女王陛下は一途な恋心をかくしたいっ!!

風乃あむり/ビーズログ文庫

プロローグ

 ファラオそくして一年と少し。私、アルシノエはかつてないきゅうに立たされていた。

「ですから、たまには私とお話しする時間をもうけていただけないでしょうか」

 そう言ったのは私の夫。息がかかるほどのきょに彼がいて、私はちっとも身動きがとれない。

 そう、私は今、きゅう殿でんの自室で夫にせまられている。

 りんごくから婿むこにとった彼は二十三歳。オリーブ色の明るいひとみでまっすぐ私を見つめる彼のこわは、優しい音楽をかなでるようだ。

「ただ顔を合わせていただくだけでいいのです」

 けれど、やわらかな口調に反して彼の瞳には熱い力がこもっている。

「……こ、このような無礼を働くやからと話すことなどありませぬっ」

 その瞳から目をそらし、それだけ言うと、妻である私のすげない返答に彼は小さくため息をこぼした。

「どうしてそのように私をこばまれるのです? 私たちは太陽神ラーにも認められた正式なふうではございませんか」

 彼のもらした息にほおをなでられて、私は内心で悲鳴をあげた。必死で顔をそむけ、彼のいきも言葉も熱い視線も全部まとめてきょぜつする──はずだったのに。

 彼はさらに鼻先がふれようかという距離までぐいと近づいてきて……。

 待って! ちょっと、もう、だめ! それ以上はだめですっ!


 だって……うれしすぎるんだもの!!


 実は私、夫君とこんな風に真正面から顔を合わせるのは、今日が初めてなのだ。

 間近で見る夫、ティズカール様はすっと伸びたまゆに爽やかな目もとの、おだやかながらにせいかんなお顔立ちのじょうだ。おそばにいるだけでドキドキしてしまう。

 だめよ、落ち着きなさいアルシノエ。心の中の自分をだまらせなさい。さぁ、ちゃんとはなすの。

ファラオたるわたくしの部屋に勝手にしのびこむなど、たとえ夫といえど罪に問われますわよ」

 うぅ、我ながら落差がひどい。さすが十八歳にしてたいの名君とめそやされる私ね。この手のきはお手の物。自分で自分を褒めてしまうわ。

 これで彼もやむなく私からはなれてくれるでしょう。正直、悲しいけど仕方がないのよ。すべてはティズカール様ご自身のためなんだから。

 って、そう思ったのに……な、なんで!? どうして離れてくれないの!?

「おいかりは重々承知の上です。このようにしないとへいは顔も合わせてくださらない。せめて今だけでも目を合わせてお話しください」

 無理、無理、無理なの! 無理なんだってばー! 目を合わせちゃったらそのたくましいお胸に飛びこんでしま……ってなにを考えてるのよ私ったら!

「ティズカール殿どの……人を呼びますよ!」

「かまいません。夫婦でむつみあって何がおかしいのです?」

 む、む、む、睦みあうって何ー!?


「アルシノエ様……私はあなた様とつうの夫婦になりたいだけなのです」

 うぅ、私だって本当はティズカール様とたくさんお話ししたい。でもダメよアルシノエ……なんとか、なんとかえなさい……!

 頭の中は大混乱。理性が本能に敗北するまさにそのいっしゅん前。

「わんっ! わんわん!!」

 激しくかくする鳴き声におどろいて、ティズカール様が顔をあげる。

「わん! わん!」

 鳴き声の主は、奥のしんしつから現れた。全身真っ黒な短毛におおわれた犬。耳がうさぎのようにピンと立ち、細いしっがユラユラれている。

 白いきばを見せ、いかにもどうもうにうなるその黒犬に助けられ、私は強い調子で言い放った。

「ティズカール殿、ご覧なさい! アヌビス神もお怒りです」

「うぅぅぅぅわんっ!」

 婿むこ殿どのの眉が情けなく下がる。(え、そんなお顔もりょくてきだわ)そして彼は小さなため息とともに静かに数歩下がり、黒犬神アヌビスに向けて深く一礼した。

「申し訳ございません。〝神のまきびと〟たる陛下に、多くの無礼を働きましたこと、深くおわびいたします」

「わん」

「アヌビスもわたくしもかんだいです。そのことを幸運にお思いなさい」

 ピシャリと木のとびらを指し示した。

「ティズカール殿、よいはもうお下がりなさい。話があるならば従者を通すこと。それがれいというものです」

「……承知いたしました」

 ティズカール様は私に向けて一礼すると、ようやく部屋から出てくださった。大きな背中が少し丸い。ろうを去る音が聞こえて、それが完全に消えたところまでしっかりかくにん

 はぁ、なんとか助かったわ。ふにゃりとかたの力がける。

「アヌぅぅぅぅ、ありがとう!」

 勢いよくアヌビスに飛びつくと、やわらかい毛並みが気持ちいい。うぅふかふか〜! 安心する!

 ところがその体はすぐに厚みと重さをなくしてしまう。ついでに実体もなくしてかすみのようになると、その中からくろかみの少年が現れた。えー、もう少しあの毛並みを味わっていたかったのにっ。

 彼はゆかに座りこんだ私をあきれて見下ろしている。

「おいアルシノエ、助けてほしいならそう言えよ。オレ、出て行くべきか迷ったぜ」

「はぁ!? どう見ても助けを求めてたでしょ!?」

「うそだな、けっこう嬉しそうだった」

 ぎくぅ!

 くりくりと丸い目で私をからかう少年は、めいかいの王オシリス神のむすやみつかさどるアヌビス神。だんは黒犬の姿なんだけど、私と話すときには人型になる。「人型」といっても、人間とちがえられることがないように、耳と尻尾だけは黒犬のままだ。

「しかし、婿殿も気の毒だねぇ。いっしょうけんめいいい夫婦になろうとしているのに、妻にあんな風に拒絶されて」

「だってしようがないでしょう! あと一年は親しくできないんだから!」

 アヌはトコトコと寝室にもどる。彼の見た目は十歳くらいの男の子で、気軽にしんだいこしかける様子はな少年そのもの。このアヌが、本当は長い長い年月を生きる神様だなんて、今でも信じられない。

 窓の外をながめるアヌの細い耳が風を受けてかすかに揺れた。布張りを外した窓からは、静かな東の星空が見える。やがて空が白み始めれば、そこにほうじょうの星ソティスがのぼるのだ。

 まもなく季節はケアト。今年も聖河ナイルの増水が始まる。

「次のケアトに、弟が南の黒人メジャイの王国に婿入りする。それまで私はティズカール様と睦まじい仲になるわけにはいかないのよ」

 東の空をにらみつけ、決意を新たにした。

 私にはファラオの位を争ったふたの弟がいる。けいしょうけん争いに敗れ、私を強くにくむ彼は、私が気に入ったものをなんでもうばい取っていく。もしも私がティズ様に恋がれていることを知ったら、弟は彼を害するだろう。そんなことは断じて許さない。だって、私はティズ様のすべてが大好きなのだ。

 王家のくだらない権力争いに、彼を巻きこむなんて絶対にいや。そんな争いがあるという事実だって知られたくない。

 だから私は、いとしい婿殿への恋心きもちかくしとおそうと決めたのだ。弟から彼を守るために。

「はーそれにしてもあと一年か〜」

 黒髪のあどけない少年は、私に向かって意地悪ながおを向ける。

「アルシノエは、それまで自分の気持ちをおさえられるかな〜」

「もちろん、その程度のこと簡単よ。ファラオである私に不可能なんて……」

 ない、って言い切ろうとしたのに、頭の中にさっきのティズカール様の情熱的なまなしがかんでしまった。

「あれぇどうした、アルシノエ? 顔が赤いけどぉ?」

「な、なんでもないっ!」

 こちらの顔をのぞきこんでくるアヌが私を試すようにニヤリと笑っている。

 だいじょう、私はファラオだもの。この恋心きもち、必ず隠しとおしてみせるわ!

 どんなにごういんにティズカール様にせまられても、絶対に。

 彼がどんなにてきでも、きっと。

 ……な、なんとか隠し通してみせるんだから……っ!!

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