◇◆◇


 この夏、ファラオである私の公務は、目が回るほどにぎゅうぎゅうづめだった。

 例年、聖河ナイルの増水期であるケアトは忙しい。この季節は農地が聖河ナイルしずむから、農民たちの仕事がなくなってしまう。その間、ファラオちょくれいで彼らに公共のお仕事に励んでもらい、その対価として毎日の生きるかて──小麦や野菜や果物など──を配給しなければならない。

 もちろん、聖河ナイルの恵みに感謝する儀式もとどこおりなく行った。まぁ、これはいつも一緒にいる神様たちのモフモフの毛並みをなでたり、おくものをおわたしするだけなんだけどね。ちなみに私からの贈り物は〝肩たたき券〟よ。みんな喜んでくれたわ!

 私はいつにも増してバリバリ働き、神々の肩をもみ、あとはひたすら眠る。そんなぼうな毎日をかえしていた。

 あ、でもね、最近は毎朝中庭でティズカール様とごあいさつできるようになったの! こんなうれしいことってないわ! そんな喜びを顔に出すことすらできないのがつらいところなんだけど。

 だって、愚弟イアフメスと、その守護神がどこで見ているか分からないのだもの。ティズカール様を──カマドにくべられた私のお人形のような目にあわせるなんて──そんなことは絶対にさせないんだから……!

 というのも、このところやつの嫌がらせが日に日に加熱しているの。

 私の歩く先々に犬のふんをき散らしたり(これには黒犬神アヌビスだいげきしていたわ。オレをバカにしてんのか、ってね)、私の部屋の扉に落書きをしたり、私の服をやぶいたり。ここまでくると、頭にくるよりもあきれてしまう。

 これがもう十八にもなった立派な王族のすることかしら!?

 とはいえ、公務と嫌がらせの波状こうげきは、気づかぬうちに私の体力をごりごりけずり取っていたみたいで……。聖河ナイルの増水が最盛期を迎える頃、私はついに高熱を出して寝こんでしまった。あぁ、なんて情けない……。


「ひどいお熱ねぇ……」

 黒兎女神ウヌトの手が私のおでこにふれている。あぅー冷たくて気持ちいい。寝台で亜麻布にくるまって、私はゴホゴホとせきをした。うぅ、のどが痛いよぉ、寒気がするよぉ。

「ごめんねぇウヌウヌ」

「いやだアルシノエ、何を謝ってるのかしら?」

「そうだよ、さぁ、薬パンを食べて」

 熱で気弱になった心に、二人の優しさがしみる。アヌビスも私の足もとにずっとうずくまってくれている。

 人間の友だちがいない私にとって、いつでもそばにいてくれるこの三人の神様は心の支えだ。病気の時は、特に強くそう思ってしまう。

 困ったことに、それから夜が明けても熱は下がらなかった。もう一日寝台でうんうんうなって牛乳にひたした薬パンを食べて寝て、それでも熱が引かない。

 どうしよう、三日も寝こんでいるじゃない。公務に遅れが出てしまう。

 それにこの風邪のせいで、しばらくティズカール様のお顔を拝見していないのよ。このままじゃ心がからびて、生きたままミイラになってしまうわ。

「大丈夫か、アルシノエ?」

 ぐったりと眠りに落ちて目を覚ますと、めずらしく隼神ホルスまでもが枕もとにいた。いつもの高笑いがなかった。太い眉があんなに垂れ下がって──心配かけちゃってるわね。

 そりゃあそうよね、先代のファラオ、つまり私のパパは、をこじらせてくなったから……。ホルスは特にパパと仲良しだったもんね。

「やだなぁ……ちょっと熱が出ただけよ」

「そうだな、大丈夫だな」

 そう言いながら彼は調理着エプロンこしひもを結び始める。

「食欲が出てきたら、消化にいいものを作ろう。俺の火力の見せどころだ」

「ありがと。でも今はいらないわ……今度、甘いむぎがゆを作ってほしいな……ハチミツたくさん使ったやつ……」

 熱でボーッとしながらホルスの調理着エプロン姿をながめる。うーん、むきむきの体に調理着エプロンも悪くないわね。ホルスは火を司る神様だから、カマドの火も彼の支配下なの。だから料理もとっても上手よ。

「アルシノエ、しっかりするでちゅ」

 ホルスのわきから幼い少女が現れて、私の寝台にすがりつく。

真理女神マアトまで……だめよ、風邪がうつったら大変」

「あたちは見た目は幼いでちゅけど、神様だから風邪はひきまちぇんよ」

 あぁ、そうだった……ダメだわ、頭が働いてない。

「ほら、もう寝なよ」

 アヌビスがぶっきらぼうに亜麻布をかけてくれた。

「うん……もう一回寝る……」

「よく休むでちゅよ」

「また来る」

 隼兄妹きょうだいが鳥型になり、窓から去っていく。空の深さに彼らが吸いこまれていくのを見守ると……どうしよう、なんだか心細くなるわ。

 ……本当にまた来てくれるかな。

 小さい頃、私の周りにはたくさんお友だちがいた。でも、今は誰もいない。そんな風にホルスたちも消えていかないよね?

「ねぇ、ウヌト」

「どうしたの? アルシノエったら、なんだか泣きそうよ?」

「私が眠るまで、手を握っていてほしいの……」

「あら……もちろんよ、寝ている間中、ずっと離さないわ」

 ありがとうと言って、私はまた眠りの世界に落ちていった。


 ──ひどいよイアフ! なんで私のお友だちに意地悪するの!?

 ──アヌ、聞いて……今度はメリトちゃんがしたのよ……もう一緒に遊んでくれないわ。

 ──イアフがね、みんなにデタラメばっかり吹きこむの。私が裏で人の悪口言ってるって……ねぇ、どうしてみんなそれを信じちゃうのかなぁ……。

 ──うん、私もういいの。アヌたちがいれば幸せよ。それでね、立派なファラオになるわ。お友だちと遊んでるひまなんかないわよね……たくさんお勉強しなきゃいけないんだもの。


 あ、夢……。

 私は重たいまぶたでゆっくりとまばたきした。

 小さな頃の夢だった……。嫌だわ、もう忘れたと思っていたのに。高熱のせいで余計なことを思い出しちゃった。

 でも少し体が楽になった気がする。熱が下がってきたのかしら。

 あら? ウヌトったら、あれからずっと手を握っていてくれたんだわ。疲れたでしょうね、悪いことをお願いしちゃった。

 私の手を握る彼女の手を、じっと見つめる。なんだかすごく安心する。誰かがそばにいてくれるって、本当に嬉しいことだわ。

 その手は大きくて、ゴツゴツしていて、いかにもたよりがいが……ん? ウヌトの手ってこんなに男らしかったかしら?

「陛下、お目覚めですか?」

 ……!?

 心臓ががった。こ、この声……そして、私の手を握っている、たくましい手……ま、まさか……?

 おそるおそる声の主を見上げる。少し困ったような表情で、こちらを見つめている彼は──。

「ティ……ティズカール様……?」


◇◆◇


 聖河ナイル見学から戻った晩、俺はメジェド君に陛下の病の件を伝えた。

「ただの風邪ではないか、とのことでしたが……心配です」

 俺が眉をひそめると、メジェド君の眉間の布にもしわが寄る。

「ふむ、働きすぎじゃの。これはいに行かねばならんな」

 椅子にもたれた俺の周囲で、従者たちがきびきびと働いている。一番若くて長身のネイハムが、コップに水を注ぎながらメジェド君の方をチラチラ見ていた。

「まさかティズ様を、また陛下の寝室に忍びこませようなんて思ってないですよね?」

「失礼じゃな、今回は正々堂々真正面からとつにゅうする好機であるぞ」

 と、突入……?

「婿がびょうしょうの妻を見舞わないでどうする? 行かない方がティズ君の立場を悪くさせるぞ」

「なるほど……たしかにおっしゃる通りかもしれませんね」

 俺のサンダルを脱がせながら、一番がらな従者のルツがうなった。

「では見舞いの手配を。まずは神官方との調整でしょうか」

 中肉中背でサラサラ髪の従者イサヤが俺の肩をほぐしながら考えている。

「あのさ、みんな……」

 隣にネイハム、足もとにルツ、背後にイサヤと囲まれながら、俺は一応言ってみる。

「そうやって何もかも世話してくれなくていいよ? サンダルくらい自分で脱げるし。だいたい、実家マルトゥでは全部自分でやってただろ?」

「「「ダメです!」」」

 三人同時にいきり立って、ものすごいけんまくでにらまれた。

「ティズ様は大国の婿様らしくえらそうにしててください!」

「ていうか俺たちティズ様のお世話くらいしかすることないんですから!」

「仕事を奪わないでくださいよ!」

「は、はい……」

 三人の勢いに負けてしまった。

 でも、彼らの気持ちはよく分かる。やるべき仕事がないのはつらい。

 そもそも彼らは俺の従者であると同時に、隊商で働く部下でもあった。ちょう簿の管理、仕入れや宿の手配、各都市の情報収集。有能で使いでのある若者たちだ。

 なのに、今はこのありさま……サンダル脱がすとか……ほんと申し訳ない。

「では我は黒犬神アヌビスに話をつけておく。従者ABCは人間界での手続きを進めてくれ」

「えーびーしー?」

 俺も三人も聞き慣れない言葉に反応した。

「小さい方が従者A、中くらいが従者B、大きいのが従者Cじゃ。〝モブ〟の区別としてはいっぱんてきじゃろ」

「いや、意味が分かりません!」

「俺たちちゃんと名前がありますからね!」

「ていうか〝もぶ〟ってなんですか!? よく分からないのにバカにされてる気がするのはなぜ!?」

 わはは、と笑ってメジェド君はすそをフリフリと揺らしながらどこかへ消えていった。


 陽が落ちてしゅうしんの準備が整った頃、メジェド君はまたペタペタと足音を立てながら現れた。いつも物陰から突然ヌッと顔を出すので、最初の頃はよく驚いたものだ。

「ティズ君、話は通しておいた。だが、思ったよりも嬢の風邪はしつこいようじゃ。もう少し熱が下がったら来てくれとのことでな」

 寝台に腰かけた俺の隣にメジェド君も座りこんだ。

「陛下は大丈夫なんでしょうか?」

「まぁ、命に関わるような病状ではなさそうじゃったよ。流行はやりやまいうわさも聞かぬし」

 というわけで、とメジェド君は背すじを伸ばした。

「ティズ君には我が国の見舞いの作法を教えねばならんな」

「見舞いの作法……それはぜひ教えていただかなければ」

 居住まいを正すと、メジェド君の目がカッと大きくなった。

「まず、相手をづかうことが先決じゃ。そう、体温をはからねばならない」

 たしかにそうだな……熱をかくにんする、と。

「その時に、エジプトでは、自分のひたいと病人のひたいを合わせるのだ。自分より熱があればそれですぐ分かる」

 ……ひたいと……ひたい。

「そ、そんなことをするのですか?」

 うむ、と重々しくメジェド君がうなずく。

「手でさわるのではダメなのでしょうか?」

「非常識である! 検温はおでこ! これがエジプトの常識じゃ!!」

 そ、そうなのか? いっしゅん疑ってしまったが、たしかにこの国の風習が自分になじまないことはよくある。

 たとえば服装。どんなに暑くても、俺はこの国の露出が多いころもをまとうのにていこうがある。どうにも落ち着かないのだ。だから今でも実家マルトゥから持参した服を着て過ごしてしまう。

「わかりました、ひたいで検温、ですね」

「そうじゃ。なんなら我のひたいで練習しておくか?」

「そ……それはけっこうです」


 翌日、陽が落ちかけてすずしくなった夕方、正式な手続きにのっとって、俺はファラオの私室を訪問した。もちろん従者は入室できない。彼らを廊下に待たせて部屋の扉を軽く叩く。

「ようこそ、お待ちしておりました」

 出迎えてくれたのは、豊かな黒髪が美しい女性だった。その頭から兎のような黒い耳がのびていて、俺は少し驚く。そうか、この方が陛下の身の回りのお世話をしているという黒兎の女神様か。

「お初にお目にかかります、ティズカールと申します。本日はご無礼ながらも……」

「あら、それは何?」

 挨拶をさえぎって、彼女は俺が持参した見舞いの品に興味を示した。

「オリーブの枝を束ねてお持ちしました。ちょうど白い花が美しくいておりましたので」

「まぁ素敵!」

 彼女は大げさに喜びながら花束を受け取り、部屋に飾るわと耳をぴょこぴょこ揺らした。そして奥の部屋、陛下の寝台のわきまで案内して、椅子まで用意してくれる。

「さぁ、ごゆっくりなさって。私は隣室におりますから、何かあったらお呼びください」

 綿毛みたいな尻尾をフリフリさせながら女神が去っていくと、俺は陛下と二人きりになってしまった。静かに腰をおろす。

「陛下、ティズカールです。お見舞いに参じました」

 寝台のそばでささやくようにお声をかけたが、聞こえてくるのは小さな寝息だけ。彼女は俺に背を向けて、よくお眠りになっているようだった。

 りょうしょうを得たとはいえ、眠っている女性の部屋に踏みこんでしまったのはかなり罪悪感があるな……。

「うぅん」

 陛下は少しうなされたように声をもらすと、こちらに向けて寝返りをうった。

 ついお顔をまじまじと見つめてしまう。熱でやや上気し、汗で前髪がひたいにりついていた。口を少しだけ開けて、静かに呼吸している。化粧気のないお顔は若々しく、そしてあまりに無防備すぎた。

 あぁ、陛下はまだお若いのだ。そんな当たり前のことにやっと思い至ると、熱で苦しむ姿が余計に痛ましい。せめて汗だけでもぬぐってさしあげようと手を伸ばし──。

 その手をつかまれてしまった。陛下が俺の手を強く握り、放してくださらない。

 いったいどうするべきだろうか。

 握られた手をほどくことができない。起こしてしまうかもしれないし……それに、握る力があまりに必死だったから。

 このままにしていよう。俺は腹をくくることにした。

 勝手にお手にふれるだなんてあまりにも無礼だ。お怒りを受けることも十分考えられる。

 でも、お眠りになっている陛下のお心が安らぐなら──それこそが夫の務めだろう?


◇◆◇


 熱にうなされて目が覚めたら、なぜか隣にティズカール様がいた。寝台に寄り添うように椅子に腰かけ、こちらを見つめていらっしゃる。

 私、熱で頭がおかしくなってしまったのかしら? 黒兎女神ウヌトに手を握っていてってお願いしたのに。

 ん、手?

 ああ! 私、ティズカール様のお手を握ってるじゃない!? これまで手を握るどころか、お召し物のすそにすらふれたことがなかったのに!

 私は慌てて彼の手を振り払ってしまった。いけない、これじゃ失礼よ!

「陛下、申し訳ございません」

 けれど、混乱する私よりも先に彼が頭を下げた。

「勝手にお体にふれるつもりはなかったのです。ただ、うなされた陛下に手を握られて……その、離れることができなかったものですから……」

 ちょっ、それって要するに私がティズカール様のお手を握って放さなかったってことですか!?

「ご不快に思われても仕方がないとは思うのですが……隣室にウヌト様もいらっしゃいますし、ちかってらちこうはしておりません」

 彼はきっぱりと言い切って一礼した。

「とりあえず、陛下が無事お目覚めになって安心いたしました」

 そう言って、ふいに彼は大きな手を私のおでこに伸ばした。驚いて固まっているうちに、前髪が優しくかきあげられ、その仕草に今度は息が止まってしまう。

 え……?

 さらにティズカール様は、おおいかぶさるようにお顔を私のおでこに近づけてきて──。

 えぇぇぇぇ!?

 彼のたんせいなお顔が、文字通り私の目と鼻の先に差し出され──。

 こつん。

 おでことおでこがふれあった。

 ……っ!?


 ちょっ、ちょっと待って! お顔が近っ──カッコよすぎ……! いやそれよりもいきがかかって、心臓が……は、れつする!!

 な、なんで!? どうしてティズカール様ったらこんなことを!?

「陛下、お熱がまだ下がっていらっしゃらないようですね」

 鼻先がぶつかりそうなその距離のまま彼が眉をひそめる。あぁ、心配してくださっているのだわ。ティズカール様は本当にお優しい方……そんなところが私は好きでたまらない。

 でも、でも。

 ──今、体温が上がっているのはあなたのせいですけど!!

 このまま高熱と心臓破裂で死ぬわけにはいかない。私は決死の思いで彼の体を押し返した。

「ティズカール殿どの……あの……お顔が、近すぎます」

 彼はハッとしたように私の瞳を見る。みるみるうちにそのお顔がしゅに染まっていった。

「も、申し訳ございませんっ! あの、これは、その、陛下のお熱を確かめようと思っただけで!」

 はじけ飛ぶように彼がのけぞって、やっと私は解放された。

 そうよね、熱よね、熱をはかろうと……ってなんで熱をはかるだけでそんなに近づくのよぉ! 嬉しいけど、嬉しいけどっ! なんなのもうティズカール様ってどうしてとうとつに大胆になっちゃうの!?

「お、おそろしい不敬を働き、申し訳ございません。いかようにも処分をお受けいたします……!」

 ん? 処分?

 床にひざまずいてうなじを差し出す彼は、まるで兎夫婦ウヌウヌみたいになってしまっている。

 そこでやっと気がついた。私、目が覚めてからろくにしゃべってない。これじゃ怒っていると誤解されても仕方がないわ!

 そうよアルシノエ、ファラオだからってお高くとまってると思われちゃダメ! 何か言わなくちゃ!

「あの……」

「はい」

「その……」

「なんなりとお申しつけください」

 ええ、言いたいわ……言いたいんだけど……どうしてか言葉が出てこないのよ。おかしい、アヌたちの前とか会議の場ではあんなにスラスラ話せるのに、どうして今は何も言えないの。

 胸がドキドキして、手が震える。知らなかった、おそばにいるだけできんちょうするけど、お話ししようとするともっとダメになってしまうのね。

 とりあえず怒ってないことだけでも伝えなきゃ! がんるのよ、アルシノエ!

「わ、わたくし……あの……お、怒って、いない、です」

 !? カタコト!? どこにいったの、いつもの賢い私は!?

 あぁ、ティズカール様ったらなんでそんなキョトンとしたお顔をしてらっしゃるの? 私、そんなに変だったかしら? そうよね、変よね。まともに会話もできなくて。

 恥ずかしくって情けなくって、消えてしまいたくなって、私は亜麻布を頭までかぶった。

 ベソベソとなげいていると、くすり、と小さく笑う声が聞こえてきた。そのおだやかなこわにひかれて、私はそろりと顔だけを出してみる。

 そこには、やわらかく微笑ほほえむティズカール様がいた。

「アルシノエ様は……可愛らしいお方なんですね」

 あ、そのがお……。

 体の奥がどうしようもなくぎゅっとなった。

 ──花が咲くように笑う人。

 そうよ、私、この笑顔に惹かれて彼を好きになったの。

 あたたかい眼差しを私に向けてほしくて。

 私だけに微笑んでほしくて──。

「ど、どうされました?」

 ティズカール様が腰をかして焦りだす。

 ぽろぽろと私の頰を伝うものが亜麻布をらしていた。

 あぁ、どうしよう。私、泣いているんだわ。

 夢が叶ったから、あんまりに嬉しくって。

 ティズ様はおそるおそるというように私の頭に手をのせた。そしてぽんぽんと優しい仕草で頭をなでて、私をなぐさめてくださる。

「何か悲しいことがおありですか」

 彼の手のひらからぬくもりが伝わってくる。なんてあたたかい気遣いなんだろう。

 私はふるふると首を振った。

 幸せだから泣いているのです、とお伝えしたかったけど……まだそれはできない。だってイアフメスの目が怖いから。だから今は精いっぱいの感謝の気持ちをお贈りしよう。

「ティズカール殿……お見舞いに来てくださって、本当にありがとうございました」


◇◆◇


 お見舞いにうかがってよかった。陛下の私室を辞した俺は、どことなく安らいだ気持ちでいた。お熱は残っていらっしゃったが、病状はそこまで悪くないようで安心した。それに、自然体の陛下とゆっくりお話しできたことに、夫としての喜びを感じずにはいられない。

 急いで亜麻布をかぶってしまわれたご様子も、発熱の心細さのせいか涙をこぼされたことも、そっちょくなありがとうの言葉も、ごく普通の女の子のもので、

 ──可愛らしいな。

 あの偉大な陛下のことをそう思っている自分がいた。

 メジェド君の言葉を思い出す。

 ──ファラオは〝神のまきびと〟。

 十八歳の女の子がいただくには、あまりに重いおうかん

 彼女は部屋の外では精いっぱいきょせいを張っていらっしゃるのかもしれない。けれど、きっとありのままの彼女は──ただの一人の女の子なんだ。

 これまで彼女におびえていた自分がこっけいに思えてきて、俺は小さく笑いをもらした。

 そう、俺は大いに満足していたのだが……。

「み、みんなどうした?」

 俺の戻りを廊下で待っていた従者三人組が、一様に肩をズドンと落としている。そして俺の顔を見るなりわっと飛びついてきた。

 その目が、血走っている。

「ティズ様!」

「は、はい!」

「お見舞いはどうでしたか!?」

「ど、どうって? いや、陛下のご体調が改善に向かっているようで安心し……」

「なにをゆうちょうなことをおっしゃっているんです!」

「えぇ!?」

「そうですよ、アホなガキみたいなこと言わないでください!」

 三人ににじり寄られる理由がまったく分からない。ていうか今、アホとかガキとか言われなかったか?

 彼らの勢いで俺は廊下のかべぎわに追いつめられてしまった。

 ま、まさかこれは──秘技〝かべどん〟!? どうしよう、なんか変な気持ちになるぞ!

 一方三人の勢いは止まらない。長身のネイハムが、すごむような声でぼそりと言った。

「ティズ様……? もちろん接吻ちゅーくらいしましたよね?」

 はぁっ!?

「それよりもしちゃいましたよね?」

 はぁぁぁぁぁぁ!?

「ど……どうしたんだ? 今日はお見舞いだぞ。病床の陛下にそんな……」

「「「ああああああああああ」」」

 俺がまっとうに否定すると、三人はそろって床に崩れ落ちた。


◇◆◇


 翌日、熱が下がってファラオの仕事に戻れば、やることが山積みになっていた。

 うぐぐ、みあがりなのにゆっくり休む暇なんてないわね。でももう大丈夫、いつものアルシノエに戻ったんだから。ううん、むしろティズカール様のお見舞いのおかげで、病気前より元気になった気がするくらいよ!

「こほんっ!」

 おくの中の夫君の笑顔にひたっていた私を神官のせきばらいが現実に引き戻した。まずいわ、ちょうの最中だった!

「陛下が無事お戻りになって、神官一同胸をなでおろしております」

 神官たちがそろって頭を下げる。もちろん一段高い玉座の私に向かってね。

 石床にむしろをいた彼らの定位置で、ひとりの神官が顔をあげた。あぁ、黒犬神アヌビスまつる神殿の神官長ね。

 五十過ぎの彼は、赤黒い顔に刈り上げたしらの対比が印象的なのよね。だからアヌと〝紅白おじじ〟ってあだ名をつけて呼んでるんだけど(もちろん本人にはないしょよ)。

「陛下、今回は無事ご回復なされましたが──ままならぬことが世の常。たいの名君といえど、必ずしも病に打ち勝てるとは限りません」

 あーぁ、お説教かぁ。長くなるのかしら、嫌ねぇ。

「〝名君はくめい〟という言葉もございます。ですので、陛下」

 彼は白い眉をつり上げ、重いまぶたをかぶった瞳で私を直視した。な、なによ、怖いわね……。

「はやくおぎをおつくりになってくださいませ」

 なんだ、そんなことね、はいはい。

 ん……? お世継ぎ……?

「まこと無礼なことを申し上げますが、婿様の夜のお渡りがないことを我々は存じております」

 えぇっ!?

 驚く私の耳に、神官たちのひそひそと話す声が届く。

(夜の役に立たぬ婿など、不要ではないか?)

(見舞いでしか招かれないとは、情けない婿だ)

(やはり異国の男は頼りにならん)

「もしあの小国の婿が気に入らぬのであれば、別の者を用意いたしましょう」

 はぁ!?

「一日でもはやくお世継ぎをおつくりになり、我々を安心させてくださいませ」

 はぁぁぁぁ!?



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