2-14凍てつく黒


 二百三十一メートル。考えてみれば闘気を使っても落ちたら死ぬ高さだ。

 本当にそれだけのぼろうというのか。疑問を感じる暇もなかった。


『レアク、闘気を固めてください!』


 最大限に防御した瞬間、下から一気に打ち出された。

 呪印をかかげて顔面と体を覆う。点々と針が刺さるような感覚。加速したおかげで、ライムの雨が触れている。雲はすべてあいつの水滴だった。


「くそっ、痛ぅ、ぐぐ……」


 このままじゃ、呪印以外がそぎ取られちまう。


 ひやりとした空気が俺を包んだ。


 ぱしぱし当たる氷の粒。ナイラの魔法か。俺の周りを冷気で覆ってくれた。水滴は触れる前に凍る。これなら気にしなくていい。


 上昇の勢いが弱まってきたら。足元の明かりがずいぶん遠い。百メートル、半分に達したか。


 そばにがれきが打ち出される。リオーネが投げてくれたものだ。足をかけて飛び上がろうとしたときだ。


 呪印が痛んだ。雲と水滴が俺の眼前に人の形を作る。


『驚いたなあ、ここまで近づいてくるなんて』


 ライムの変身体だ。本体の反応は、まだはるか上空にある。

 呪印で殴る。頭が飛んで消滅した。さらにがれきに足をかけてとぶ。


 十メートルってところか。だが再び変身体が現れた。


『闘気が丸見えさ。無理だよこれ以上は』


 また呪印で殴る。倒したが、今度は四方八方に現れた。これが、すべて変身体。


『どうしよっか? レアク、君が来てくれたことは嬉しいけどちょっと悲しいな。先に仲間の方をぐちゃぐちゃに殺して、反応を見てやりたかったのに』


 呪印がどいつにも反応している。闘気や魔力もある。下に居るゾンビ並の出来損ないとは違う、奇妙な言い方だが、本物の変身体だ。


 三日三晩降り続くという雨。その根源である雲と水滴、そのすべてがライムの変身体を形成する元だったのだ。しかも呪印なしで触れれば、人を即溶かす。


 雲の中。それは雨の降る地上よりさらに、ライムの能力に使える水があふれる環境。俺は、強力な消化液をもつ怪物の胃に飛び込んだようなものなのだ。


 下から冷気が放たれる。二、三体が凍って落ちた。


『……今のはナイラか。この距離で、見えないのにやるね。僕もこれだけたくさん同時に動かすのは初めてだから、油断しちゃった。でも、どうにかなると思うかい?』


 ならない。はっきり言って。膨大な質量の水、そこからできる無数の変身体。雲の中は、ライムが全てをコントロールしていると言っていい。


 本体がわざわざ近くに来たことの意味を考えるべきだった。それは、絶対に安全だという自信があるからなのだ。


 ごぼり。泡のようなものが俺の全身を包んだ。


『ほら、これだけでもう動けない。まだ溶かさないよ。窒息するんだ、君は』


 呪印のついた腕だけが、泡の外にでている。こいつを胴体まで戻せば――。


 ごぼ、ぐぶ、口から酸素が出ていく。腕を怪物に噛み千切られたかのようだ。ライムは、呪印とつながる腕の一部を溶かしやがった。


 動かせない。左の拳が封じられた。骨は無事らしいが、激痛しかない。


『だめだよ呪印を動かすなんて。千切れるまで溶かそうか? ちゃんと見るんだ。下の仲間が消し飛ぶのを』


 ぱりぱりと何かの音がしている。そこらに浮かぶ大量の変身体が、腕をかかげて何やら魔力を集めている。


 巨大な魔力だ。ミァンが谷を閉じたとき、いや、天に届くほどの山で俺を潰そうとしたときに勝るとも劣らない。


 ぱしぃん、ぱり、小さな稲妻が雲の中に発生している。どれほど巨大な雷ができるのだろう。トリックス達だけじゃない、この古い工房街全体、雲の取り巻く辺り一帯が射程の魔法。


『見ろよレアク。ぶっ壊すよ、全部。お前の仲間もこの工房街も。ジャグが、邪魔だって言ってたんだよね。マギファインテックに協力しない職人組合。せっかくすごい魔導機を作っても、あれはいいとか、これはだめとか、勝手なこと言って抵抗してきてさ』


 それが書き割り。ライムの所業は雨と雷で起きた事故になる。スミスポートの工房街で、ある日突然局地的な雨と、巨大な雷が巻き起こり、数百人が死ぬ。


 不幸な事故。だがこの事故を契機に、力の弱った職人組合はマギファインテックとの協力を進め、より技術と経済が発展する。悲劇は乗り越えられていく。


 転生者のやることは、いつだって書き割りに彩られて成功――させてたまるか。

 今ここで、こいつと相討ちになってでも。悪魔め、いるならとっとと出てこい。呪印がある以上、俺にまだ残っていることは分かっている。


 くそ。叫びたいが、ライムの水の中じゃどうにもならん。

 文字通り女に溺れるのは悪くないが、こんな不健康なやつは俺の好みじゃない。


『あーあー、すっごい顔だねえ。怒り憎しみ無力感、なんか、ちょっとタイプかも。君の苦しがる顔は、ほんの少し素敵だよ。でも残念、僕はりゅーくんのモノなんだ。花火はまだないけどさ、君の仲間ごとやっちゃおっか!』


 稲妻が走る。魔力が高まっている。変身体が両腕をかかげた。他のすべての奴らも。


 急に俺の何かが消える。ウィマルに、あのリングを出した時と同じだ。悪魔、なにかの力を使っているのか。


暴れ育つ雷の木々ヴァイオレント・サンダーツリーズ!』


 かっと閃光が貫く。鼓膜を裂くような轟音。工房街に雷が降り注いだ。


 まさに天までそびえ立つ木々。あらゆる建物の数百倍もの高さの雷が、幾百本も、黒雲の下を襲い尽くす。


 建物が、大地が裂けてえぐり掘れた。雷が地割れを起こすなんて。傾き、へし折れた石壁が底の見えない深淵に落ちていく。雷が直撃した工房は、火を噴いて燃え上がった。


 雨をつんざいて人々の悲鳴が聞こえるようだ。


 これがパワーゲーマーの、ライムのやり方。書き割りが全てのこの世界で、書き割りに支えられた者が力を振るう光景。


 この残虐も、すぐに忘れられる。書き割りに定まった結果が、世界にとっての事実となるから。世界は、書き割りを持つもののためにある。


『あっははははは! どうだい。可哀そうに、勝ち馬を見極められなかったやつらが死んでいくねえ! もちろん、お前の仲間もさ、レアク。飽きたって言う奴も居るけど、やっぱりザコの蹂躙と破壊は楽しいんだよなあ。だから異世界は最高なんだ! 誰もかれもみーんな、僕らのためだけにあるんだから!』


 ライムの叫びに応じるように、雷は止まらない。俺の仲間も、雨を逃れた者達もまとめて、破壊し尽くすまでこの木々の成長は収まらない。


 なんて、な。


『あ、あれ……なん、だ』


 絶叫していた変身体が自分の足元を見つめた。黒い何かが下から伝わり、固めていく。

 俺を囲んだ水、それはすでに黒い氷に覆われ、割れてしまった。


 黒い氷。そう、まるで降り注いでいたライムの水滴が全て同時に氷雪に変わったかのようだ。他の変身体、雲、雷までが真っ黒い彫刻みたいに地面とくっついてそそり立っている。


『なっ、なんだよこれ、なんなんだ、なんで凍ってる。僕の水はなんでも溶かすんだ。こんな魔力は転生者でも、ウィマルだって持ってない。絶対に止められないはず』


 その先は凍り付いて続けられない。喋っていた変身体も黒い氷の一部と化した。


 何が起こったかは分からん。だが、恐らく、下に居たナイラの魔法だ。そこに俺の呪印の力が大幅に強化されて加わっているのだ。だから、転生者の魔力で作った雷も、チート能力の水滴も全て凍らせることができた。


 動かなくなった拳から、女悪魔が現れた。またも例のバニーガール姿だ。


『へっへーん、呪印の第二段階。アタイの力を他人に移す。大成功だなあ』


「俺は合格ってことか」


『まあまあだよ。それより、やるんだろ? 相手が女でも』


「左が使えなくても、な!」


 闘気を使って跳躍力を強化する。凍り付いた雲を、水塊を蹴りつけて飛ぶ。

 位置は感じる。ライムは動いていない。完全なパニックだ。


 転生者は自分の力が通じない状況に弱い。氷を割って飛ぶ。もうひととび。


 今だ。目の前を蹴り砕く。

 現れた。青いビスチェの若い女。黒い氷の中、神経質そうに歪む顔。

 俺は拳を握り締めた。


「ひっ、ひぃ」


「お前の犠牲の……ほんの一部だ!」


 まだ動く右の拳。ストレートパンチが、ライム本体に今度こそ届いた。

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