③
◇◆◇
この夏、
例年、
もちろん、
私はいつにも増してバリバリ働き、神々の肩をもみ、あとはひたすら眠る。そんな
あ、でもね、最近は毎朝中庭でティズカール様とご
だって、
というのも、このところ
私の歩く先々に犬のふんを
これがもう十八にもなった立派な王族のすることかしら!?
とはいえ、公務と嫌がらせの波状
「ひどいお熱ねぇ……」
「ごめんねぇウヌウヌ」
「いやだアルシノエ、何を謝ってるのかしら?」
「そうだよ、さぁ、薬パンを食べて」
熱で気弱になった心に、二人の優しさがしみる。アヌビスも私の足もとにずっとうずくまってくれている。
人間の友だちがいない私にとって、いつでもそばにいてくれるこの三人の神様は心の支えだ。病気の時は、特に強くそう思ってしまう。
困ったことに、それから夜が明けても熱は下がらなかった。もう一日寝台でうんうんうなって牛乳にひたした薬パンを食べて寝て、それでも熱が引かない。
どうしよう、三日も寝こんでいるじゃない。公務に遅れが出てしまう。
それにこの風邪のせいで、しばらくティズカール様のお顔を拝見していないのよ。このままじゃ心が
「大丈夫か、アルシノエ?」
ぐったりと眠りに落ちて目を覚ますと、めずらしく
そりゃあそうよね、先代の
「やだなぁ……ちょっと熱が出ただけよ」
「そうだな、大丈夫だな」
そう言いながら彼は
「食欲が出てきたら、消化にいいものを作ろう。俺の火力の見せどころだ」
「ありがと。でも今はいらないわ……今度、甘い
熱でボーッとしながらホルスの
「アルシノエ、しっかりするでちゅ」
ホルスのわきから幼い少女が現れて、私の寝台にすがりつく。
「
「あたちは見た目は幼いでちゅけど、神様だから風邪はひきまちぇんよ」
あぁ、そうだった……ダメだわ、頭が働いてない。
「ほら、もう寝なよ」
アヌビスがぶっきらぼうに亜麻布をかけてくれた。
「うん……もう一回寝る……」
「よく休むでちゅよ」
「また来る」
隼
……本当にまた来てくれるかな。
小さい頃、私の周りにはたくさんお友だちがいた。でも、今は誰もいない。そんな風にホルスたちも消えていかないよね?
「ねぇ、ウヌト」
「どうしたの? アルシノエったら、なんだか泣きそうよ?」
「私が眠るまで、手を握っていてほしいの……」
「あら……もちろんよ、寝ている間中、ずっと離さないわ」
ありがとうと言って、私はまた眠りの世界に落ちていった。
──ひどいよイアフ! なんで私のお友だちに意地悪するの!?
──アヌ、聞いて……今度はメリトちゃんが
──イアフがね、みんなにデタラメばっかり吹きこむの。私が裏で人の悪口言ってるって……ねぇ、どうしてみんなそれを信じちゃうのかなぁ……。
──うん、私もういいの。アヌたちがいれば幸せよ。それでね、立派な
あ、夢……。
私は重たいまぶたでゆっくりと
小さな頃の夢だった……。嫌だわ、もう忘れたと思っていたのに。高熱のせいで余計なことを思い出しちゃった。
でも少し体が楽になった気がする。熱が下がってきたのかしら。
あら? ウヌトったら、あれからずっと手を握っていてくれたんだわ。疲れたでしょうね、悪いことをお願いしちゃった。
私の手を握る彼女の手を、じっと見つめる。なんだかすごく安心する。誰かがそばにいてくれるって、本当に嬉しいことだわ。
その手は大きくて、ゴツゴツしていて、いかにも
「陛下、お目覚めですか?」
……!?
心臓が
おそるおそる声の主を見上げる。少し困ったような表情で、こちらを見つめている彼は──。
「ティ……ティズカール様……?」
◇◆◇
「ただの風邪ではないか、とのことでしたが……心配です」
俺が眉をひそめると、メジェド君の眉間の布にもしわが寄る。
「ふむ、働きすぎじゃの。これは
椅子にもたれた俺の周囲で、従者たちがきびきびと働いている。一番若くて長身のネイハムが、コップに水を注ぎながらメジェド君の方をチラチラ見ていた。
「まさかティズ様を、また陛下の寝室に忍びこませようなんて思ってないですよね?」
「失礼じゃな、今回は正々堂々真正面から
と、突入……?
「婿が
「なるほど……たしかにおっしゃる通りかもしれませんね」
俺のサンダルを脱がせながら、一番
「では見舞いの手配を。まずは神官方との調整でしょうか」
中肉中背でサラサラ髪の従者イサヤが俺の肩をほぐしながら考えている。
「あのさ、みんな……」
隣にネイハム、足もとにルツ、背後にイサヤと囲まれながら、俺は一応言ってみる。
「そうやって何もかも世話してくれなくていいよ? サンダルくらい自分で脱げるし。だいたい、
「「「ダメです!」」」
三人同時にいきり立って、ものすごい
「ティズ様は大国の婿様らしく
「ていうか俺たちティズ様のお世話くらいしかすることないんですから!」
「仕事を奪わないでくださいよ!」
「は、はい……」
三人の勢いに負けてしまった。
でも、彼らの気持ちはよく分かる。やるべき仕事がないのはつらい。
そもそも彼らは俺の従者であると同時に、隊商で働く部下でもあった。
なのに、今はこのありさま……サンダル脱がすとか……ほんと申し訳ない。
「では我は
「えーびーしー?」
俺も三人も聞き慣れない言葉に反応した。
「小さい方が従者A、中くらいが従者B、大きいのが従者Cじゃ。〝モブ〟の区別としては
「いや、意味が分かりません!」
「俺たちちゃんと名前がありますからね!」
「ていうか〝もぶ〟ってなんですか!? よく分からないのにバカにされてる気がするのはなぜ!?」
わはは、と笑ってメジェド君はすそをフリフリと揺らしながらどこかへ消えていった。
陽が落ちて
「ティズ君、話は通しておいた。だが、思ったよりも嬢の風邪はしつこいようじゃ。もう少し熱が下がったら来てくれとのことでな」
寝台に腰かけた俺の隣にメジェド君も座りこんだ。
「陛下は大丈夫なんでしょうか?」
「まぁ、命に関わるような病状ではなさそうじゃったよ。
というわけで、とメジェド君は背すじを伸ばした。
「ティズ君には我が国の見舞いの作法を教えねばならんな」
「見舞いの作法……それはぜひ教えていただかなければ」
居住まいを正すと、メジェド君の目がカッと大きくなった。
「まず、相手を
たしかにそうだな……熱を
「その時に、エジプトでは、自分のひたいと病人のひたいを合わせるのだ。自分より熱があればそれですぐ分かる」
……ひたいと……ひたい。
「そ、そんなことをするのですか?」
うむ、と重々しくメジェド君がうなずく。
「手でさわるのではダメなのでしょうか?」
「非常識である! 検温はおでこ! これがエジプトの常識じゃ!!」
そ、そうなのか?
たとえば服装。どんなに暑くても、俺はこの国の露出が多い
「わかりました、ひたいで検温、ですね」
「そうじゃ。なんなら我のひたいで練習しておくか?」
「そ……それはけっこうです」
翌日、陽が落ちかけて
「ようこそ、お待ちしておりました」
出迎えてくれたのは、豊かな黒髪が美しい女性だった。その頭から兎のような黒い耳がのびていて、俺は少し驚く。そうか、この方が陛下の身の回りのお世話をしているという黒兎の女神様か。
「お初にお目にかかります、ティズカールと申します。本日はご無礼ながらも……」
「あら、それは何?」
挨拶をさえぎって、彼女は俺が持参した見舞いの品に興味を示した。
「オリーブの枝を束ねてお持ちしました。ちょうど白い花が美しく
「まぁ素敵!」
彼女は大げさに喜びながら花束を受け取り、部屋に飾るわと耳をぴょこぴょこ揺らした。そして奥の部屋、陛下の寝台のわきまで案内して、椅子まで用意してくれる。
「さぁ、ごゆっくりなさって。私は隣室におりますから、何かあったらお呼びください」
綿毛みたいな尻尾をフリフリさせながら女神が去っていくと、俺は陛下と二人きりになってしまった。静かに腰をおろす。
「陛下、ティズカールです。お見舞いに参じました」
寝台のそばでささやくようにお声をかけたが、聞こえてくるのは小さな寝息だけ。彼女は俺に背を向けて、よくお眠りになっているようだった。
「うぅん」
陛下は少しうなされたように声をもらすと、こちらに向けて寝返りをうった。
ついお顔をまじまじと見つめてしまう。熱でやや上気し、汗で前髪がひたいに
あぁ、陛下はまだお若いのだ。そんな当たり前のことにやっと思い至ると、熱で苦しむ姿が余計に痛ましい。せめて汗だけでもぬぐってさしあげようと手を伸ばし──。
その手をつかまれてしまった。陛下が俺の手を強く握り、放してくださらない。
いったいどうするべきだろうか。
握られた手をほどくことができない。起こしてしまうかもしれないし……それに、握る力があまりに必死だったから。
このままにしていよう。俺は腹をくくることにした。
勝手にお手にふれるだなんてあまりにも無礼だ。お怒りを受けることも十分考えられる。
でも、お眠りになっている陛下のお心が安らぐなら──それこそが夫の務めだろう?
◇◆◇
熱にうなされて目が覚めたら、なぜか隣にティズカール様がいた。寝台に寄り添うように椅子に腰かけ、こちらを見つめていらっしゃる。
私、熱で頭がおかしくなってしまったのかしら?
ん、手?
ああ! 私、ティズカール様のお手を握ってるじゃない!? これまで手を握るどころか、お召し物のすそにすらふれたことがなかったのに!
私は慌てて彼の手を振り払ってしまった。いけない、これじゃ失礼よ!
「陛下、申し訳ございません」
けれど、混乱する私よりも先に彼が頭を下げた。
「勝手にお体にふれるつもりはなかったのです。ただ、うなされた陛下に手を握られて……その、離れることができなかったものですから……」
ちょっ、それって要するに私がティズカール様のお手を握って放さなかったってことですか!?
「ご不快に思われても仕方がないとは思うのですが……隣室にウヌト様もいらっしゃいますし、
彼はきっぱりと言い切って一礼した。
「とりあえず、陛下が無事お目覚めになって安心いたしました」
そう言って、ふいに彼は大きな手を私のおでこに伸ばした。驚いて固まっているうちに、前髪が優しくかきあげられ、その仕草に今度は息が止まってしまう。
え……?
さらにティズカール様は、
えぇぇぇぇ!?
彼の
こつん。
おでことおでこがふれあった。
……っ!?
ちょっ、ちょっと待って! お顔が近っ──カッコよすぎ……! いやそれよりも
な、なんで!? どうしてティズカール様ったらこんなことを!?
「陛下、お熱がまだ下がっていらっしゃらないようですね」
鼻先がぶつかりそうなその距離のまま彼が眉をひそめる。あぁ、心配してくださっているのだわ。ティズカール様は本当にお優しい方……そんなところが私は好きでたまらない。
でも、でも。
──今、体温が上がっているのはあなたのせいですけど!!
このまま高熱と心臓破裂で死ぬわけにはいかない。私は決死の思いで彼の体を押し返した。
「ティズカール
彼はハッとしたように私の瞳を見る。みるみるうちにそのお顔が
「も、申し訳ございませんっ! あの、これは、その、陛下のお熱を確かめようと思っただけで!」
そうよね、熱よね、熱をはかろうと……ってなんで熱をはかるだけでそんなに近づくのよぉ! 嬉しいけど、嬉しいけどっ! なんなのもうティズカール様ってどうして
「お、おそろしい不敬を働き、申し訳ございません。いかようにも処分をお受けいたします……!」
ん? 処分?
床にひざまずいてうなじを差し出す彼は、まるで
そこでやっと気がついた。私、目が覚めてからろくにしゃべってない。これじゃ怒っていると誤解されても仕方がないわ!
そうよアルシノエ、
「あの……」
「はい」
「その……」
「なんなりとお申しつけください」
ええ、言いたいわ……言いたいんだけど……どうしてか言葉が出てこないのよ。おかしい、アヌたちの前とか会議の場ではあんなにスラスラ話せるのに、どうして今は何も言えないの。
胸がドキドキして、手が震える。知らなかった、おそばにいるだけで
とりあえず怒ってないことだけでも伝えなきゃ!
「わ、わたくし……あの……お、怒って、いない、です」
!? カタコト!? どこにいったの、いつもの賢い私は!?
あぁ、ティズカール様ったらなんでそんなキョトンとしたお顔をしてらっしゃるの? 私、そんなに変だったかしら? そうよね、変よね。まともに会話もできなくて。
恥ずかしくって情けなくって、消えてしまいたくなって、私は亜麻布を頭までかぶった。
ベソベソと
そこには、やわらかく
「アルシノエ様は……可愛らしいお方なんですね」
あ、その
体の奥がどうしようもなくぎゅっとなった。
──花が咲くように笑う人。
そうよ、私、この笑顔に惹かれて彼を好きになったの。
あたたかい眼差しを私に向けてほしくて。
私だけに微笑んでほしくて──。
「ど、どうされました?」
ティズカール様が腰を
ぽろぽろと私の頰を伝うものが亜麻布を
あぁ、どうしよう。私、泣いているんだわ。
夢が叶ったから、あんまりに嬉しくって。
ティズ様はおそるおそるというように私の頭に手をのせた。そしてぽんぽんと優しい仕草で頭をなでて、私をなぐさめてくださる。
「何か悲しいことがおありですか」
彼の手のひらからぬくもりが伝わってくる。なんてあたたかい気遣いなんだろう。
私はふるふると首を振った。
幸せだから泣いているのです、とお伝えしたかったけど……まだそれはできない。だってイアフメスの目が怖いから。だから今は精いっぱいの感謝の気持ちをお贈りしよう。
「ティズカール殿……お見舞いに来てくださって、本当にありがとうございました」
◇◆◇
お見舞いに
急いで亜麻布をかぶってしまわれたご様子も、発熱の心細さのせいか涙をこぼされたことも、
──可愛らしいな。
あの偉大な陛下のことをそう思っている自分がいた。
メジェド君の言葉を思い出す。
──
十八歳の女の子が
彼女は部屋の外では精いっぱい
これまで彼女に
そう、俺は大いに満足していたのだが……。
「み、みんなどうした?」
俺の戻りを廊下で待っていた従者三人組が、一様に肩をズドンと落としている。そして俺の顔を見るなりわっと飛びついてきた。
その目が、血走っている。
「ティズ様!」
「は、はい!」
「お見舞いはどうでしたか!?」
「ど、どうって? いや、陛下のご体調が改善に向かっているようで安心し……」
「なにを
「えぇ!?」
「そうですよ、アホなガキみたいなこと言わないでください!」
三人ににじり寄られる理由がまったく分からない。ていうか今、アホとかガキとか言われなかったか?
彼らの勢いで俺は廊下の
ま、まさかこれは──秘技〝かべどん〟!? どうしよう、なんか変な気持ちになるぞ!
一方三人の勢いは止まらない。長身のネイハムが、
「ティズ様……? もちろん
はぁっ!?
「それよりもっとすごいこともしちゃいましたよね?」
はぁぁぁぁぁぁ!?
「ど……どうしたんだ? 今日はお見舞いだぞ。病床の陛下にそんな……」
「「「ああああああああああ」」」
俺がまっとうに否定すると、三人はそろって床に崩れ落ちた。
◇◆◇
翌日、熱が下がって
うぐぐ、
「こほんっ!」
「陛下が無事お戻りになって、神官一同胸をなでおろしております」
神官たちがそろって頭を下げる。もちろん一段高い玉座の私に向かってね。
石床にむしろを
五十過ぎの彼は、赤黒い顔に刈り上げた
「陛下、今回は無事ご回復なされましたが──ままならぬことが世の常。
あーぁ、お説教かぁ。長くなるのかしら、嫌ねぇ。
「〝名君
彼は白い眉をつり上げ、重いまぶたをかぶった瞳で私を直視した。な、なによ、怖いわね……。
「はやくお
なんだ、そんなことね、はいはい。
ん……? お世継ぎ……?
「まこと無礼なことを申し上げますが、婿様の夜のお渡りがないことを我々は存じております」
えぇっ!?
驚く私の耳に、神官たちのひそひそと話す声が届く。
(夜の役に立たぬ婿など、不要ではないか?)
(見舞いでしか招かれないとは、情けない婿だ)
(やはり異国の男は頼りにならん)
「もしあの小国の婿が気に入らぬのであれば、別の者を用意いたしましょう」
はぁ!?
「一日でもはやくお世継ぎをおつくりになり、我々を安心させてくださいませ」
はぁぁぁぁ!?
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