2-5拳闘士は二人



 呪印からあふれ出した黒いなにか。物質でも、魔力でも、闘気でもないその上で俺はステップを踏む。ウィマルは信じられない顔で俺を見つめ返す。


「なんだ、こりゃ……魔力が操れねえ。痛えぞ、ちくしょう……!」


「当たり前だ。今、試合中だぞ。止めたきゃ俺を倒すか、お前が降参しろ。タオルはないし、セコンドも居ねえから、そうだな、その汚えローブを脱いで、負けを認めるんだ」


「なんだと……ぶっ!?」


 左ジャブがヒット。こいつ、ド素人どころか、だいぶ鈍い。喧嘩のひとつもしたことがないのだろう。それなのに、たくさんの人間を分解したのだ。


 気の毒とは思わんが、復帰第一線の相手が格下とはな。


 ステップは欠かさない。ここは俺の舞台だ。


「自分自身で分かるぜ。このリングはすべてが呪印だ。俺と拳闘するためのな。お前の自慢の魔力も能力もここを降りなきゃ使えない」


 俺の体の一部に張り付いていたあの呪印。書き割りを壊し、チート能力や魔力、闘気を消したあの呪印。リングを形成する黒は、それだ。


 あらゆる魔力を理解し分析し、完璧に操るはずのウィマルは、今や呪印に取り込まれたに等しい。


「くそっ……うおおっ!?」


 逃げようとしてロープをつかむウィマル。だが悲鳴を上げた。呪印を形成するなにかが襲ったのだ。

 リングに立てば下りられない。勝利するか敗北するまで、試合は終わらない。


「おい、逃げるな」


 振り向いたウィマルの腹にフック。歪んだ顔面にジャブを打つ。


「が、ぐ、くそっ……!」


 血を吐き、せき込みながらこちらを見つめるウィマル。俺は距離を取る。


「早く決めろ。俺にブッ倒されるか、ローブ投げて降参するか。まだ意識はあるだろ。今脱げばまだ動ける。試合が済んだら呪印は終わる。そしたら俺もリオーネも、トリックスも分解してお前の勝ちだ」


 ろうそくが燃え尽きるように、体力とも闘気とも付かない何かが俺の中で消費されていくのを感じる。このリングは俺のなにかを大幅に消耗させているのだろう。今まで、呪印そのものが俺を消耗させることはなかったのだが。


『へへへ、いいぜ。やっと生まれた』


 悪魔はポールに座り、大胆な恰好で満足げに俺を見下ろす。こいつ、こうなることが分かってたのか。


 終わればもう呪印は使えないだろう。体も動くか分からない。

 リング上だと冷静になれる。ウィマルいわく、『貧弱な言語能力』で分析してみるか。


 今、ウィマルは負傷こそしているが、呪印さえ消えればチート能力も魔力も使える。そうすりゃ俺達三人、手も足も出ない。合理的に考えて、まだウィマルは俺に勝てるのだ。


 ウィマルも気付いている。慌ててローブを脱ごうとするお利口なクズ野郎に、俺は言った。


「ただし、拳闘はお前の負けだぜ。あとで鏡でも作ってみてみろ、骨が折れて歯がかけて、鼻血をだらだら流してるひっでえ顔。お前は、お前を確実に接待してくれるはずの異世界人に、ボコボコに殴られて、一発も殴り返せずに負けるんだよ。それでいいなら、お利口さんらしく、降参しな。お前の言う通り、俺はくだらねえチンピラさ。だが、拳闘士だからな。試合で負けを認めた奴は、殴らねえ。その後お前に殺されるとしてもだ」


 ウィマルの手が止まった。フードに手をかけたまま、うつむいている。なんだ、やっぱりあるじゃないか、闘志が。


「おい、どうした。お前頭いいんだから、なにが得か分かるんだろ。お前に痛い目を見せた俺を、確実に殺すにはどうすればいいんだ。リングで負けても、チートで勝てばいいんだよ。大っ嫌いな殴り合いのリングで負けといて、チート能力で接待してもらえる世界で勝てばいいんだよ。そうだろう?」


 フードが目を隠している。わずかに見える唇が震える。一方的に殴られる痛みと恐怖を背負い、一発の反撃もせずに負けることが分かったのだろう。


 お利口な頭が耐えられるだろうか。


「……っ、う、うぅうううおおおおぉおおぉっ!」


 いい叫びだ。ローブをかぶったまま、ウィマルが拳を振りかざす。


 おそらく生まれて初めて、人に向かって打つパンチ。腰も入らず、体も振り回され、意気込みが完全に空回りした無様な打撃。


 当然だ。ウィマルにパンチは必要ない。


 ムカついた人間を、触りもせずに一瞬で魔力に還せるチート能力。そんなもんを授かった転生者には、パンチなんて全く必要のない行動なのだ。


 だが、ウィマルは俺を殴ろうとした。

 その勇気に報いてやろう。


 タイミングをはかる。ぶさいくなパンチで崩れ切った、相手の重心を見極める。

 踏み込む。ウィマルの体が、もっとももろくなる瞬間。右頬をストレートで撃ち抜いた。


「が……!」


 血と歯のかけらを吐いて、きゃしゃな上体が後ろにのけぞる。ロープにかかった。つかもうとするが、力が入らない。そのまま倒れ込んだ。


 脚も腕も動かない。まさに生まれたての小鹿だ。

 俺は三年前の苦いKOを思い出した。反則のはずの闘気を使われ、一方的にパンチをもらったことを。

 それはもう憎悪が煮えたぎった。これほど人を恨めるのかと思った。

 だが鍛えていない体は、激しい感情で反撃することを拒否する。やめろ、休め、負けてくれと叫ぶ。どれほど気持ちが煮えたぎっても、付いて来てくれない。


 それがダウンなのだ。ウィマルはロープを離した。


『ワン!』


 悪魔が叫ぶ。


『ツー!』


 リオーネも叫んだ。


『スリー!』


 ウィマルは必死に立ち上がろうとする。だが、がくがくと震えるばかりだ。


『フォー!』


 カウントが進む。血を吐き、涙を流しながらロープをつかむウィマル。

 俺は見下ろした。これが負けるということなのだ。俺もこうして、何度も見下ろされた。


 ファイブ、シックス、セブン……カウントが進んでいく。


 ウィマルは立ち上がれない。ナインカウント。涙がリングに広がっていく。絶対に勝てる異世界で、今日までひたすら勝ち続けてきた男に、初めて敗北が刻まれる。


『……テン! KO、KOだ! レアクの勝ちだ!』


 悪魔がゴングを乱打する。リングをかたどる黒いものが俺の拳に戻っていく。いつもの呪印の完成だ。


 女悪魔も黒の中に溶け、呪印に戻ってしまった。一体今のは何だったのだろう。


「レアク! すごかった。拳闘士って、サムライと同じジョブなの?」


 リオーネが俺に飛びつく。消された装備をどうにか繕っている。


「そんなもんはねえよ。殴り合いが好きな馬鹿野郎さ」


 俺のようにな。

 あるいは、ウィマル。砂をつかんで、男泣きに泣いている。


「う、ぐぅ……くっ……」


 痛みはこいつ自身が選んだ。異世界に飽きたお利口なクソ野郎は、確実な勝利より嫌いな殴り合いでの敗北を選んだ。


 男だから、なんだろうな。


 呪印から血は流れない。ウィマルの書き割りは、破壊できたようだ。

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