漆:準備

「御大、連絡を待つより早くこっちで呪い屋のしっぽを掴んじまった」


 もうすっかり日は落ちて、赤い光が下から雲を照らし始めている。

 記憶を偽装した女に用はないし、このマンションにはもう二度と来ることはないだろう。

 マンションのエントランスを出た辺りで、やっと通話口の向こうから不機嫌そうな宗玄そうげんの重々しい声が聞こえた。


「どういうことか教えて貰おうか」


「たまたま、依頼のターゲットが呪い屋にちょっかいを出されていてな。ちょっとした仕返しをしたから、今がチャンスのはずだぜ?」


 嘘は吐いていない。モモも、麻美あさみもオレに依頼おねがいをしてきたのは事実だし、それが呪い屋だったのも本当だ。

 たまたま、そういうことが起きただけ。まあ、モモから漂っていた匂いを参考にして成井家に話を持ちかけたというこちら側の事情もあるのだが……そんなことを伝えてやる必要はない。

 成井家こいつらのことだ。きっと、この好機を利用して今夜にでも呪い屋を手酷い目に遭わせるか、最悪命を奪うのだろう。


「……ああ、嫁の方には用事があるんだ。命までは取らないでおいてくれよぉ?」


「それで静が戻るのが早くなると言うのなら、善処しておこう」


 宗玄そうげんが通話を切ったので、オレもスマホをポケットへ放り込んだ。あとは、この状態が更に美味しい方向へ転がるのを待つだけだ。

 ウキウキしながら電車に乗り込んだ。じわじわとした暑さは太陽がほとんど沈んでからもアスファルトから絡みつくように立ち上ってくる。

 ああ、こんな夜はやっぱり、うまいものでも喰いたいよなぁ。

 適当な獲物を捕まえるために、オレは新宿で電車を降りていつもの店へ向かう。

 繁華街は心地が良い。ドブのような匂いと、誰かの欲望の甘い匂いが混ざり合っているし、そこら中に負の感情やちょっとした霊が彷徨いている。

 それに……同類と出会うことも少なくはない。便利屋という胡散臭い職業を名乗っている上で、伝手というものは多い方がいい。

 店の前で愛嬌を振りまくドレス姿のお姉さん達を尻目に、オレは雑居ビルの中へ入りエレベーターに乗り込む。

 まだ時間も早い。ゆっくりと酒でも飲んでから良さそうな女の子でも探すとしよう。

 エレベーターを降りて、馴染みの店へ向かう。黒く塗られた扉を開くと、思い切り欠伸をしながらグラスを磨いていた仁史ひとしが、慌てて接客用の笑顔に切り替えようとしてそれをやめた。


「なんだ、マダラじゃん」


仁史ひとしぃ、つめてーな。とりあえず、ビールちょーだい」


 ケラケラ笑いながらカウンター席に座ると、仁史は一度バックヤードへ向かってからすぐに瓶ビールを手にして戻ってきた。

 栓抜きで蓋だけ外してコースターと一緒にオレの前に瓶を置いた仁史ひとしは、グラス磨きを再開しながら気怠げに最近あったことをぽつぽつ話し始める。

 こうして面白そうな話や胡散臭い話を聞いて、客になりそうな相手の情報を集めるのも地味だが大切な仕事の一環だ。


「んもー! ヒトシ聞いてよ! まぁた陽性でちゃったー」


 乱暴に扉が開かれて、ケバケバしいメイクをした若い女が姿を現わした。

 消毒液の匂いと、少しカサついた肌、タバコの香り。イライラした様子で店に入ってきた女はオレの顔を見て一瞬立ち止まる。


「どぉも」


 手を振ってみると、女は急にニコニコし始めてオレの隣へ近付いてくる。

 ドロッとした雰囲気を纏っている彼女は、ビールを注文すると席に座るなり、タバコを取りだして口に咥えた。

 顔を逸らしてオレの反対側に煙を吐き出してから、女はもう一度オレの顔をしげしげと見つめる。オレはそんな様子が面白くて、頬杖を付きながら女を見つめ返してやった。

 こういうケバケバしていて、顔の良い男にすぐ近寄ってくる女は、お得意様になってくれることも多い。だから愛想をよくしておいた方がよいと、オレはちゃぁんと知ってる。


「ねーねー、お兄さんってさー、チャラい?」


 仁史ひとしが持ってきたビールを受け取って、グラスに注いでグイッと半分ほど飲み干した彼女は、急にそんな質問を投げかけてきた。曖昧に微笑んで答えないでいると、女が体をこちらに近付けてきた。

 体を密着させて、オレの腕に大きすぎないが、ないともいえない程の胸を押しつけた女は、グロスをたっぷり塗ってテカテカした唇を開く。


「一発やってもいいから、明日、子供堕ろすのに付き合ってくれない?」


「は?」


「2万上乗せするからって言うから、生でさせてるんだけど……あ、あたし、デリしててね、で、生理が来ないから多分できちゃったと思うんだけど、堕ろすにしても安くすませたくてさぁ。同意書なしで安く堕胎させてくれるところがなかなかなくてさぁ」


 流石のオレも初対面の男に堕胎手術への同意書を書いてくれと頼む女に出会ったのは初めてのことで、思わず言葉を失っていると、女はペラペラと身の上を話し始めた。

 風俗嬢をしているのだろうとあたりはつけていたが……ここまで思い切りの良い女は長く生きていてもあまり見ない。

 それにしても、ここのところ胎に関係する話が多く飛び込んでくるなぁ。おもしろそうだったので二つ返事で了解すると、女はわかりやすく派手によろこんでくれた。

 静が小さな声で「使えるかもしれないな」とだけ告げてきたので、オレはいつもよりも愛想を良くして女をその気にさせる。

 酒を飲んで、女の体を撫でたり、そっと口付けを交わし合ったりして、店が忙しくなる頃合いを見計らってオレと女は店を出た。

 そのまま、手をしっかりと握ったオレたちは繁華街へ向かい、手頃な宿へしけこんだ。

 それなりに楽しいひとときを過ごしたオレたちは、酒がまだ抜けきらないうち一緒にクリニックへ足を運ぶ。そういや、こういう場所へ来たことはなかったな。


「安く堕ろしてくれるところ、口コミでおしえてもらえるんだよね。それに、永代供養? もしてくれるしお得っていうか」


「へぇ。んじゃあ、同意書がいらなくて安いクリニックがありゃぁ、口コミで広まるってことかい?」


 早朝のクリニックには人もまばらだ。不安そうに俯いていたり、気怠そうにスマホをいじったりしている他の患者をよそに、昨日知り合った女はカラッとした感じで話しかけてくる。

 永代供養……堕胎をして胎の中にいた児を引き取るのも、まあそういうご時世なんだなぁと妙なところに感心してしまう。


「そうだよ。お兄さん、遊んだ女が出来ちゃったってしてきたらここ、教えてあげればぁ?」


 意識の奥底から静が急に浮かび上がってきて「そいつの周囲にいる女と関わっておいてくれ。ジャンクフードは好きだろう?」と告げてくる。

 はいはい。まあ、悪くないけどさ。飯を喰うと同時にあんたの体で貪る快楽も嫌いじゃない。


「ひっひ……そうだなぁ、それよりも、あんたのそういう困ったお友達と遊んでみたいかなぁ」


最低さいてー


 女は一瞬そう言って眉を顰めたふりをする。でも、本気じゃないことなんてわかりきっているからまともに取り合わずにいると、女もすぐに表情を崩してケラケラと笑った。

 それから、オレの肩に頭を乗せて、甘えるように腕を絡めてくる。

 深刻そうな表情でいる他の患者がしかめっつらでこっちを見てくるが、こいつは全く気にしていないようだ。


「んー。あたしみたいな子がいっぱいいる店なら教えてあげよっか? あ、お兄さんサスペンションとか平気……だよね? それだけピアスも空いてて墨も入ってるんだし」


「お言葉に甘えて教えて貰おっかなー? お礼は体でたっぷり支払うからさぁ」


 耳元に顔を近付けて囁く。まるで飴玉でも目の前にチラつかされた子供みたいに無邪気な表情を浮かべた女が、頬を膨らませてから、すぐに笑ってオレの腕をぐいっと自分の方へ引き寄せる。


「もう、そういうの普通は女が言う側じゃん。でもお兄さんは超超超イケメンだからなーお礼、期待しちゃうよ」


「んじゃあ、また体が落ち着いたら連絡してくれよな」


 額同士をくっつけて、まるで恋人同士のようなやりとりをする。オレたちはお互いの名前もろくに知らないってのに。

 名前を呼ばれたのか、女はすくっと立ち上がった。オレも、それを追うようにしてゆっくりと立ち上がる。


 じめっとした他の女たちからの視線が体に絡みつく。受付に一足先に歩いている女の背中に、びっしりと張り付いた真っ黒な生き霊よくないものを指で摘まんで口に放り込んだ。


「ひひ……静、ちゃぁんとオレの仕事、褒めてくれよなぁ」


 そっと誰にも聞こえないように呟くと、頭の奥で静がフッと短く声を漏らして笑う声が聞こえた。

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