第26話 東西、風雲急
「きゃあ~んっ♡ たぁくんたぁくんたぁくんたぁくん、たぁく~んっ♡」
「うあぁ、なんだあぁ!?」
意識を覚醒させると、目の前に女の顔があった。
それだけでも心臓に悪い。そのうえ、なんかもうむしゃぶりつくような勢いでほおずりしてくる。ついでにキスもしてくる。ほっぺたが唾液でべたべたになって気持ち悪かった。
「な、なに? なんよアンタ!?」
鼻息荒い耳長ピンク女……牢城雫……に、辰馬は恐怖を感じて訊いた。雫としては久しぶりに童形の辰馬に見て触れて興奮してご満悦なのだが、記憶ごと時間を遡行している辰馬に「今の雫」の姿形は記憶の片隅にもない。なんかよー知らん女から異常な愛情でしゃぶり回されて、恐怖と困惑で泣きそうだった。
「えー、なにって、雫おねーちゃんだよー? もー、とぼけちゃって、そこもまたかぁいーけどねー♡」
「しず姉がアンタみたいなババァなわけねーだろぉが! なに言ってんだアンタ!?」
ガシャン、バリバリ、ズキャァーァン!! ……という幻聴を、辰馬は聞いた、気がした。愕然とした雫は数瞬、茫然と放心し(それでも抱きかかえた辰馬を落とさなかったのは立派というか、執念というか)、ついでピキリ、キリキリと額に血管を浮かび上がらせる。
「ババァ……って誰のことかなぁ~? あたしの聞き間違い? だよねだよねぇ~、たぁくんがそーんなこと言うはずないないッ!」
「ぎあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁうぎぃぃぃぃっ! 痛い痛いいでえぇっ! なにこの馬鹿力、しず姉みたいな……あいだだだだだだっ、わ、わかったしず姉! アンタしず姉だわ、間違いない! だから腕離せ、もげるっ!」
辰馬の頭の中に、雫からうけた数々の暴力行為が蘇る。愛情表現という言葉で片付けられる、尋常でない膂力による虐待。その思い出は姿の違いを超えて、いま目の前に居る25才が幼なじみのおねーちゃんだということをわからせた。辰馬が認めると雫は表情をやわらげ、かいぐりかいぐりと優しく愛撫してくるが、今度はこの手つきが子供をあやすそれではなく隠微さを帯びて辰馬の貞操的危機感を募らせる。
「ふぁ~♡ やっぱりたぁくんはわかってくれるよねぇ~。やはは、いー子いー子。おねーちゃんのおっぱい触っていいよ~♡」
「なに言ってんのしず姉……つーかなんでそんなババァ……、いや、大人になってんの?」
とりあえず聞かないわけにはいかない。というか実際に変化したのは雫ではなく辰馬の方なのだが、たぶん雫にとって幸いなことに先般の、雫裏切りの記憶は辰馬の頭の中から消えている。
「え? あー……いや、どっちかってゆーとたぁくんが子供になっちゃってる、ってゆーかね? まあ、あたしがやったんだけど……」
「ん? しず姉が、なに?」
「いやいやいや! なんでもないない、やははー……」
「いやなんでもなくねーだろ! なんかしたな、しず姉! 白状せれ! 正直に言ったら怒らんから」
「嘘だよ~、たぁくん絶対怒るもん」
「はいはい。姉弟げんかはそこまでに。そろそろこの戦い、終わらせましょう? 陛下」
「……は? そ、そうであるな! して……どうやって……?」
完全に二人の世界だった雫と辰馬に割って入り、国王シャルルに話しかけるシーリーン。話を振られたシャルルはようやくに恐慌から回復するが、しかし戦闘を終結させる方策にまったく心当たりがない。このときのために王弟とその政治顧問を捕らえているというのに、使えない男だった。実際こちらに不利な戦況を鑑みれば、冷静でいられないのも仕方ないかもしれないが。
「王弟フィリップと彼を邪教に堕とした奸臣・ヤン・トクロノフ。この両名に誅罰を。旗頭となるこの二人が失われれば、王太子派は大義名分を失い、瓦解します」
怜悧に冷酷に、シーリーンは断ずる。彼女は無益な人死にを好まないが、それは大勢を活かすための小勢の犠牲には目をつむるということでもある。王太子フィリップが俊英であり、その参謀ヤン・トクロノフが王佐の才であるとしても、シーリーンにとって彼らは自分の支配すべき国を騒がす異分子でしかない。個人的知己があるわけでもなし、慈悲をかける理由はなかった。
そして、シャルルの方もおう、と手で膝を打つ。厄介者の弟とその参謀、この二人を殺すのに正当な理由付けができるとあって、突然俄然に大喜びである。
すかさず儀仗兵を呼び、処刑の用意を始めさせた。
これに慌てたのは雫である。シーリーンは自分たちを殺さない、そう踏んだのはまちがいでなかったが、彼女は自分と直接関わりのなかった人間なら殺せるというのは雫の読みが届かないところだった。こうなると辰馬(子供ver.)との蜜月を楽しんでも居られなくなる。すぐに手を打たねばならないが、あいにく雫は筋肉担当、頭脳担当の瑞穂は場外から攻囲線の指揮中であり、こういうときいちばん頼りになるはずの辰馬は雫自信の責任において子供にしてしまった。こうなるといち体育教諭(もと。いまは無職)の手に余る。
城楼に急遽、組み立てられる処刑台とそこに引き立てられる二人の男性、王太子フィリップ・ド・クーベルシュルトとその相談役ヤン・トクロノフ。すでにこの世での仕事を果たしたとばかり、悔いもなさげな二人に、城外から寄せ手の兵士たち、とくに騎士階級のひとびとは意気阻喪して力を失った。それまで果敢な士気で圧していた瑞穂指揮下の王太子派が、順当な兵力勝負に土俵をうつされて押し返される。こうなると瑞穂がいかに軍師として天才的であろうと、奮い立たせるすべがない。
が。
このとき、城内で王太子処刑の知らせを聞き、義憤憂憤悲歌慷慨した女性が居た。だれあろうジャンヌ・ド・パプテスト、もと男装の山賊騎士団長にして、いまは救国の聖女である。王とその師父、失うべからざる二人の窮地に、ジャンヌは覚醒した。押し包んでくるクーベルシュルトの正規兵、一度に数十とも数百とも言える敵を、風の速さで翻弄し、水の怒濤で押し返し、烈火の激烈で打ち据える。防御は大地の堅牢であり、あらゆる敵を寄せ付けない。
「王太子を救い奉る! 私に続け、クーベルシュルトの未来のために!」
敢然と雄叫びを上げる、美しき金髪の聖女。ここにきてこの一局面のみ、王太子派が息を吹き返す。
………………
西方の風雲いよいよ急を告げるころ、アルティミシア東方。
明染焔の一撃は魔軍の荒肝を拉ぎ、人間おそるべし、の意識を彼らの心にすり込んだ。それだけの破壊力であった。威力だけなら新羅辰馬の焉奏・輪転聖王のほうが上回るのだろうが、それにほとんど追いつくだけの威力を、数千の敵に広がる広範囲に叩きつけるような魔法はいまだかつてほかに比類がない。しかもそれをなしたのが神力使いでも魔力使いでもなく、霊力ベースの法術使い。天壌無窮に達したとは言えこの凄絶はおよそ、信じられないほどのものである。
「んー……、奴さん怒って突っ込んでくるか思うたけども、案外冷静やな」
「冷静……にならざるを得ないのだろう。僕だってあんなものを見せられたら度肝を抜かれる」
敵陣が動かないのを見て不満げに呟く焔に、狼牙が声をかける。自分やガラハドもレベルを上げたが、この青髪の巨漢は青と赤の竜姉妹を連れてどこで腕を磨いてきたのか、昔から潜在能力は狼牙の高く買うところだったが、その開花がここまでのものとは実のところ、慮外だった。
「そーでっかねぇ……うーん……っと、それで、牢城さんは!?」
「辰馬と一緒に今ごろはヴェスローディアだ。……竜の姉妹を従えて、まだ雫くんに未練があるのか、君は?」
「そらそーですやん。あの姉弟とは別になんの恋愛感情もないですもん。あークソまた辰馬のボケばっかえー思いしよってからアイツは……」
「落ち着け。熱気が噴き出すからな」
「あ、すんません」
辰馬への妬心で感情を昂ぶらせかける焔を狼牙がなだめ、そしてガラハドが言葉を継ぐ。
「それに、混元聖母が軽挙を戒めている影響もあるだろう。今の一撃は敵の心理に大きな影響を与えたはずだが、それでも決定打にはなりえない……混元聖母とルーシ・エル・ベリオール、この二人をどうにかしないことにはな」
「そのためのわたしたちでしょう? 上手くやってみせるわよ」
「妹だけ危険な目に遭わせるわけにいきません。わたしも」
ニヌルタが言い、イナンナが和す。かくて竜の姉妹は単身崖下に回り、魔軍の兵を挑発すべく踊り始める。学生服風民族服を脱ぎ捨て、下着姿でしどけなくも情熱的に舞う竜の巫女と魔女の姉妹、その美しさに、敵も味方も固唾を呑むことすら忘れて見とれた。
……
「つまらない陽動。全軍、あんなものに気を取られないように」
魔軍陣営。
総大将、混元聖母は一言に切って捨てた。彼女が感情の乗らない声と表情で一言、口にするだけで、全軍に鋼の規律が入る。奔放放埒、なにより本能に従うはずの魔族兵を完全に御す、絶対的な戦術のカリスマ。
「聖母どの。士気発揚のためにもここはひとつ、一当たりして戦果を上げようと思うが」
「いいでしょう。兵5000で敵正面を擾乱、2000の本体で側翼を衝いて」
ルーシが建言すると聖母はすぐさま、必要な7000を整列させる。陽動、すなわち囮に使われると知っても、非難の声を上げる兵は一人たりともいない。聖母の統御は完璧だった。
……
不用意に出てきた敵の5000、膠着状態が続き戦闘が減っていたために、ひさびさの戦闘で三国同盟軍は大いに勇み立つ。その指揮官の一人である長船言継はこれが誘いの術策(て)であると見抜いて陣が伸びきるのをどうにか御したが、尋常一様の指揮官はなにが不自然かなどということに気づかない。猪突した。そして魔軍の兵は誘うだけ誘うとひたすら防御に徹し、同盟軍の戦線が伸びきったところに側面、ルーシが猛突撃をかける。魔界馬に跨がり、右に左に切り立てるルーシ、その戦いぶりはまさしく修羅のごとしであり、魔軍は智将と猛将、両輪を得て最大のパフォーマンスを発揮していた。
「クソがよ……人間舐めやがって……」
壊乱する友軍の中、ただひとり陣を守った長船は帰陣していくルーシの後背に一撃を加えんと号令を発す。しまった、という顔で陣頭を返そうとするルーシだが、長船の方が一手早い。せめても、人間の意地が一矢報いる。
はずだったが。
その長船の後ろから、魔軍の伏兵が発つ。ルーシを送り出すに際し、ルーシ本人にすら言わず、長船のような敏い相手をさらに飲み込んでしまうべく仕掛けた二重の罠。ルーシをもおとりに使ってのこの攻撃はさすがに長船も読めていなかった。危うく崩されかけ、退くのではなく前進することで活路を開くが帰陣したとき、20000いた長船隊は半分を数えるまでに減っていた。けが人を含めるなら9割以上が損害を被ったことになる。
……
呂燦は丘の上でそれを見ていた。
「なるほど、これが女神の用兵。このままでは負ける、な……」
老軍師はそう呟くも、白眉の下の瞳は敗北も諦めも受け入れていない。
「……こちらの駒が尋常ならば、だが」
そういったとき、すでに新羅狼牙、ガラハド・ガラドリエル・ガラティーン、明染焔の三人は崖を登っている。聖母がルーシたちを出陣させてほんのわずかできた隙。軍勢で攻め寄せてはまずつけいることのできないそれだが、英雄格の三人を透すことなら造作もない。そしてなにより、今なら感染魔術の魔神ルーシは戻っておらず聖母は単身。
そしてそしてさらに。
聖母を守るはずの魔軍兵、残余約4万を、崖下から飛んできた二つの人影が襲う。竜の魔女ニヌルタと、その姉竜の巫女イナンナ。ニヌルタは炎の吐息と竜の秘術・ウルクリムミを、イナンナは氷の吐息と凍気の魔術を駆使して、魔軍兵を混乱させる。この時点まで彼女らをただの踊り子とみて油断していた魔軍兵は、面白いように四分五裂した。さすがの混元聖母も、この鮮やかな逆撃に打つ手がない。わざと聖母に先手を打たせ、それが成功裏に終わって最も油断する瞬間、そこを狙った呂燦の指揮は見事と言うほかなかった。
ここに、魔王殺しの勇者と世界最強の騎士、そしてまだ名もなき冒険者の三人が突入する。
決戦、近づく。
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