第七話 首無しの愛

 絶大な殺気を放つ首無しが、上段に構えられた長刀を振り下ろす。強張る筋肉を叱咤し、真横に転んで躱した。一振りで天井からコンクリートの床までが断割し、放置していた黒ジャージの身体が真っ二つになった。

「なっ……」

 いとも容易く行われた破壊と殺人に、真夏が愕然と目を見張る。奥で雪丸が華麗な着地を決めており、ほっと安堵する。

 ――一体、何なんだ、あいつは!!

 魔法使いかカムイなのは確定だが、何故攻撃するのかがわからない。黒ジャージを殺したのは単なる流れ弾か始末したのか。

「おい! あんた何者だ!? あんたも『優生思想』の魔法使いなのか!?」

「――――――」

 ダメもとで喋りかけるが、身体をこちらに向けただけで、やはり返答はない。声が聞こえている辺り、口がないとか以前に対話する気がない様子だった。

「聴覚はある……のか? 超能力的なもので見えてるのだったら、もうどうしようもないが……」

「これはカムイ『デュラハン』。自分の罪を自覚している罪人をあの世に送り届けるカムイだよ」

 雪丸からの解説に、真夏は戸惑う。

「罪だと? おれは――」

 脳裏にチラつくのは、棺桶で眠るように花々に囲まれ、生気のない顔で死に果てる友の姿。

「あ…………」

 そうだ。陽太はおれが殺した。おれの罪だ。

 喚び起こされた過去に蕩揺した真夏に、デュラハンが照準を当てた。長刀を振り回しながら疾風のように接近、真夏に向けて長刀を水平に薙いだ。

 ――はや――……。

 自失から抜け出せない真夏を斬撃の間合いから逃がしたのは、雪丸の魔法。不可視の掌で真夏を押さえ、叩くように横に投げた。

 それと同時にデュラハンが吹き飛ばされる。更に大砲のような一撃が叩き込まれ、支柱に直撃してバラバラに粉砕された。

「雪丸!」

「足手纏いなら早めに死んでくれる?」

 歯に衣着せぬ物言いで真夏を激励すると、上体を起こすデュラハンに打撃を加えて沈め、波濤のような乱打を重ねた。

 息つく暇もない連撃、しかしバツンッと奇妙な音がし、雪丸の攻撃が中断された。突如として天井に切れ込みが入り、デュラハンの斬撃が魔法の腕を切断したのだと気付いた。

「これならどうだ……!」

 体力の回復した真夏が小刃の付いた指輪を握り、出血させる。血潮から咲き乱れる花嵐が首無し武士の身体を呑み込んだ。だが瞬き一つの間に血花が斬り払われ、牽制にもならない。

 生き残った数枚の花弁がデュラハンの首の真上を通り過ぎる。――如何やら首は目に見えないのではなく、本当にそこにないらしい。

 ブンッと長刀が霞み、鎌鼬が発生する。バック転で躱し、疾駆した。

 奴の刀のリーチは長いが、間合いはそれだけだ、斬撃が飛んでくる事はない。しかし本人の動きが速過ぎる。大量の血花では寧ろこちらの視界を塞いでしまう。距離を置いたままでは有効打にはなり得ない。

 ならば、白兵戦。血花を身に張り巡らせ、飛来する辻風を搔い潜りながら本体に接近する。

 血花の叢雨がデュラハンへ降り注ぐ。首無し武士はそれを機械じみた動きで弾いていくが、そちらに気を取られて真夏に意識が向いていなかった。

 ――さっきの戦いで掴んだ。

 ――自分の中にある魔力の流れを!

 真夏が両手に持った何かで、デュラハンの鎧を袈裟斬りにする。鋭い一閃は鎧に弾かれ、傷一つ付かなかった。

 デュラハンが長刀を×の字に交差させて反撃する。強く跳躍して身を翻し、天井を足場に蹴り付けて、デュラハンの背中を斬り付けながら着地する。

 背中の鎧に、ピキリと罅が入った。

 そこ目掛けて血花を纏った刀身を振り上げる。斬撃の軌跡に血花が通り過ぎ、鎧に今度こそ明確に切痕を加えた。

「ダメージは通る。倒しようはあるな」

 真夏が持っていたのは、花々が零れる血潮の太刀だった。

 先の戦いで真夏は魔力操作を物にし、体外で血液を操る領域にまで至っていた。

「少し下がっていて」

 雪丸の声が届く。長刀の一撃を躱した真夏は、言われた通り転がるように後方に退いた。

 その一秒後にデュラハンの体躯は見えざる重力によって電車へ叩き付けられる。バゴンッと鉄の車両が紙屑のように凹んだ。

 雪丸が自分の拳を固め、目の前の何もない空間へ振り下ろす。それに連動してデュラハンが叩かれ、グシャンッと電車の床が突き抜けた。更に血花の雨が降り注ぎ、ズガズガと散弾銃のように電車の装甲を穴だらけにした。

 腕を伸ばした姿勢のまま雪丸が眉根を寄せる。

「……! いない……?」

 赤き雄風が視界の隅を横切る。瞬きするより速く眼前にデュラハンが現れた。全身に所々手傷を負っているが、それだけだった。

 攻撃するより先に本能が防御を選択していた。ばっと血刀を胸の前で身を守るように持ち直す――が、刀が茎を切るように容易く斬り落とされ、ズバッと胴体が斜めに裂かれた。

「かはっ」

 精密に描かれた線のような切痕から、洒落にならない量の出血が溢れ出す。切り傷にどかっとデュラハンが猛烈な蹴りを加え、血を吐きながら後ずさった。

 首無しは真夏に興味を失くしたように顔を背け、雪丸へ向けて疾駆した。雪丸が生身の右手を真横に払う。それに伴って動き不可視の手刀を――デュラハンは身を屈めて躱した。

「!!」

 予想外の回避に雪丸が一驚して、咄嗟に掌を広げた左腕を水平に構える。

 デュラハンが勢いを乗せて雪丸を刺突する。だが中途で不自然に制止し、本体までは届かない。魔法で防御したようだ。

 魔法に突き刺さったまま、デュラハンは柄から手を放して、そこにあるであろう腕に脚を乗せた。

 傍から見ればそれは、空中階段を上っているように見えた。

「な――」

 思わぬ行動に反応が遅れる雪丸に、デュラハンが拳に力を込める。防御など間に合う筈もなく、鉄拳を顔面に見舞い、勢い良く地面に叩きつけられた。身体から骨折したような嫌な悲鳴が聞こえた。

 端麗な美貌が血と痛みに歪み、雪丸の意識が朦朧とする。魔法はイメージ、思考が働かなければ真面に操作する事は不可能だ。魔法の腕が解除され、拘束のなくなった長刀がカランッと地に落ちる。

 デュラハンはそれを爪先で蹴り上げて手元に戻す。逆手に持った長刀で、雪丸の腹筋を今度こそ串刺しにした。

「ぐふっ、」

 掻き消えるようなか細い声と共に、唇から赤黒い血液が溢れ出す。

「ゆき、まる……!」

 真夏は血を吐きながら床を這いずり、脚の震えを堪えて立ち上がる。切り傷を手で押さえて止血する。傷は誤魔化せても痛みは消せない。まだ黒ジャージとの戦闘の後遺症が身体に残っている。

 ――だから、何だ!! 動けよ!!

 こんな傷、友を殺したあの日に比べれば、痛みですらない。

 言い訳する身体を罵り、真夏はダンッと瀕死とは思えない脚力で踏み込んだ。

 どこで何を感知したか、首無し武士がこちらを振り向き、標的を真夏に変更する。

 雪丸に刺さった血濡れの刀身を引き抜き、切っ先を真夏に向ける。押さえをなくなった傷痍から出血がどくどくと倍増した。

 真夏は片手に20センチ程度の小さな血の刃を作る。デュラハンが攻撃するより先に、奴の間合いの外からナイフを振るう。

 彼我の距離、およそ15メートル。ただのナイフならば届かない距離。

 だがナイフを振るった瞬間、刀身がヒュンッと突然伸長し、柄を掴んでいた五指をガンッと直撃し、長刀を弾いた。――気に食わないが、黒ジャージの蛇鞭のオマージュだ。

 篭手の着けていない生身を狙ったにも関わらず、鉄を撃ったような衝撃を真夏に伝え、血液を魔力で固めただけのナイフはバキッと崩れた。

 宙を回る長刀は、切れ味が良すぎる故か、爪楊枝で大根を刺すかのようにサクッとコンクリートの天井に突き刺さった。

 長刀の動きを目で追うデュラハンに肉薄、鳩尾に拳打を叩き込んだ。甲冑に施された装飾が拳を傷つけた。

 鉄板でも丸ませる一撃を喰らい、首無し武士は僅かにぐらっとよろけた。

「…………?」

 ――変だな。

 何かが思考の海に引っ掛かった。鮮少なりとも確かなダメージを受けるその姿が、真夏に小さな違和感を教えた。

 ――自動車を潰す一撃を何発も喰らっても動じなかったこいつが、人間の攻撃をたった一発喰らっただけでよろめくだろうか?

 事実、赤い甲冑には傷一つ付いていない。しかし衝撃は本体に伝わっている。

 真夏は更に横っ腹へ前蹴りを加え、くるりと回転して再び鳩尾に横蹴りを叩き込んだ。やはり反応が鈍く、衝撃に耐えかね苦しそうに手で打撃された箇所を押さえた。

 微かな違和が確実な疑問になる。それが形になるより早く、雪丸が真夏の襟首を引っ張って退かせた。

「一旦退く」

 反撃しようとする首無しに向けて雪丸が掌底を差し出す。見えざる魔法をデュラハンにぶち当てると、ぶつけたままドゴンッと天井まで激突させた。コンクリートに亀裂が入り、パラパラと粉が舞った。

 雪丸の意図を察した真夏は、血の滴った腕を振るい、変化した血花を飛ばす。花びらの波は地に落下したデュラハンではなく、ザグッとコンクリートを抉り、幾つも風穴を開けた。

 幾度の衝撃に耐えかねた天井に亀裂が広がり、辺り一帯が崩壊した。起き上がろうとする首無し武士の真上にボウリングボール程の大きさの複数の瓦礫が雹のように落ちていく。灰色の粉塵を巻き上げながら、見る見る内にデュラハンは瓦礫に埋もれて下敷きになった。

 一弾指の沈黙の後に、瓦礫の山から籠手を着けた腕が這い出てきた。しかし有無を言わさず雪丸が魔法によって拉げさせた。

「今のうちに……!」

 満身創痍の雪丸を小脇に抱え、階段を駆け上がる。

 地下駅の外まで踊り出る。騒ぎになる事を少し恐れていたが、見渡す限り人の気配はなく、街はゴーストタウンのように静まり返っていた。

 雪丸が魔法を操り、階段の真上の天井を地上から叩き落として崩落させた。割と体力あるなこいつ、と真夏は思った。

「雪丸、人払いっていうのは、どのくらいの範囲なんだ」

「大体2キロぐらいだけど」

「結構広いな……。その範囲なら好きに戦って言いわけか」

 だが状況は何も好転していない。今は何とか足止めに成功しているが、それも時間の問題だ。まさかあのビックリ落ち武者を放置して逃げるわけにもいくまい。

 ――いや、まずは雪丸の治療が先決だ。

 付近のベンチを見つけた真夏は、そこに雪丸を寝かせた。上腹部に向こうまで見える穴が開いているが、そこまで出血は酷くない。

 そこで、真夏に天啓が閃く。

 先程自分が無意識下で行っていた――『治癒術』。

 やっていたという認識はなかったが、先輩魔法使いの彼が言うなら間違いないのだろう。

 あれを意識的にやれば、きっと他人の傷も治療出来るのだ。

 しかし、真夏はそれが分かって尚動けずにいた。

「…………落ち着け。落ち着けおれ」

 いつだって頭から離れないトラウマ。何をしても贖い切れない原罪。身に刻み込まれた二位真夏の絶望。

 じわりと手汗が滲む。露のような冷や汗が肌を伝って夏服を汚した。思い出す度に、神経が凍り付いたかのように動けなくなる自分の心の弱さに嫌になる。

 ――違うだろ。

 ――魔法使いを救いたいなら、これぐらい乗り越えなくてどうする。

「……雪丸、じっとしててくれ」

 傷ついた魔法使いは何も言わず、身を委ねるようにすっと目を閉じた。

 ぼっと魔力をその手に灯す。ここまでは黒ジャージとの戦闘で掴んだ。

 これは『違う』。これでは傷を癒す事は出来ない。これは例えるならば『炎』。『治癒術』は『光』だ。

 両手を強く意識し、魔力の形状と性質を組み替える。すううと大気が抜けるように魔力から『炎』の攻撃性を消していく。残ったのはオーブのように儚く蛍光を発する『光』。

 両手を、ぐっと傷に押し付ける。魔法は発動しない。

 ――助ける。今度は絶対に。

 傷口を中心に魔力を膜のように拡張する。膜の内に煌めく光の濃度を徐々に増やしていく。

「ふぅー…………」

 すると、段々と出血が止まり始めた。服に染み付いた血液を消す事は出来ないが、傷から滲む出血は完全に消えた。そこから更に光量を膨らませ、傷を癒していく。

 細胞が現代医学では有り得ない速度で再生し、十五秒後に腹を貫いていた穴が塞がり、傷痍が完治した。

 それを見届け、真夏はどっと滝のような汗が全身から溢れ出たのを知覚した。

「はあ、は、はっ、はあ……」

 過呼吸じみた荒い息継ぎを繰り替えし、びしょ濡れの両手をゆっくり放した。

 服には風穴が開いたままだが、そこから覗く上腹部には、僅かに血痕が残っている程度で、もう傷跡はない。

 治療は成功したのだ。

「…………」

 命綱のない状態で綱渡りをしているかのような極度の緊迫感から解放され、何とも言えない達成感が全身に満ち溢れる。どっと地べたに尻をついたが、痛みなど感じなかった。

 ベンチから上体を起こした雪丸が、穴の開いた服を見つめ、先程まで穿孔されていた部分をさすった。

「……ほんとに使えるんだね」

 感心とも安堵とも取れる声音で呟く雪丸。

「…………多分、人生で一番緊張したよ」

「そう。アルマ先生が君を勧誘した理由がわかったよ。治療術の使える魔法使いは限られている。君の才を見越して自分の陣地に引き込んだんだ。相手にいればいるだけ面倒だからね」

「……やっぱあの人わかんねえな」

「抑々魔法使いの言葉を全て鵜呑みにするのが間違いだよ」

「あの人は――ぐっ……」

 ズキ、と胴部の傷が痛む。自分の傷は止血しかしていなかった事を今更ながら思い出す。

 先程と同じ要領で魔力を片手に宿し、傷に押し当てる。こっちは雪丸ほど酷くなかった為、数秒で完治した。医者志望として喜べばいいのかはわからない。

 真夏の治療を見届けた雪丸が立ち上がり、首を鳴らして倒壊した駅の入り口を見つめる。

 それが終わると、息つく暇もなく雪丸はさっさと地下駅にまで足を向けた。

「じゃあ、もう僕は行くよ。これ以上あのデュラハンを放ってはおけない」

「……雪丸」

 真夏が立ち上がり、足早に去る雪丸の腕を掴んで引き留める。雪丸は煩わしそうにその手を払って「なに?」と返した。

「お前……、何か焦ってないか?」

 その言葉に、雪丸の肩がピクリと小さくはねた。真夏の方を振り向き、眉根を吊り上げて如何にも怒っていると言いたげな表情を浮かべる。

「……急に何の話? 変な事言わないでよ、馬鹿馬鹿しい」

「お前の話だよ、雪丸。変なのはお前の方だ」

 声のトーンが普段より下がっている。苛立ちで誤魔化そうとしているが、何かを隠しているのがわかった。

「別に、可笑しい事なんて何もないよ。そんなに不自然に見えるかな、僕の言動は」

「じゃあ『こんな所にいたんだね』って何だよ」

 ズバリと核心へ切り込んだ指摘に、雪丸の目が驚倒に見開かれる。彼にしては珍しい面持ちが、こんな状況だが少し面白いと思ってしまった。

 雪丸の顔色が、驚きから戸惑い、疑念から納得へと百面相する。

「そう……。ああ、そうか。嫌だね、昔を思い出すのは。心を制御出来なくなる」

「…………あのカムイは、知古か」

「まあね」

 はあ、と今までで一番大きな溜め息を吐く。以前までの違いは、それが自分に向けられている点だろう。

 雪丸の手が、ぎゅっと何かを握りしめる形に曲がる。まるで、誰かの手を握るように。幼い子供が親の手を引くように、弱々しく。

「あれは……僕の兄だよ」



 ――――――



 日野森家は、魔法使いの家系だった。

 魔法の継承には様々な要因や原理が挙げられるが、その一つが血筋である。

 日野森家は代々優秀な魔法使いを排出している名家だった。

 一門の名前はアンダーには広く浸透しており、功績から衰退まで、魔法使いであれば知らぬ者無しと言っても過言ではない雷名であった。

 雪丸もまた、日野森の魔法使いとして、周囲の期待を小さなその身に背負って生まれてきた男児だ。

 父親からの愛情を受けた事はない。父は雪丸に会う度に「魔法はまだ発現しないのか」「まだか、もうそろそろだろう」と狂ったように同じ言葉を使い回していた。

 母親は次男の雪丸を生んで早々に亡くなり、録に覚えていない。

 友人と遊んだ記憶はない。朝起きてから学校に行き、真っ直ぐ帰宅する。日野森として恥ずかしくないよう、学校以外の時間は武芸や魔法の勉強に勤しんだ。雪丸は天才肌で、何事も器用に熟した。下手に上達すると要求されるハードルが上がるので、わざと手を抜いた事もあったが、バレるとぶたれたのでやめるようになった。

 ――息苦しかった。辛かった。

 それでも、雪丸が失意の底にまで沈む事がなかったのは、長兄の朝太郎の存在だ。

「雪丸!」

 日曜日の昼間。普通の小学生ならば友達と遊んでいる時間帯に、雪丸は机に齧り付いていた。

 雪丸の部屋にノックもせず遠慮躊躇なく入ってきた長身の兄は、にかっと笑いながら弟に近寄った。

「あっ……、兄さん!」

 無言で筆を走らせていた雪丸の顔と声が喜色に染まる。未来の彼からは考えられないような笑顔だった。

 八つばかり年上の兄は、とても魔法使いとは思えない程に明るく、向日葵のような天真とした表情を崩さなかった。

 中性的な末子とは違い、男らしくがっしりとした身体つきと豪快な性格で、彼に惹かれる者は多かった。

 頼れる大人などいなかった雪丸にとって、兄の存在は夜陰の恒星そのものであった。

「さ、今日は何処に行く?」

 兄は行動は破天荒が極まっていて、いつも周囲を振り回していた。その無邪気さは、いつも雪丸を救っていた。

 小柄な弟を背負い、ぴょんっと三階の窓から飛び降りる朝太郎。一般人ならば死亡こそ免れても大怪我は確定するその行為に、しかし朝太郎は平然と着地し、背中の雪丸もジェットコースター気分で楽しそうに笑っていた。

 執事服を着た雪丸の付き人が部屋の扉を開く。

「坊っちゃまがいらっしゃらない!? ああ、また朝太郎様が連れて行きましたね!?」

 休憩用の茶菓子を取りに行って部屋に戻ると、既にそこはもぬけの殻。唖然と叫ぶ雪丸の付き人を見て、周りの使用人が「またか」「ちょっと目を離した隙にこれだ」と兄弟に呆れ返っていた。

 雪丸は上述の通り、普段から魔法使いとしての振る舞いを義務付けられており、修行僧じみた生活を強いられていた。家の長男として朝太郎も魔法使いとして育つ事を期待されていたが、兄は実家に反抗的だった。しかし朝太郎は常に優秀な成績を残している。周囲の人間が強く言えないのはそれも加味されているだろう。

 朝太郎は弟の境遇を疎ましく思い、いつも暇を見つけては付き人の目を盗んで弟を連れ出し、二人で気ままに遊んでいた。

「何処でもいいよ、兄さんと一緒なら」

 誰も知らない秘密の場所でカードゲームをしたり、裏山や河川で大はしゃぎしたり、夜の学校に侵入して教師に怒られたり。

 雪丸の世界は兄だけだった。彼が世界に全てを与えてくれた。比喩じゃない。雪丸の家族は兄だけだった。

「大丈夫だ、雪丸。お兄ちゃんがいつだって助けに来てやる。辛くなったらお兄ちゃんを呼べ。いつだってお前の下へ行くから」

 夕焼けの帰り道。兄は雪丸の手を引きながら、口癖のようにそう言っていた。雪丸は言葉の真意を測りかね、ただ元気に返事をしただけだった。

 厳しくも楽しい日々だった。

 しかし同じ時間が繰り返されているような日々に、ある時終止符が打たれる。

 その日は雪丸の誕生日であり、他家との縁談が決まった日だった。

 普段は夕餉にも顔を出さない父が、珍しく雪丸の誕生日を祝いに来てくれた。別に嬉しくはなかったが、父が初めて見せた親らしさに、雪丸とて何か思う処はあった。

 だが誕生日プレゼントとばかりに明かされたのは、本人の意思とは無関係の縁談。相手は肆矢家の三女。雪丸より一回りも年上の女性だった。写真で見た限りは大層な美人だったが、そこはどうでもよかった。

 肆矢家は日野森家より大きな名家で、この縁談を受ければ資金援助を約束してくれるそうだ。

 しかし雪丸が知る限り、日野森は特に金に困っている様子はなかった。父の狙いはきっと、朝太郎を家に残すためだろう。

 兄の奔放な性格からして、いつか弟と共に実家を飛び出して一般人へと零落するかもしれない。父はそれを懸念し、弟を人柱にしたのだ。雪丸が家を出て行く事になれば、弟想いの朝太郎は迂闊な行動に出れない。

「肆矢の娘と正式に結婚すれば、日野森家との交流は絶たれる。朝太郎に言い残した事があるなら早めにしておけ」

 これ以上の問答は時間の無駄だとばかりに、父は何も語らず、黙々と食事を続けた。父の思惑の全てはわからない。結婚もいつかはすると思っていた。そこはまだいい。

 雪丸にとっては、兄と会えなくなる事の方が一大事であった。

「兄さん……」

 布団に包まりながら雪丸は気鬱した表情に影を落とす。

 兄は誕生日に来てくれなかった。毎年盛大に祝ってくれていたのに。使用人が言うには、大事な用事があるとの事で、丸一日家にいなかった。

 言いたい事がある時に限って、傍にいない。兄の偉大さを痛感すると共に、最愛の人に二度と会えなくなるという実家の物言いに腹が立った。

 ――やっぱり魔法使いなんてものは、ろくでもない。どうしようもない存在だ。

「こんな家……。なくなればいいのに……」

 雪丸の願いは、最悪の形で叶えられる。

 その呟きが聞こえた訳でもあるまいが、応答するかのように、バンッと銃声が宵闇に響いた。

「……?」

 魔法使いと名乗れども今を生きる現代人だ、通常兵器も当然併用する。だが深夜に銃の訓練をするなど、今までにない事例だ。雪丸は訝しんだ。

 銃声は続く。更にバキン、ドンッと幾重もの轟音が重なった。

 ――戦闘中……?

 最初は誤射か何かだと仮定したが、ここまでくると只事ではない。雪丸はパジャマから動きやすい服装に着替えて部屋から飛び出した。

 廊下は真っ暗闇で、目が慣れるのに少し時間がかった。窓には可笑しなものは何も映っていない。敷地内に響く地鳴りじみた爆音から耳を塞ぎながら、一階まで下りる。

 一階の扉を開け放つと同時、ぶわっと雪丸の身体を血腥い青風が乱暴に撫でた。血の生臭さと火薬の焦げ臭さ。嗅ぎ覚えのあるものばかりだったが、今回は一際強烈だった。焦燥感が胃の腑を焼いていく。

「一体何が……」

 その時、中庭の方面から張り裂けるような悲鳴が上がった。この緊急事態、誰の声かは判別がつかなかった。

 胸に絡む恐怖心を振り解いて、一心不乱に走り出した。吸い込んだ空気がやけに重々しく、粘液のように肺に纏わりついた。

 爆発音。何処かで火事が起き、夜空を赤く焦がした。消火する時間も手段も今はない。

 道中、数多くの死体があった。生死の確認をしなかったのは、身体が分断されているものばかりだったからだ。これと言って思い出はない人間ばかりだったが、とてもじゃないが爽快な気分にはなれなかった。

「うっ……、酷い、誰がこんな事を……」

 吐き気を堪えながらひた走る。

 中庭の池が見えた。三匹の錦鯉が泳いでいた池は、今は血の池地獄のように真っ赤に染まっている。

「あ……」

 その中央に、二つの人影。

 一人は多分、知り合い。スーツをサッカー少年のように汚し、這いずりながらもう一人から無様に逃げている。

 もう一人は知らない。炎に照らされて身体が完全に影になって見えない。長身でガタイが良いので、恐らくは男。何か刀らしきものを持っている。幾つもの刀剣に身体中を突き刺されている。

 知り合いの男が何か抗議するように手を伸ばしたが、腕ごと身体を縦に切断され、沈黙した。助ける間もなかった。

 ぞわっと全身をザラザラした舌で舐められたような気がした。鉄の粉を吸い込んだ気がして、真面に呼吸が出来なくった。

 ――なに……、あれ…………。

 怖い。恐い。何だあれは。

 果てしない未知への恐怖に後退り、逃げ出す力もない。

 その時、ぐるんっと梟じみた動きで人影の首がこちらに回った。

「!?」

 見つかった。雷撃に貫かれたような衝撃が雪丸を突き抜け、その場から動けなくなった。

 影が近付いてくる。一歩、二歩、三歩。雪丸は完全に絶望に支配され、ヨタヨタと下がる事しか出来ない。背中が壁にぶつかって地面に尻餅をついた。

「あ、あ、あ…………」

 無力な小鹿の前に刀を構えた死神が、雪丸の二メートル前に立ち往生する。その立ち姿はまるで無念の末に卒去した武者のようだった。

 死神の顔に炎の光が当てられ、漸く人相が露わになった。

「え…………」

 それが見えた途端、全身に張り巡らされた怖気が緩まり、久方ぶりに帰郷したような奇妙な安らぎが胸に落ちた。

 男は武士が愛用しているような古めかしい甲冑を着用していた。何処かで見た事があるような気がしたが、思い出せなかった。

 しかし、その顔は。自分を見つめる紺碧の双眸は、生涯忘れる事はない。

 その顔は、自分とよく似たその顔立ちは、疑いようもなく。

「兄さん…………?」

 最愛の兄、朝太郎だった。

 

 何故。どうして。こんな事を。

 疑問も当惑も間欠泉のように溢れ出る。だが今の雪丸に、それを口にする程の余裕はなく、突然の事態にただ唖然としていた。

 血塗れの朝太郎が、少しずつ弟に近付く。力を失った手から長刀が落ち、地面に転がった。

「……ゆ、き、まる」

「! 兄さん!」

 喉が潰れているようにたどたどしく弟の名を呼ぶ朝太郎に、完全に焦燥の消えた雪丸が笑顔を灯す。

 一歩、もう一歩。歩を進める。

 膝をついた兄が、雪丸にそっと手を伸ばす。潰れた片目が異様に痛々しかった。

「ああ、ああ、雪丸……。無事でよかった。ごめん、ごめんな…………。おれはお前のお兄ちゃんなのに、お前を守れなくて…………。どうしようもないお兄ちゃんでごめんな…………」

 雪丸の、婚約の事を言っているのか。それとも、こんな家の全てか。

 兄はいつだって強い人だった。どんな時でも泣き言一つ漏らさずに弟の前に立っていた。そのことを疑問にも感じず、悲愴の涙を弟に見せる事はなかった。

 死の淵に立って、その末に零れ落ちた弱音。

 何故こんな姿になっているのか、どうしてこんなことをしているか、もう気にならなかった。

「……兄さん」

 朝太郎が弟に近付く。それは傍から見れば、戦に敗れた落ち武者が、幼き子供を殺そうとするように見えたが、雪丸にはもう恐怖など微塵も感じなかった。

「雪丸……、今度は、お前を……」

 デュラハンが手を差し出し、その手を取ろうと雪丸が身を乗り出した。

 その瞬間、何者かに兄の首が切断された。

「――――――」

 朝太郎の生首が赤く焦げた夜空を舞い、仰向けに倒れた本体のすぐ側にごとっと落下した。切られた首から多量の血が溢れ、雪丸の足元まで流れた。

 朝太郎の背後には、刀を持った父の姿。

「雪丸! 無事か!?」

 父は今までからは考えられないほどの大声で雪丸を呼んだ。ここまで焦っている父の様子を雪丸は初めて見た。

 朝太郎には見向きもせず、雪丸の前で跪く。

「お父さん…………」

「大丈夫か……。雪丸」

 父が自分を怪物から助けてくれたのだと、息子を案ずる声音で確信した。

 冷徹で、普段は息子への愛情など感じさせない父が、今この時ばかりは、息子に対し本物の情があった。

 そうとは分からない雪丸は、安心したように柔らかく微笑んで、一言告げた。

 父ではない、自身の最愛に。

「そうだ……。そうだよ、僕をいつだって助けてくれるんだ」

 雪丸が見ていたのは、父の背後。そこに朝太郎の死体などなかった。

 父は気付かない。雪丸の笑みが自分の後ろに向けられている事に。倒れていた朝太郎が、首無しのまま刀を持って起き上がっている事に。

 赤きデュラハンが、父に向けて長刀を振り上げていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る