陸:崇美

麻美あさみさん、いいの? オレなんかを家に上がっちゃって」


「いいのよぅ。そういうコト、するわけじゃないし、マダラくんにはお世話になってるし」


 モダンな黒い扉を開いて、モモが不倫した男の妻……麻美あさみがオレを出迎えた。

 あれから何度か偶然を装って近場で接触し、愚痴を聞いたりしていたらあっけなくこうなるものだから、静の見た目というのは本当に罪深い。

 後れ毛を耳にかけながらコケティッシュな笑みを浮かべる彼女は、部屋着だからかゆったりとしたシンプルなカットソーに紺に染められたリネンのガウチョパンツというラフな出で立ちだ。それなのに清楚さというか、どことなく品というものがあるのだから、人の育ちや、オーラというのは面白いもんだなと思う。

 花の香りがする玄関は、磨かれた靴が綺麗に収納されているシューズボックスがあり、その上には陶器の花瓶に紫の小花が活けられている。

 良い香りの部屋だが、どこかから腐敗臭がする。呪物は、この家の中にあるはずだ……と気取られない程度に部屋を見回しながら麻美あさみの歓迎を受け入れる。


「ありがとう。私じゃ手が届かなくて」


 靴を脱いで部屋にあがったオレの腕にそっと手を添えた麻美あさみは、オレをリビングへ案内した。

 さんさんと昼の光が差し込む大きな窓に面した広い部屋には立派な革張りのソファーと趣味の良い家具が綺麗に並べられている。

 オレもそれなりの屋敷で育ったが、使用人があくせく働くお屋敷とはまた違ったハイソさってやつがあるなと感心しながら、オレはそのまま洗面所まで麻美あさみに連れられていく。


「洗面台の電球を換えるの、確かに大変だと思うけどさぁ。こんなこと旦那さんに頼めばいいのに」


 わからないフリをして敢えてそう聞いてやる。本当はあんたの旦那と不倫した女とも仲良しなんだぜって心の中で思いながら、彼女から電球を受け取った。隣に立っている麻美あさみはそんなこと知る由もなく「もう」と少女のように頬を膨らませて、それからすぐにその表情を崩して笑った。


「この前、話したでしょ? 今、喧嘩中だから」


「ああ、不倫……ねぇ。こぉんな綺麗な奥さんがいるのにもったいねぇなって思うよ」


 作業をしながら、部屋を見回す。傍目には小さな折りたたみの踏み台が置いてあるくらいで目ぼしいものはない。


「またまたぁ。マダラくん、口が上手いんだから」


「んー? 上手なのは、口だけだと思うかい?」


「んふふ……。そんなつもりない癖に」


 スリルを少し与えてやるけれど、こちらからは手を出さない。

 今回はそういう目的でもないし、欲張って警戒されたらおしまいだ。

 軽口を叩きながらでも電球はすぐに取り替え終わり、ついでにトイレを借りてみたが、そこにも呪物の気配は感じなかった。


「でも、本当に助かったわ。折角だし、お茶でも飲んで行ってよ」


 リビングに通される。

 中央に透明な先細りの花瓶が置かれたダークグレーの大きいテーブルには椅子が四脚ある。


「ついでに愚痴に付き合って……ってか?」


「そう。いいかしら?」


「もちろん、そのつもりで来たんだし」


 キッチンへ消えていった彼女を待ちながら、部屋を見回す。

 夫婦で仲睦まじく写った写真の数々、そして親戚の写真……記念の品らしい可愛らしい置物や小物入れ……。ああ、幸せそうな家族って感じだな。

 不倫をされたことは怒っているのだろうが、まあ、愚痴を聞いている限りちょっと拗ねているだけで離婚までは考えていないのだろう。


「お待たせ~」


 麻美あさみがステンレスのトレーに冷たいお茶の注がれたデカンタとグラス、それにパウンドケーキを盛り付けた皿を載せてこちらに来ると同時にあるものが目に入った。


「……ん。その、箱」


 それは、ひっそりと棚の端におかれていて、ほこりに塗れていた。

 オレの指差した方を見た麻美あさみが、露骨に表情を歪めて「ああ」と低い声を出す。

 オレの正面の席に座った彼女はデカンタからグラスにお茶を注いで、大きく息を吸ってから、眉を顰めて目を伏せた。


「マダラくん、信じてくれる?」


「ああ、もちろん」


 ゆっくりと顔を上げて、麻美あさみは胸の前で組んでいる指に力を込めながらオレを見る。

 柔らかく微笑んで頷くと、彼女は少しだけ表情を和らげてからしずしずと口を開いた。


「あのね、私はそういうの信じてなかったんだけど、その……子供が出来なくて悩んでいたの。で、気晴らしに占いに行ったらね、その占い師さんに夫は不倫していて、しかも、不倫相手が私を呪ってるせいで不妊になってるって言われたの。試しに、夫のスマホを見たら、本当に不倫もしてて……」


 手に力が入る。少し涙ぐんだ声になった麻美あさみは、ポケットから取り出した淡い青色のハンカチで目元を拭う。


「それと、あの箱と何か関係が?」


「不倫したことが当たったから、呪いも本当かもって思って……もう一回占い師さんのところへ行ったの。仕返ししてやるって怒ってたのもあって……その……相手の女を呪ってやるって……頼んで」


 言葉に詰まりながら彼女は上半身を捻って後ろを向いて、例の箱の方へ視線を向ける。

 カタカタと小さく箱の中から音がする。きっと麻美あさみには聞こえないだろうけど。大当たりだ……。内心舌なめずりをしているなんて思ってもいないだろう麻美あさみは、潤んだ瞳を少し泳がせながら、オレの方へ向き直る。


「それで、言われるがままに買っちゃったのよね。でも、その箱を買ってからなんか体調も悪いし、それに、それなりに高い買い物だったから……夫にも言えなくて……」


麻美あさみさん、アレ、ダメなもんだ」


「え」


 驚いたような、少し期待したようなそんな声だった。

 立ち上がって箱の方へ近付くオレを彼女は止めずにじっと目で追いかける。

 女性の手に収まってしまいそうなほど小さな木箱を手に取ってみる。寄席細工の秘密箱……か。

 微かな振動が手に伝わってきて、じわりとホコリ臭さと腐臭の混ざった匂いが濃くなった。


「胡散臭いって思われるから、麻美あさみさんには話してなかったけどさ、オレ、こっち系の仕事が本業なんだよね」


 指を滑らせて箱の表面を撫でると、チリチリと肌の表面が痛む。箱の表面に描いてある模様もきっと何か意味があるのものなのだろう。


『もしかすると……これは』


 静が冷たい声でそう囁いた。


『寝室に対になる箱がある。探せ』


麻美あさみさん、寝室にもう一個箱がある」


「待って……悪い冗談やめてよ」


 彼女の静止を無視して、オレは静が言うままに麻美あさみを急き立てる。


「なかったら、それでいいから」


 半信半疑と言うような様子で、半笑いで立ち上がった麻美あさみに寝室まで案内させる。扉を開くと腐臭が一気に濃くなった。

 箱同士が共鳴しているのか? カタカタと部屋のどこかから大きな音がしはじめて、麻美あさみがオレの服の裾をキュッと掴むと不安げにオレの顔を見上げた。

 振動する音は移動している。目で音を追いかけるが、素早く動く箱は目視できない。


麻美あさみさん、オレからのお願い、聞いてくれるかい?」


「こんな時になに? っていうか、これ、なんなの?」


「この状態をなんとかしてやるから、にしてって言ってくれ」


「どういうこと? ねえ、本当にこれどうにかなるの」


「早く、頼む」


「わかったわ! もう! 静かにして!」


 麻美あさみが自棄のような大声でそう叫んだ。

 浮遊感がオレを包んで静の気配が強くなる。


「ああ、承知した」


 体がアツくなった。

 ぐつぐつと煮えるような衝動と共にオレはずるりと静の影に溶け込む。

 鳶色の瞳に変化し戻った静の瞳は、凍った湖みたいに静かな光を湛えている。

 麻美あさみの肩をグッと抱き寄せて、身を低くした静が、手にしている箱の表面をさっと指でなぞった。


「ああ、思った通り、こちらが酉か」


 カタリという音と共に、さっきまで固く閉じていた箱の蓋が床に落ちる。箱の中身を見て「ひ」と小さな悲鳴を漏らして口元を押さえた麻美あさみを気にする様子もなく、静は表情一つ動かさずにそう呟いた。


の箱」


 カタカタと震わせながら部屋中を移動していた箱が静止したのか、音が聞こえなくなる。

 代わりに、ずるり……という湿った音と共に腐敗臭が一層強くなった。

 空気が湿り気を帯び、部屋中にある影が僅かに震える。


「あ、あ……」


 腰を抜かすようにして床に座り込んだ麻美あさみさんが指差した先……ベッドの上には、ヒトの子供ほどはありそうな灰色の芋虫が姿を現わしていた。

 芋虫が頭をもたげると、静が持っていた箱から、小さな欠片が飛び出していく。芋虫の口元に飛んで行く影をよく見ると、それは捻った首が皮一枚繋がってちぎられている羽すら生えていない鳥の雛だった。

 芋虫は一対の鋸の刃のように鋭い歯を開くと、向かって来た鳥の雛をむしゃりと一口で食べて飲み込む。


「おい、あんた」


「は、はい」


 芋虫が体全体を震わせると、背中の真ん中が割れてメキメキと音を響かせながら蝉のような羽を四枚生やし始めた。

 すっかり怯えきって呆然としていた麻美あさみに静は語りかける。


「占い師の名前は、知っているか?」


「ええと……はんと…だったと思います」


「その情報と引き換えに、このあやかしを退治してやろう」


 ポケットから取り出したヘアゴムで髪を一つに括りながら、静は麻美あさみを横目でチラリと見た。

 白い首筋が露わになり、長い髪が芋虫の方から吹いてくる生臭い風で後ろに靡く。


「こいつは蚕酉コトリ……。女の胎に悪さをするあやかしだ」


 ぶううんと低い羽音をさせながら浮いた蚕酉コトリが、頭部を仰け反らせながら、糸を静に向かって吐き付けた。

 静は一歩も動かないまま涼しい顔をしているので、オレはこいつの影から飛び出して、芋虫の吐き出した糸を尾で叩き落とす。

 麻美あさみが、急に現れたオレを見て「ぎゃ」と悲鳴を上げて座ったまま後退りするのを「じっとしていろ」と静が窘めた。それから、カチカチと顎の歯を擦り合わせて威嚇をしている蚕酉コトリを見て、細い顎に長くて美しい指を添えて小さく首を縦に振る。


「妊娠を阻害する蚕、そして蚕が取り憑いた相手から吸い取った栄養を術者へ持ち帰るための酉……」


 突進してくる蚕酉コトリを見て、声にならない悲鳴をあげる麻美あさみと違って、静は棒立ちをしたままオレが蚕酉コトリとやりあうのを眺めている。

 涼しげな目元が僅かに細められ、一文字に結ばれた薄い唇の両端が微かに持ち上げられたのをオレは見逃さなかった。


「説明の間の守備、ご苦労だった。ボクは話をするのが好きだから、いつもお前に手間をかけさせる。悪いと思っているよ」


 全く悪いなんて思っていないのが伝わってくる。あやかしの説明も、麻美あさみは、目の前で暴れまくる蚕酉コトリを顔を真っ青にしながら見ているだけでこいつの話なんて一言も聞いていないことを静もわかっているだろうに。


「はいはい、そういうことにしといてやるよ」


 いつも余裕綽々で、冷静で冷徹で、たまにしかその綺麗な顔で笑わない、そんな静が好きだった。

 だけど、オレだけが知っている静は、そうじゃない。でも、それでいい。あの顔を見るのはオレだけでいい。

 尾を左右に振って、背後にいる静に合図をする。これ以上部屋を荒らしちゃ不味い。


「さて、じゃあボクたちの本業を始めるとしようか」


 プツッと耳を澄まさなきゃ聞こえないような小さい音が、蚕酉コトリの羽音に混じって響いてくる。濃い甘い匂い。静が鋭いもので皮膚を貫いた音だ。

 血の一滴でも、甘くて芳しい香りが辺り一面に広がってオレの体が熱を持つ。

 体を使っていたら感じられない。オレが怪物この姿の時だけ感じられる血の芳香。


「さあ、斑……こいつを喰らって呪いだけ術者に返してやってくれ」


 静の血を一滴残らず吸い出そうと、羽音を響かせて一気に突進してきた蚕酉コトリに対して、何の動揺も見せないまま堂々とその場に立ったまま静は腕を前に突き出した。

 あいつの流した一滴の血がオレの毛皮に染みこんで、全身が甘く痺れるような快感と高揚感に包まれる。

 溢れてくる力に身を委ねて、オレは蚕酉コトリに正面から向かっていく。


「あいよ」


 返事をするついでに口を開けて、蚕酉コトリの小さな固い頭を尾で貫いた。

 地面に叩き付けてから、前肢で体を押さえつけて体を一度全て咀嚼して飲み込んでから、いらないものを吐き出した。

 ぬらりと唾液で光る黒い結晶を咥えてから、遠心力を付けて窓に向かって投げる。窓を破ることなく突き抜けた黒い結晶は、あっと言う間に見えなくなった。


「後処理は頼んだ。記憶を誤魔化しておいてくれ」


 静の鳶色の瞳が閉じられると共に、オレの体が引きずられるようにしてあいつの体に引き寄せられていく。

 グルリと視界が一瞬暗転して、少し窮屈な感覚と共に目を開くとオレの足下には、カタカタと歯を鳴らして座り込んだままの麻美あさみがいた。


麻美あさみさん、もう大丈夫だよ。部屋の片付けも手伝うからさ、話、聞いてくれるかな」


 片膝立ちで跪いて、彼女の冷たくなった手を両手で包み込む。

 にこりと笑ってから、呆然とした様子でほぼ反射のように首を縦に振った麻美あさみを抱きしめる。


「あの、マダラくん、アレはなに? 一体何があったの?」


麻美あさみさん、オレの眼を見て。そう……いい子だ」


 優しく話しかけると、言われるがままに麻美あさみはオレの眼をじっと見つめ返してきた。

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