◇◆◇


 ふわぁ〜よく寝たぁ。

「おはよう、アルシノエ」

「よく眠れた?」

 窓からしこむ光に目を覚ますと、兎夫婦ウヌウヌが人型で忙しく動き回っている。

「おはよー。うん、よく眠れたわ」

 足もとには黒犬がうずくまって眠ってる。アヌビスは朝が苦手なのよね。このまま寝かしておいてあげましょ。

「さ、顔を洗って。今日も忙しい一日になるんでしょ?」

 白兎男神ウヌヌが水をたっぷり入れたおけを運んできてくれて、そのとなりでは妻の黒兎女神ウヌトぬのびんを持ってニコニコしている。

 手で水をすくって顔を洗う。その後はウヌトに手伝われて、夜着をいで全身を布でぬぐってもらった。この時、男神であるウヌヌはりんしつで別の作業。いくら神様だからって、男性にはだかを見られるのは恥ずかしいもの!

 小瓶の中のの香油を全身にぬりこみ上品に香らせたら、今度はえ。

「さて、本日のアルシノエの予定は神官との会議ね。議題はファイユム低地のかんたくについて、と」

「言わないでぇ〜、案件が重いよぉ〜」

「だって予定が分からなきゃ服も決められないでしょう?」

 彼女のくろみみにピンと力が入った。こうりょうしょうほうしょくひん・化粧。いわゆる〝美容とオシャレ〟は彼女にとって一番気合いが入るところなのだ。

「さぁ、今日のチュニックはのうりょくと白の縞模様ストライプにしましょうね。肩にはうすのショールを羽織って、はやぶさむねかざりでめましょう。少しいかめしい意匠デザインだけれど、若いあなたのげんを高めるにはちょうどいいわ」

「うん、わかった」

「チュニックの色が目立つから、装飾品アクセサリーは落ち着いたものを。しろ硝子ガラス耳飾りイヤリング腕輪ブレスレット、それから足にも同じものを飾りましょう」

「はーい」

こしにはこの帯を。琥珀金エレクトラムをふんだんに使ったいっぴんよ。新しく作らせたの。さんのうのビーズがアクセントになっていて素敵でしょう」

「うんうん、すごいれい

 私はされるがままに身なりを整えられていく。美容関係のことはこの女神様に任せておけばちがいない。私の好みまで知りつくしているからね。

 そうそう、彼女の服装もとっても素敵よ。黒一色のチュニックは彼女の色っぽいりょくを引き出しているし、大きな胸の上の珊瑚の首飾りネックレスもまぶしいわ。ふわふわのしっは、紅玉ルビーでぐるりと飾られていて、黒と赤の対比がお見事。

 あぁ、ウヌトはいいなぁ、大人の魅力にあふれてて。こんな時、つい自分のちんまりとした体形が気になっちゃう。

「ねぇウヌト、今日のお化粧は大人っぽさを意識してね」

「あら、いつもそういうつもりよ?」

「分かってるんだけど……でももっと大人の色気をムンムン出したいのよ」

「オトナのイロケねぇ……」

「ちょっと、私の胸を見ながら首をかしげないでくれるかしら!」

 うふふと笑いながら、彼女は私を椅子に座らせた。ひきだしから化粧箱を取り出す。

「じゃあ今日は特にアイメイクに力を入れましょう。唇に引く紅も特別あざやかなものを」

「うん、お願いね」

 私は手鏡ごしに、自分が少しずついろどられていくのを見守った。この時間って、本当に気持ちが高まっていくわ。化粧をすると寝ぼけた気分がんで、一気にお仕事の気持ちにわるの。

 そうよ、たとえ背も胸も小さくても、私はファラオ。今日もバリバリ働いてやる!

「あぁぁぁぁ!」

 せっかくのやる気をくじくように悲鳴があがった。隣の部屋のウヌヌの声だ。何かしら……なんだか嫌な予感。

「アルシノエのサンダルがぁぁ!」

 ウヌトとともに駆けつけると、ウヌヌが白目をむいて私のサンダルを抱いていた。

「ひどいっ、かわひもが切られてる!」

 夫のもとに駆け寄ってウヌトも悲鳴をあげた。

「ふわぁ、なんだぁ、朝からうるさいぞー」

 人型のアヌビスも目をこすりつつやってきた。このさわぎで目が覚めちゃったのね。気の毒に。

 私はウヌヌの手の中のサンダルを取り上げた。うん、たしかに革紐が切れている……しかも明らかに、故意に切られているわね。

「ぼ、僕、アルシノエの大事なサンダルを守れなかった……」

ファラオぎょぶつを守れなかったなんて……!」

「いや、あなたたちのせいじゃないわよ! こんなこと、よくあることでしょ!」

「もうだめだ、僕たち死んでおわびを……」

「私たちなんて、鍋に飛びこんでおし上がりいただくくらいの価値しかないのよぉ!」

「いや、悪いのは革紐を切った犯人だから……!」

 必死になだめる私の手から、今度はアヌがサンダルを取り上げた。

「あーばっさり切られちゃったな。まぁどうせだろ。気にすることでもないね」

「うん、そうね。とりあえず修理をお願いしてみるわ」

 ファラオたる私の身につける品々は、自室の隣にある衣装部屋におさめてある。部屋にはかぎをかけ、常に兵士が見張る、という厳重な体制。ファラオの御物はファラオそのもの──だから、たかがサンダルといえどその一部を傷つけるなんて、本来は許されないことなんだけど。

 誰がやったのかは分かっているわ。そんなことができて、とがめを受けずにいられるのは──私のふたの弟、イアフメスしかいないもの。

「いちいち気にしたら負けよ。さ、ウヌウヌ、代わりのものを用意してちょうだい! 公務におくれちゃう!」

 兎夫婦を正気に戻し新しいサンダルを用意してもらって、私は黄金のおうしゃくを手にした。

 ウヌウヌに見送られ、犬型に戻ったアヌビスとともに部屋を出ると、そこには──。

「やぁおはよう、アリィ」

 当然のごとく衛兵と──弟がいた。毎度毎度、予想通りね。

 低い背に、短く刈った髪、そして瞳は私と同じターコイズの空色。大きい目も豊かなまつ毛も薄い唇も、嫌になっちゃうくらい私にそっくり。そりゃあ双子ですものね、仕方ないわ。

 でも、これだけは言わせて。私はね、こんなしょうがグログロにくさったようないやらしー笑い方、絶ッ対にしない。顔は似てても、表情まで似てたまるもんですか!

「おはようございますイアフ。いったいどうしました、わたくしの部屋の前で」

「いやぁ、ぐうぜん通りかかったらアリィの部屋の中がずいぶん騒がしいんで、気になっちゃって」

 相変わらず白々しいわね! どうせあんたと守護神の蠍女神セルケトがやったくせに!

「あら、そう? たくさんの神々に囲まれているせいで、にぎやかだったかしらね? ごめんあそばせ」

 冷静な言葉の中に軽くイヤミをふくませたのだけど、どうも弟はそのことに気づいていない。私の足もとを見ながらニヤニヤしてるばかり。くぅ、頭も性格も悪い……!

「では、わたくし公務があるので失礼するわ。ごめんあそばせ」

 するりと彼の前を通ってろうを進む。〝れい回避スルー〟、これが最善の策よ。

 ところが、弟の嫌がらせはまだ終わっていなかった。

「痛っ……!」

 おしりに軽いしょうげきを受けて、私は反射的に振り返った。ポトリ、と男物のサンダルが一つ落ちて、ぜんとする。

「すまんすまーん、サンダルが足に合ってなくて、飛んでいっちまったぜ!」

 けいはくな声はもちろん弟のもの。彼の隣で衛兵たちは顔を真っ白くしている。

 あーそりゃみんなびっくりよねぇ……ファラオ様にぎたないサンダルをぶつけてくれたんだからねぇ!

 いや、それよりもこのくつぞこ意匠デザイン──。

 王笏とから竿ざお──どちらも王権のしょうちょう──をにぎる少女。瞳の色は、ターコイズ。

 これって私よねぇぇ!? コノヤロウ歩くたびに私のことみつけて喜んでるわね! しかもわざわざそれを私に見せつけてやったってわけねぇぇぇぇ!?

 もう許さない……おっそろしい目に合わせてやる……ファラオの権力にものをいわせて──。

「わんっ」

 アヌビスが小さくえた。おかげでふっとうしかけた頭がすぅっと冷える。そうだわ……アホは無視に限るのだった。

「あ、そう。新しいサンダルをあつらえてはいかが? では、またいつか」

 こうして私はほとばしるいかりを胸におさえこみながら、なんとかその場をやり過ごした。


 まったくもう! アホな弟にからまれて最低な朝だわ!

 私は石の廊下をバシバシと叩きつけるように歩く。いっそ私もこの靴底にあいつの顔を刻んで毎日踏みつぶしてやろうかしら!?

 いやいやだめよ……あんなアホと同じことをしてもしようがないわ。

 弟イアフメスは幼いころから全然変わらない。

 五歳の時、彼からおもちゃの人形を取り上げられた。木製で、赤と黄色でさいしきされた、髪の長いお人形。私の大のお気に入りだったの。それを私の手からうばった弟は、泣きながら追いかける私を振りはらって、調理場に飛びこんだ。

 その後の光景を、今でも忘れることができない。

 あいつはそのお人形をカマドに放りこんだのよ……!

 めらめらと燃えるほのおの中でくずれていく大事なお人形。泣きじゃくる私を指差して笑う弟。

 イアフメスは徹底的に〝意地悪〟で、成長するにつれて〝意地悪〟の域にはおさまらないばんこうも目立つようになっていった。

 私のお気に入りはどんどん消えてなくなっていく。しゅいろのリボンがついたなんこうばこも、黄金虫スカラベの胸飾りも。目の前でこわされたこともあれば、気づいたらなくなっていたこともある。

 そして何より許せないのは、小さい頃から仲良しだった大事なお友だちが、あいつのいたずらであやうく死にかけたことだ。その時、私の中で何かがぷつりと切れてしまった。

 あぁ、いやだ。嫌なことを思い出しちゃったわね……。

 そうよ、こんな時こそ──。

 黒犬神アヌビスとともに石の廊下を進むと、衛兵たちがとびらを開けてくれる。強いしが私の瞳を焼いた。扉の向こうは宮殿の中庭。緑を豊かにしげらせた、宮殿内ずいいちぜいたく区域だ。

 その中庭に出ると、私はさっと近場の木の陰にかくれた。

「あぁ、今日も素敵……」

 だめ、とろけちゃいそうだわ……。

 だってティズカール様がいらっしゃるんだもの!

 彼はあずまにととのえられた椅子にこしかけ、机上にパピルスを広げていらっしゃる。彼の視線はじっとそこに注がれていた。

 あぁ私、今すぐあのパピルスになりたい……!

 ティズカール様は、ここでエジプト文字を学ぶのが朝の日課なのよ。

 りんごくマルトゥから婿むこりした彼は、もともと我が国エジプトとも取引のある大きな隊商を率いていたの。(すごいわよね、立派よね!)だからエジプト語での会話はとってもお上手なんだけど、読み書きはまだ不得意みたい。

 今日も彼は三人の従者と教育係の老神官とともにパピルスと向き合っていらっしゃる。しんけんまなしが尊い。何かてきされてはにかむお顔はもはやこうごうしい。

 ──あぁ、できれば私が手取り足取り教えてさしあげたい!

 そういえば……婿入りして半年たった今でもティズカール様は故郷マルトゥのお召し物を着ていらっしゃる。風を通しにくいからこの国の気候には適さないのに。

 やっぱり着慣れない服は嫌なものなのね。彼にとってこの国はまだ〝異国〟にすぎないんだ。そんなことを思うとさびしくなってしまう。

 ん? でも、ちょっと待つのよアルシノエ。ティズカール様がエジプト風の薄手のお召し物をまとっていたら……だめっ! 直視できない!!

「アルシノエ、だらしない顔になってるぞ」

 いつのまにか人型になったアヌビスにつつかれた。その手にはハンカチが握られている。

 しまった、私ったらヨダレを垂らしてる!

「やだわ、会議の前に。お化粧が乱れちゃう。もうっ、どうしてティズカール様って毎日あんなに素敵なのかしら!?」

「……君みたいな変態に婿入りして、つくづくあのひとびんだと思うよオレは」

「変態じゃないわ、こいする乙女おとめよ!」

 小声でアヌと言い争っていると、ふいにがかげった。あら、おかしいわ、今日は雲一つない快晴のはず。二人そろって空を見上げると、陽差しをさえぎって飛ぶ影がある。

「めずらしいわね。あれ隼神ホルスじゃない?」

 こちらへ向かって一直線にかっくうするのは、いちはやぶさだった。羽ばたくたびに青空に炎が揺らめくから、炎をつかさどるホルスだと分かる。

「どうしたのかしら、こちらに飛んでくるようだけど……」

 目立たないよう彼をむかえるために、私たちは建物の裏手に場所を移した。

 いろの隼が頭上でせんかいし、私たちのもとにりる。その羽はたけだけしい緋のこうたくを放っている。続いてその背からひなどりが転がるように飛び出した。

 あら、真理女神マアトも一緒だったのね!

 二羽の鳥たちはすぐに人型に変化した。

「やぁアルシノエ、アヌビス。久方ぶりだな、ははははははは」

 緋色の髪をあらあらしく伸ばした筋肉質な男の神様、ホルス。このエジプトの熱気よりもさらに暑苦しい彼は、太陽神ラーの第一子だ。

 人型になっても、背中には大きなつばさがたたまれている。人間の見た目年齢でいうと、二十代半ばというところ。

「お久しぶりでちゅね、会いたかったでちゅよ!」

 まだ幼い少女の姿をしているのが、彼の妹で、真理を司るマアト神。彼女はまろぶように駆けて私に抱きついてくれた。ふわふわのくりとふくふくの腕が可愛かわいい!

「二人とも、元気そうで何よりね。突然どうしたの?」

「人間界に降りてくるなんてめずらしいじゃん」

「はっはっはっ! アヌビス、お前はずっと人間界ここにいるようだな」

「まぁね。なんだかんだでアルシノエの近くが落ち着くもんで」

「お兄ちゃん、世間話をしている時間はないでちゅよ〜」

 妹に注意されて、ホルスはデレっとうなずく。まったく相変わらず妹が大好きなんだから!

「今日はアルシノエに伝えておかねばならんことがあってな」

 彼の太いまゆがきりりとつり上がった。あら、あまりいい話題じゃなさそう。

「近頃、どういうわけか蠍女神セルケトがにわかにしんこうを集めている」

「セルケト……イアフメスの守護神が?」

 そうだ、とホルスは物々しくうなずく。

「セルケトめ、王弟イアフメスの婿入りを一年後にひかえ、守護者を失う前の最後の悪あがきに出たのか、他の神に仕えていた神官まで取りこんでいるようだ」

 アヌが片眉をあげて疑問をはさんだ。

「利にさとい神官たちが、なんで今さらセルケトとイアフメスの側につくんだ? あのていファラオの位につくはずなんてないのに」

「そうなのだ、太陽神ちちうえはセルケトの行動の裏に何かあるのではとねんしておられる。また情報が入りだい飛んでくる……あ、マアト、勝手に動き回るな!」

 深刻な話にきてしまったのか、気づけばマアトはものかげを出てよちよちと中庭を歩きまわっていた。

 あ! ちょっと、そっちはダメよ!

「こんにちはでちゅ〜」

 彼女がたどたどしく向かっていったのは、ティズカール様のもとだった。

「こんにちは、どうしたの? 一人じゃ危ないよ」

 突然の幼子の登場に、ティズカール様はおどろいて立ち上がる。

「だっこぉ〜」

「かわいそうに、親とはぐれちゃったのかい? いったいどこの子だろう?」

「お兄ちゃん、いいにおいがするでちゅ」

 ああ! マアトったらティズカール様に抱っこされて、お胸にスリスリまでして! ダメよ、うらやましすぎるっ!


「ふむ、真理を司るマアトに気に入られるとは。はっはっはっ、婿むこ殿どのは人間にしてはずいぶん心が清らかなようだな」

「純粋な少年ガキっぽいとこあるもんね、あの人」

 しっくるう私の横で、ホルスとアヌビスが感心している。

 ふん、何よ今さらそんなこと! 私が選んだお婿様だもの、そんなの当たり前でしょ!

 それよりもマアト……はやくティズカール様からはなれなさいよぉ!


◇◆◇


 俺は中庭に現れた見知らぬ小さな女の子を抱いて首をかしげた。

 まだ三歳くらいだろうか。あわい栗色の髪はこの国ではめずらしい。こんな子が一人で遊んでいるはずがない。そう思ってあたりを見回しても保護者らしき大人は見当たらなかった。いくらなんでも危険すぎる。中庭には池だってあるというのに。

 と、突然。

 視界の奥に、女王陛下が現れた。しかも何かにつまずいたように、つんのめって物陰から飛び出したのだ。

 信じられない。こんなところに陛下がいらっしゃるなんて。いやそれよりも可愛らしくおつまずきになったぞ? あの完璧ですきのない陛下でも転ぶことがあるのか。

 いやいや、そんなこと考えてる場合じゃない!

 腕にかかえた女の子をそっと地面におろし、ばやく陛下のもとに参じた。

「陛下、おはようございます。昨晩は大変なご無礼をいたしまして、今さらながらに申し訳ない思いでおります」

 ひざまずいて一息に言う。昨晩はメジェド君の言う通りに陛下に近づいたけど、やはりどう考えても失礼だった。

 あせの俺に対し、陛下はきわめて冷静だ。

「別に気にしておりませぬ」

 先ほどつまずいた時に見せたあどけなさはどこへやら、そこにはちょうぜんとした態度のファラオがいるだけ。

「気にしていない」か……。むしろ少しくらい気にしていただいてもよかったのに。いやいや、気にされていたらしょばつされてしまうけれども。

「それよりも、そのおさなはわたくしの友人。こちらへ返してくださいませ」

 俺は思わず顔をあげた。この小さな女の子がご友人? 陛下がこの子をあやしたりするのか? 一緒に人形遊びをしたり? 想像もつかないぞ。

「それは大変失礼いたしました。重ねて申し訳ございません」

「いいんでちゅ、あたちが自分でお兄ちゃんのところに来たんでちゅから」

 幼子の手を取り「そういうことです」とだけ言い残し、陛下はするりと背を向けてしまわれた。小さいながらも威厳のある後ろ姿は俺を振り返ることもしない。

 良好な夫婦仲を築きたい……それだけのことが本当に難しい。


「ということがあったんですよ、メジェド君」

 その晩、寝台にもぐりこんだ俺はまくらもとの神様に朝の出来事を話した。

「ふむ。夫婦仲のう……」

 メジェド君はひざかかえている。足が布の中に収納されているので、こうなると完全にただの白い布のかたまりだ。

「ティズ君、考えすぎじゃよ。アルシノエ嬢とねんごろになりたければ、ただ押して押して押しまくればいいのじゃ」

「いやいや、そんな無茶な。不敬を働くと実家にめいわくがかかるおそれがあります。人質の身でそれはまずいです」

「……絶対に大丈夫なんじゃけどなぁ」

 ふるふると体を横にふって、メジェド君は続ける。

「まぁ、なんにせよそんなにおくすることはないぞ。ファラオといっても、アルシノエ嬢はまだ十八歳。転びもするし、笑いもする、普通の女子おなごじゃよ」

「普通の女の子か……たしかに、つまずいたお姿を見た時は、陛下を身近に感じましたね」

「そうじゃろ」

「でも、笑ったお顔なんてちっとも想像できないな。いつも冷静ちんちゃくせいしゃの顔をしておられる。昨晩お部屋にお訪ねした時ですらそうでした」

「まぁ……たしかに、気持ちを隠してかしこく振るまうのは得意な子じゃな」

 メジェド君は眉を寄せた──というかけんの布にシワが寄っている。

「しかし、ティズ君はどんかんすぎる気がするのぅ……それもそれで〝せる〟とこじゃが……」

「え? 何かおっしゃいました?」

「いや、別に。それよりもティズ君はもっとアルシノエ嬢と話した方がよい」

「俺もずっとそう思っていますが」

「また無理やり部屋に押し入ろうではないか。我はそういう展開が好きじゃ」

「俺はそういうのは苦手です」

「うーむ、〝ギャップ萌え〟は〝鉄板〟なんじゃがのぅ」

 また意味の分からないエジプト語をぶつぶつと口にして、メジェド君はすくっと立ち上がった。あ、メジェド君……すね毛がぼうぼうだ。くっ、見てはいけないものを見た。とりあえず目をそらしておけ。

「ま、大丈夫じゃよ。夫婦なんだからのぅ。また個人的に会う機会も訪れるて」


 陛下とのきょをつめられないまま、静かで変わりばえのしない毎日が続く。そんなある日、俺は王都こうがいに出かけた。

「すごい……これが聖河ナイルの最盛期か」

 三人の従者と案内係のメジェド君とともに、あせをぬぐいつつ赤土のゆるやかなおかを登った。てっぺんからの景色は、圧巻だ。どこまでも続く赤茶けた砂漠をつらぬいて、どっしりとした聖河ナイルの流れが北へ伸びる。

 俺が婿入りしたペレトには、聖河ナイルの流れは細く、その両岸に黄金こがねいろの帯が広がっていた。川の流れが続く地平の果てまで麦がを揺らす。思わず息をんだのは、その光景が一年中かわいた国から来た俺の目にあまりに贅沢に映ったからだ。これだけの実りが得られれば、民が食いつめることもないだろう。

 エジプトは豊かだ。その恵みの源が、今まさに聖河ナイルの流れによって運ばれている。

「北の大国バビロニアでは大河のこうずいがいが深刻ですが、エジプトではどんな対策を?」

「この国では洪水は起きない。聖河ナイルは太陽神ラーをはじめとする神々によって十分に統制されているのじゃ。神々にささげる民のいのりに不足がなければ、聖河ナイルれることはない」

「な……なるほど」

「だからファラオしきが重要なんじゃ。民の祈りが我々にとどこおりなく届くよう、儀式を行い、しん殿でんを建て、もつを捧げる。ファラオは〝神のまきびと〟と言うじゃろ? 民を信仰へと正しく導き、エジプトをはんえいさせる──ファラオはそういう存在なんじゃよ」

 ファラオとは、俺の想像をはるかにえた、この国のかなめであるらしい。陛下の部屋に押し入ったことがそらおそろしくなる。

 夫婦仲を良好に……。そんなこと彼女にとっては考える価値すらないことなのかもしれない。

 そんなことをおもなやみながら宮殿に戻った俺のもとに、一人の神官が駆け寄ってきた。大事なしらせを届けるために。

「え、女王陛下がやまいでおたおれになった……?」

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