第1章 ファラオの暑い夏

 我が国エジプトはばくの大国。聖河ナイルの流れにって造営された都の中央に、ファラオである私の住まうきゅう殿でんがある。

「ふわぁ、今日はつかれたわ」

「お疲れ様、アルシノエ」

 の背にぐったりもたれて大あくびする私に、黒犬神アヌビスおうぎで風を送ってくれた。お仕事は終わったし、しんしつだし、ついだらしなくなってしまうわ。

ケアトのうかんこそファラオいそがしくなるもんな」

「そうよ、放っておけばたみが一日中畑に出る季節とはちがうんだから」

 毎年、ほうじょうの星ソティスの朝出とともに聖河ナイルの増水が始まって、我が国エジプトには大いなるめぐみがもたらされる。

 たっぷり四ヶ月続く増水は、川上から養分豊富な黒土を運んでくれる。そのおかげで砂漠の真ん中にもれた我が国でも麦が育つ。これが〝エジプトは聖河ナイルたまもの〟と言われるえんなのだ。

 水が引くと季節はペレトへと移る。暑さが多少やわらいだこの時期に、民は麦の種まきを始め、その四ヶ月後の乾季シェムウれ時。

 ケアトペレト乾季シェムウ。この三つの季節がめぐると、また新しいケアト。これが我が国エジプトの一年だ。

 頭の中でこれから来るケアトのお仕事を整理しながら、じょうの手鏡に手をばして、私はとんでもないことに気づいてしまった。

「やだっ! さっきティズカール様があんなにお近くにいらっしゃったのに、私ったらこんなにうすしょうだったのね!」

 それはつい先刻のこと。ファラオとしての務めを終えて自室にもどった私のもとに、愛する夫君、ティズカール様が現れたのだ。完全に不意打ちで、身だしなみを整えることすらできなかった。くやしいわ、公務でお顔を合わせる時は化粧も衣服もかんぺきにしてるのに!

「うぅかみもボサボサ……。それでさアヌ、今日の神官たちのそうじょうを聞くと、ケアトの始まりまでに用意することになっていたふねの数がそろってないっていうのよ。あれ、絶対に予算をおうりょうしてるわ。てっていてきに調べてやらなきゃ」

 アヌはかたをすくめる。

「アルシノエってよく二つのことを同時に考えられるよな。さっきからすんごいこわい顔になってるけどだいじょうか?」

「だってこんな情けない姿をティズカール様に見られたかと思うと……」

「え、そっち? 神官の横領の話は?」

 ふんっ、自室にいる時くらいは国のことよりティズカール様のことを考えていたっていいじゃない。

 あらためて手鏡の中の見慣れた顔に向き合った。自分の姿で一番好きなのはひとみの色だ。どこまでもけていく空の色。〝天上のターコイズ〟なんて大げさにめてもらえることもある。目が大きくてまつ毛が長いのも気に入っている。うん、容姿はそんなに悪くないと思うの。背は……ちょっと低いけど。

「ウヌウヌ〜! 今日もお願い!」

 背後に呼びかけると、しんだいの下からぴょこんぴょこんと二つの小さなかげが現れた。そしてその影──しろうさぎと黒兎が私の胸に飛びこんでくる。

「ふぁ〜気持ちいぃ!」

 二ひききしめその体に顔をうずめて、私はもっふもふのはだざわりをたんのうした。あぁ、このやわらかなさわりごこち……たまらないわ〜いやされる〜。

 なのに、ひとしきり顔をスリスリすると、二匹の体がするりと実体をなくしてしまう。

 えぇ、もう人型に戻っちゃうの!?

 ふわふわとただようかすみの中から現れたのは、私より少しとしうえに見える二人の男女。

「アルシノエ、今日も疲れているわねぇ」

 黒い耳をぴょこぴょこ動かして、色っぽいくちびるに指を添えるのが黒兎のがみ様、ウヌト。

 彼女って全身から色気がムンムンなのよね……どうやったらあんなに胸が大きくなるのかしら。くるくるの黒髪を長く伸ばしているのも、とってもてき

「さ、はやく寝台に横になって。る前のお手入れは僕たちに任せてね」

 白い耳をそよがせているのが、白兎のがみ様、ウヌヌ。いかにも気の弱そうなタレ目で、肌も白くて体も薄い。彼はくせの強い白銀の髪を短くしているんだけど、その頭はまるで鳥の巣……いや、失礼ね、やめましょ。

 二人はふうの神様。名前がややこしいし、いつも二人いっしょだから、私はまとめてウヌウヌって呼ぶことにしてる。

 ウヌウヌは、私の身の回りの世話をしてくれる神様なの。つうファラオといえど神様にそんなことさせないんだけどね。先代──つまり私のパパも、身の回りのことは人間の従者に任せていたもの。

 でも、うさぎふうがやりたいって言ってくれるから、その言葉に甘えることにしてる。歴代のファラオの中でも、私は特に神様に好かれやすい体質なんですって。

 寝台にうつせになると、まずは白兎男神ウヌヌが体をほぐしてくれる。あー固くなった肩と背中が楽になるわぁ。その間に黒兎女神ウヌトつめのお手入れ。甘皮まできれいにしてくれる、ていねいな仕事ぶりよ。最後にウヌトがこうを全身にぬってくれて、その百合ゆりやさしい香りに包まれるとだんだんねむくなってくる。

「アルシノエ、今日の香りはどう? 実は新しく調合したものなのだけど」

「あ、やっぱり? いつもと少し違うなぁと思ってた……」

 眠気をこらえながらモニョモニョと答えていると、ここよさに任せてつい本音がぽろりとこぼれた。

「でも前の方が香りが強くて好きだったかなぁ……」

 ガタン、と大きな音がして、ウヌウヌがゆかに転がった。二人そろって青ざめている。

「そ……そんな!」

「私たち、な、なんてことを……!」

 しまった! 私はあわてて発言をてっかいする。

「あ、ウヌウヌ、違うのよ、別に今日のもきらいじゃ……」

 ぴーんと耳をたて白目をむいた二人は、私の話なんて全ッ然聞いてくれない。

 あぁ私ったら、余計なことを言ったわ。この夫婦、とっても気のいい神様なんだけど、ちょっとのことで自己けん大会を始めちゃうのよね……。

「ウヌヌ、どうしましょう!? 私たちアルシノエになんてひどいことを!」

「あぁ、ウヌト、こうなったら僕たち死してわびるしか……!」

「いや、おこってないのよ。今日の百合油リリノンも大好きよ、だから……」

 ていせいもむなしく、二人は手を取りあってガタガタふるえ始めた。見た目はチグハグな二人なのに性格はそっくり。

「ウヌト、僕たちはしょせん兎だ。こうなったらこの肉体ごとなべに飛びこんで……」

「そうねウヌヌ、グツグツこんでもらいましょう……きっと美味おいしいスープになって、せめてものおわびになるはずよ」

「あぁ、僕たちめいかいでも会えるだろうか!?」

「もちろんよ! 鍋の中でも、そして肉体を失っても、私たちのれいこんはずっと一緒よ!」

「ちょっとやめー! やめなさーい!」

 抱き合ってなみだぐむ二人に割りこんで、私は夫婦を正気に戻した。

「勝手にスープになるんじゃない! だいたい神様がスープになれるわけないでしょうが! それよりも私は肌のお手入れをしてほしいの、それだけだから!」

 でもとか、やっぱりとかモジモジする二人を、アヌも一緒になだめてくれた。

「そうだよ、お前らがスープになったらだれがズボラなアルシノエの世話をするんだよ。お前らにしかできない仕事だろ」

「アヌビス様……」

 ウヌウヌは感激の涙をにじませた。

 人間の見た目ねんれいでいえば、兎夫婦はアヌよりもずいぶん歳上に見えるけど、神々の序列では逆なのよね。アヌはこう見えてだいな神様なのよ。なんといっても死者のたましいしんぱんの場へ導いてくれるのだもの。まぁ、さりげなく私のこと「ズボラ」とか言っちゃうところは生意気って感じだけど。

 こうしてアヌのとりなしもあって、やっとお手入れが再開された。

 百合の香りに包まれながら、私は今日の出来事をふりかえる。

 いったいどうしてティズカール様はとつぜんしのんでいらっしゃったのだろう。でもそのおかげで、あんなに近くでお顔を拝見できたのだ。お言葉には誠意があって……それに、とってもだいたんだった。あんなごういんなところもおありになるのね、そこがまた素敵。

 さすが私がめたお方だわ。

 ふわぁ〜あくびが出ちゃう。ティズカール様も、今ごろお休みになっているのかしら。もしかしたら、私と同じように神様と一緒にごしんじょにいらっしゃるのかも。

 ティズカール様の婿むこりの時、ある神様が彼の守護を買って出てくれたのだ。私は彼のおそばにいられるその神様をうらやましく思いながら、ゆるやかに眠りの世界にしずみこんでいく。

「いいなぁメジェド神は、毎日ティズカール様と一緒で……」


◇◆◇


「ティズカール様! よくぞご無事で!」

 へいのお部屋から自室に戻った俺のもとに、従者たちが次々にけつけてきた。故郷からついてきてくれた彼ら三人の顔は、そろって青ざめている。

「みんな、ありがとう」

 ゆうのある表情を見せたつもりだったが、彼らは涙ぐんでいる。

「もう戻られないかと思いました……」

「女王陛下はティズ様にようしゃのないお方……その場でられてしまうのではないかと」

 もともとこの大国エジプトに婿入りするまで、俺は小国の王子だった。王子といっても五男だったので、たいしてありがたみのある存在ではなかったが。

「だから大丈夫だと言ったじゃろう」

 ペタペタと裸足はだしで歩く音がする。部屋の奥からゆっくりと近づいてきたのは、俺の守護を任されているという神様──メジェド君だ。

 初めて顔を合わせてからすでに半年がたったが、このみょうな見た目にはいまだに慣れない。真っ白い大きな布をかぶった人形──というのが第一印象だった。身長は五歳児程度だろうか。ただ、その布のすそから伸びる裸足の足は、なんというか……おじさんの足だ。声もどちらかというと歳を重ねた男のもの。ちゃんと目、鼻、口もあるが、これはその……いてある……ように見える。白い布に炭でもこすりつけて描いたような、そういう顔なのだ。

 正直、彼が俺の守護者だと聞いた時には……複雑な気持ちになった。

 でも話してみると、メジェド君は物知りでとても親切だった。今では異国から婿入りした俺の教育係のような存在になってくれている。

「我の命じた方法でアルシノエじょうに近づいたか?」

 メジェド君の絵に描いたような目がこちらをじっと見つめてくる。

「はい、おっしゃる通り、おそれながらも陛下をかべぎわに追いつめました」

 ひぃと悲鳴をあげる従者を無視し、メジェド君は続きをうながす。

「それで?」

「可能な限り近づいて、耳もとでささやくようにお話ししました」

「ちゃんとティズ君は手を壁につけていただろうな?」

「えぇ、それも言われた通り。陛下を囲うようにりょううでを壁に伸ばしました」

 ふむ、とメジェド君は満足げにうなずく。

「よろしい。それがいわゆる〝壁ドン〟である」

「かべどん……」

「若い女子おなごはそういうものが好きなのである。少し古くなりつつある手法だが……やはりまだ通用するな」

「はぁ。でも陛下は突然の無礼にたいそうご不快に思われたご様子でした。俺もだいぶずかしかったですし……」

 あんな強引に女の人にせまるなんて、だんの俺では考えられない。いや、二十三歳にもなって情けないとか、そういうことは言わないでほしい。しがない第五王子は、大きな隊商を率いて商売するのに大忙しだったのだ。

「よいのだ。ティズ君は普段はおんこうひとがらである。そんな夫がいささか強引にせまってくるのがイイのだ……!」

 メジェド君はカッと目を見開く。というか、炭で描いたような目が突然大きくなった。どうなってんだろう、この神様の顔……。

「よいかティズ君、これがいわゆる〝ギャップえ〟というやつだ」

「ぎゃっぷもえ……また俺の知らないエジプト語ですね……」

「あの、ティズ様、それってホントにエジプト語なんでしょうか……?」

 従者にかれたが俺に答えられるわけもない。

「でもメジェド君、陛下には何度も『無礼だ』ってはねのけられましたよ」

 大丈夫、大丈夫、と言いながら、彼のかぶった布がヒラヒラれる。

「そのくらいしないとアルシノエ嬢はティズ君とは話さんじゃろ。とりあえず顔をつきあわせて話がしたいというティズ君の願いがかなったのだから良しとしよう」

「まぁ……そうですね」

 俺はしょうせざるを得ない。婿入りして半年、やっと「妻」と個人的に話ができたのは確かだ。無礼だとしっせきされたが、大きな第一歩だったかもしれない。

「しかしティズ君はどうしてアルシノエ嬢と話がしたいと思ったのじゃ?」

「それは……だって、一応俺たち夫婦ですし……」

「形ばかりの夫婦など、この世にいくらでもおるじゃろ。特に王族同士のけっこんではめずらしくもない」

 たしかにメジェド君の言う通りだ。婿入りすることが決まった時、俺はひとじちとしての心づもりを固めたのだ。

 エジプトは大国。それに対して俺の故国マルトゥは取るに足らない小国だ。だが、マルトゥは交通のようしょうである。北のバビロニアとの間に位置し、交易のきょてんとしてはもちろん、軍事的にも重要な位置をめている。

 そんな国の適当な王子を婿にとる。つまりこれは政略結婚というやつで、それ以上でもそれ以下でもない。ファラオにとって、相手は俺じゃなくたってよかっただろう。

 でも、と俺は思う。

「幸せになると約束したんですよね、故国に残してきた、家族に」

 人質としてぼんやり生きるのはしょうに合わない。せっかく夫婦になったのなら、良い夫婦になりたい。

 俺の顔をじっと見て、不思議な見た目の神様はうなずいた。

「ふむ。そういうティズ君の明朗な性格、我は好きであるぞ」

「ありがとうメジェド君」

 奇妙でなぞばかりの神様だけど、彼はいつも俺をはげましてくれる。

 そうそう、最初は「メジェド様」と呼んでいたけど、にんぎょうすぎると本人に言われ「メジェド君」と呼ぶようになった。神様相手に気が引けるし、今でもだいぶかんがあるが、異国でこんな風に親しくしてくれる相手がいるというのはありがたい。

「さて、それでは次の作戦をさずけよう!」

「えっ!?」

 メジェド君の言葉に、俺は軽くのけぞった。い……いやな予感がする。〝ぎゃっぷもえ〟とか〝かべどん〟とか、また変なわざを伝授されるんじゃ……。

「よいか、ティズ君、よく聞け!」

 また布の上の目が一回り大きくなった。

「次は……〝頭ぽんぽん〟である!!」

「あたまぽんぽん……? そ、それはいったい?」

 ふ、ふ、ふ、とメジェド君は不気味な笑いをもらした。口の片方のはしがつり上がる。

「よいか、落ちこんだアルシノエ嬢をなぐさめる際、大人の余裕を見せて……だがほんの少し照れた顔で……頭を優しくたたくのだ! それが秘技〝頭ぽんぽん〟である!!」

「ダメですっ! そんなことしたら不敬罪でざんしゅです!!」

 従者三人がそろってぜっきょうした。メジェド君との間に立ちふさがった三人の後ろから顔を出し、俺はぽりぽりとほおをかく。

「お、俺もそれはちょっと無理だと思いますね……。そもそもおなぐさめする機会がおとずれないと思いますし……」

「そうかのう? けっこう使える技なんだが……」

 こうしてドタバタと夜が過ぎていく。この国の夜は冷えるけれど、この部屋だけは毎夜暑苦しい。

 それにしても、今日は女王と間近に顔を合わせられた。それは本当に大きなしゅうかくだった。

〝天上のターコイズ〟としょうされる陛下の瞳。けれどよいその瞳が俺を見つめることはなかった。いつか俺たちも、普通の夫婦のように笑い合うことができるんだろうか。

 あ、それと、先ほどの陛下はあまりお化粧をされていなかったな。

 正直言うと……俺は普段のかざった彼女より、今日のお姿の方が親しみやすくて好ましく思った。もちろん、こんなことご本人には言えないけれど。

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