第十二話 カール

「――――!」

 冷たい鉄砲水に弄ばれていた時間は、永遠にも一瞬にも感じた。唐突に潮気と水流から開放され、宙に浮くような感覚に襲われる。肺が空気が取り込まれ、目を開けると、悩みなど欠片もなさそうな夏の青空が眼路一杯に飛び込んだ。それもすぐ終わり、明原を抱き締めた真夏は、ドボンッとお手本のような効果音を弾かせながら水中に墜下した。

「…………!!」

 全身をレンガで叩かれたかのような衝撃と疼痛。水に溺れた裸眼が青と赤と白を映して沁みるような痛みを訴える。

 人は20メートル台から落下すると身体機能に重傷を及ぼす――速度にもよるが――。75メートル以上となるとまず助からない。

 骨折したかどうかはまだ分からない。だが奇跡的に致命的にはならなかった。

「――はっ!」

 明原を胸に抱えたまま海面から顔を出す。新鮮な空気を口いっぱいに吸い込み、生の実感が五感に沁み渡る。生きてる。四肢は動く。致命傷ではない。

「外に出されたのか…………」

 現状を確認する。自分が流された方へ首を曲げ、船を見つける、部屋の一つに風穴が幾つも開いていた。それでさっきの鉄砲水の発生要因を理解する。益々幸運だ、と真夏は実感する。

 今真夏たちがいるのは、自然の海。アクアノートの魔法による産物ではない。奴の支配域からは一先ず逃れたらしい。

「ごほっ、ゲホ!」

「明原……!」

 胸に抱いた少女が口から潮水を吐き出して呼吸を取り戻す。まだ意識は戻っていないようだが、呼吸と脈は確保できた。だがこのままでは低体温症で倒れてしまう。応急処置を施す必要がある。

「……どこか、上陸できる場所は……」

 ひやり、と。

 蝉氷が肌を這うような冷たさに身震いする。急激に水温が低下し始めた。まるで雪の国で遠泳でもしているかのように。

「……? なんだ。急に冷たくなって――」

 台詞を言い終える事はなかった。

 バキバキと先程までの比ではない冷気が大海を支配する。大気が凍結に張り裂け、体中に霜が舞い降りた。尋常じゃない気温低下に、原因の解明より先に言いようのない恐怖と既知が脳内を支配した。

 五体の裂傷に塩を塗られたような痛苦が真夏から体温を奪う。呼吸をする度、白霜が咽喉に張り付いて言葉にならない音が消えていく。

「……!?」

 首を曲げた先、その光景に真夏は我が目を疑った。

 透き通るような青海が氷河の津波に浸食され、白く凍り付いていくのだ。まるで南極に見られる驚異の自然現象『死のつらら』のように。

 冠氷は生きているような速度で海を凌駕し、巨大な客船を構成員の喚声と悲鳴ごと薄氷に包み込んだ。真夏たちの下まで到達するのにもそう時間は掛からない。

 ディザスタームービー宛らの異常気象の原因と言えば、思い浮かぶ人物は一人しかいなかった。

「アクアノート……なのか!? 海の温度も操れるのか!」

 そうとしか考えられない。どちらにしても今は無駄な考察だ。喰らえば一瞬で死に至るあの大寒波をどうにかせねば――。

「ん、んん……」

 真夏の胸で身動ぎする明原。何ごとか唸りながら彼女は覚醒し、真夏から離れる。

「明原……! 起きたか!」

「真夏? 私気絶して――え、つめたっ! なに!? え? ここは? いや何あの氷!?」

 驚愕の三重奏で明原は視線を右往左往させるが、申し訳ないことに事情を説明している暇はない。

「明原! ナイフ持ってるよな?」

「え? うん」

「あれ斬れ! あの氷! 近くまで迫ってきたら斬れ!」

「えぇ!?」

 まだ混乱から脱け出せていない明原に矢継ぎ早に指示を出す。氷結の波浪までもう数メートルもない。真夏には今『杖』がない。心苦しいが明原に頼るしかない。

 明原は当惑しながらもナイフを持ち、眼前にブルドーザーの如く迫る堅氷の波にぎょっとし、斬撃を繰り出した。

「せあ!」

 恒星の爆発にも似た閃光は白い氷河を斬り裂き、一時的だが進撃を停止させた。だが長くはない。急いで次の行動に移る。

「飛び乗れ!」

「わわっ、つめたい!」

 寸前で停止した堅氷に手を置いてざばっと身体を引き上げる。素肌が罅割れるような痛みに苛まれ、堪え切れず表情が歪む。明原も苦しそうに呻きながら氷上に立ち上がった。

 容赦なく水気を帯びた全身に針のような痛みが突き刺さり、真夏は意識が飛びそうになる。幸いにも風はないがそんなものは慰めにもならない。釘氷とはこんな状態の事を言うのだろうか。

 だが凍土のベッドで永遠の眠りにつく事だけは回避した。安心はまだ出来ないが、第一段階突破だ。

「……『杖』がない……。どっかで失くしたか……」

「『杖』? あの指輪の事?」

「ああ。さっき手放してしまってな……」

「指に嵌まってるけど」

「え?」

 明原の指摘に真夏は左手へ視線を移動する。左の人差し指には確かに降霜してややくすんだ銀色の指輪が装着されている。この酷寒の監獄の中、五感も馬鹿になっていたので気付かなかったようだ。

「え……、何で、いつの間に…………」

「独りでに動いてたとか」

「やめてくれ…………」

「忠誠心高めの指輪じゃない」

「呪いのダイヤモンドとかその領域だろ最早」

 似たようなもんだが。

 無駄話をしている間も、厳寒の冷気が二人を揺さぶる。先のアクアノートとの戦いによる負傷は殆ど完治していた。この殺人的なまでの寒波にも現在進行形で傷つけられるが、それすらも同時進行で治療している。ただ、傷ついてから修復するまでが早く、魔法使い本人が痛みという形で超回復の負債を背負っているが。

「……驚いた。まだ生きているか…………」

 この厳冬の中でも、その美声はえらく明瞭に聞こえた。

 白い氷霧に黒い影がぼんやりと映し出され、薄氷を踏み割る音を響かせながら奴は歩み寄る。

 アクアノート。神の名を持つ魔法使い。スーツにやや汚れが見えるが、水に濡れた様子はない。ただそのネックレスに付けられた二つの指輪。それだけは綺麗なままだった。

 奇妙な違和感を感じつつ、真夏はそれを無視して話しかける。

「……自分のアジトだろ。壊して良かったのか? 折角集めた人間も死にまくってるぞ、これ」

 真夏は顎で凍結した船を示す。完全に氷に包まれた訳ではないが、再起が可能なようには見えない。どう転んでも多額の金が必要になるだろう。

 男はやや廃れたスーツの汚れを払い、微笑しながら真夏と明原を白眼視した。

「問題ない。革命家気取りの俗衆など吐いて捨てる程いるのだから。金も人もまた集め直すさ」

「真面目な事で。でもそれももう終わり。あなたはここで私達に喰われるから。神様の肉はどんな味がするのかしら。とっても楽しみ」

「…………」

 明原は挑発するように、べえ、と涎の滴る赤い舌を見せつけるが、「さむっ」と苦い顔をしてすぐに引っ込めた。段々どっちの人格かわからくなってきた。

 挑発を受けたアクアノートはふっと鼻を鳴らし、『杖』をくるりと回して構える。真夏は指輪から鉄の小刃を取り出し、明原は白刃にはあっと白い息を吐き付けた。

 魔法使いは対峙する。意志と魂を形にした魔法を携えて。

 ヒュウッと白く輝く風が双方の間を通り過ぎ、視界を隠した一瞬。

 赤い髪の少女が、豹のように疾駆した。

 単純な直線走行。何の小細工もない。

 冷風を巻き込みながら二重に斬撃が放たれる。アクアノートの前に現出した氷の壁を豆腐のように切断し、それを踏み台にして大きく跳躍し、円盤のように回転しながら直下した。だがアクアノートは氷の波に乗って移動しながら杖を明原に向け、氷塊を連発する。朱色の風が二人の間に吹かれ、ミキサーのようにズガガッと氷塊を削って粉塵に帰した。

「来い、霊器」

 指輪へ真夏へ呼び掛ける。白光に煌めく太刀へ変化したそれを持ち、一歩踏み出そうとした場所から氷の槍が突き出され、後退を余儀なくされた。

 ドッドッドッと真夏が後退する場所に連続して三つの氷山が順々に突き出し、服の裾を千切られながらバック転で回避した。

 上下逆さまに跳び上がりながら真夏は虚空に太刀を振り下ろし、血花の三日月を発生させ、連なる氷山を縦に刻んでアクアノートへ強襲する。

 同時、明原が背後から急襲する。死神の白刃を前向きのまま杖でガードし、明原の周囲の大気を十数個の氷の礫へ変えて撃ち出した。

「ちっ、」

 鋼のような氷塊は一撃では壊せなかった。敢えて小サイズにする事で魔力の密度を高めているのだ。

 魔法使いとしては初心者同然の明原には、そこまで理解が及ばなかった。しかしそれでも明原の対応は迅速にして的確だった。

 一個ずつ潰していたら確実にどれかは当たる。故に明原は、疾風の連撃で全ての氷塊に一撃目は素早さ重視で軽く切り込みを入れ、氷塊の弾速を遅らせた。そして遅速した氷の切れ込みを二撃目で精確に追撃し、確実に粉砕する。

 明原が氷塊の弾幕を相手取る間、アクアノートは血花の三日月を堅氷の杭で防ぎ、杖を上空に伸ばした。

 凹凸した凍土に着地した真夏は、上空から何かが迫る気配を感じ、上目遣いで白冷めた空を見つめる。

 そこで見たものに対し、真夏は自分の目を疑った。

「な、」

 霧を割りながら上空から落ちてきたそれは、隕石と見紛うような巨大な『雹』であった。

「〝鉛の雹〟」

 アクアノートの呟きは真夏には届かない。

 雹なんてレベルの大きさではない。直径6メートルの氷の岩石だ。丸みを帯びているが、殺傷力は語るべくもない。既に間近まで迫っている、もう回避は絶対に間に合わない。

 ――やばい、避けられない――

 真夏の逡巡さえも踏み潰すかのように、余りにも単純な氷の破壊は無情にも真夏へ落下し、その姿を枯れ葉のように消し潰した。

 ズンッと氷原に地震が鳴り響く。巨大な雹の落下地点には罅割れが起こった。

 雹には何も起こらない。痛い程の静寂が、明原を激昂させた。

「真夏ッ!!」

 しいんと氷晶のように張った大気を引き裂くような絶叫が迸る。少女の叫びを、アクアノートはピアノ演奏でも聞くかのように心地良さそうに頬を綻ばせる。

 憤怒に端麗な人相を歪ませ、ギリ、と歯軋りする明原にアクアノートは意外そうに言った。

「随分と、人間らしい感情が出来るようになったものだね。死神魔法は一度発動すると攻撃的な人格が露わになり、殺気剥き出しで誰彼構わず破壊と殺戮に身を滅ぼす。そう聞いていたのだが」

 アクアノートの言葉に明原はやや不機嫌になる。

「なぁに? 私はアナタみたいな見境なしとは違うのよ。殺る相手ぐらい選んでる。私が斬るのは生きてても死んでても変わんないような屑だけよ」

 明原の度を越えた暴言に「君も大概だね」とアクアノートが肩をすくめる。

 ちら、と隕石を横目で見る。雹の落下地点からじんわりと滲む出る血に、明原は舌打ちする。

「……ったく、世話のかかる……」

 はあっと短く凍てついた息を吐き出し、明原はナイフを鞘に収める。ん? とアクアノートは眉根を寄せた。

 ドンッと大きく一歩踏み込んだ明原は、薄氷の大地を何の小細工もなしに殴りつけた。ズゴッと沈み込んだ拳がクレーターをつくり、砕氷した氷結の塊がアクアノートへ飛び散った。

 脊髄反射で頭部を守るアクアノートに音もなく肉薄する。それに気付いたアクアノートは指を動かし、空から無数の氷の刃を降らせた。低姿勢のままダンスのように氷上を舞い、武骨な氷刃を紙一重で避ける。それでも避け切れず、鋸のようにギザギザの氷刃はザグリと服を裂き、白い肌を抉った。

 痛みに歯軋りしながらもアクアノートに肉薄。そこで明原は再び抜刀し、中距離で斬撃を放った。ガッと凍土を割りながら加速する斬撃が、身を捻るアクアノートの頬を裂いた。

 踏み込む。アクアノートの目前まで近付いた。

 零距離。明原の間合いだ。

「シッ――」

 一閃。振り被る。胴体に直撃した斬撃は、ガジッと鉄の皮膚を斬るような音を立てて凍り付く大気に血潮が舞った。

「惜しいね」

 なんてことはない。服の下に氷の鎧を纏っていただけのこと。属性魔法なら小学生でも思いつくレベルの細工。

 しかし、ただの薄氷如きに防御できるほど死神魔法は甘くない。妨害はされたが刃の切っ先は確かに生身まで届き、線状の切痕をつくった。

 即座に明原はがっとアクアノートの胸倉を掴み、ビキリと皮膚が蝉氷で侵される感触に耐えながら、身体をぐるりと反転。背負い投げの要領で先程まで明原がいた方向に片手で投げつけた。

「なに――」

 慮外の攻撃にアクアノートは怯み、ぐわっと飛ばされる。明原はアクアノートへ滑空するように走り出す。

 だが今度はアクアノートの番だ。着地し、凍土に杖の先端をつけたアクアノートは、ガガガッと堅氷のパイルが地面から幾重にも打ち出され、明原の進路を塞いだ。

「ああ、邪魔っ!」

 妨害を造作もなく木っ端に砕き、前進しようとするが、次々と杭が量産され、あっと言う間に明原の退路を片端から潰した。

「あまり美しくないが、このまま消耗戦といかせてもらう」

 襲い掛かる氷の襲撃をナイフで事もなげに切断する明原だが、それでも無限の体力とはいかない。如何な超人でも上限はある。

 棘と杭を払ったと思えば、次は瀑布と見紛う程に大きな氷壁が物理的に視界と道を閉ざす。

「こういう状況を君らの言葉では『袋のネズミ』というのかな? さてここからどう挽回してくれるのかな、Miss.アケハラ」

 一対一になったことにより、アクアノートには随分余裕が生まれた。それも、良くも悪くも直情的で単調な攻撃しか出来ない死神魔法の明原とは相性が良い。

 もう奴のにやけ面も見えない程に氷瀑が編み込まれている。絶望的な状況。しかしそれでも、明原は口裂け女のように笑った。

「ははっ――、じゃあ、これは知ってる?」

 絶え間なく編まれる懸氷の格子。ナイフを構えた明原は、嵐の塔のような凄まじい速度で回転し、自身の周辺を螺旋状に掘削した。パラパラと氷塵が舞い降り、削れた堅氷の破片を一つ手に取った。

 氷壁を削り取ったことで空間に自由の四肢を動かせる程度のスペースが生まれ、目の前の壁に横長の穴が開いた。明原はそこに照準を定め、氷の破片を構えてやり投げのようなポージングを取る。

 ――ボッ、と。

 満身創痍の肉体であるにも関わらず、明原の投擲はミサイルが如くだった。加速した氷刃は隙間を縫い、アクアノートを通り過ぎて後ろの凍土にズンッとめり込んだ。

 意味不明な明原の攻撃に、アクアノートは不思議がる。

「……? なんだ、その雑な悪足搔きは――」

 無意味としか思えない攻撃に、アクアノートは困惑し、明原はそれを見て嗤った。 

 

「こういう状況ではね――『川立ちは川で果てる』って言うの」

 

 氷河の大地がぼっと噴火のように湧き上がり、血花の竜巻が吹き上がる。竜巻の中からどばっと黒い影が飛び出し、無防備なスーツの背中に突撃した。

 白銀の『霊器』を構えた少年――、二位真夏はそこにいた。

 そこで漸くアクアノートは少女の狙いに気付き、ばっと後ろを振り向く。だが真夏は既に、男の眼前にまで迫っていた。

 突如として再登場を果たした少年に、驚愕に目を見張るが、それ以上の行動は許さず、真夏は二筋の閃光を振るう。

 刹那、瞬く剣閃が男の胴体を十字に斬り裂いた。


「ぜえ、はあ、はあっ、はあー………」

 氷海から脱した真夏は、肩を上下させて荒々しい息継ぎを繰り返す。肺が凍るような呼吸だったが、それでも酸素がこれ程まで恋しく思った日はない。

 アクアノートがどっと膝をつき、胴に刻まれた十字の切痕からどくどくと赤黒い血を垂れ流す。致命傷。今日一番の深手だった。

「あの時、海中に逃げていたのか……!」

「はあ、正解だ、アクアノート」 

 雹が真夏に落下する寸前、真夏は真下の地面を霊器で砕氷し、雹に押し出される形で氷の地下の海に脱け出していたのだ。身体への直撃は逃れられなかったが、海に脱する事で致命的なダメージにはならなかった。

 凍土の氷は分厚い。海中にいる事、それに加えて決定打に劣る真夏の魔法では氷を割って地上へ戻る事は難しかった。明原は真夏が生きていると信じ、その壊滅的な脚力で氷を破砕し、アクアノートのヘイトを集めつつ脱出経路をつくった。

 だが普通に出てきてもアクアノートに反撃されるだけだ。故に、アクアノートの隙が出来る瞬間まで待った。

 真夏は明原が手を打ってくれると信じ。

 明原は真夏が生きていると信じていた。

「終わりだ、アクアノート。おれたちとお前は分かり合えない」

「ぐ……! おのれ!!」

 恥も外聞もなく叫ぶアクアノートが杖を突き出し、先端から氷の礫を飛ばした。片手に持っていた真夏の『杖』が弾かれる。

 くそ、と心中で毒づき、しかし予断を挟まず躊躇なく鉄拳をアクアノートの切痕に突き刺した。衝撃に悶える男の頭部へ回し蹴りを叩き込むと、アクアノートは手から『杖』を手放した。

「これでお互い丸裸だ。遠慮なく殴り合いとしゃれこもうぜ」

「図に乗るな、体術なら私に勝てると夢を見たか!」

 アクアノートは上着を手に取ってばっと宙に投げ捨てる。明かされたその肉体は、魔法使いとは思えぬ程に筋骨隆々であり、心身共に強かに鍛えていたのだとわかった。明原が貫いた傷と、今真夏が付けた十字の切傷、それらは氷で覆い、強引に止血していた。

 ただ、指輪をつけたネックレスだけは首にかけたままだった。

「はっ!」

 アクアノートの横薙ぎの手刀を屈んで避け、返しの肘を入れるが、それは片手の掌で受け止められた。ぱきぱきと肘が凍り付いていく感触に、真夏は咄嗟に距離を置く。離れた瞬間、ごっと蹴りを叩き付けられるが、両腕で頭は庇った。そのままガッと男の片足を両手で掴み、野球バットでも振るうかのように男の身体を持ち上げ、ドゴンッと地面に叩き付けた。

「ッ!」

 舞い上がる冷気の粉塵の奥、アクアノートの双眸が真夏を射抜く。冷酷が形を成したかのような絶対零度の視線。それに気圧された真夏は反射的に脚から手を放した。瞬間、アクアノートの足先から氷のナイフが飛び出し、首を曲げた真夏の頬を掠めた。 

 転して立ち上がったアクアノートの足元から氷の棘が跳ね上がり、真夏を囲うように飛び出す。捌き切れない、と悟る。

 ――退くか。

 ――いや!

 さらに、前へ。力強く踏み込み、肩に棘が刺さる痛みを堪えながらヒュッと空を切って貫き手を差し出す。片腕で捌かれ、返しに横薙ぎの脚撃を加えられるが、片足を折り畳んで受ける。

 一瞬の硬直、そしてお互いがほぼ同時に距離を置く。対応策を講じる時間を与えずに真夏は反撃を恐れず前へ進み、ドッドッとダンベルで殴るかのような強烈な打撃を連続して与える。アクアノートはそれらを全て受け、弾き、捌き切る。

 驚異的な体術だ。このまま普通に殴り合っては埒が明かない。

 真夏が腰を低くし、血に濡れた左脚で下段の横蹴りを放つ。槍の一突きのようなそれをアクアノートは身を捻って対応するが、脚の脹脛の血が突然蠢き出し、凝血の茨となってアクアノートに向かって放射された。

 真夏の完全なる奇襲を、アクアノートは防ぎ切れないと瞬時に悟り、身体と最も近い数発をその頑強な肉体で受けた。そして残りは全身に薄く覆った氷で防御した。弾かれる血の茨に、凝固がまだ不十分だったと内心で舌打ちする。

 姿勢を整えた真夏が勢い良く踏み込むと、バンッと踏み込んだ先の足場が割れ、足がずぶりと沈んだ。態勢が崩れ、仇敵に致命的な隙を晒す。

「ッ! 足が――」

 アクアノートが付近の氷に何か細工したのだと即座に看破したが、意味はない。身動きが取れないまま氷を纏った拳で顔面を殴られる。砲丸投げをゼロ距離でぶつけられたかのような一撃に脳裏がスパークし、衝撃に躯体が戦慄く。

 ――二撃目が来る!

 知覚せずとも本能でそれを察し、その瞬間、後方からズガッと破砕音がした。

「!!」

 赤毛の魔法使いが氷の牢獄を打ち破り、砕氷した堅氷をアクアノートへ蹴り飛ばした。速度は大した事なかったので早々に避けられたが、一個だけ真夏の後頭部に当たった。

「痛いんだが……」

「ごめんごめん」

 ケラケラと悪気なく笑って明原は真夏の足が埋まった足場を震脚で粉々にする。次いで、ひゅんひゅんと大道芸のようにナイフを弄びながら冷笑した。

「正々堂々なんて言ってらんないからね。卑怯者ー、とか言ってみる?」

 いつもに増して切れ味の鋭い明原の煽りにもアクアノートは動じず、ふっと嗤っただけだった。

 それ以上の談笑もなく、両雄は激突する。

 雷雨のような拳固と手刀の乱打。交わす言葉もなく二人は連携ができていた。

 魔法使い二人による怒涛の猛攻に漸くアクアノートにも底が見え始めた。真夏はもとより、傷ついているとは言え近接火力の高い明原の剣技には対応し切れず、明確にダメージが入り始める。『杖』のない状態では繊細な魔力操作は出来ない。

 いける、と真夏が確信した時、アクアノートの全身からゴッと魔力が立ち昇った。豪風にも似た圧力に真夏は喉を突かれるような感覚を覚える。

「…………!!」

 何かの予備動作。二人は警戒心を高め、揃って攻撃を中止した。

 恐怖心からか警戒心からか、真夏は思わず後ろに退いてしまった。

 それが、悪手だった。

「待て真夏!!」

 焦燥感に満ちた明原の制止を真夏は耳で捉えながらも、身体は既に後退していた。

 明原の叫びに応えようとした瞬間――ゴッ、と。

 後頭部から背中にかけてトラックにぶつけられたような衝撃と痛みが炸裂した。

「…………!? ヅッ……!!」

「真夏!!」

 落雷に当たったように全身の筋肉が強張り、思考がショートする。感覚で何となく「おれが退いた先にアクアノートが氷の壁を配置していたのだ」と理解した。

 真夏の反射神経を利用したアクアノートの策だ。『これから攻撃するぞ』とアピールする事で自分を注視させ、盲点に罠を置く。明原はその不自然さに逸早く気付いたが、真夏はそこまで考えが至らなかった。

 そして無防備の怨敵の回復を待つ程アクアノートは甘くない。一秒と経たずに三条の水流の鉾が大気を穿孔しながら真夏へ迸る。当たれば確実に死ぬ。真夏はそれを、認識する事さえ出来ない。今の真夏に許されるのは、ただ虚無のような死を待つ覚悟をする事だけだ。

 三つに刻まれた男子中学生の遺体が無様に転がる、数瞬前。

「…………?」

 真夏は何かに突き飛ばされ、どんっと地面に転がった。痛みはない。意識を取り戻して瞼を開けた時、ぽたりと血液が頬に落ちてきた事で奪われた五感は完全に回帰した。

 ぼとぼとっと。凍土の青白さを、吐き出された血塊が赤く染め上げた。その血は、真夏のものではない。

「あけ、はら……」

 赤毛の少女――明原が真夏を庇うように立ち、細身の躯体が水流に貫かれていた。

 嘔吐するように口から尋常ではない量の血を吐き出し、躯体に空いた風穴が彼女の命の灯が消えかけている事を知らせていた。

「ああ……、誰かの命を守るなんて、ごふっ、慣れない事はするもんじゃないなぁ…………」

 明原は悔いるように苦笑いを浮かべ、ごふりと吐血する。

 アクアノートの追撃が感傷に浸らせてはくれない。進撃する水流の斬撃に、不安定にぐらつく明原の身体を抱えて転がるように避ける。

「二位くん」

 明原は血の気の失せた唇で真夏の名を呼び、ドンと胸に拳を突き付ける。虚をつくような名字呼びに少し驚く。

 他人の血で染まったその拳を、柔和で朗らかな笑みを浮かべながら。とても死にかけとは思えない穏やかな声音で。

「二位くん。勝って。みんなの未来を守って」

 それだけを告げて、明原は死んだように瞼を閉じた。その場にそっと寝かせ、魔法で止血だけ行った。

 真夏の瞳から悲嘆の色が消え、覚悟の光が灯る。言いたい言葉も悲しみに暮れるのも、今は心の中に押し込んで堪える。

「ああ……。そうだな。わかってる」

 生きて帰る。この場において真夏はその為だけに戦っている。

 アクアノートからは見えない角度で、バキバキと血を凝固させた大太刀を作り出す。腕と服に染み付いた血をぶわりと一滴残さず血花へ昇華する。朱色の湯気が上昇するように花々が片腕から生まれ出づる。

 ――違う。ダメだ。こんなものではまだダメだ。

「もっと……、もっとだ」

 真夏は躊躇いなく利き手でない右腕を浅く斬った。ばしゃりと吹き出す血潮は絶対零度の世界に紅く照らし出され、血花が少年を禍々しく彩った。

 血と花を侍らせる真夏の姿は、力と狂気に溺れる魔女のようにも映った。

「…………」

 アクアノートは背を向ける真夏と明原に、何故だか攻撃しようとしなかった。今も尚真夏を正面から挑戦的に見据えるのみ。

 正々堂々のつもりか、それとも魔法の準備なのか。どちらでも今は関係ない。

「これで――、ほんとに最後だ」

 びゅう、と彼我の間に吹き抜ける冷たい風が音を失くした時。

 二人の魔法使いの姿は、霞に掻き消える。

 振り翳す血刀。アクアノートは手元に生み出した氷の盾で防いだが、即興で造形したものなので容易く砕かれ、斬撃がアクアノートの胸を浅く裂いた。

 アクアノートが一歩退く。それに追随して真夏が前へ踏み込む。

 パキキ……、と掌の水流が、霜が降りるように凍り付き、瞬く間に氷の大剣となった。青白い大剣と紅花の太刀が対を為すように激突する。

 ギン、キィンと紅の流星と青き閃光が星屑のように何度も弾けて凍空に散った。砕けた血と氷の塵がキラキラと粉雪のようにちらちらと銀世界に舞い降りた。

 真夏もアクアノートも魔力を消耗し過ぎた。故にシンプルな白兵戦に打って出たのだがそれでも、真夏はやや劣勢を強いられていた。

 火花が散るような鍔迫り合い。睨み合う両者。どかっと真夏が鳩尾に蹴りを加え、奴から距離を突き放す。血花を太刀から放射しながら独楽のように回転し、勢いと強さを増した小型の台風となってアクアノートへ切り込む。

「…………!?」

 再び刃と刃がぶつかり合う――事はなかった。

 真夏が太刀をアクアノートの氷刃と重なり合った時、どろりと溶けるような感触が手に伝わってきた。

 アクアノートの持つ氷の刃が融けて始めていたのだ。液体から固体へ温度低下させたように、固体から液体への温度上昇も可能なのだ。

 液体と接触した途端、刃の形は崩れ始め、殺傷力を失っていく。数秒とせずに長刀から鉈程度の短さへ縮小した。

 最大の得物の喪失に、アクアノートは勝利を確信する。

 ――が、その油断を払うかのように一筋の閃光がアクアノートの胸を貫いた。

 アクアノートが僅かに気を緩めた一瞬の間を縫い、零距離まで急加速した真夏が、人の肉体を裂ける強度などない血刀で、仇敵の心臓を突き刺していた。

「な、に……」

 肉体に侵入する異物の感触に、アクアノートは即座にその正体を洞察した。

 真夏の持つ柄から血が剥がれ落ち、『中身』が露わになる。

 ――真夏が持っていたのは、明原の『杖』であった。

 先程明原は自身がこれ以上動けない事を察し、真夏に『杖』をこっそり渡していたのだ。真夏は明原の意図を如実に汲み取り、ナイフ形の『杖』を血液でコーティングしていた。アクアノートからはただの血で造形した太刀にしか見えないように。

 背中まで突き出たナイフから伝わる触感が、怨敵の命の危機を知らせていた。誰が見ても明らかな深傷。放っておいてももう死ぬ程の致命傷。

 だがそれでも、深海の魔法使いは諦めるという言葉を頑固として認めなかった。

「――まだだ!! 私が折れる事は断じて許され――」

 言い終える前に、真夏はナイフを引き抜き、流れるようにその鋼の肉体を何度も斬り付けた。幾重の線状の切痕からドパッと堰を切ったように血が噴き出て、頭から全身に返り血を帯びた。

 水神と呼ばれる男は、それでも倒れなかった。死ななかった。

 敵とも思えぬ程に哀れな様に、真夏は柔和な声音で告げる。

「もうやめろ。アクアノート。お前は魔法なんて使うべきじゃなかった」

 ネックレスの紐がぶちりと千切れ、繋がっていた二つの指輪が地面に落ちる。

 ちりん、という音を最後に、アクアノートの意識は混迷に突き落とされた。



 様々な感情が混雑した真夏の声が、底の見えない暗闇を震わせた。

 深海のような闇の底が、アクアノートの四肢を絡めてずぶずぶと沈ませていく。

 魔法使いであっても確実に死ぬ致命傷を負っていながらも、痛覚は何も訴えなかった。

 そうか、これが『死』か。死ぬという事か。

 死の淵から落とされ、命を賭した野望さえも打ち砕かれた筈なのに、心は凪のような穏やかさを湛えていた。

 埋没する意識の最中、アクアノートがこの世で最も忌み嫌う『海』が、全身の五感にこれでもかと沁み渡る。

 ――潮の刺すような臭い。水の冷たさ。光の届かない海の黒さ。

 ――ああ、だから嫌いだ。

 ――私は、私の魔法が嫌いだ。

 ――その全てが彼女の『死の色』だから――――…………。



 アクアノート――かつての名を、カール。

 それは『深海』の魔法使いが、どこにでもいる泥臭い少年だった頃の記憶。

 少年が生まれ育ったのは、魔女の文化が根強く遺っていた辺境の村だった。電気も水も通っておらず、周りには少ない民家と足場を覆う程の畑、畑、畑。化石のような文化を語らう老害。

 災害が起こるのは全て天への供物が足りないから。障害を患って生まれた子はきっと前世での行いが悪かったのだ。

 カールの両親は強盗に殺された。金品を奪われ、後には無力な子供のみが残った。

 村人たちが天涯孤独の少年へ向けたのは哀れみではなく無関心。自業自得に違いない、等と訳の分からない事ばかり口走っていた。

 一人で生きていくしかなかった。

 人間不信じみていたカールにとって、老害共の言葉はただの現実逃避と自己満足以外の何物でもなく、欠片の興味もなかった。

 カールの唯一の趣味は、歌だった。両親が教えてくれた歌だけが当時のカールを彩るものであり、希望だった。

 だが村の老体共に聞かれては何を言われるかわかったものではない。だからいつも村から少し離れた人気のない海辺で歌の練習をしていた。

 その日も特に何もなかった。ただいつも通り浜辺で発声練習を始めていた。

 ただ、あの少女と出会った事以外は。

「素敵な歌」

 少女が微笑みながらどこからともなくひょっこり現れる。その少女が余りにも綺麗だったので、童話の人魚が人間に姿を変えたのだとカールは思った。

 少女は名をハーパーと名乗った。

 ハーパーの実家は宗教を行っており、彼女はその教祖だった。

 彼女の家には貢物と人々の足跡が絶えない。奇跡のように恵まれた外見と人の心身を絆す声音、人は彼女を『水神』と崇め讃えた。

 カールは昔遠目で彼女を見た時の事を思い出す。まるで女王のように大人を何人も侍らせ、その中心で乾燥した笑みを浮かべていたのを。

 こんな所にいていいのかと問うカールに、彼女は酷くつまらさそうに唇を尖らせた。

「別に、あそこにいるのは私じゃなくてもいいもの。あそこにずっと座っているのは退屈だし。ね、それより君の今の歌、もう一度聞かせてよ」

 ハーパーは実家ではとても甘やかされているようだが、その態度が寧ろ不快だと彼女は語った。血の繋がった肉親なのに、まるで金持ちのお客様と接しているようだと。

 両親は自分が逃げ出す事を恐れているので、やりたい事は言えば大体叶えてくれる。外出は一時間までならと許可を出してくれたそうだ。

 不思議と彼女の声はカールの心をあっさりと解きほぐし、互いの境遇を話し合った。双方の共通点からか、二人はすぐに仲良くなった。

 彼女に恋をしたのはいつからだろうか。共にいる一時が何よりも至福の時間で、生涯を分かち合いたいと願い始めたのはいつからだろうか。

 色んな話をした。一晩寝れば忘れるようなどうでもいい話を。いくらでも出来た。彼女となら。

 一時間だけの海辺の逢引。二人が心を交じらわせるのに、そう時間はかからなかった。

 凝り固まっていたカールの価値観も、徐々に氷解していく。噓偽りのない笑顔ができるようになっていた。

 秘密の逢瀬を重ねて早数年。大人になっても二人は変わらず睦言を交わしていた。 

 其の頃にはカールの人間不信などとっくに消え去っていた。自分は何と狭量だったのか。人は信じれば理解し合える。彼女のように美しい人もいるのだ。

 そう。人は分かり合える。きっと村の人々も、話せば分かる筈だ。

 そう、信じていた。

 彼女が溺死するまでは。

 その日、カールはいつも通りどちらが決めた訳でもない定刻に海辺へ向かっていた。

 カールは二人分の結婚指輪を持っていた。カールはその指輪でプロポーズをする予定だった。

 ドキドキと高鳴っていた心臓が落ち着き始めた時には、既に定刻から30分が過ぎ、一時間が過ぎた所で、カールは立ち上がって村に舞い戻った。

 村に戻る途中、そこには葬式の参列のような人だかりができていた。場所は二人の待ち合わせ場所とは違う海辺。流れが強く、要所要所に深い所があるので遊泳禁止と注意看板が張られていた場所だ。

 人々の視線の向かう先、そこには何よりも愛しい少女がいた。

 ハーパーは地上から30メートル以上離れた高台にいた。両手足を縛られており、端正な美貌も今に限っては憔悴し切っていた。宛ら処刑台に上る罪人のように。

 何を執り行っているのかは一目瞭然だった。

 何故。どうして。水神と崇められていた彼女が、あんなところに。周囲の村人がコソコソと話し合っているのが聞こえた。

 曰く、あの女は魔女だと。

 曰く、村人を騙して金を毟り取っていたのだと。

 今まで彼女の世話になった人間が、蠅の羽音のように口々に呟いていた。

 後に調べてわかった事だが――ハーパーは魔法使いだった。

 彼女は生まれながらに魔法が使えたが、彼女の両親はそれを神から与えられた祝福だと都合よく解釈し、金蔓として利用していた。子供ながらに自分が異端だと気付いたハーパーは、それをひた隠しにしていた。

 しかし信者の一人の悩みをこっそり魔法で解決した時、口止めをしていたにも関わらずその信者は周囲に魔法の事を言い触らした。すると老人共は途端に「あの女は魔女だ」「殺さなくては村の存亡に繋がる」等と嗄れ声で喚き始めた。

 少女の処刑が確定するまで、一時間とかからなかった。

 人波を強引に掻き分け、ハーパーの下まで進もうとするが、途中で衛兵の男たちに阻まれる。

 海を挟んだ先にいる彼女が、カールを見つけた。驚愕した後、涙を堪えるように顔を伏せた。

「ハーパー!!」

 叫ぶ。余りの怒号に、喉が潰れたんじゃないかと思う程に。

 衛兵に押さえつけられ、地べたに這い蹲って泣き叫ぶ事しかカールには出来ない。

 愛する男の涙に濡れた叫喚に、ハーパーは切なげに目を細め――、最後は、にこりと微笑んだ。

 美しくも儚いその笑みに、カールは彼女が生きる事を諦めている事を悟った。

 ――どんっ、と。

 カールの訴えも虚しく、ハーパーはあっさりと高台から突き落とされ、ばしゃっと水飛沫を上げて海の底へ沈んだ。

 両手足を重石をつけた手錠で拘束されている。まず助からない。助けに行けない。

 死んだ。

 死んだ。死んだ。愛する人を、生涯を分かち合った恋が、今目の前で死んだ。

 カールは何度も何度もその名を呼ぶ。走り出そうと踏み込んでも、あっさりと数人の男たちに取り押さえられ、連行される。

 少年は、余りにも無力だった。

 現実という非現実的な絶望に、抗えるだけの『力』がなかった。


 ……憎い。

 大恩ある人間にも容易く牙を剥き、数という羽虫が寄ってたかっただけの衆愚の象徴で優しき強者を引き摺り下ろす。その蛮行、畜生にも劣る。

 恋を誓った少女への無尽蔵の愛が、闇さえ呑み込むような黒き憎悪に変貌していく。

 魔法は人の心を種床にする。カールの強い憎しみが魔導の杖を呼び寄せたのは、ある種必然だった。

 少年が魔法使いとして覚醒した晩。まず村人を皆殺しにした。殺したくて殺した訳ではない。ただあちらから仕掛けてきたのでハエたたきのように潰しただけだ。

 その後カールは『深海』魔法を用いて、彼女の沈んだ海の近辺をバケツで汲むように持ち上げ、ハーパーの遺体を引き揚げた。

 生来の美貌が見る影もない。血色の悪い冷たい身体を抱きしめながらカールは血涙を流した。

「――なぜ、強者が迫害される……。なぜ……! あんな無能共に……、殺されなければならなかった……!!」

 ――なぜ――どうして、そんなことをする必要があったんだ

 人は、生まれただけで――、

「決めたよ……。ハーパー」

 少年は少女と夢と愛を語り合った海で憎悪を願う。

「君のいる世界をつくる。君が生きれる世界をつくる」

 世界を壊して。ゴミを淘汰して。強者だけを選民して。

「全てが生まれ変わったら……、その時、また会いに来るよ…………。この指輪を持って…………」

 ――カールはこの日、水神の魔法使いになった。



 どさっと男の長身が後ろ向きに倒れ、熟睡するように沈黙している様を見て、真夏は漸くほっと一息を吐く。魔力の流れは凪いでいる。反撃はない。

 倒した。

 今度こそ、絶対に。

 鉄のように硬く冷たい自然落下のように腰を下ろし、背中を倒れこむように傾けると、とんっと温かい手の感触が真夏の肩を押さえた。

「…………お疲れ様。二位くん」

 明原だ。重症を感じさせない朗らかな笑みを浮かべ、真夏を支えている。人格は死神の方ではなくいつも穏やかな方だ。

「……明原……、怪我は大丈夫なのか」

「はは……、何かもう殆ど回復してて」

 そう苦笑いして明原は、ボロ雑巾と化した上着を捲り上げて超スピードで再生しつつある腹部の傷を見せた。年頃の女性としてその行動はどうなんだと思った。

「…………」

 医者志望としては彼女の異様な回復速度には、好奇心や疚しい気持ちよりも先に朧気な憂慮が心中を燻ぶった。

 魔法ファンタジー等の作品では自然治癒力が高いという設定は使われがちだが、現実的にはどうなのだろうか。魔法による効果はデメリットはないのか、それとも何か別の――。

 いや、今考えても仕方ないな、と思い直し、話題を切り替える。

「雪丸と燃々に連絡……しないとな。明原、スマホは?」

「壊れてる……。お、お母さんになんて言えば……」

「いつの間にか鞄も流されてるな……。通信機もない……。またあそこに戻らなきゃいけないのか。めんどい」

 疲労の溜まった身体に鞭を打ち、明原に肩を借りながら歩き出す。

 しかし、一歩踏み出す直前。

「なぜ……、何でだ」

「――!?」

 後方から、潰れた喉から発せられたような拉げた声が響いた。心臓を素手で握られたような感覚に二人は音源の方向を振り向く。

「アクアノート……」

 男の声は誰かに問いかけるような口調ではなかった。地獄を乗り越え、死闘に敗戦した先に、堪えてきた何かが封を切って零れ出た。意識的に発した言葉ではなく、誰に聞かせたい訳でもない、単なる独り言。

 紳士然とした屈強な男の顔が、今だけはとても幼く見えた。

 義憤も怨毒もない言の葉に、二人は警戒ができない。別に無視しても構わない筈なのに、二人はその男の言葉に耳が釘付けになった。

「なぜ、人は……、他者との間に、優劣の壁をつくりたがる…………?」

「――――――――」

「人は、生まれただけで……、生きてるだけで……、それだけで、価値があるとは思わないのか……。それだけじゃ……、駄目なのか……?」

 それは、アクアノートの完膚なきまでに砕かれた器に残った『本音』。

 無関係の人々を大勢殺し、世界に自我と野望を押し付けようとした男が、末路に立ってから吐露した『願い』。

「…………」

 真夏はアクアノートを倒した事を後悔していない。例えどんな過去があろうと、涙なしでは語れぬ回想があったとしても、現実に起こした事象が全てだ。

 なら、この感情は何だろう。彼もまた魔法の被害者だと知って、自分は何がしたいのか。

 ――同情しているのか?

 それは多分違う。他人から向けられる不幸の物差しほど不快なものはない。

「?」

 ふと、銀の光が真夏の眼球を突いて、視野を狭める。眼差しを向けた先には、アクアノートが肌身離さず持っていた二人分の指輪。その付近にはアクアノートが脱ぎ捨てた青を基調とした上着が。

「…………」

 真夏は明原から離れ、辿々しい足取りで二つの指輪と上着を拾った。長時間放置されていたそれらは、悲しい程に酷く冷たかった。

 真夏は両手にそれぞれ指輪と上着を持ち、アクアノートの上半身に上着を被せ、その上に指輪を添えた。

 アクアノートはもう何も言わなかった。

 閉じた両目の瞼から、つう、と一筋の涙が零れた。極寒の地に滴る涙は徐々に凍結し、地面に落ちて割れた。

「…………」

 真夏は数秒の間、黙祷するように静かに目を閉じていた。目を開け、後ろで見守っていた明原の方に振り返る。

「帰ろう、明原。おれたちの教室に」

「…………うん」

 苦々しく微笑む明原。その直後、真夏と明原の名を聞き慣れた大声で叫ぶ者がいた。

 少し離れた先に、未だ凍り付いたままの船の甲板から身を乗り出している少女が、遠目からでもわかる笑顔で二人に両手をぶんぶん振っていた。傍らには、見知らぬ男を魔法で鷲掴みにしていた雪丸が、呆れ顔をしながらその男を投げ捨てていた。

 対照的な燃々と雪丸の態度に、二人して顔を見合わせて苦笑する。

 太陽の光が雲間を裂いて凍土を照らす。涼やか青空の下、真夏と明原は歩き出した。

 少年少女のひと夏の死闘が、ここに終わった。

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