呪い屋編

拾:隠微

 久し振りに夢を見ているみたいだな。

 魂だけの存在になっている静にも休息は必要なようで、たまにこうしてあいつが見ている夢がオレの意識に流れ込んでくる。

 苦しい、寂しい、辛い、愛していた……生の感情が、魂だけになっていつもオレの中にいるのに、それでも感情を漏らしてくれないすまし顔で過ごす静の激しい感情がこんなに味わえるなんて……。

 懐かしい気持ちになったオレも、自分が見たあの時の静を思い出すことにした。

 微睡みに身を任せると、思考が過去に遡っていく。過去のオレに今の自分が重なっていく。



 ……。


「……」


 白尾しらおを腹に入れたオレを、静の瞳は見ていない。

 宝石みたいにキラキラと輝いていた鳶色の瞳からは光が消え失せ、代わりに静かな全てを諦めたような視線が、白尾しらおが付けた爪の後をじっと見つめていた。


「よくぞ試練を乗り越えた」


「ありがとうございます、父様」


 宗玄そうげん厳流いかるも気が付かないまま、静を褒め、あいつの肩にそっと手を置いた。

 いくら霊力が高いとはいっても所詮人間だ。怪物オレたちほどはっきりと霊力を見ることも感じることも出来ないみたいだ。

 静の影が、ぐわりと大きく揺らぎ、まるで溶岩のように沸々と霊気が噴き出している。

 ああ、こいつは最高だ。これだけ美しい人形みたいな顔をしている癖に、腹の底でどす黒い怒りと憎しみを煮えたぎらせているだなんて。


『坊ちゃん、あんたがその気になったら、オレはいつでも力になるぜ』


 誰にも聞こえないように、オレはそうっと静に呟いた。このときは、返事をしてくれなかったが、それは数年後に果たされることになる。

 景色が大きくゆがみ、早回しをしているようにあっというまに幾つもの季節が過ぎ去った。


 次にオレが目にしたのは、本家に来た十八歳の静だった。

 どうやら新しい怪物ケモノをどうするのかという話し合いをするために厳流いかるに呼び出されたらしい。

 背筋を伸ばし、美しい所作で歩いていた静は、縁側で夕焼けに照らされながら眠っているオレに近付いて来た。薄目で見ながらオレは内心ほくそ笑む。

 冷たい瞳。でも、相変わらずこいつの影は怒りで燃えていて、心地よい負の霊気を僅かに漏らしている。

 人間には感じられない。あやかし共は気が付いても近寄れない。他の怪物ケモノたちは気が付いてもモノに出来ない。

 一番力のあるオレだけが、こいつに一度使役されたオレだけが……手を伸ばせる。

 無表情のまま、片膝を付いて座った静が話しかけてくる。


『……斑、お前はあの時、力になると言ったな』


 脳に響いてくる氷みたいに冷たい声。


「ああ? よお坊ちゃん、久し振りだなぁ」


「ボクの力になれ斑」


 とぼけて知らんぷりをしたオレの言葉を無視して、静は自分の要望を述べた。いつもは曇り硝子みたいに光を失った目をしている癖に、こういうときだけギラリと鋭い光を帯びた視線がオレを射貫く。

 だから、こいつと手を組むことにした。下手すりゃ死ぬかも知れないが、こいつならやりきれると思った。

 厳流いかるよりも、さらに前にいたどんなやつよりも高い霊力。それに、ぐらぐらと煮立っている怨嗟の念を押さえ込めるほどの精神力。

 こいつが、オレの主人になるのなら文句はない。


「あんたの血をくれ。血をたぁくさんくれりゃあ、オレとあんたの間に爺とオレ以上のつながりが持てる。一時的にだが、な」


 懐から小さなナイフを出した静は、戸惑うことなく自分の手首をサッと切った。

 一滴も零すまいと口を大きく開いて、ボタボタと垂れる赤黒い血を飲む。

 炎を飲み込んだみたいに熱い。喉から体内に入り込んだ熱はオレの身体中を駆け巡って尻尾の先まで満たしていく。

 ビリビリと痺れるような感覚と共に、毛がパチパチと逆立っていく。

 この姿に堕とされる前……好き放題暴れていた時みたいだ。


「ひゃははは……こりゃあすげえや! なんでも出来そうだ!」


 飛び回るオレを見た静が、僅かに目を細める。

 立ち上がった静は、前を向いた。視線の先には厳流いかるが待つ部屋がある。


「お前の主人を襲わせる。出来るか?」


「ああ、今の主はあんただ。霊力さえくれりゃあなんでもやってやる」


 オレを見下ろした静は、スッと目を細めてそれから薄い唇の片側をふっと持ち上げた。

 絹みたいに細くて滑らかなら黒髪をそっと耳にかけて、歩き出した静の足下にじゃれつくようにしながらオレも歩き出す。

 楽しいな。あやかしを喰うのも悪くないが、人間の恨みと怒りに満ちた霊力を喰うのが一番楽しい。

 白尾しらおに痛い思いをさせたのは悪かったが……お前の主人はお前がいた頃よりも美味い魂に育ったぜ。今は届かない声だとわかっていても、ついそうかつての同胞に話しかけて、オレは前を向く。


 蓮の絵が描かれた襖を開くと、正装に身を包んだ厳流いかるが静を待っていた。

 静の足下にオレがいるのを見たあいつは、ぎょっとしたように目を見開いてオレへ視線を向ける。

 舌を出して「べー」っとしてやると、あいつのこめかみに青筋が浮かび上がる。


「……感情を抑えるべきだと教えてくれたのは貴方だったはずだが」


 オレが厳流いかるを挑発する前に、静の冷たい声が放たれる。

 音もさせずに前へ跳んだ静が、老人をあっさりと床に押し倒した。


「斑」


 目を見開いたまま、口をぱくぱくとしている厳流いかるの首に手を当てた静がオレの名前を呼ぶ。


「死なない程度に霊力を喰ってから、こいつの記憶を誤魔化せ」


「いいよぉ」


 命令があっても、相手に抵抗されれば記憶を弄ることは難しい。だが、今は違う。静の霊力と血をたっぷりもらった上に、厳流いかるの霊力も食って良いのならどんなやつにも負ける気はしない。

 血の気が引いて真っ青な顔になった厳流いかるに飛びかかる。大きく口を開いて、小さく震えている頭に噛みついた。

 怯え、恐れ、驚き。ああ、こいつからこんな味の霊力を食えるなんて……。

 舌なめずりをして、一歩後ずさると静が厳流いかるから手を離した。不様な格好で床に転がった成井家の元当主は、腰を抜かしたのか上半身だけ起こして、座ったまま壁の方へ下がっていく。

 

「どうすりゃいい?」


「お前が急に暴れたことにする。それから……ボクの体にお前を封じ込める」


 厳流いかるから目を離さないようにしていたけれど、その言葉に驚いてオレは思わず後ろに立っている静のことを見返す。


「対価を捧げた者がボクの名を呼んだ時や、ボクを求められた時以外は、お前がボクの体を好きにしていていい」


「は?」


「騒ぎを聞きつけられた。さあ、やれ。ボクを多少傷つけても構わない。爪を出し、厳流いかるを袈裟切りしろ」


 静の言うとおり、遠くからこちらへ何人かが駆けてくる音がする。足音の中には宗玄そうげんも混じっている。

 前を向いて、オレは姿勢を低くした。 


「……変わったことを頼むご主人様だぜ」


 静がオレの前に立ったところで、背後から「静! 父上!」という宗玄そうげんの上擦った声が聞こえてくる。

 体を膨らませて、喉を鳴らして唸る。狼くらいの大きさになったオレは手加減をして前肢で空を掻いた。

 三日月みたいな形をした風が吹いて、厳流いかるの肩から腹までを裂く。静の肩から胸までを掠めた風は赤くて甘い血をオレの方へ運んでくる。

 唸りながら前へ跳んで、唇をわなわなと震わせている厳流いかるの目を見つめた。


「……あんたはオレに襲われた。そうだよなぁ?」


 それから、オレは静に首根っこを掴まれて、乱暴に後ろに投げられた。

 四肢を放り投げて、仰向けになったオレの額に静は見たことも無い札を叩き付ける。

 グルグルと視界が回って、オレの体は静の内側に吸い込まれていった。


「このうつけものめ! 怪物ケモノを己の体へ入れるなど」


 さっきまで情けなく震えていただけの厳流いかるが勢いよく怒鳴る。


「家族を助けたとしても、怪物ケモノを取り込むなど……掟破りめ」


「なんで? 兄様はおじいさまを助けていたじゃない!」


 うるせえ金切り声が聞こえてくる。妹まで来ていたのかよ……。

 真っ暗で何も見えない。音だけが聞こえている。


「ああ、ボクは破門で構わない。出て行くから……構わないでくれ」


 ケガを負っているはずなのに、いつもと何も変わらない静の声がした。そのまま、喧噪は遠くなっていく。

 気が付いたら、オレは見知らぬ部屋にいた。慌てて体を起こしてみる。めまいがする中で目を開くと、体が人間になっている。


「は?」


 思わず声を出すと、頭の中で声がすることに気が付いた。

 目を閉じてみると、瞼の裏にはぼんやりとした光が見える。その光は徐々に輪郭がはっきりしてきて、見慣れた静の形に変化していく。


「言っただろう? ボクの体を好きにしていいと」


 好きにしていいってのがまさかこんなことだとは思わなかったぜ。


「……まぁ、説明不足だったことは謝るが。必要なことだったんだ。嫌か?」


 頭の中で考えていることがそのまま伝わるのかよ……。参ったな。

 嫌ではないが……とまで考えてから、オレはもう一つの条件があったことを思い出す。

 いつもなら無表情なのに、珍しく眉を顰めてこちらを見ている静を見て、オレは口を開いた。  


「いいのかい? あんたがこの体を操るには名を呼ばれなきゃならなくなる。不便だと思うがなぁ」


「魂に近い形でなければ出来ないことがある。死ぬわけにはいかないんだ。その間、ボクの体を頼む。お前にしか、頼めない」


 少しだけ揺れる声。ガラス玉みたいな鳶色の瞳に浮かぶ不安そうな光。

 いつも鉄仮面みたいな静の、請うような視線。オレだけに見せている顔。


「ああ、いい顔だ。でもなぁ、正式に契約をした後に命令をしてくれりゃあ、オレはあんたに従うのになんでそんな面倒なことを言うんだ?」


 オレの静。魂も、体も、オレが一番近くにいる。綺麗な綺麗なオレの宝物。


「命令じゃない。ボクからお前へのお願いだよ、斑。共に、成井家の楔から解き放たれた時に主人と怪物ケモノでいれば、お前はボクを喰らってしまうだろう?」


「クックック……お願いでも、喰わない保証はないけどなぁ」


 尾をゆっくりと左右に揺らしたい気持ちになる。今、オレの体はない。

 ここは頭の中で、目の前にいる静もただの魂で、オレの体は外側にあるから。


「お前はそんな愚かな真似はしない。ボクは知っている。お前は、自分の宝物を大切にしまい込むたちだってことをな」


 さっきの不安そうな表情から打って変わって、静は唇の片側を持ち上げながら笑うと、そう悪戯っぽく尋ねてきた。

 頭の中で考えたことが筒抜けなのを忘れていた。ああ、もちろん、宝物だから、喰ったりしないさ。


「あんたは見た目も、お澄まし顔の下にしっかりと隠している真っ黒な怒りと執着の炎も綺麗だからナァ……喰っちまうのは勿体ない。確かにそうだ」


「……お願いだ。ボクの力になってくれ斑」


「ひっひ……いいよぉ」


 こうして、オレ達は今の形になった。

 オレの静。今は、お前の苦しみも悲しみも、この記憶も……唯一抱いていた恋慕ですらも……オレのものだよ。

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