蜘蛛の巣が張ってホコリが積もっているチャイムに向かって、細い腕を沙羅が伸ばしたのと同時に、ギィィと耳障りな音を立てて扉が開いた。
腰が曲がっていてオレの腰辺りに頭があるような、小柄な老婆が「さっさと入りな」とだけ言って、背を向けた。
ついて来いということだろう。
玄関を入ってすぐに古めかしいキッチン兼ダイニングがあり、正面には新しいが何かに殴打された痕がいくつも浮かんでいる白い扉があり、右手には引き戸が見える。老婆が引き戸を開くと、そこにはボロボロの畳が張られている和室が見えた。
「ここで待ってな」
カバーが破れてところどころからスポンジが飛び出している座布団を指差し、無愛想にそれだけ言った部屋から出て行こうとした。
扉が勢いよく壁に叩き付けられる音と同時に、腐臭を漂わせた真っ黒な塊がぬっと部屋へ入り込んできた。
頭の大きな鳥の姿をしたそれは、そこだけが急に新月の日の夜になってしまったみたいな色だ。
ぎょろりとこちらを見た鳥の頭から僅かに黒が削げて、一瞬だけ赤黒い塊が見える。
『……ヒトだ』
静がそう呟くのと同時に、目を血走らせた女が玄関から部屋に飛び込んできた。
黒い鳥は、口を開いた女の中に吸い込まれていくように小さくなって、見えなくなる。
「出てこいあんたのところで堕ろしてから耳鳴りが止まないんだよホーホーホーホーホーホーずぅぅっとガキがうろついてなあヤクをキメてもやっててもいつでもみやがってなあお前がになにか頭に埋め込んだんだろ寝ている間になあこたえろよ! なにみてんだよなあホーホーホーホーうるせえんだよ出てこいよわかってるんだよぜんぶぜんぶあの外人の女が胡散臭いとおもってたんだぜんぶぜんぶ」
美味そうだけど、静からのサインも沙羅からの命令もない。
意味不明な言葉をまくし立てている女は、こちらを振り向く様子はない。しかし、乱入してきた女を見ている沙羅の顔色は真っ青だ。まあ、こういう現場に出されてないんじゃあ、免疫がないのも仕方ないと思うが、つくづくあやかし退治の才能はねえんだな……と実感する。
老婆を突き飛ばし、診察室の扉を叩いていた女は、外から駆けつけてきた大男数人に羽交い締めにされて、あっと言う間に引きずり出されていった。
大男たちは、恐らくアパートの前に停まっていた車に待機していたやつらだろう。
「行きな」
老婆に声をかけられた沙羅が、わかりやすいくらい体を竦ませて、それから一拍おいて小さな声で「は、はい」と答えた。
普通の小娘の演技だったなら満点だが、生憎こいつの反応は演技でも何でも無い。ああ、オレの前では必死に強がっているのに、こういうところで簡単にボロが出るってのも未熟で可愛らしい。
本当に嗜虐心を煽る困った女だなというのは心に秘めて、まだ軽いパニック状態の沙羅の手首を掴んで診察室へ続く扉を開いた。
引っ詰め髪の白衣を着た女がこちらをみもせずに、作業の準備をしている。
沙羅に止められるよりも早く、オレは彼女の肩に手を置いた。
「ねーえ、お姉さん、オレの眼、ちょぉっとだけ見てくんない?」
変に演技をするよりも、こっちの方が手っ取り早い。
面倒なことを言い出す前に、オレは沙羅に指示を仰ぐ。
「ちょっと眠ってもらっただけさ。さあ、お嬢様許可をおくれ」
「斑? 私の許可なくニンゲンに手を出すことは……」
懸命にそれっぽい言葉を話している沙羅の膝は、小さく震えている。
喉の奥で笑いを噛み殺しながら、オレは彼女の背中を押してやることにした。
「だーいじょうぶぅ! ちょっとうとうとしてもらっただけさ。さあ、お嬢様、許可をおくれ」
無意識に人間を操作する命令を出していたことも知らず、人を害することに戸惑っている様子は見ていて楽しいが、今は時間が無い。
外に居るやつらが、何かの用事でこっちに来られたら面倒だ。
じいっと見つめていると、鳶色の瞳が僅かに揺れる。じわり……と沙羅の影から甘い芳香が漂ってくる。
「許可します。その女の記憶を偽装しなさい」
「いいよぉ」
命令と同時に、沙羅の霊力がオレに流れ込んでくる。静とはまた違った心地よさだ。僅かな霊力だっていうのに、変に高揚するし、今すぐに部屋中をめちゃくちゃにして暴れ回りたい気持ちになる。
衝動を抑えながら、だらりと脱力した女を放って、オレは机の上に散らばっている書類に目を付けた。
地図……それにカルテ、手順書……。胎児は廃棄せずに所定の袋へ入れること……。
地図だけスマホで撮影して、オレは沙羅の元へ戻る。
黒い袋を探したいと伝えようとして、彼女の目が一点に引き寄せられるのを見た。
気が付いたら、その袋に引っ張られるように近付いていた。血の匂い。それに、魚みたいな腐敗臭。
袋に触れるとビリッとした痛みが指に走る。何かを閉じ込める封印をしていたらしい。
濃くなった匂いと共に、黒い袋から出てきた怨念のようなものが立ち上ってきて沙羅の方へ向かっていく。
袋を結んだが、壊しちまった封印は元には戻らない。クソ……こんな触ったら解けるようなしょぼい封印を隠すなよ。
心の中で文句を言いながら、沙羅に取り憑こうとしていたあやかしのなりそこないを喰って、沙羅の肩を抱く。
「目的のもんは手に入ったよ、お嬢様」
指をパチンと鳴らすと脱力していた女医が意識を取り戻す。
背筋を伸ばして、辺りを見回した女医は、オレ達を見て動きを止める。
首を傾げてから、何かに納得したように首を縦に振った彼女は「帰っていいよ」とだけ告げて、背を向けた。
そのまま外へ出て、車の中を窺う。封印が破れたことに気が付かれたのか、車の中にある気配がなにやら騒がしいような気がした。
しばらく素知らぬふりをして歩いて、こちらを見ている気配が途切れた一瞬を狙って沙羅を路地裏へ引きずり込んだ。
オレ達を見失ったことで焦ったのか、それとも診療室の異変を確かめに行くためか車から男が数人出てきて駐車場で話し合っている。
「アレは何を」
声を出そうとした沙羅に、唇に手を当てて静かにするように示すと、慌てて両手で口を押さえて、彼女は首を縦に振った。
それから、オレは車を指差してやる。
ちょうど黒いビニール袋を数個抱えた大男が、それを車に積み込んでいるところだった。
大男たちは、一連の作業が終わると慌ただしい様子で車に乗り込み、発進させる。
「さあて、これからが本番だ」
胸をなで下ろしている沙羅の腕を引いて大通りへ出る。
場所はわかっているが、下手に人を集められても面倒だ。叩くなら成井家も、
さっさとタクシーを捕まえて、沙羅を車に押し込んだ。
「ここにある住所にいってくれるかい?」
沙羅に見えないように運転手に丸めて束にした一万円札を手渡して、にっこりと微笑んだ。
頷いた運転手に後は任せて、オレは後部座席に背を預けて、どこかワクワクしたような表情を浮かべている沙羅の横顔を見つめた。
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