②
◇◆◇
ふわぁ〜よく寝たぁ。
「おはよう、アルシノエ」
「よく眠れた?」
窓から
「おはよー。うん、よく眠れたわ」
足もとには黒犬がうずくまって眠ってる。アヌビスは朝が苦手なのよね。このまま寝かしておいてあげましょ。
「さ、顔を洗って。今日も忙しい一日になるんでしょ?」
手で水をすくって顔を洗う。その後はウヌトに手伝われて、夜着を
小瓶の中の
「さて、本日のアルシノエの予定は神官との会議ね。議題はファイユム低地の
「言わないでぇ〜、案件が重いよぉ〜」
「だって予定が分からなきゃ服も決められないでしょう?」
彼女の
「さぁ、今日のチュニックは
「うん、わかった」
「チュニックの色が目立つから、
「はーい」
「
「うんうん、すごい
私はされるがままに身なりを整えられていく。美容関係のことはこの女神様に任せておけば
そうそう、彼女の服装もとっても素敵よ。黒一色のチュニックは彼女の色っぽい
あぁ、ウヌトはいいなぁ、大人の魅力にあふれてて。こんな時、つい自分のちんまりとした体形が気になっちゃう。
「ねぇウヌト、今日のお化粧は大人っぽさを意識してね」
「あら、いつもそういうつもりよ?」
「分かってるんだけど……でももっと大人の色気をムンムン出したいのよ」
「オトナのイロケねぇ……」
「ちょっと、私の胸を見ながら首をかしげないでくれるかしら!」
うふふと笑いながら、彼女は私を椅子に座らせた。ひきだしから化粧箱を取り出す。
「じゃあ今日は特にアイメイクに力を入れましょう。唇に引く紅も特別あざやかなものを」
「うん、お願いね」
私は手鏡ごしに、自分が少しずつ
そうよ、たとえ背も胸も小さくても、私は
「あぁぁぁぁ!」
せっかくのやる気をくじくように悲鳴があがった。隣の部屋のウヌヌの声だ。何かしら……なんだか嫌な予感。
「アルシノエのサンダルがぁぁ!」
ウヌトとともに駆けつけると、ウヌヌが白目をむいて私のサンダルを抱いていた。
「ひどいっ、
夫のもとに駆け寄ってウヌトも悲鳴をあげた。
「ふわぁ、なんだぁ、朝からうるさいぞー」
人型のアヌビスも目をこすりつつやってきた。この
私はウヌヌの手の中のサンダルを取り上げた。うん、たしかに革紐が切れている……しかも明らかに、故意に切られているわね。
「ぼ、僕、アルシノエの大事なサンダルを守れなかった……」
「
「いや、あなたたちのせいじゃないわよ! こんなこと、よくあることでしょ!」
「もうだめだ、僕たち死んでおわびを……」
「私たちなんて、鍋に飛びこんでお
「いや、悪いのは革紐を切った犯人だから……!」
必死になだめる私の手から、今度はアヌがサンダルを取り上げた。
「あーばっさり切られちゃったな。まぁどうせいつものあの人だろ。気にすることでもないね」
「うん、そうね。とりあえず修理をお願いしてみるわ」
誰がやったのかは分かっているわ。そんなことができて、とがめを受けずにいられるのは──私の
「いちいち気にしたら負けよ。さ、ウヌウヌ、代わりのものを用意してちょうだい! 公務に
兎夫婦を正気に戻し新しいサンダルを用意してもらって、私は黄金の
ウヌウヌに見送られ、犬型に戻ったアヌビスとともに部屋を出ると、そこには──。
「やぁおはよう、アリィ」
当然のごとく衛兵と──弟がいた。毎度毎度、予想通りね。
低い背に、短く刈った髪、そして瞳は私と同じターコイズの空色。大きい目も豊かなまつ毛も薄い唇も、嫌になっちゃうくらい私にそっくり。そりゃあ双子ですものね、仕方ないわ。
でも、これだけは言わせて。私はね、こんな
「おはようございますイアフ。いったいどうしました、わたくしの部屋の前で」
「いやぁ、
相変わらず白々しいわね! どうせあんたと守護神の
「あら、そう? あなたと違ってたくさんの神々に囲まれているせいで、にぎやかだったかしらね? ごめんあそばせ」
冷静な言葉の中に軽くイヤミを
「では、わたくし公務があるので失礼するわ。ごめんあそばせ」
するりと彼の前を通って
ところが、弟の嫌がらせはまだ終わっていなかった。
「痛っ……!」
お
「すまんすまーん、サンダルが足に合ってなくて、飛んでいっちまったぜ!」
あーそりゃみんなびっくりよねぇ……
いや、それよりもこの
王笏と
これって私よねぇぇ!? コノヤロウ歩くたびに私のこと
もう許さない……おっそろしい目に合わせてやる……
「わんっ」
アヌビスが小さく
「あ、そう。新しいサンダルをあつらえてはいかが? では、またいつか」
こうして私はほとばしる
まったくもう! アホな弟にからまれて最低な朝だわ!
私は石の廊下をバシバシと叩きつけるように歩く。いっそ私もこの靴底にあいつの顔を刻んで毎日踏みつぶしてやろうかしら!?
いやいやだめよ……あんなアホと同じことをしてもしようがないわ。
弟イアフメスは幼い
五歳の時、彼からおもちゃの人形を取り上げられた。木製で、赤と黄色で
その後の光景を、今でも忘れることができない。
あいつはそのお人形をカマドに放りこんだのよ……!
めらめらと燃える
イアフメスは徹底的に〝意地悪〟で、成長するにつれて〝意地悪〟の域にはおさまらない
私のお気に入りはどんどん消えてなくなっていく。
そして何より許せないのは、小さい頃から仲良しだった大事なお友だちが、あいつのいたずらで
あぁ、いやだ。嫌なことを思い出しちゃったわね……。
そうよ、こんな時こそ──。
その中庭に出ると、私はさっと近場の木の陰に
「あぁ、今日も素敵……」
だめ、とろけちゃいそうだわ……。
だってティズカール様がいらっしゃるんだもの!
彼は
あぁ私、今すぐあの
ティズカール様は、ここでエジプト文字を学ぶのが朝の日課なのよ。
今日も彼は三人の従者と教育係の老神官とともに
──あぁ、できれば私が手取り足取り教えてさしあげたい!
そういえば……婿入りして半年たった今でもティズカール様は故郷マルトゥのお召し物を着ていらっしゃる。風を通しにくいからこの国の気候には適さないのに。
やっぱり着慣れない服は嫌なものなのね。彼にとってこの国はまだ〝異国〟にすぎないんだ。そんなことを思うと
ん? でも、ちょっと待つのよアルシノエ。ティズカール様がエジプト風の薄手のお召し物をまとっていたら……だめっ! 直視できない!!
「アルシノエ、だらしない顔になってるぞ」
いつのまにか人型になったアヌビスにつつかれた。その手にはハンカチが握られている。
しまった、私ったらヨダレを垂らしてる!
「やだわ、会議の前に。お化粧が乱れちゃう。もうっ、どうしてティズカール様って毎日あんなに素敵なのかしら!?」
「……君みたいな変態に婿入りして、つくづくあの
「変態じゃないわ、
小声でアヌと言い争っていると、ふいに
「めずらしいわね。あれ
こちらへ向かって一直線に
「どうしたのかしら、こちらに飛んでくるようだけど……」
目立たないよう彼を
あら、
二羽の鳥たちはすぐに人型に変化した。
「やぁアルシノエ、アヌビス。久方ぶりだな、ははははははは」
緋色の髪を
人型になっても、背中には大きな
「お久しぶりでちゅね、会いたかったでちゅよ!」
まだ幼い少女の姿をしているのが、彼の妹で、真理を司るマアト神。彼女はまろぶように駆けて私に抱きついてくれた。ふわふわの
「二人とも、元気そうで何よりね。突然どうしたの?」
「人間界に降りてくるなんてめずらしいじゃん」
「はっはっはっ! アヌビス、お前はずっと
「まぁね。なんだかんだでアルシノエの近くが落ち着くもんで」
「お兄ちゃん、世間話をしている時間はないでちゅよ〜」
妹に注意されて、ホルスはデレっとうなずく。まったく相変わらず妹が大好きなんだから!
「今日はアルシノエに伝えておかねばならんことがあってな」
彼の太い
「近頃、どういうわけか
「セルケト……イアフメスの守護神が?」
そうだ、とホルスは物々しくうなずく。
「セルケトめ、王弟イアフメスの婿入りを一年後にひかえ、守護者を失う前の最後の悪あがきに出たのか、他の神に仕えていた神官まで取りこんでいるようだ」
アヌが片眉をあげて疑問をはさんだ。
「利にさとい神官たちが、なんで今さらセルケトとイアフメスの側につくんだ? あの
「そうなのだ、
深刻な話に
あ! ちょっと、そっちはダメよ!
「こんにちはでちゅ〜」
彼女がたどたどしく向かっていったのは、ティズカール様のもとだった。
「こんにちは、どうしたの? 一人じゃ危ないよ」
突然の幼子の登場に、ティズカール様は
「だっこぉ〜」
「かわいそうに、親とはぐれちゃったのかい? いったいどこの子だろう?」
「お兄ちゃん、いいにおいがするでちゅ」
ああ! マアトったらティズカール様に抱っこされて、お胸にスリスリまでして! ダメよ、うらやましすぎるっ!
「ふむ、真理を司るマアトに気に入られるとは。はっはっはっ、
「純粋な
ふん、何よ今さらそんなこと! 私が選んだお婿様だもの、そんなの当たり前でしょ!
それよりもマアト……はやくティズカール様から
◇◆◇
俺は中庭に現れた見知らぬ小さな女の子を抱いて首をかしげた。
まだ三歳くらいだろうか。
と、突然。
視界の奥に、女王陛下が現れた。しかも何かにつまずいたように、つんのめって物陰から飛び出したのだ。
信じられない。こんなところに陛下がいらっしゃるなんて。いやそれよりも可愛らしくおつまずきになったぞ? あの完璧で
いやいや、そんなこと考えてる場合じゃない!
腕に
「陛下、おはようございます。昨晩は大変なご無礼をいたしまして、今さらながらに申し訳ない思いでおります」
ひざまずいて一息に言う。昨晩はメジェド君の言う通りに陛下に近づいたけど、やはりどう考えても失礼だった。
「別に気にしておりませぬ」
先ほどつまずいた時に見せたあどけなさはどこへやら、そこには
「気にしていない」か……。むしろ少しくらい気にしていただいてもよかったのに。いやいや、気にされていたら
「それよりも、その
俺は思わず顔をあげた。この小さな女の子がご友人? 陛下がこの子をあやしたりするのか? 一緒に人形遊びをしたり? 想像もつかないぞ。
「それは大変失礼いたしました。重ねて申し訳ございません」
「いいんでちゅ、あたちが自分でお兄ちゃんのところに来たんでちゅから」
幼子の手を取り「そういうことです」とだけ言い残し、陛下はするりと背を向けてしまわれた。小さいながらも威厳のある後ろ姿は俺を振り返ることもしない。
良好な夫婦仲を築きたい……それだけのことが本当に難しい。
「ということがあったんですよ、メジェド君」
その晩、寝台にもぐりこんだ俺は
「ふむ。夫婦仲のう……」
メジェド君は
「ティズ君、考えすぎじゃよ。アルシノエ嬢と
「いやいや、そんな無茶な。不敬を働くと実家に
「……絶対に大丈夫なんじゃけどなぁ」
ふるふると体を横にふって、メジェド君は続ける。
「まぁ、なんにせよそんなに
「普通の女の子か……たしかに、つまずいたお姿を見た時は、陛下を身近に感じましたね」
「そうじゃろ」
「でも、笑ったお顔なんてちっとも想像できないな。いつも冷静
「まぁ……たしかに、気持ちを隠して
メジェド君は眉を寄せた──というか
「しかし、ティズ君は
「え? 何かおっしゃいました?」
「いや、別に。それよりもティズ君はもっとアルシノエ嬢と話した方がよい」
「俺もずっとそう思っていますが」
「また無理やり部屋に押し入ろうではないか。我はそういう展開が好きじゃ」
「俺はそういうのは苦手です」
「うーむ、〝ギャップ萌え〟は〝鉄板〟なんじゃがのぅ」
また意味の分からないエジプト語をぶつぶつと口にして、メジェド君はすくっと立ち上がった。あ、メジェド君……すね毛がぼうぼうだ。くっ、見てはいけないものを見た。とりあえず目をそらしておけ。
「ま、大丈夫じゃよ。夫婦なんだからのぅ。また個人的に会う機会も訪れるて」
陛下との
「すごい……これが
三人の従者と案内係のメジェド君とともに、
俺が婿入りした
エジプトは豊かだ。その恵みの源が、今まさに
「北の大国バビロニアでは大河の
「この国では洪水は起きない。
「な……なるほど」
「だから
夫婦仲を良好に……。そんなこと彼女にとっては考える価値すらないことなのかもしれない。
そんなことを
「え、女王陛下が
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