3章・闇の心の海

3-1世界銀行口座


 キロメートルという単位は、ニホンからやって来た。

 キロメートルを千分の一にすればメートル。メートルを百分の一にすればセンチメートル。センチメートルをさらに十分の一すると、ミリメートル。


 十二年続いた魔封大戦の末期から、その終結後十年経った今までを通して、この単位がいつの間にかクラエアにおける基本となった。重さの方は、グラムだったか。


 サラス、ジュベルナ、メタリアの三国が三国協定で公式に採用し、マギファインテック社の魔導機はもちろん、そうでない日用品や服にさえも、この単位が使われている。恐らく裏にパワーゲーマー達が居るのだろう。自分たちのなじみのある単位を、こっちでも使いたかったのだ。


 それで、なんでこんなことをごちゃごちゃ並べ立てるかというとだ。

 買い物が、できないからだ。


※※ ※※


 青い空、白い雲、凪いだ海にぷかぷかと浮かぶ“ゲンゴロウ”。


 ここはメタリアの沿岸から北西にちょうど一千キロメートル。ちょうど魔王大陸との真ん中にある小さな群島だった。


 その名もマーマトル。魔封大戦以前は、魔物として分類されていた人魚族が、ある転生者を領主として、数千人も集まって住んでいる場所だ。


 メタリアを出て二週間。使用人や技師などを帰すべき場所に帰しながら、何にも出会うことなく続いた航海だが。

 ここにきて引っかかった。飛行の無理がたたったか、それとも試作品の全力の稼働が響いたか。ゲンゴロウのあちこちに不調が出始めたのだ。


 ただ、コースを決めたナイラにそつはなかった。食料や水、部品の補給のために、マーマトルへ寄ることを、あらかじめ決めていたのだ。


 問題は。補給品の購入ができないということだけだった。


 温かいを通り越して暑い。それもメタリアの砂漠とはまた違った、湿気をはらんだ暑さだ。常夏とはこのことだな。以前魔王大陸に渡ったときは、魔導船で喧嘩をしたり酒を飲んだりしていたから、海の真ん中の気候には特に注意もしなかったが。


 海から半身を出した男の人魚が、ゲンゴロウの脇腹のサリ相手に必死になって説明を続けている。


「……ですから、グラム単位、メートル単位では、やはり、お売りにもお買いにもなれません。このマーマトルでは、重さはポンド、長さはヤードに統一されています。それ以外を使った売買契約を帳簿に記せば、領主様に罰されてしまいます。お客様名義の世界銀行口座は確認しておりますから、わが商会としても、なんとかしたいのはやまやまなのですが」


「まあ、信じられない! 三国協定をご存じないの!? メートル法が浸透していない場所なんて、普段の貿易はどうなさっているのよ。発展には貿易が必須でしょう。それを」


「無茶をおっしゃらないで。サラスの森の十字架から任じられた、我が領主、エマイル様はこの単位でないと落ち着かないとおっしゃって、変えようとされないのです。貿易に関しても、幸い、珊瑚と綺麗な海さえあれば、我々人魚は食料や住居に困りません。大恩あるご領主様を裏切ることは、できませんので」


 昨日も同じやり取りを聞いた。俺はサンドバッグを殴る手を止め、下に呼びかけた。


「おいお嬢様。もういいじゃねえかよ。そのなんとかって単位で買っちまえば」


 サリが俺を見上げる。きっとにらみつけてくる。


「いけません! 私の口座は、ザルダハール家が運営する商会と紐づいております。そこではすべてメートル法なのですよ。そんな変な単位で購入すれば、事務方の負担と混乱が生じてしまう。そんな迷惑はかけられないのです。まさか、その混乱もまた、パワーゲーマー達の策略なのでは……!?」


 俺はサンドバッグに戻った。

確実なのは、足止めの二日目も、無駄に終わっちまいそうだということだけだ。


 サリもメイルも、うまくやった。今のところザルダハール家は、取り潰されたり爵位を剥奪されたりすることもなく、三大国できちんと機能しているらしい。目の玉が飛び出るような数字を記した、サリ名義の口座もきちんと存在している。


 だが、ここにきて帳簿に記す物の単位で、必要なものを買えないなんて。


 押し問答が続いている。女の人魚が、サリと話す人魚の脇に、とぽんと浮かび上がった。

 何事か耳うちをする。男の人魚がため息をひとつ吐いた。


「……どうやら、単位の交渉は無意味となったようです」


「まあ、それでは!」


 サリが胸元で手を握る。きらきらとした期待がみなぎるが、人魚は無慈悲だった。


「いえ。お客様、サリーナ・ザルダハール様名義のご口座が、つい今しがた、冒険者ギルド『千の首と万の牙』により、差し押さえられました。残念ながら、資力の無い方にお売りできる物品はございません」


 俺は思わず手を止めた。階下の窓がばんと空く。ナイラとトリックスが顔を出す、それに、海からも泳いでいたリオーネが浮かび上がった。


 集まって来た全員に対して、人魚の男は事務的な微笑をうかべる。


「私はこれで失礼いたします。取り寄せのキャンセルを行わなければなりませんので。魔導機の停泊料はすでにいただいておりますから、こちらの港への停泊は一か月までご自由に可能です。また、マーマトルでは滞在者の漁業権をある程度保証してありますので、マーマトル近海での食料採集は貝及び藻類、甲殻類についてご自由にどうぞ」


 ぱしゃり。無慈悲な水音を立てて、商会の人魚は行ってしまった。


 全員が絶句していた。こういう事態に強いであろうナイラさえもだ。


※※ ※※


 滞在二日目の夕陽が沈んでいく。俺達はゲンゴロウの背中で鍋を囲んでいた。


 中身は海藻と貝。金のあった頃、マーマトルの屋台で食べて、うまかったのは分かっている。


 無言で鍋をつつきあった後、トリックスがぽつりと言った。


「……申し訳ありませんが、私は持ち合わせに関してはありません。そもそも、自立型魔導機オートゥに資本を所有したり、口座を作ったりする権利はあるのでしょうか」


 俺も続く。


「多少はあったが、マーマトルみたいな辺鄙なところで使える、世界銀行の口座なんてのはないぜ」


 もしあっても、このゲンゴロウに必要な資材やら道具、食料などをいっぺんに賄えるほどの額はない。


「アタシの稼いだお金、全部マスターの口座に入ってったからなあ。砂漠でも自給自足か、魔導機の残骸探して、近くの村に売りに行ってただけだったし」


 リオーネが闇の深い事情を吐露している。


 サリはうるんだ眼でナイラを見つめた。しかし、塩とわずかなだしで、見事な海鮮鍋を作ってくれたメイドは、無慈悲に答えた。


「情けない顔をしないで。たかが使用人が、世界銀行に口座なんて持てるはずがないでしょう。あれは三大国の王侯貴族や、あなたのようにザルダハール家の血族、それか転生者でもなければ、とても持てないものよ。信頼性が違うわ。というか、こんなことは、私よりあなたの方が分かっているはずよね」


「……はい」


 小さな声でうなずくサリ。


 それはその通りだ。世界銀行なんて言葉、俺は冒険者の噂でしか聞いたことがなかった。世界に名だたる要人だけの銀行、しかもこんな片田舎と言ったら悪いが、へき地でも巨額の支払いに対応している。そんな夢のような銀行がこの世にあるなんて。


 まあ、今しがた使えなくなったわけだが。


「……どうしましょう、このまま、ここで足止めなんて。まさか口座を差し押さえられるとは」


「まあ、考えようによっては、魔王大陸に行かないってのも悪くない気もするがな。あっちには冒険者やらなんやらの形で、わんさか転生者が居るし。法律がテキトーな分、パワーゲーマーも動きやすいだろうし」


『魔物も一杯いるぜ。アタイたちを始末するんなら、おあつらえ向きの場所だろうなあ』


 女悪魔が脇から出てきて、俺の椀の貝をつまんだ。うまそうに呑み込む。ものを食えるのか。俺の体に来るんだろうか。嫌だな、体重管理は重要なのに。


「差し押さえなんて、やはりザルダハール家は本格的に潰されていくのでしょうか」


『そうでもないみたいだよ、レディ』


 呪印が反応した。車座の中に見知らぬ男。


 刀の鍔が鳴る。リオーネの居合抜きだ。

 決まった。両断された男が海に落ちる。


 だが。ごぼごぼとゲンゴロウの周囲が泡立つ。人魚たちはいつの間にか居なくなっている。


 海から無数の人間が現れた。鱗でできた鎧、ほっそりとしているが、力強い筋肉に彩られた体。流れるような青い髪、そして秀麗な顔立ち。


「レアク、どれが本物」


 ナイラが杖を取り出す。魔導心臓と杖の先端に魔力を集める。海ごと凍らせるか。


「全部だ。いや、どれだか分らん。これは多分チート能力だぜ」


『いかにも。慈悲深く残酷な海マーシィ・デプスと呼んでくれたまえ。僕はエマイル・ネヴィルナー。多分転生者だけど、敵意はないよ。パワーゲーマー達に対して中立だからね』


 信じられるか。だが、海に並んだネヴィルの群れの外に、さらに多くの何者かが浮かんでいる。


 人魚たちらしい。しかもそれぞれに闘気や魔力を溜めて戦闘態勢に入っている。


「浮かんでいる者達だけではありません。海中にも闘気や魔力が。レアク、このまま戦うのは」


 トリックスの言う通りだった。俺が見回すと、サリやナイラ、リオーネも唇を噛んで刀を納めた。


『……まあ、ちょっと来てみてごらんよ。この島は悪い場所じゃないから』


 穏やかにほほ笑むエマイル。こういう態度でその実危険な転生者ばかりだったが、今は信じるほかになかった。

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