伍:口火
「嬢ちゃん、
「お前に話すことなどありません。即刻立ち去りなさい」
大人しく踵を返そうとしたが、静が珍しく指図をしてきた。仕方なく、オレはツンケンしている沙羅を呼び止めて、懐から名刺を差し出す。
「まじない、のろい、悪霊祓いなんでもござれ。便利屋マダラでございやす。我が主を助けたくなったら連絡してくれよ」
「
「あいあい。じゃあな」
キャンキャンと気が立った小型犬みたいに鳴く沙羅に背を向けてさっさと退散する。
わざわざ構ってやって珍しいな。お兄ちゃんも妹には優しいってやつか?
頭の中に向かって軽口を叩くと、静の溜息が聞こえた。
『別にそういうわけじゃない。連絡先を知っていれば困ったときに頼ってくるだろう?』
助けてやりたいわけじゃね-のかよ。
淡々とした落ち着いた話し方を崩さない。ああ、オレの静。こいつの本性はオレだけが知っていると思うとうれしくて、この体には生えていない尻尾をぶんぶんと振り回したくなる。
『成井家に抗うつもりがあるのなら手を貸してやる。そうじゃないなら……処理をするだけだ』
怖い怖い。
そう返すと、静は「フン」と鼻で笑って気配を消した。浄化をするという名目でオレに体を明け渡しているけれど、本当のところはオレは呪われてもいないし、浄化も必要ない。
いつでも静は自分自身の体に戻れるっていうのにわざわざなんでこんな真似をしているのかはオレも詳しくわかっていない。
頭の中はそれきり静かになったので、オレは駅へと向かう。
仕事の出来るマダラさんは、今日はもう少しがんばってやろうかな。
じりじりと照りつける太陽は、まだ空の高い場所にいる。
先日モモが不倫相手の住所を送りつけてきた。まあ、顔を出して、あわよくば話しかけられたら御の字だな。
ふらふらと駅を降りて、閑静な住宅街を目指す。
確か、モモが不倫した相手の嫁は……確か普段は家にいるって聞いていたが。
辺りを見回すと、それらしき人物がマンションの入り口から出てくるところだった。上品なマロンベージュのショートボブが似合う女性……年齢は30代半ばから後半……言われていた特徴と合致する。ゆったりとした小綺麗でシンプルな格好だが、身に付けているアクセサリーの類いはそこそこ高級な品で固められている。
「典型的な良い奥さんって感じだねぇ」
普段食べ慣れない獲物を狩るのはワクワクする。どう近付くべきか楽しく思案しながらスーパーへ入っていく人妻を見て近くの喫茶店へ入った。さあて、どう近付こうか……。
買い物を追えた彼女が自動ドアから出てくるのが見えて、オレは喫茶店を出た。ちょうどいいことに、ふっと日が陰ってざあーっとバケツをひっくり返したみたいな大雨が降ってくる。
これは好都合だ……。雨の中を駆け出すと、水滴が容赦なく落ちてくる。すぐにびしょびしょになったオレは雨宿りをするフリをして軒先で立ち往生している人妻の隣にしれっと立った。
「すごい雨ですね」
なるべく丁寧に、静かな声色を心がけて彼女を見つめる。最初は怪訝な表情を浮かべて、白いシャツから透けているオレのタトゥーを見ていた彼女だったけれど、視線を上げてオレの顔を見ると僅かに目を見開いて、それからふっくらとした唇の両端を持ち上げてにっこりと微笑んだ。
「あら……ずぶ濡れで大変ねぇ。急に降ってきたから……」
小首を傾げて、顎に手をそっと添えながら彼女は自分が持っている傘に目を向けた。
静の美しい顔とオレの
まあ、大抵のヒトはこの女みたいに眼力を使わなくてもコロッと静の顔に好感を抱いちまうんだが……。このたくさん入ったタトゥーも好き勝手空けたピアスも最初は怪訝な表情を浮かべられる場合もあるが、そのくらいのハンデがないと狩りも流石につまらない。
「いやあ、本当に。でも、こんな綺麗なお姉さんに出会えたのでラッキーかもしれないですね」
濡れて額に張り付いた髪をかき上げて、眉尻を下げて微笑み返す。
「最近、近くに引っ越してきたんですよ。あそこのマンションなんですけど」
嘘を吐けるってのは本当に便利なもんだ。オレは、彼女が出てきたマンションを指してそう言うと、彼女は心なしか弾んだ声で「あら」と驚いたように涼しげな目元を丸くした。
あっと言う間に雨が止んで、分厚い雲の隙間から差し込んだ太陽の光がアスファルトを照らす。
「じゃあ、オレはこれで。また会えたらいいんですけど」
彼女の返答を待たずに、オレは軒下から出て駆けだした。
後方から「あ」と口惜しそうな声が聞こえたので、この敢えてサッと引く作戦は今のところうまくいったと考えてもいいと思う。
自分の価値がわかっていて、更に身持ちが堅い相手には、こういう方法が良く効くってのはこの一年でしっかりと学んだ。
好き勝手遊べて怠惰に過ごすこともこうして役に立つ。ヒトの身ってやつも、それなりの自由も本当に良いもんだ。
ずぶ濡れになった体が急に冷えてきた。真面目に仕事ってやつをしたら腹も減ってきた。
ポケットからスマホを取りだして見てみると、ちょうどモモからメッセージが入っていた。
返信を打つ代わりに、音声通話を繋ぐ。
「マダラぁ~、どうしたの?」
三コールも鳴らないうちに、モモが上機嫌そうな声で応答する。
「モモちゃんさぁ、そろそろオレに会いたい頃かなぁ~って思ってさ」
「んふふ……そうね、マダラにおうちまで来て欲しいな」
ヒトに何かを請われる気分が良い。それが大切ではない餌の一人からであったとしても。
彼女のおねだりを快諾して、オレはスマホを閉じると可愛い餌と交わる予感にそわそわしながら電車に乗り込んだ。
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