第十一話 アクアノート
全長150メートル程の巨大船が大海に揺れていた。白塗りを主とした外見はまるで豪華客船のようであり、堅牢な要塞にも思えた。
その大型船に向かって、何の変哲もない一隻の小型船が直進していた。小型船には四つの大岩程度の大きさの袋が載ってあった。その内一つが、もぞもぞと近くで見なければわからないぐらい僅かに動いていた。
ザザザと白波をかき分けて進む船は大型船との距離が縮まるにつれ徐々に失速し、大型船の後部に近付き、そこで停止した。
大型船の甲板から二人の乗組員が現れる。すぐ下に停まる小型船に向け、口に手を添えて声を張り上げる。
「運搬の当番だな? お疲れさん。だがもう少し離れろ。近すぎて引き上げられねえ」
「いや必要ない」
「ん?」
小型船に載っていた袋の一つが開け放たれ、そこから二つの影が飛び出し、数メートル上の廊下の落下防止柵に人の形となって現出した。
二位真夏と明原玖秭名だ。
一驚する間も与えずに真夏は、近くにいた男に裏拳を叩き込んで意識を奪う。同時に明原がもう一人の男に腹部へ蹴りを一発加えた。男は痛烈な一撃に意識を失い、だらりと垂れ下がった。
「こいつらこれどうやって引き上げるつもりだったんだ?」
「確か船を引き上げる専用の機械があったと思う。名前は忘れちゃったけど」
「ふーん」
気絶した二人を真夏が首根っこを引っ張って小型船に投げ捨てる。操舵室から姿を現した雪丸が手をかざし、不可視の掌底でごんっと受け止めた。男たちを掴んだまま船内に押し込んだ。どうせすぐバレるが、せめてもの時間稼ぎだ。
「これからどうするの? もうこの船沈めちゃう?」
操舵室から出てきた燃々がさらっと恐ろしい事を口にする。有言実行出来る事実の方が恐ろしいが。
「いや、それはアクアノートを倒してからだよ。『優生思想』の親玉は確か『海』の魔法を扱うんでしょ? だったら船を破壊するのは悪手だ。海そのものを操る事だって不可能じゃない筈だからね。船内でケリをつける。第一足場を壊したら僕らも戦いにくい」
雪丸の正論に「そっかー」とあっさり納得する燃々。とは言え、『物体を正しく認識し』、『どのような事故を起こすかイメージしながら』、『手で触れる』というプロセスを踏まなければ魔法は発動しないのだが。
燃々と雪丸の二人は、ひょいっと魔法を使う事もなく数メートル上の廊下へ飛び乗った。四人揃ったところで、アルマから通信が入った。
『じゃあこれからは真夏と玖秭名、雪丸と燃々の二手に別れて行動するよ。新宿のスクランブル交差点のように押し寄せる人々を叩きのめして、大ボスまで進もう!』
全く売れなさそうな売り文句を口にするアルマにウンザリしつつ、「何でその編成なんだよ」と質問した。
『燃々の魔法は極端だからね、一人で勝手に強い雪丸といた方がいい。雪丸は中、近距離でも大体対応できる。一人くらいお荷物がいても大丈夫だよ。真夏と玖秭名は戦闘スタイルが似てるしね。お互いの邪魔にはならない。玖秭名は真夏の毒には気を付けて』
「はい。二位くんの毒に気を付けます」
「言い方」
あらゆる意味で誤解を生むからやめて欲しい。
『援軍はおよそ12分後だ。それまで死なないようにね。期待してるよ、僕の生徒たち』
ぶつっ。
「言う事だけ言って切りやがった……」
「例によってかな」
奴の得手勝手で不羈奔放な言動にも大分慣れてきた。頭を切り替えて三人の方へ向く。しかし、後方から響いた怒号が邪魔をした。
「貴様ら、何者だ!? 我々『優生思想』のメンバーじゃないな!」
反射的にそちらを振り向く。『優生思想』の構成員に見つかった。銃を構えている。日常生活において最も縁遠く最も有名な破壊兵器に、真夏は背筋に寒気が走るのを知覚する。
真夏はぐっと拳を握り、多量の出血を起こす。発砲する前に血花の霧が構成員を覆い、全身を斬り刻んだ。朱色の霧が晴れた時、男は血塗れで気絶していた。軽く斬ったが毒で動けないだけだ。死にはしない。
真夏は仲間の方へ振り返る。
「……こういう時、何言えばいいのかわかんないんだが、」
言葉を切り、血濡れの拳を再度固めた。
「生きて帰ろう」
心中で蟠っていた想いを簡潔にそのまま吐き出した。大一番の直前でこんなありきたりな台詞しか言えない自分に嫌気がさす。案の定、雪丸に鼻で笑われた。
「当たり前の事を一々口にしなくていいんだよ」
多分それは、彼なりの気遣いだったのだと思う。真夏は困ったように笑った。
と、騒ぎを聞きつけたのか、更に大勢の構成員が甲板に身を乗り出した。怒号を上げながら四人を挟む形で十名程のスーツの男が武器を構える。
「ちっ」
真夏の真後ろ、銃口を向ける男へ明原が飛び出し、即座に蹴りを放つ。それに平行して雪丸が手を振るい、魔法の上腕で眼前に並ぶ複数の構成員を一蹴した。二人に気を取られている隙に真夏が血花を発生させて男たちを巻き込んだ。
「行くぞ!」
真夏の号令に、四人の魔法使いは散開した。
警棒の横薙ぎを屈んで躱し、胴に強烈な拳撃を加えた。一撃で崩れる男の胸倉を掴み、後方で銃を持っていた男に投げ付ける。背後に潜んでいた明原が、それに気を取られた男の背中を擦れ違い様にナイフで斬り払い、気絶させた。
倒れた男二人に安堵の表情も浮かべず、真夏と明原は豪華客船宛らの廊下を走り抜ける。
有象無象ばかりだ。
多分碌に銃の訓練も受けていない。当然真夏も扱った事はないが、多くの構成員が実銃を使用する事に躊躇う仕草が見受けられた。その合間を縫えば倒し伏せるのは容易い。
――とは言え、大の男を倒すのは流石に体力がいるな……。
「侵入者だ! 男女それぞれ二人ずつ! 見つけて殺せ!」
「いや魔法使いの可能性もあるんじゃないか? まずは水神様に一報を!」
「主神様のお耳を汚す必要もない! 我らで殺せ! そうすれば俺達の評価も良くなるぞ!」
船の内部に向けて走る二人の耳に、雷親父のような怒鳴り声が届いた。どたどたと大人数が鳴らす足音がこちらに近付いてくる。その足音を聞いた真夏は、真横にある客室のドアノブを捻った。鍵がかかってない事が幸いし、あっさり部屋に入れた。明原もそれに倣って入室し、バタンと扉を閉めた。
後に、扉の向こう側の廊下から聞こえる足音が通過し、やがて小さくなった。
「……あいつ、水神とか主神とか呼ばれてんのかよ」
真夏の呆れた一言に明原が乾いた苦笑を返す。本当にただの宗教だ。
服の汚れを手で払いつつ、室内を見渡す。真夏たちが侵入している客室は一泊で何万という単位が軽く飛ぶような典雅さだった。ベッドから装飾品までシミ一つなく真っ白に整えられていた。
「……明原……、大丈夫か? いけるか?」
「うん。任せて。まだ魔法は使ってないから、全然余裕あるよ」
ナイフを構えた明原は、その頼もしい響きで真夏を安心させる。無用な心配だったな、と真夏は己を恥じた。
心拍数が落ち着いた頃、真夏は明原に告げる。
「このままじゃ埒が明かない。どっかで構成員の誰かを捕まえてアクアノートの居場所を吐かせるぞ」
「わかった」
扉から足音や怒声は聞こえない。明原に合図をして、ドアノブを捻り、外へ一歩踏み出す。
一歩踏み出した瞬間、そこがつい先程までいた廊下でない事に気付いた。
真夏が踏んでいたのは、赤いカーペットだった。扉を完全に開くと、巨大な広間が視界に広がった。天井には硝子細工のようなシャンデリア、壁の一面を覆う本棚の上に置かれた調度品。
扉と繋がっていたのは、客室の一室だった。
「……? ここは――」
次に入室してきた明原と共に小首を傾げ、部屋に入ると――。
ぞくりと怖気が首筋に走った。
本能が警鐘を鳴らす。それに近付いてはならないと。それは絶望だ。それは魔王だ。決して交わる事のない水の王だ。
「おや。遅かったじゃあないか」
聞き覚えのある美声が二人に届く。
真夏たちが入った部屋の奥。一人の西洋人がティーカップを持って佇んでいた。如何にも高級そうな白い椅子にテーブル。西洋風の室内には嫌になるほど様になっていた。
一見すればそれはただの昼下がりの長閑なコーヒーブレイク――。だが、金縛りにあったかのように真夏の視線は一点に釘付けになっていた。
それが放つ下界の理から外れた冠絶的な『圧』に、真夏と明原は気圧されていた。
「アクアノート……!!」
皺一つないスーツに二人分の指輪を付けたネックレス、一流の彫刻家が造り上げたかの如き精悍な美貌。
そこにいたのは、海の覇王となった魔法使い――『優生思想』の巨魁、アクアノートだった。
二人の姿を認めたアクアノートは、待ち望んでいたとばかりに柔和な笑みを浮かべる。怨敵との邂逅だというのに、真夏には彼を警戒する事が出来なかった。
その時、真夏の指輪が一人でにナイフを取り出し、皮膚を傷つけた。その痛みが真夏を現実に引き戻す。
血に濡れた拳を虚空に突き出す。拳から発生した横向きの竜巻がアクアノートに襲い掛かる。
アクアノートは、一本の『杖』を手に持った。それはおよそ一般的で普遍的な、大衆が想像する杖の形をした『杖』だった。
ぴっと『杖』を振り、赤いカーペットから滝が斜めに立ち昇り、血花を巻き込んで天井に激突した。
水滴がぽたぽたと垂れるカーテンの奥、アクアノートの怪しい笑みが映える。
「Mr.ニイ、Miss.アケハラ。まさか本当にここまで来てしまうとはね。私は今猛烈に感動している。この情動を私の貧相な語彙では言い表せないのが実に残念だ」
感嘆に声を震わせるアクアノート。前と変わらず仕草は大仰だったが、本気で言っているのが伝わる。
「あんたは何も変わらないな。おれたちが不法侵入しても優雅にコーヒーを飲んでいる。イメージ通りだ」
「人は年老いていくにつれ、変化はしにくくなるものさ。それが大人になるという事だよ、Mr.ニイ」
嫌な話を聞いた。
「……あんた、何でそこまで一般人が憎いんだよ。魔法使いにしろ、もっと別の道があったんじゃないか」
話を切り替えるように言うと、アクアノートは一度、ふむ、と頷き、コーヒーカップをテーブルに置いた。
「何で……か。その問い自体にあまり意義を感じ得ないな。戦争も喧嘩も、全ては理屈ではなく感情でやるものだ。私に限った話じゃない。気に食わないから殴る。弱そうだからいじめる。醜聞が聞こえたから寄ってたかって罵る」
穏やかで紳士然としたアクアノートの面持ちから、刺さるような憎しみが伝わってくる。
止まらない。止まれない。目障りな弱者を一匹残らず鏖殺するまで、この衝動は消えない。
殺気を纏うアクアノートが立ち上がる。タクトのように杖で地面を指した。
「憎いから殺す。我らが目指す理想には不平等などない。弱者を根絶した強者だけの夢の世界だ」
「――その未来を止める為に、おれたちがここにいる!」
『杖』を瞬時に『霊器』へ変換し、白銀の太刀を握る。一息でアクアノートの寸前まで迫り、刃を振るった。
当たる直前、再び滝が龍の如く地面から天井へ駆け上がり、血花の太刀を弾いた。体勢を崩した真夏に横から衝撃が襲い、壁まで吹き飛ばした。
「ああ、もう、相手の事情なんて聞くだけ無駄なんだから、最初からこうすりゃ良かったのに。もう待ちきれないわ。骨の髄までしゃぶりつくしましょう」
真夏を蹴飛ばした張本人――魔法の人格を現にした明原玖秭名が、口を三日月の形に裂いて恍惚と笑う。普段の彼女からは考えられない戦いの愉悦に浸った笑みだった。
「食前酒(アペリティフ)はもういいわ。今は刺激物の口なの。ラビアータにしてくださる?」
「食べたいのなら、いくらでも」
明原が片手に持った『杖』は、長さ17センチ程のグリーンベレーナイフだった。なんとなく機会がなかったが、彼女の『杖』を見たのはこれが初めてだ。
ナイフを振り回す明原へ、四方から魚群がわっと飛び掛かる。サイズは小さいが、当然の如く肉食魚だ。
弾指の間にナイフが流星のように瞬く。頭部を斬り、腹を掻っ捌き、頭から尻尾まで真っ二つにし、原形がなくなるまで粉々に斬り刻む。返り血一滴浴びる事なく十数匹の肉食魚をナイフ一本で殲滅した。
少女が水と魚と血と刃物で踊っている。嬉しそうに。楽しそうに。
「肉が硬そう。刺身にもならないわね」
自身が刻んだ魚の切り身を白眼視し、次いで倒れ伏す真夏に刃先を向けた。
「ほら、真夏! いつまで寝惚けてんの? とっとと起きなよ」
――ま、真夏……?
予期せぬ下の名前呼びに真夏は少々ぎょっとする。取り敢えず誰彼構わず暴行を加える事はないようだが、ドS感のある明原に真夏は何とも言えない気分になった。
真夏の感傷はよそに、アクアノートは杖を明原に向けると、先端から水鉄砲を放射した。
「んっ」
首を軽く曲げてレーザービームのようなそれを容易く躱し、くるりと反転、横っ腹に蹴りを叩き込んだ。
衝撃に身を震わせるアクアノートに向けて白刃を水平に薙ぐ。しかしそれを紙一重で回避したアクアノートは、後方に下がりつつ杖で天井を射す。図抜けた反射神経の持ち主である明原は、即座に天井を警戒する。
「?」
だが何も起きない。心中で疑義の念を抱いていると、真夏が明原が蹴った所を押さえながら叫んだ。
「明原! 床だ!」
「ッ!」
ハメられた、と気付いた時には身体が動いていた。明原はその場で華麗なバック転を披露して床からの攻撃――幾重にも飛び出した水明の槍を辛うじて躱す。
だが判断が遅く、避け切れなかった攻撃が腹部や太腿を掠った。
「この程度では真面に直撃してくれないか」
半秒にも満たない攻防にアクアノートは絶え間なく攻撃を挟んでくる。ボッと弾丸のよう飛翔するのは竜を模った水禍、それに加え未知の海蛇に逃げ道を防がれた。
ナイフを構える明原。だが朱色の暴風雨がアクアノートの海魔法を横殴りに呑み込んで斬り裂いた。
血花の霧から姿を現したのは、太刀を構えた真夏。
「フッ――――――」
太刀を振り上げ、血花の雨霰を四散させるが、水流の壁で弾かれた。舌打ちする真夏の隣に明原が並ぶ。
「随分な重役出勤だね」
「いやほぼお前の蹴りのダメージなんだよ」
「あ、そう? ごめんごめん」
悪びれもしない明原に呆れつつ、傷が修復していくのを肌で感じる。
ばしゃりと青く光る清流がアクアノートを守るように蠢く。全く疲れを見せないアクアノートが諦観を示すように嘲笑った。
「惜しいね、君らは……。私と来れば世界を取れるのに」
「やだね。あそこのラーメンは絶品なんだ」
「あれを失くす訳にはいかないよね」
即答する真夏と明原をアクアノートは鼻で笑い、杖を振るった。アクアノートの足元からどぱっと豪雨時のマンホールのように暗い水が溢れ出す。潮っぽい香りは、これが淡水ではなく海水である事を如実に表現している。
完全に浸水する前に真夏はアクアノートへ飛びかかった。ヒュンッと血花を纏った太刀を刀身が霞むような速度で振り下ろす。
「…………!?」
ギンッと太刀が衝突して火花が散る。アクアノートは真夏の一閃を受け止めていた。
巨大化した『杖』――。否、『霊器』で。
「それは――」
「勿論『霊器』への昇華は成している」
アクアノートの持つ『霊器』は、槍のように伸長した杖だった。先端が渦のように捻じ曲がっており、魔女の持つ杖そのものと化していた。
徐々に浸水し始める床に着地した真夏は、視界の隅に何かが動くのに気付いた。
「あれは……」
真夏を囲うように床を悠然と泳ぐそれは、魚の背鰭。
モンスターパニックとしてこの世で最も有名な光景に、真夏は背筋が凍るような思いだった。
「鮫か!」
海上を横切る魚の背鰭に心身が強張るのは、パニックムービーが身近に存在する現代人の性だった。例え500種の内、30種しか人喰い鮫はいないのだとしても。
いやそんな現代の常識は役に立たない。何故ならこれは魔法使いの抗争なのだから。
――あの時のチョウチンアンコウと同じか……?
影に潜む魚。アクアノートは『シャドウフィッシュ』などと呼んでいたか。海水はまだ足首辺りまでしか浸水していないが――背鰭から推察されるに相応の巨体だろう――、鮫は当たり前のように泳いでいる。
「余所見をする余裕があるのかい」
警戒心が分散され、本丸のアクアノートの攻撃に気付くのに数瞬遅れた。激流の大砲が真夏に直撃し、避ける事も出来ず吹き飛ばされ、ドガッと壁に激突した。
顔を上げた時には、床から飛び出した鮫が黒々とした大口を開けて真夏に飛び掛かっていた。
「うおっ」
慌てて真横に飛び退き、鮫の大顎を回避する。強靭な歯と顎が調度品を飾る棚に喰らいつき、土塊のように粉々に粉砕した。
一度でも噛み付かれたら終わりだ、と戦慄するが、真夏が退いた瞬間に鮫の剛体に一筋の線が入り、一秒後に青白い巨体が真っ二つに分断された。
巨体の割れ目の奥から、頭から血を被ったように赤い少女が姿を現す。
「ああ、手間のかかる……。単調な食事ばかりじゃあ、私も飽きるんだけど」
見れば、明原の背後には数体の人食い鮫がケーキを切り分けるようにバラバラに裁断されていた。山のように積もった鮫の切断死体を背に、明原はナイフの先端をアクアノートに突き付ける。
「本人がかかってきなさいよ! こんな大味で私たちをやれると思ったら大間違いよ!」
明原からのあからさまな挑発にも動じず、水のない円柱状の空間の真ん中でアクアノートは肩をすくめる。
「だったら近付いてみればいい」
出来るものならそうしている。だがこの黒々とした海水に動きを制限され、もう真面に歩く事すら困難を極める。出来ないと分かっていての発言だ。
「ふむ。この程度か?」
意趣返しのつもりなのか、煽るような言葉を告げるアクアノート。顎に手を添え、失望したように目つきを鋭くする。
「君らに会う為に手間暇をかけたつもりだが……、このレベルでは、無駄にしかならないな。まあそれも無理からぬ事か。憎しみも絶望も足りない魔法使い如きに、我が魔道を止める事など出来ない」
「お前と一緒にするな」
アクアノートの長台詞を真夏はぴしゃりと切り捨てる。
「魔法が嫌いだ。魔法使いになんて成りたくなかった。けどそれでも、破壊を選んだのはお前だ。人に奪われたから、無関係の人を殺していいなんて理屈が罷り通るとでも思っているのか」
「……………………」
無言。無表情。終始微笑みを崩さなかったアクアノートが、今この時だけは鉄を混ぜた薄氷のように凍てついた冷血の視線で真夏を射抜いていた。
気温が下がったような気がした。多分、奴の地雷を踏んだのだ。しかし真夏は言葉を止めなかった。
「アクアノート。お前が今まで何をされてきたのかは知らない。お前の気持ちは、人に恵まれたおれにはわからないよ。だがおれは、例え何を間違えても復讐の道に走る事はないと言い切れる。破壊と殺戮だけじゃ人は何れ離れていくから」
「……………………」
「おれは孤独では生きられない。独りで戦争しているお前と、一緒にするな」
海水が膝下まで浸る。こんな事を語っている場合ではないのに、何故か言わなければいけない気がした。
アクアノートは美貌に影を落とす。どんな色が綯い交ぜになっているのかこちらからは視認できない。
杖を持ち替え、渦巻き状の先端で海上を軽く叩く。暗い影が斑点のように海面に浮かび上がり、そこから背鰭が現れた。
「どんな思想にも力という『我』がなければ無為に終わる――。ならば、私を倒してみろ」
更に三匹の鮫が背鰭を見せびらかしながらこちらに突進を始める。明原が切り分ける前に真夏が背後の壁に峰を上向きにして白刃を突き刺し、それを頼りに海中から下半身を引き上げ、ガッと峰に脚を乗せる。
三匹の内二匹が真夏に向け、ダーツのように突撃を仕掛けた。どう見ても海洋生物のそれではない加速。
真夏は天然の魚雷に物怖じせず、太刀の峰を踏み台にして一気に跳躍した。
眉根を寄せる明原とアクアノートの視線を一身に受けながら、真夏は宙を飛ぶ鮫の突撃を躱し、その青白い背中に飛び移った。
「…………!!」
アクアノートの目玉が驚愕に丸くなる。着地とも言えない一瞬。ザラザラとした鮫肌を足裏で感じながら踏み込み、もう一体へ向け素早く跳躍し、弾むように跳んでアクアノートの頭上まで辿り着いた。
時間にして一秒もない間の出来事。その早業にアクアノートは対応が遅れる。
袖に隠していた血で造形したピック二つを指先で投擲、アクアノートの両肩に突き刺す。魔法は発動させない。空中で回転しながらアクアノートの周囲、海水のない円柱状の空間に着地した。
「何を驚いてる。近付いたぞ?」
真夏は両腕を下段に構えるポーズを取る。両手の手の平の出血から赤黒い血刀が生成し、ぐっと力強くそれを握った。あとはもう振るうだけ。
苦肉の策。追い詰められたアクアノートは魔法の制御を手放した。それはつまり流水の動きに秩序がなくなるという事。魔法使いの周囲から見えざる堰が消え、どっと青黒い海水が押し寄せ、一気に太腿まで浸かった。
凝固したての血刀が海水に浸り、どろりと表面が溶け出す。それによってサイズが変化し、刃が丸みを帯びる。殺傷能力が低下した今の状態は木刀と変わらない。決定打には至らない。
故に、即座に真夏は小型化した刀から手を放し、その腹が立つ程に眉目秀麗な顔面を、渾身の左ストレートで貫いた。
「かっ…………」
僅かに血を吐きながらアクアノートは真後ろによろけた。更に右の拳を鳩尾にアンカーのように打ち込む。
強烈な二連撃に躯体を折るアクアノートは、それでも倒れる事はなかった。カウンターに杖で真夏の頭部を横殴りする。油断した隙にアクアノートは真夏に杖での刺突、殴打と連続して打撃を重ねた。
鋼じみた硬さと驚異的な棒術に、真夏は視界が割れるような感覚に襲われる。
――こいつ、近接もいけるのか……!
揺れる意識の最中、アクアノートが追撃を与えようとするが、第三者からの妨害によって阻まれた。
「――!?」
「がはっ!?」
ゾグッ、と。アクアノートの胸部から、一本の白銀が鮮血を迸らせながら凄まじい速度で生え伸びる。アクアノートの鉄板のような胸筋を貫いたのは、真夏の『杖』だ。
後方には、凶器を投擲した明原が水流を掻き分けながら二人の元へ進んでいた。壁に刺したまま放置していた太刀を明原が掴み、アクアノートへ投げつけたのだ。
急所に痛恨の一撃を喰らったアクアノートは、吐血し、温和な態度を崩しながらも、それでも戦いの意思が折れる事はなかった。
「私は…………、私は!」
血走った瞳に狂気が灯る。左胸に白刃が刺さった状態で喚く今のアクアノートに、先刻までの英国紳士の言動は見る影もない。
「こんな所で、負ける訳にはいかんのだ!!」
アクアノートの叫声に応じたかのように海水は勢いを増し、二人の魔法使いを呑み込む。抵抗する暇もなく青黒い冷水は首元にまで到達した。切り刻んだ鮫と自身の傷痍から溢れた血潮が海水を赤く染め上げて視野を狭めた。
幸い、真夏も明原もカナヅチではなかったが、今もなお浸水は続いている。天井まで届くのにもそう時間は掛からない。もう靴底は床から離れた。液体窒素じみた塩水が口腔と鼻腔に入り、肺が悲鳴を上げた。
「ごふ、ぐ、わぷっ……! あ、明原!」
「ぶふっ……、真夏! 手を!」
汚れた衣服を揉みくちゃにする洗濯機の気分を味わいながら明原の元まで泳ぐ。荒波と激流に妨害され、時折鮫の死体にぶつかりながら幾度も近付いて離れてを繰り返す。
彼我の距離残り数メートル――。お互いがお互いに向けて手を指し伸ばしたその時、鼓膜を裂くような爆発音が二人を引き裂いた。
――ドオンッ。
「!? なにっ……」
反射的に爆発の音源へ視線を滑らせる。だが爆発の原因を認識する前に、真夏は突如発生した波濤から海中に身体を沈められた。
「ごっ……、…………!」
流水にかき回され真面に思考回路も機能しない。事態を把握する事も叶わずただされるがままとなってただ一点に身体が吸い込まれるだけだ。
碌に酸素も取り込めぬまま海中に落とされ、勢いを増す鉄砲水にただ全身を嬲られる。海竜の如く暴れる水中に、木綿のように揺れる赤色を見つけた。
真夏と明原は理解に至らなかったが――、二人がお互いの傍を目指そうとしていた時、アクアノートは部屋の壁に風穴をぶち開けていたのだ。
これにより水圧という当然の物理現象が作用し、部屋に溜まった海水が外界に排出されていた。その流れに真夏たちは巻き込まれたのである。
この状況で真夏は何も出来ない。ただ、魔法使いの少女に手を差し伸べるだけだ。
――明原……!
明原に近付き、腕を強引に掴んで引き寄せる。瞼を閉じて筋肉に力が入っていない。後頭部に出血が見られるので、恐らく硬く重い何かがぶつかったのだろう。診察の余裕はない。真夏は明原を庇うように抱き締めた。
「…………!!」
互いの微弱な体温だけを命の証明に、二人はブラックホールのような引力に吸い込まれていった。
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