幕間:白尾

「このくらいのことが出来なくてどうする? お前は成井家の跡取りなんだぞ」


 ズキズキとした頬の痛み。鉄の味が口の中に広がる。

 思い切り父が手の甲を当てたところにうっかりと手を添えると、そっと触れただけで酷く痛んだ。

 歯を食いしばって立ち上がる。ゆっくりと目の前に歩いてきた祖父が杖を振り上げたのが見える。

 体を竦めると「怖がるな」と怒鳴られる。息を深く吸って、目の前にいる大人二人を見つめた。


「なんだその目付きは」


「感情を出すな! それでも成井家の人間か」


「申し訳ありません」


 どうすればいいかわからないまま、膝を折って体を折り曲げて、三つ指を突いて額に地面を擦りつける。

 そのままの姿勢で待っていると、背中に祖父が振り下ろした杖が思い切り当てられる。 

 バチンと派手な音が鳴って、まるで焼かれたみたいに背中が痛む。悲鳴を上げれば余計に痛くなるだけだ。

 歯を食いしばりながら、伏せているからバレないだろうと視線を横へ向けると視界の隅に真っ黒だけれど先端だけが白い狐みたいな尾が目に入った。

 彼女をうまく扱えるようになりたい。そうすれば父も祖父もボクを認めてくれるはずだ。

 今だけの我慢だ。未熟なボクが悪い。だから、父も祖父も悪くなんてない。


「顔を上げろ。悲鳴を堪えるだけではダメだ。私も祖父もお前のために厳しく言っているのはわかっているだろう?」


「はい」


「静、精進しなさい」


「……は、はい」


 ああ、今夜も始まるのか。返事が遅れた上に、声が震えてしまった。祖父がギロリとボクを睨んだ。

 ここで身を竦めてはいけない。何かがバレたとき、怖いと思ったときこそ冷静にならなければいけないのだ。

 杖を振り上げた祖父の動きを見ても、体を強ばらせないように注意する。涼しい風が吹いていて心地よい時を思い浮かべながら、まっすぐに父と祖父を見つめる。


「なぁーご主人様、オレァ腹が減っちまったよ。早く飯を食わせてくれねぇと間違えてここらにいるあやかし共を全部喰っちまうかもしれねぇぜ」


 大きな声が聞こえて、ゆっくりと祖父の足下に浮かび上がってきた白い煙を見る。

 姿を現わしたのは、成井家の切り札。最強の怪物ケモノ

 白銀の輝く毛皮に墨汁を零したみたいな斑点が付いているこいつは、祖父に仕える怪物ケモノだった。最初は父に譲ろうとしたらしいが、父の霊力では斑を満足に従わせることが出来なかったらしい。

 怪物ケモノは、成井家の者に嘘を吐けないし、無断で人間に危害を与えることは出来ない。

 それをしてしまえば魂が焼かれるような酷い痛みに襲われて動けなくなってしまうと言われている。

 鬼や一部の神ですら喰ってしまうと言われている斑も、他の怪物ケモノたちも、人を襲わないのでそれは多分正しいのだろう。


「……斑、お前も少しわきまえることは出来ないのか?」


「あやかし共を食い散らかす前にちゃぁんと言ったんだ。十分弁えてると思うがねぇ」


 斑はそういうと前肢を前に放り出すようにして背中を伸ばしながら大きく口を開いた。

 真っ赤な口の中には鋭い牙がびっしりと並んでいる。

 人間に危害を加えることが出来ない怪物ケモノだが、こいつらを思い通りに使役できるかどうかは契約をしたあるじの霊力や力量に関わってくるらしい。

 高い霊力がなければ怪物ケモノは空腹になりやすいし、空腹になれば勝手にそこら辺にいるあやかしを食べる。それに、命令を聞いたときの対価としてあるじの霊力を奪うのだが、それが足りなかったり味が気に食わなかったりすると怪物ケモノはやる気を出さないと教えられた。


「……静、しっかりやるのだぞ」


 祖父は振り上げていた杖の鋒を地面に下ろしてそれだけいうと、父と共に背中を向けて別宅から出て行った。

 二人の気配が完全に消えてから、ボクは縁側にそっと腰を下ろす。つかの間の休息。沈みかけている太陽が完全に姿を隠して、夜がくればボクは朝まであやかしに襲われ続けることになる。


「ああ、静様……よく耐えたわね。わたしも見ていてハラハラしてしまったわ」


 ボクの膝に前肢を乗せて、そう声をかけてきたのは白尾しらお。ボクが使役する怪物ケモノだ。ツルッとした漆黒の毛皮に包まれている彼女だけれど、尾の先だけがまるで白いインクに浸かってしまったみたいに白い。


「力を失ったわたしに、また新しいあるじ様をくださるなんて宗玄そうげん殿は優しいわ。ただ飯ぐらいの老いぼれは、このまま他の怪物ケモノの餌になるだけかと思っていたもの」


 斑と同じくらい古くからいる怪物ケモノだけれど、以前体の半分を鬼に喰われてから力が落ちたから子供のボクにも扱えるだろうと父が贈ってくれた大切な相棒だ。

 素敵な贈り物をしてくれた。父も祖父も、本当は優しいと白尾しらおが教えてくれたから知ってる。ボクのために厳しくしていてくれるだけだから。だから……。


「わたしの可愛い静様、あなたはとても優秀よ。宗玄そうげん殿も巌流いかる殿もあなたに期待してるからきっと厳しくしてるのよ」


「わかってるよ。ありがとう、白尾しらお


 彼女が尾でボクの頬を拭ってくれる。いつのまにか零れていた涙が白尾の毛皮を濡らしていく。

 ボクが未熟なせいでいつもボロボロになるのに、白尾しらおはそんなことを責めたりしないし、いつもボクを褒めてくれる。

 父や祖父は成井家のために厳しくしているだけで、本当はボクを愛してくれると教えてくれなければ、ボクはきっと家族を恨んでいただろう。

 じわりじわりと刺すような視線が強くなってくる。

 太陽が落ちて、夜が始まった。赤子が泣いているような声、犬に似た唸り声……ざわざわと肌が粟立つ。

 腕で目元を拭って、ボクは縁側から降りた。庭園のあちこちに置いてある灯籠に勝手に炎が灯っていって、異形のあやかしたちが姿を現す。


白尾しらお、行こう」


「はい、静様」


 霊力を込めて白尾しらおに送るイメージを浮かべながら、手を前にかざした。

 すると、頭を低くしながら牙を剥いて唸る白尾しらおの毛が、逆立ってパチパチと音を立てはじめる。


 朝までこいつらに嬲られて、死にそうな目に遭うのはもういやだった。

 ボクが意識を失い、白尾しらおが動けなくなると、庭園の四隅に封じられているあるじなしの怪物ケモノたちが出てくる仕組みなので死ぬことはない。だけれど、痛いし、気持ち悪いし、あやかしに体の中に入られて好き放題されるのは味わう度にもう二度とこんな目に遭いたくないと思わされる。

 それに、目の前で大切な白尾しらおが傷付いたり、彼女がボクを庇って傷付いたりするのが嫌だった。

 だから、強くなるしかない。


白尾しらお、針を飛ばして視界を奪え!」


 必死で指示を飛ばす。白尾しらおは単純な力はないが、的確な指示を出せばここにいるあやかし程度を無力化させるのは可能なはずだ。

 あやかしたちは怯えや怒りを敏感に察知して、こちらが嫌なことや動揺することをしてくる。

 そのため、負の感情を表に出してはいけない。

 怒りにひっぱられすぎれば、怪物ケモノは暴れて付け入られやすくなる。だから、どんなことがあっても冷静でいなければならない。


「ボクに構うな。一緒に、この試練を乗り越えて一人前になろう」


 翌朝、無事に正門の前で待つボクと白尾を見て、迎えに来た父と祖父が一瞬、目を丸くしたのを見て胸がすっとした気持ちになった。


「では、来月試験を行う。今後も鍛錬を怠るな」


 それだけ告げて、父と祖父はいつも通り訓練を始めた。

 ボクが父と祖父に滅多打ちにされている間、斑と灰鳴カイメイが離れた位置で暇そうに体を丸めているのを覚えている。

 だけれど、ボクが倒れて頭から水をかけれている時に斑が起き上がってこちらを見た。

 金色の瞳がぎらりと光って、それから真っ赤な口を開いて「坊ちゃん、あんたは綺麗だなぁ」とだけ言って再び目を閉じてしまう。

 ぼうっとしていたら、父に怒鳴られてしまったのでボクは再び訓練に集中する。

 立派な跡取りになったら、きっと父が白尾しらおを直してくれる。そうしたら二人でたくさん仕事をして、もっと強くなるんだ。


「わたしも、一人前になった静様とお仕事をするのが楽しみよ。たくさん強力なあやかしを食べさせて貰えば、力も元に戻るはずだわ」


 白尾しらおがそう言って尾をゆっくりと左右に振った。ボクたちは、誰よりも強い絆で結ばれている。だから、ボクが一人前になれば怖い物なんてない。そう信じていた。


 鍛錬を重ね、合間に力を失った怪物ケモノの力を取り戻す方法を書庫で調べる一ヶ月だった。

 まだ小学生のボクには読めないものの多いけれど、きっと大人になれば読めるものも増えるはずだ。怪物ケモノの作り方や、治療の仕方も書いてある書物を見つけたけれどまだ読めないから、大切に鞄にしまっておいた。

 いよいよ試験の日、ボクは緊張しながら正門で父と祖父を待つ。


「試験を始めよう。道場へ行くぞ」


 道場で、ボクは白装束に着替えさせられた。水色の帯を締めて、長い髪を一つにまとめる。

 緊張を見せないように、冷静にいられるように肺いっぱいに空気を吸った。

 祖父が道場の中央に腰をどかっと下ろし、懐にしまっていた漆塗りの万年筆みたいなものを取りだした。

 白い煙と共に斑が出てきて、ボクの方に近寄ってくる。

 斑を見ている間に、父がボクの手から白尾しらおを入れている筒を取り上げた。

 思わず手を伸ばしたけれど、それは父の分厚い手によってぴしゃりと叩き落とされた。

 

怪物ケモノはあやかしであり、道具だ。裏切りもするし、惑わされることもある。長く一緒にいたからといって、自らの道具には攻撃出来ぬなどというのは、半人前の証」


 白尾しらおの入っている筒を持ったまま、ボクと向き合うような位置に立った父は、顎髭を指で撫でながらそう言った。

 嫌な予感がする。聞きたくない。だけれど、ここで取り乱せば白尾しらおがどうなるかわからない。過剰に入れ込んでいると思われたら、それこそ彼女と二度と会えなくなってしまう。

 取り乱すな、冷静になれ。自分に言い聞かせて、ボクは父を見た。


「斑を使役して、この怪物ケモノを倒してみよ」


「その斑は、わしにしか扱えんほど気まぐれで凶暴だ。わしが言い聞かせていたとしても、たんまり霊力をあたえてやらなければ平気でサボる。そいつをこの場でだけでも扱えれば一人前といってもよいだろう」


白尾しらおはどうなるのです?」


「知る必要はない」


 嫌な予感が当たってしまった。動揺したことを悟られないように気を取り直す。

 目の前にいる斑は、悠然と尾を左右に振っている。父にすら扱えない斑を、ボクが扱えるのか?

 だけれど、やるしかない。こいつに好き勝手させずに、白尾しらおを殺さないように無力化させるしかない。

 目を閉じて、深く息を吸い込む。つけ込まれるな。弱みを見せるな。


「……はい」


「では、始めようか」


 父が、白尾しらおの入っている筒に霊気を大量に流し込んだのが見える。

 バチバチと紫色の稲妻を帯びた筒が割れて、口の端から泡を吹いている白尾しらおが飛び出してきた。

 普段とは似ても似つかない白尾しらおの姿に一瞬怯みそうになったが、いつもの彼女を取り戻すためには冷静でいなければならない。


「なぁ坊ちゃん、好きにしていいのかい? 全盛期の白尾しらおじゃねえ。一瞬で済ませてやるよ」


「ダメだ、斑。ボクの言うことを聞け」


 霊力を流し込むと、斑は心地良さそうな表情を浮かべて一瞬だけ目を閉じて耳をピンと立てる。やる気ではあるみたいだし、ボクの話を聞いてくれるみたいだ。機嫌が良いらしくて助かった。

 内心ホッとしながら、ボクは斑に指示を出す。


白尾しらおを生きたまま無力化させる」


「オレはいらついたら相手を喰っちまう。しっかり手綱、握ってくれよぉ?」


 雷みたいに素早く動く白尾しらおが吼えながらこちらに向かってくる。直線的な動きで読みやすい。

 強制的に暴れさせているからだろうか。これなら勝ち目はある。


「跳べ」


 白尾しらおの突進を避けさせようとして斑を跳ばせたが、父から紫の雷が走り、彼女の黒い尾が伸びた。白尾しらおの鞭みたいに伸びた尾が、斑の前肢にぐるりと絡む。

 そのまま尾を地面に振り下ろすと、斑の体が床にどすんと叩き付けられた。少し怒ったように毛を逆立てる斑にボクは霊力を流し込んで行動を押さえつける。

 声を出せば父に行動を読まれ、白尾しらおに命令を出される。暴走しているとはいえ、命令には従うみたいだ。

 どうやって斑に指示を出せば……。


『坊ちゃん、オレがヒントをやろう。こうしてオレのことを一生懸命考えれば声に出さなくても命令は出せる』


「斑……」


宗玄そうげん巌流いかるに泡を吹かせる機会なんざそうそうねぇからなぁ! いっちょ脅かしてやりてぇじゃねえか』


 怪物ケモノを信じて良いのか? こいつらは成井家ボクたちに嘘を吐けない。多分、念じれば思っていることが通じるというのは本当だ。

 斑は白尾しらおが尾を伸ばして叩き付けてくるのを巧みに避けながら、甘い声色でボクに話しかけてくる。


『まぁオレとしても白尾しらおとは長い仲だ。それなりのよしみも借りもある』


『わかった。信じる』


 斑の尾がぶんぶんと左右に揺れる。白尾しらおが唸って前肢の爪を伸ばした。床にめり込んだ爪を振り上げるとバリバリと音をさせながら畳を深く抉っていく。

 こんな醜いけだものみたいな動きをする白尾しらおなんて見たくない。

 ボクは、斑に念じて作戦を伝えることにした。


『ボクが、白尾しらおに突進する』


『はぁ? 正気か? 坊ちゃん、死んじまうぜ?』


 少しだけ焦った斑の声が聞こえてくる。アレだけ手が付けられない怪物ケモノだと言われているこいつでも、焦ったりするのだなと思うと少しだけ面白い。だけれど、今はそれどころではない。


『大切な跡取りのボクを死なせるはずはないさ。父も祖父も動揺する。だから』


 動揺や怒り、負の感情や相手の目的を利用しろ。これは父も祖父もよく言っている。

 だから、それを守るだけだ。


『ボクがお前の名前を呼んだら、父を気絶させろ』


『ああ、まかせてくれ。やってやろうじゃねえか』


 怪物ケモノは人を傷つけられないし、危害を加えられない。命令が無い限りは。

 だから、命令を出す。

 父もまさかそんなことは想定してないだろう。父が気絶して、白尾しらおが止まらなかったとしても単純な動きしかしないのなら取り押さえるのは斑の力があれば簡単だろう。

 ボクは、斑が楽しそうに返事をした瞬間に白尾しらおに向かって駆けだした。


「静!?」


 父と祖父がボクの名を呼んだ。白尾しらおが開いている大きな口に、肩を捻じ込むように体当たりをするとぶつりと皮膚の裂けるような音がして、燃えるような熱さが遅れてやってくる。

 白尾しらおの動きが一瞬止まった。大きく見開かれた父が、僅かに遅れて白尾しらおを退かせようと霊力を注ぐために力を込めたのが見えた。


「斑ぁ! やってくれ!」


「いいよぉ」


 一瞬のことだった。自動車くらいの大きさになった斑が尾をぶんと大きく振った。前肢で白尾しらおのことを優しく押さえつけた斑の尾は、父の胴へ当たる。


「……まさかここまでやるとはな」


 壁に打ち付けられて、意識を失った父を見て「ほう」と小さく息を漏らした祖父が立ち上がる。

 緊張が解けたのと、命令をしたことで斑に霊力を大量に持って行かれたせいで、全身の力が抜けてボクは床に突っ伏した。

 すぐ手を伸ばせば届く位置に、眠るように目を閉じて横たわっている白尾しらおがいる。ああ、でも、動けそうにない。

 試験が終わったら、たくさん撫でて、それからたくさん褒めよう。斑を扱えたって話したら驚くだろうか。


「試験は合格だ。静」


「おじいさま……ありがとう……ございます」


 杖は振り下ろされなかった。祖父の視線が白尾しらおに向けられる。

 それは、とても冷たい視線だった。嫌な予感がして、白尾しらおの体をそっと抑えている斑を見る。


「斑、その怪物ケモノを喰らえ」


「……あいよ。悪いな、坊ちゃん」


 本当に申し訳なさそうな声だった。

 しっぽをうなだれさせた斑が、口を開いて白尾しらおの頭を挟む。


 熟れたトマトみたいに、白尾しらおの頭が潰れた。目の前で。


 あああ……。しらお。ボクの、しらお。

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