第六話 日野森雪丸②

「やっぱり見つからないねー。玖秭名、そっちはどう?」

「ううん、やっぱりだめ。望愛さんらしき人は見えない」

 一方、明原と燃々。現在、明原は真夏と燃々の通う私立中学の屋上から街を眺めていた。屋上の鍵が開いてなかったので、最上階の廊下から屋上までぴょんとジャンプして飛び移った始末だ。勿論、言いだしたのは燃々だ。

「ダメかぁ……。高い所から見ればわかると思ったんだけど……」

「いやそれ以前に、これじゃ遠くまで見えないよ。私、視力は良い方だけど、望遠鏡を使わないと遠くの人影まで特定するのは難しいよ」

 へりを掴んでぐるりと廊下へ回り込みながら明原が言う。その拍子にスカートのポケットから白いハンカチが宙へ逃げ出し、ひらりと風に乗って飛んでいったが、明原も燃々も気付かなかった。

「望愛ったら何処をほっつき歩いてるの!? 全っ然見つからない! 友達を弄んで何が楽しいんだ!」

「別に望愛さん自身がやってる訳じゃないから……」

「ひょっとして迷子になってるんじゃない? ほら、八王子広いし!」

「だとしたらより厄介のような気がするけど……」

 散々ここにいない望愛に当たり散らしたところで、燃々が疲れたように肩を下ろした。

「……ちょっと休憩にしようよ玖秭名。暑くなってきちゃった」

「うん。そうしよっか」

 一階へ降り、中庭まで足を運ぶ。質素な木製のベンチに腰を掛け、ふうと一息つく。

 ダブル捜索から、とうに一時間は経過していた。

 真夏と雪丸の男子組から『報告なし』という報告が送られてきただけで、進捗は皆無であった。

 燃々と明原の女子組はその有り余る体力で街中を飛んだり跳ねたりと走り回り、しかし文字通り影も形もなく、全てが空振りに終わっている。

 明原の魔法もこれでは役に立たない。他者の害意を感知できるという副次効果はあるが、相手が明原を害する悪心がなければ無意味である。ダブルが無関係の人間に悪戯を仕掛けるのかどうかも微妙だ。

 結局無策のまま無為に一時間を浪費しただけだった。

「玖秭名はそこで待ってて。自販機でジュース買って来るから。ファンタでいい?」

「あ、じゃあ、お金……」

「いいよ、大丈夫。迷惑かけちゃってるから、それぐらいさせて!」

 燃々は一方的に告げ、ぴゅーっとあっと言う間に東棟の影に隠れてしまった。

 あれだけ走れるなら休憩要らなかったんじゃない? と思わないでもないが、今更言ってもどうしようもないので苦笑だけに留めておく。

 独りきりになり、不意に物悲しさが明原の胸中に燻ぶった。過去に置き去りにしていた寂寥感の去来は、明原を吃驚させるのに十分であった。

 寂しさ。孤独。悲嘆。

 魔法が発現して以来は、悲しみに暮れる事もなかった。ただただ虚しかった。風穴のあいた心に空っ風が吹くだけだった。

 ――私。

 ――ずっと寂しかったんだ。

 今は違う。

 真夏が目を合わせてくれた。燃々が手を握って笑いかけてくれた。

「……ひとりじゃないって、特別なんだ」

 アニメやら漫画やらで散々言われていた台詞。魔法使いになった前と後では、言葉の重みが随分と違った。

 自分を連れだしてくれた少年に、心中で今一度感謝を告げる。 

 思わず含み笑いが零れた明原の後方、十数メートル前。西棟の影から、紫色の髪をポニーテールにした少女が顔を出した。

 紫色のポニーテール、明るい容貌、女子中学生にしてはかなりの長身。見た目は完全に兎束燃々そのものであり、実際真夏が会っても本物だと疑いもしないだろう。しかし不自然な点が幾つもあった。

 その燃々は、二人分のジュースを買っておらず、遊び用に持ち歩いていたバッグを抱えていなかった。

 双子のように燃々そっくりの容姿をしたそれは、兎束燃々のダブルであった。

 燃々のダブルが明原を視界に入れるや否や、じっと少女を注視しながらゆっくりと背中に近づく。

 一歩、二歩、三歩。音もなく、まるで暗殺するかのように静かに背後に立った。

 そして――

 


「これ、落としたよ」



 明原の前に身を乗り出し、すっと白いハンカチを差し出した。

 出し抜けに視界に映り込んだ白い無地のカシミヤハンカチに、明原はぎょっと目を見張る。

「え? ――あっ」

 困惑した後に、ポケットに手を入れ、布の感触がない事を確かめる。

 立ち上がってハンカチを受け取り、明原は偽物である事に気付かないまま燃々擬きに礼を言う。

「さっき屋上に登った時に……? ありがとう、燃々さん」

「あはは、気を付けてね。それ、結構お高いやつじゃない? カシミヤだよね?」

「うん。誕生日にお母さんがプレゼントしてくれたの。私の宝物なの。本当にありがとう」

「そっか。じゃあ、大切にしなきゃね」

 人畜無害とセルフプロデュースされた笑顔に、明原も自然と顔が綻ぶ。

 その時明原は、初めて目の前の燃々がバッグもジュースも持っていない事に気付いた。

 あれ? と、そこを指摘しようとした時、背中に向かって大声で名前を呼ばれた。

「玖秭名~!」

 はっとそちらを首を回すと、紫色のポニーテールを揺らしながら肩にバッグを下げた燃々が炭酸飲料を二本持って明原に向かって駆けて出していた。

「燃々さん……?」

「? うん、そうだよ。どうかした? そんな望愛が警察に喋りかけられた時みたいな顔して」

「何その具体的な例え……。いや、そうじゃなくて、燃々さん今……、あれ?」

 炭酸飲料を受け取りながら、後ろを振り向く。しかしそこには誰もおらず、ぴゅうと明原を馬鹿にするように南風が吹いただけだった。

「え? え? 今……、え?」

「だからどうしたのー?」

 数秒の間に驚愕と当惑を交互に行ったり来たりし、明原は一つの推測に到る。

「ダブル……?」

 疑問符を大量発生させている燃々に詰め寄り、明原はつい先程起きた珍事を説明する。一分程度の出来事を話し終えると、燃々の表情が強張り、空気が引き締まった。

「……早く探しに行こう! まだ遠くには行っていない筈」

 明原の話を聞いてから、燃々は僅かに逡巡するような間を空けたが、すぐに捜索を決断した。

「……うん」

 明原とて思うところはあった。だが、今は手掛かりをモノにする事が一番だと、自分に言い聞かせ、駆け出す燃々の後を追った。



 ――――――



「ここも駄目……か」

 捜索から一時間。真夏は弱気になりそうな心から泣き言が零れ落ちるのを、いやおれが諦めてどうすると堪える。

 度々スマホの地図で現在の位置を確認しながら、人通りの少ない住宅街を二人して歩いていた。

「今のところ無駄足だね。今日はもうやめる?」

「……やめないよ。望愛は七時頃にダブルを見かけたって言ってた。少なくともその時間までは粘る」

「そ」

 訊いたにもかかわらず、素っ気なく興味なさげな返事をする雪丸に、真夏は内心感謝する。段々と彼の人柄が分かってきた気がした。

 視界の隅で何かが揺らいだのは、その直後だった。

「ん?」

 ゆらり、と黒い布が風に遊ばれながら建物の影へ隠れた――気がした。

 真夏は眉間に皺を寄せる。どうも人影の形が、雪丸のそれと似ていたように思えたのだ。なんとなく、判然としないわだかまりが心中を曇らせた。

 普段ならばゴミ袋か何かだと思うだけだが、今回は状況が状況である。些細な違和感でも動くべきだ。杞憂で済むならそれでいい。

「………………雪丸、ちょっと」

「なに?」

 合図をしつつ、それ以上は答えずに人影を追う。雪丸は別の方向を見ていたのか、気付いていなかったようだった。

 人影の消えた建物の角に早足で向かい、曲がる。

 そこには地下駅の入り口だった。不自然さなど欠片もないそれが、大口を開けて人々を出迎えている。

 見間違いか――と胸を撫で下ろしたかけ、階段の下った先に、先程と同様に黒い布らしきものが奥へと消えていったのが、今度は確かに見えた。

 真夏の目線が剣呑な光を帯びる。

「行くぞ、雪丸」

「いや何処に」

 ツッコミを程々に無視しながらら、階段を三段飛ばしで駆け降りる。その後ろを雪丸が胡乱な目つきをしながら追随した。

 地下のプラットフォームに着いて足を止める。幸いにも人通りは少ない。ホームをキョロキョロと見渡すが、それらしきものは見えなかった。

「……いない……」

「だから何が。ダブルを見つけたの?」

「あー、まあそうなんだけど……。悪い、おれの勘違いだったみたいだ」

「………………」

 そう謝罪すると、意外にも雪丸は悪態を吐かず、周囲へ鷹のような眼を巡らせた。今までとは違う反応に疑問を覚えたが、深く突っ込めばそれこそ罵倒が返ってくるに違いないので、取り敢えずスルーする。

 真夏はダブルも電車に乗ってるのかもしれないと思い、暇そうにしている近くの駅員に声をかけた。

「すいません、ちょっといいですか?」

 駅員が、こちらを振り向く。

 刹那、ゾッと怪獣の舌で舐められたような悪寒が背筋を凍らせた。明原の魔法が発動した時にも似た、魂に刻まれた本能的な恐怖。果てしない未知への憂懼。

 振り向いた駅員の両目の眼窩には、眼玉が埋まっていなかった。

 正確に言えば――、二つの眼球が赤黒く鮮血に染まって潰れていた。

「――――――」

 心臓を鷲掴みにされたかのような衝撃。呼吸が止まる。言葉も出なかった。

 駅員は男だった。一言も口を開かず、精神の奥底まで虚無に浸かった表情で棒立ちしている。何処を見ているのかなどわかる訳もない。

 誰がどう見てもそれは死に体だった。

 ――死んでるのか。

 必然の自問に自分で否定する。声をかけられてその方向に動いたという事は、恐らく身体機能は死んでいない。こうなった原因は不明だ。だが、まだ間に合う筈だ。

 駅員に手を伸ばしかけた時、首根っこを掴まれ、ぐんっと後ろに引かれる。

 引いたのは、当然の如く雪丸。二度目の凶行に苦言を考える間もなく、『それ』は起こった。

「「「シャアアアッ」」」

 男性の口が開いた途端、そこから大量の蛇が飛び出したのだ。

「なっ」

 唐突且つグロテスクな光景に、今度こそ真夏から驚愕が転び出る。仰け反った真夏の真上を鉄の蛇が弾丸のような速度で通過する。

 雪丸がそれを回避した直後、駅員がドガッと不可視のエネルギーに突き飛ばされた。蛇諸共胴体が凹み、鮮血が舞って地面を赤く濡らし、地面に崩れ倒れた。

「全く……、魔法ってのは……」

 呆れたような声音で雪丸は呟く。ピクリとも動かない男性の身体を茫然と真夏は見つめた。

「……殺したのか?」

「元々死んでたよ。助かる見込みはなかった」

「いや……、でも……」

「でもじゃない。まだ意識があったのかもしれないけど、魔法が絡んでる時点で殆ど死体同然だ。せめて一息で殺してやるのが僕らに出来る最善の対応だよ」

「………………」

 厳酷で凄然とした雪丸の言動に、真夏は何も言えなかった。

 ――魔法使いを救いたい。

 そんな事を宣った直後に、目の前の人間一人を、真夏はあっさりと見捨てた。

 地べたに膝をつき、無力さに打ちひしがれる真夏に追い打ちをかけるかのように、ホームの奥からぬっとりと這い回るような声が響いた。

「やっと、やっと見つけたぞ……、二位真夏ぅぅぅ……」

 現れたのは、黒いジャージを着た中肉中背の男だった。これといった身体的特徴はなく、印象に残らない男だった。顔はフードに隠れてて見えない。

「なに……、あの、大学四浪した挙句ニートになったみたいな男」

「初見でよくそこまで悪口言えるな……」

 立ち上がりながら突っ込みを入れる真夏に、雪丸はふんっと鼻を鳴らした。

「まさかとは思うけど、知り合いじゃないよね?」

「違うよ。――おい、あんた」

 真夏の声に、男が顔を上げる。やはり知ってる顔ではない。

「あんた、もしかして『優生思想』の魔法使いか?」

「ああ、そうだ。俺はお前を捕らえに来たんだ、二位真夏。お前を捕らえれば、組織内で俺の地位は確立する……!」

 聞いても無い事までよく喋る黒ジャージは、腰元から何かを取り出した。――鞭だ。教鞭や乗馬鞭とは違う、拷問用のバラ鞭。黒い皮で編まれた鞭。恐らく男の『杖』だ。

「君、何でその人を殺したの? これも優生思想の命令? それとも何か恨みがあったの?」

 無遠慮な雪丸の質問に、男は苛立ったように舌打ちを返した。

「あ? んな訳あるかよ、邪魔だったから殺しただけだ。お前だってそうだろ? 魔法で人を殺すのは楽だしスカッとする。その上バレないなんて最高じゃねえか」

 楽しそうに語る黒ジャージは、ゴンッと自分の目の前に転がった死体の頭部を蹴飛ばす。それを見た真夏の額にビキリと明確に青筋が浮かびあがる。雪丸がまるで痛々しい言動を繰り返す中学二年生を見るかのように溜め息を吐いた。

「……魔法使いには、あんな奴もいるのか」

「そりゃね。特別な力を持ってると、自分が特別な人間なんだと痛い勘違いをする輩はいるよ。魔法を悪用する魔法使いを処分するのも僕らの役目だ」

 男を無視して話を続ける二人に、黒ジャージがバチンッと床を鞭で叩き、抉った。

「話は終わりかァ!? じゃあ殺すぞ!!」

 ぶんっと空気を裂いた鞭を振り回す男に、再度溜め息を溢す雪丸。

 鞭に魔力が連なる。魔法の発動だ。真夏は警戒心を最大まで高める。反撃する姿勢さえ見せない雪丸が、明らかに年上の男を無意味に罵った。

「最終学歴を疑う語彙力の無さだね。やっぱり浪人してるでしょ君」

 その一言に返事するかのように、黒い千条鞭を二人の魔法使いに振るった。

 しかし鞭は短い。ここまで届かない――いや、こちらに向かいながら猛烈な勢いで伸長している。

 真夏が脊髄反射に従って身を屈めるが、その必要はなかった。

 鞭が真夏と雪丸に届く前に、空中でバチバチッと電撃に打たれたかのように弾けた。

「あァ!?」

 ――これは、雪丸の……。

 苛立つ男を無視して雪丸はくんっと掌を手前に引く。すると、駅員が雲のようにふわりと浮いて雪丸の前に運ばれてきた。

 次いで、鞭を振りかぶった体勢のままの男を魔法で殴り飛ばした。数十メートルまで吹き飛ぶ男を横目に、真夏に言った。

「ちょうどいいや、少し授業をしようか。『霊器』を使ったね」

「霊器?」

 雪丸の提案に、真夏がどういう事だと声を上げる。

「いい魔法の勉強になるよ。あの浪人、台詞も魔法も雑魚っぽいけど魔法使いとして君より年長だと思うから」

「……それも、アルマ……さんに頼まれたのか?」

「うん。でもまぁ、無理そうならいいよ。あの程度を倒せずに叶えられる夢なんて、浮かんでは消える泡沫のようにどうしようもないけどね」

「……お前は本当に煽りスキルが高いな」

「自覚があるなら結構だよ」

 悪びれも反省もしていない様子に溜め息を吐く。深く突っ込んでも体力の無駄なので話題を変える。

「で、霊器って何だよ」

「それは――」

 台詞を中断させたのは、ヒュンッと空を裂く音。向こう側から生き物のように蠢く鞭が真夏の側の柱を斬り落とした。

 先程から無視され続けた男が、鞭を振るっていた。

「くそがっ、何避けてんだ! 俺ァ時間がかかるのが大嫌いなんだよ! とっとと死んどけや!!」

「あいつ目的見失ってないか」

「その有り余る体力を有益なものに活かせたらいいのに。彼は優生思想じゃなくてハローワークに行くべきだね」

 雪丸は例によって流れるように罵倒しつつ男から距離を取り、真夏と共に暴れ回る強鞭を回避する。

 黒い鞭の嵐の中、雪丸は平然と会話を続ける。

「話を戻すけど、『霊器』というのは『杖』の第二形態の事だよ」

「第二?」

「『杖』の器を昇華させるんだよ。『杖』が所有者の魔法に合わせて姿を変えるんだ。それが使えるようになって、半人前の魔法使いかな」

 話しながら、雪丸は真夏を魔法で庇ってくれなくなった。これぐらいは自分で対処しろという意志だろう。

 上等だ、と口には出さずに一瞬とも気の抜けない鞭の雨を躱し続ける。

「『武器』を『得物』にする。そういう認識ならわかり易いかな」

「……成程ね。やり方は?」

「自分の魔法をイメージして、使用する意思を持つ。それだけ」

「イメージ?」

「魔法で大事なのはイメージ、想像力だよ。難しく考える必要はない。心の強さと自分を信じる想いにだけ『杖』は応えてくれる。魔法の起源を思い出してごらん」

 血塗れの遺体を見えざる腕で持ち上げながら早口で解説する雪丸は、ふと手を水平に上げた。

 脈絡のない動きを真夏が指摘するより先に、後方から怒鳴り声が聞こえた。

「おい!! お前等何をやっている!? どういう状況だこれは!」

 反射的にそちらに目線を向ける。そこには、厳つい顔をしたさっきとは別の駅員の男がこちらを指差して喚いていた。

 そちらへ向かっていた流れ弾の鞭があっさり弾かれる。雪丸はこの介入を察し、駅員を守るよう魔法を行使した模様だ。

「人払いの結界が未完成だったみたいだね。中途半端な仕事をしてくれる」

 冷徹さが先行していた雪丸だが、今ばかりは若干の怒りが声に混ざっていた。

 黒ジャージの吊り上がった目玉が駅員へぎょろりと回る。意識が魔法使い二人から逸れ、攻撃が緩む。

 男が激昂のままに鞭を振るう。

「魔法も使えねぇカスが、邪魔すんな!!」

 音速を超える速度で繰り出されたバラ鞭の振り下ろしに、駅員は対応どころか驚倒する余裕さえない。無抵抗の駅員に斬撃と化した凶鞭が直撃し、頭部から股下まで真っ二つになる――その前に。

 ――ドンッ。

 雷鳴が瞬いたかのような音と共に、コンクリートが抉れる。飛び出したのは、真夏。

 疾風迅雷。それに違わぬ速度で駅員の前まで一瞬で移動した真夏は、速度を殺す事なく、加速する鞭を素手の左拳で受けた。

 まるで螺旋する穿孔機を横殴りしているかのような痛みがダイレクトに神経を傷つける。感じた事のない激痛に骨が軋んだ。

 しかし、その痛みさえ吹き飛ばすような勢いで、真夏は全身に魔力を漲らせ、竜巻のような鞭を拳で殴り返した。

「なに!?」

「……へえ……」

 目を見開いて驚愕する黒ジャージに、小雨程度の感嘆を漏らす雪丸。腰を抜かして床に尻餅をつく駅員の姿に、ほっと真夏は胸を撫で下ろす。

 鑢でズダズダに削られたような切痕が左手に刻まれていた。ぼたぼたと珠のような出血が白い地面を汚した。

 駅員の無事を確認した真夏は、今度は雪丸を睨んだ。

 自分を助けなかった事ではない。魔法を解除した事だ。

 仮に雪丸の魔法を『不可視の腕』と称するならば、あの程度の魔法ならば簡単に撥ね返す事が可能だ。それが分かった上で、雪丸は駅員を一度しか守らなかった。

 雪丸は真夏の眼光に込められた意味を悟ったようだが、反省する気配は微塵もなかった。

「おれが行かなかったらどうするつもりだったんだ」

「無関係の人間が一人死ぬだけだよ。君の所為で」

 こちらを見もせずにそう言ったが、真夏の力を試したかったのが本音だろう。

 ――おれが助けると、確信していたのか。それとも……。

 言葉にならない音が喉までせり上がって、今は口喧嘩の時間じゃないと思考を一新する。

 雪丸はとことこと駅員と真夏の前まで歩き、何か叫び出そうとする駅員の首に平然と当身をし、気絶させた。そしてやはり魔法で宙に浮かばせる。

「この人は僕が連れていくよ。人払いもしておくから、好きにやっちゃって」

「なに?」

「あれは君一人で倒して。霊器を使った実技試験だよ」

 ばっと二人が揃って頭を下げる。瞬間、×の字に後方の壁が削れる。シカトされ続ける黒ジャージが痺れを切らしたように攻撃してきた。

「面倒なかまってちゃんだね。じゃ、後はよろしく。その内戻ってくるよ」

「雪丸!」

 真夏が制止する間もなく雪丸は駅員二人を抱えてどこかへ走り去ってしまった。

 孤立無援となった真夏を黒ジャージが嫌らしく嘲笑する。

「おいおい、仲間割れか? 友達なんて信用するからそうなるんだぜ? オレみてーに一人で強くなりゃいいのによ」

 その発言に真夏はピクリと肩を鳴らし、男に一つ質問した。

「……お前は、何で優生思想に降った?」

「あ? この力で弱者を殺しまくりたいからに決まってんだろーが!! どいつもこいつもオレを認めない! 優位に立った途端に見下しやがる!」

 自分の一人論説に酔う黒ジャージは気付かない。

 滅茶苦茶に傷つけられていた真夏の左手が、無色透明の光粒に包まれ、徐々に傷が癒えている事に。

「殺したいから殺す! そこに何の間違いがあるんだ!?」

 そこまで聞いたところで、ふっと真夏の姿が霞み、男の前まで降り立つ。

 瞬間移動宛らに現れた真夏に、男の目がぎょっと丸くなる。

「そうか――安心したよ」

 ドフッと砲撃じみた打撃が、黒ジャージの鳩尾を貫いた。

 がっと吐血を散らしながら野球ボールのように男は吹き飛んでいき、後方の柱に衝突して地面に倒れた。

「お前がどうしようもない屑で、おれは心底安心した」

 常人なら全身骨折でも可笑しくはない威力。しかしそこは流石に魔法使い、打撃を受けた胴を押さえながら立ち上がった。

「てめえ……、決めた、お前はズダズダにして、無様に命乞いさせてやる!!」

「やってみろ。おれは今からお前を叩きのめす」

 カシュッと真夏の指輪から小さな歯が飛び出した。他人を傷つける程の長さはない、一センチ程度の刃物。

 指輪から刃が出た状態で、真夏は躊躇なく左拳を握り込んだ。僅かな痛みと共に鮮血が出血する。

「『血花法』」

 ふわりと風に乗って血液が、見るも美しい花々へ姿を変えていく。血潮の花嵐は狭い天井まで一気に舞い上がった。

「何だ、その魔法は……」

 ざふっと花吹雪が男に襲い掛かる。花びら一枚で名刀と変わらぬ強靭さを誇る花弁の群れを、本能で不味いと察したか、男は千条鞭を血花に向けて放った。

「喰らい尽くせ!!」

 その命令が届いたかのように、数十もの鞭が黒い蛇へ変化した。一匹の大きさは鉄パイプ程、自我があるのかわからないが、キシャアと煩わしい奇声を上げている。

 黒蛇の弾幕はあっと言う間に花々をブチブチと喰い散らかした。血花には麻薬成分も含まれているのだが、意に介した様子はない。

 ――あいつの魔法は、鞭を蛇に変化させるでいいのか?

 血花を喰らっても平気だったのを見るに、毒蛇の可能性も否定できない。抗体なんてものがあるのかは知らないが。

 取り敢えず、相手の手数を見る。

 降り注ぐ血花の後を追うように駆け出した。それに気付いた男が、真夏に蛇を向かわせる。嚆矢のように迫る黒蛇の群れを躱し、払い、一匹を両手でガッと掴んだ。 

「なっ」

 男が僅かに遅疑する。このままだと不味い、手を離すべきか、しかしそしたら『杖』を失ってしまう……。

 黒ジャージの逡巡を鋭敏に感じ取った真夏は、決断する隙を与えずに筋力にものを言わせて、そのまま背負い投げの要領で、鞭を引っ張った。

 ふわっと成人男性の身体が浮き上がり、20メートル後方まで投げ飛ばした。

 砲丸投げのように吹き飛んでいった男が案内板に激突。ガシャァンと自動車の衝突事故のような効果音を立てて罪なき案内板を凹ませた。

「クソガキが!」

 追撃を加えようと支柱を抜けて走り出す。しかし不意に背部から奇妙な気配を感じ、上半身を捻らせた。

「シャアアアッ」

「――!」

 支柱に身を巻いていた一匹の細身の蛇が、こちらに牙を向けて飛び出していた。ブッ飛ばされた時に絡めていたらしい。

 回避する暇はなく、咄嗟に右腕を盾に構えた。ガッと容赦なく二本の歯牙が腕に噛みつき、肉を貫いた。幸いにも蛇自体は他よりも小柄で、歯も小さかった。

 だが蛇は蛇。勁烈な疼痛が全身に巡る。

「ぐっ……、なろ!!」

 蛇の首根っこを握り、傷痍から血花を発動させる。朱色の血風で蛇を硬質な鱗と牙ごとバラバラに刻んだ。

 立ち上がった男が、バチンと千条鞭で地面を叩いた。次いで、再び黒蛇の驟雨が立て続けに放たれる。

「死ね、二位真夏!!」

 四散した蛇の肉片を解き、蛇の進行方向とは真横に駆けて脱け出した。ドドドドッと空ぶった蛇の弾丸がコンクリートに突っ込んだ。

 それでも量が量だ、完全に回避はし切れない。走った先に見つけた改札機のゲートの真下をスライディングで潜り、蛇雨を振り抜く。距離を置いた処で見返り、右腕の出血から血花を生み出し、改札機ごと黒蛇を呑み込んだ。

 血花の霧が晴れ、視界が良好になる。蛇の発生源に本体の魔法使いがいない事に気付いた。さっきまで男いた場所には何も残っていない。

 ――あいつ、何処に……。

 疑問に答える形で、人影が付近の支柱から飛び出す。

「!」

 黒ジャージだ。大量の蛇を囮に身を隠していたのか。

「はあっ!!」

 意気揚々と繰り出される千条鞭を躱し、束となった蛇の上に跳び乗り、本体まで距離を詰める。

 次の瞬間、足元が不安定になり、ふっと身体が宙に浮く。

 男が魔法を解除していた。バラ鞭は通常の長さに戻り、足場は消え去った。

 ニヤリと男の薄汚い笑みが真夏の視線とかち合う。

 咄嗟に腕を交差させたコンマ一秒後、視界を埋める程の黒蛇の弾幕が真夏に突き刺さった。

「ぐ、」

 蛇が肩に、腕に、腹に、鋭利な牙で噛みつかれ、灼熱の炎に焼かれたような痛みが貫いた。勢いを殺す事が出来ず、後方に吹き飛ばされる。ガシャンッ、バキバキと何かを壊しながら、地面に落ちた。

 頭を落ち着かせながら周囲に目線を回す。

 亜麻色の机と椅子。カウンター席に並べられた調味料の数々。つい数時間前まで嗅いでいた独特な香り。キッチンに置かれた湯切りザル、巨大な鍋。

 ――ここは……、ラーメン屋か。

 飛ばされた勢いが強すぎるあまり、フードコートのラーメン屋の店内まで侵入してしまったらしい。人払いは済んでいるのか、店内には誰もおらず、ただカウンターと机と椅子が派手に壊されただけだった。

 そう言えば、魔法使いがインフラや建物を破壊した場合、誰がどう隠蔽するのだろうか、と今はかなりどうでもいい事を考えた。今考えても詮の無い事だが。

 ぱっぱっと服にかかった埃を払い、ズキリと傷跡が悲鳴を上げる。どくどくと溢れる流血を手で押さえるが、止まってはくれない。

「……! 血が……」

 血が止まらない。それどころか痛みは更に激しくなり、身体を蝕んだ。やはり毒か何かが塗られていたらしい。

 震えながらカウンターを支えに立ち上がり、何の気なしに目線がキッチンに落ちた。

 そこで目に入ったのは、ラーメン屋で用いられる和包丁。

 どくん、と鼓動が一段と早くなる。全力疾走した後のように息切れを起こし、じとりと手汗が掌中を濡らした。

「は、……はっ、はっ……」

 忘れもしない。あの日の絶望が脳裏をスクロールしていく。自分の手で友を殺した.美しく恐ろしい朱色の血花。何度洗っても未だ消えることのない血濡れの感触。

 そして最後に思い浮かぶのは、陽太の笑顔。

 ――真夏!

「あ……」

 あの日から、夜の数だけ後悔した。自殺を試みた回数だって一度や二度じゃない。

 それでも今日まで生きていたのは、記憶の底に陽太がいたからだ。

 ――そうだ。

 ――こんな処でおれは死ねない。

 今自分が死んだら本当に何も残らない。陽太に何も報いていない。こんな生き様で天国の陽太に顔向けなど出来るものか。

 生きているのだから、生かされたのだから、その責任を取らなければならない。

 不意に、コツコツとわざとらしく靴が床を叩く音が聞こえた。

 黒ジャージの男が、鞭を無造作にぶら下げながら半壊した店の入り口に立った。

「なんだ、まだ生きてたのか。頑丈な奴め。いい加減にくたばってくれよ、攻撃すんのも楽じゃねえ」

 自分の勝利を疑いもしていないのか、台詞とは裏腹に、ニヤニヤと虐めっ子のような酷薄な笑みで真夏を嘲った。

 真夏は手のひらを広げ、脈絡の言葉で言い返した。

「ああ……ならおれの実験体になってくれよ」

 あ? と男が何を言い出すんだと疑問を声を上げる。

 ズ、と指輪に魔力が灯り、周囲の空気がまるで鉛を溶かしたかのように重々しくなった。先程まで余裕そうだった男の額に冷や汗が垂れる。

 千条鞭で床をバチンッと叩き、鞭が蛇へと変化する。

「あいつを喰い千切れ!!」

 数多の黒蛇が、顎が外れそうな程に大口を開け、毒牙をギラつかせながら撃ち出された。

 真夏は左手を顔の前に広げ、一言呟いた。



「来い。霊器」



 その声を掻き消すように、ズガガガガと連続してラーメン屋の店内に黒蛇がぶち込まれた。入り口を塞ぐ程の密度で迫り、中が茨のように組まれた蛇によって完全に埋め尽くされた。

 突き出された鞭は蛇に変化させた量に応じて重量も比例する。これだけの数は魔力も相当浪費する。

「はあ、はあ……」

 ばきっと『ラーメン亭』と書かれた看板の留め具が壊れ、落下する。細長い看板が一瞬だけ黒ジャージの視界を覆った。

 その刹那、看板が斜めに真っ二つにされた。

「!?」

 切れ込みの延長線上に斬撃が通り、男の後方にあった蕎麦屋の食券販売機を看板同様に斬り裂いた。

 男が反応出来たのはその後だった。背中に目線を向けつつ、唖然と口を開ける。

「な――――――」

「何処見てやがる」

 自身に肉薄した黒蛇を丁寧に全て切り取り、服を埃だらけ、身体中を傷らだけにしながら入り口から飛び出したのは、鮮血の太刀を構えた二位真夏。

 身を沈め、豹のようにしなやかに接近する。太刀を振るうと、刀身に滴った鮮血が朱色の花々へと変わっていく。男は鞭を手放し、上半身を曲げる事で辛うじて回避に成功した。

 体勢が崩れた隙を真夏は見逃さず、返す刀で黒ジャージを打ち付けた。ガッと鈍い音を立てながら吹き飛ばす。

「ぐお!」

 しかしそこは魔法使いか、飛ばされながら姿勢を整え、ずさっと地面を靴で滑らせながら停止した。

「なんだ、お前の、その……『霊器』は……!」

 真夏はヒュンッと風を切って太刀を構える。

『杖』は『霊器』に。真夏の『霊器』は鍔のない太刀だった。目立った装飾や銘もなく、刀身に沿って描かれた刃文が銀色に怪しく光っているだけだ。

「大人しく手術台に寝そべってろ」

 蛇の進軍から逃げることは出来たが、それでも無傷とはいかず、真夏の身体は全身がボロボロの傷だらけだった。

 その傷が、微かな煙を生じさせながら修復していく。真夏の意思とは無関係に、身体の再生が行われているのだ。

 これが真夏の『霊器』の能力。

 どんな状態であれ、『霊器』を開放している間は真夏の傷は猛烈な勢いで治癒されていく。

「いくぞ」

 真夏の姿が掻き消え、黒ジャージの眼前まで迫る。加速した状態のまま太刀を槍のように刺突した。剣術の心得などない真夏であるが、膂力にものを言わせた一撃は、男が避けた先の壁を粉砕し、白刃が中途まで突き刺さった。

「ちっ」

 黒ジャージが身動きの取れなくなった真夏に殴りかかる。真夏は柄から手を放し、拳を腕で受け流し、カウンターに鳩尾を鉄拳で撲った。

 胸倉を掴み、かはっと吐血した男の顔面に更に連続して殴打を叩きこむ。

「くそっ、が!!」

 男の全身から魔力が立ち昇る。命の危機に瀕して魔力が増大したか。

 バキバキッとコンクリートが剥がれるような音が男の両腕から発生した。そちらに目を向けると、両腕の肘から下の皮膚がボロボロと崩れていっているのがわかった。

 皮膚の裏から艶のある黒い鱗が覗いた。

「!!」

 ひりつくような危険を感じ、突き刺さった太刀を回収しながらダッと後ろに退いた。

 ドゴッと男が腕を振り上げ、地面に沈ませた。さっきまで異なる過剰なパワー。真夏は慌てて空間の広いプラットホームまで避難した。

 黒ジャージも真夏を追いかけ、ホームに入ってきた。虚ろな眼でぼうっと真夏を見ており、攻撃の意思は感じられない。

 すると、皮膚の全てが剥がれ、男の両手が毒蛇の三角形の頭部に変化し、前腕が黒い大鱗に包まれた。

「……!?」

 男の両腕は完全に黒蛇の姿へ変化し、人間の原型など在りはしない。自慢の黒ジャージはビリビリに破れ、上半身が露出していた。もう黒ジャージとは呼べない。

「お前、それは……」

「フーッ、フーッ、フウウウウゥゥゥゥ……!」

 意思を持っているのかいないのか、先程まで人間の肉体だった黒蛇がシャアアアッと鳴いた。本体の人間顔中汗だくで青筋がいくつも浮かんでいた。苦しそうに呻き声を上げ、魔法に脳を支配されているようにしか思えない。

 ――あいつの奥の手か、それとも単純に暴走しているのか……。

 判断に困る処であったが、いや別にどっちでもいいなと解答を投げ捨てた。

「見た目の人間らしさも遂に死んだな。そこまでくると魔法使い以前にただの怪物だ」

 軽く挑発するも、乗ってこない。理性はないのだろう。

 精神科は専門じゃないんだがな、と独り言ち、『霊器』の太刀を上段に構え、白刃の切っ先を蛇男に突き付ける。

「おれがお前を治療する」

 それが合図になったように、意味不明な言語を叫びながら、男が両腕をこちらに向け、毒蛇の群れを放った。つい先刻の黒蛇とは比較にならない、プラットホームを埋め尽くすほどの大群。弾幕というより最早それは『壁』であった。

 駆け出しながら真夏は太刀で右手の前腕を切り付ける。血潮に濡れた刀身が迫りクる黒蛇を一匹二匹と頭部を切断する。

「ふっ――――」

 黒い洪水に飛び込む。自身に噛みつかんとする蛇を嵐の如き剣とそれを彩る血花で次々と屠っていく。回避は最小限、身を捻り、斬り付け、失血を気にしない大量の血花で蛇の群れを粉々に刻む。集団を相手取るに不向きな太刀であるが、少年の進撃を止める理由にはならなかった。

 血花の暴嵐に黒蛇が蹂躙される。その光景は、男にとっては魔王の暴虐に思えただろう。意識があればだが。

 鉄砲水が街を呑み込むように毒蛇の大群を侵食していき、十数メートル進んだ処で、漸く本体と再会できた。

「久しぶり。イメチェンしたか?」

 男の眼球は文字通りの血眼だった。まるで、この男が最初に殺した駅員のように。

 助けを求めているような双眼に、真夏は報いる気などなかった。

「悪いな。麻酔の手持ちはない」

 故に、まずまだ鱗に侵されていない右の肩口を躊躇なく斬り落とした。

 黒々とした鮮血が切り口から溢れ出し、男が理性を取り戻したかのように叫喚する。

「ぎゃあああああああああああああああああああ!?」

 鼓膜が破れそうな絶叫。片腕を切断された反応としては妥当だが。

 黒ジャージが暴れ出す。しかしそれは致命的な隙を晒している行為に他ならない。

 くるりと反転し、男の胸板と自身の背中を密着させ、刀を脇に添える。そして太刀を振り上げ、今度は左腕の肩口を断ち斬った。

「があ、」

 刀を突き刺し、両腕を失って暴れる男を正面から見つめる。最初に感じていた恩讐は、不思議と今は薄れていた。

 ――おれももしかしたら、こうなってたのかな。

 もしいとに手を差し伸べてもらえなかったら。燃々に会えなかったら。明原を助けなければ。

 そんな些細な擦れ違いの果ての真夏が、この男かもしれない。

「暫く寝ててくれ」

 真夏の突き出した左ストレートが、男の頬を捉える。男は抵抗しなかった。

 メキメキと嫌な音を立て、筋力任せの鉄拳を振り下ろす。男の中肉中背の肉体が地面にめり込んだ。

 バゴンッ!!

 コンクリートの地面が悲鳴を上げ、沈んだ男を中心に衝撃の余波が、四方の地面を揺らして割った。

 ズキズキと痛む拳からぽたりと出血が滴る。男は白目を向いて、死んだようにピクリとも動かなくなった。

 真夏は身じろぎ一つしない男を足元に、暫時の間その場から動けずにいた。

「はあ、はあ、はあっ……」

 十分が経過し、自分の行った事を再確認した真夏の身体から、どっと滝のような汗が噴き出した。

 ――勝った。魔法使いを倒した。

 そう。魔法使いを正面から打ち倒した。アクアノートのような『勝ち逃げ』ではない。魔法の勝負に真夏は勝ったのだ。

 アドレナリンがドバドバ出ていた状態だったか、重力が三乗で加算されているような疲労感が身体に圧し掛かった。

「あ……」

 気が抜けて、ふらりと身体が前向きに倒れかける。コンクリートに直撃する寸前、ぐっと棒のような何かが真夏の腹を支えた。

「お疲れ様」

「……雪丸」

 相変わらず冷たい鉄の双眸に、氷の無表情で真夏を見下ろす美少年は、日野森雪丸その人だった。あれだけ派手にボコスカ大騒ぎしていたにも関わらず、誰も来ないという事は、人払いを終わらせてきたらしい。

 雪丸は魔法ではなく脚を突き出して真夏を支えており、その体勢のまま抑揚のない台詞を重ねる。

「労ってあげようか?」

 欠片も慰労の気持ちがない高音で言い放つ雪丸に、真夏は脚に力を込め、上半身を起き上がらせながら言葉を返した。

「いいよ。ただでさえ容態が悪いのに、気分まで悪くなる」

「他人の厚意も素直に受け取れないの? 君の親御さん泣いてるよ」

「法外な値段で厚意を押し売りするな」

 何時の間にか指輪の形に戻ってる『杖』を手に取り、人差し指に嵌めた。

 はあと吐息を溢す真夏に、何か気付いた様子で雪丸が指を差す。

「君、服はボロボロだけど……怪我は? これだけ暴れておいて無傷はないでしょ」

「ん? ああ、これか。『霊器』を使ってたら勝手に傷が治ってたな」

「そう……。鍛えれば自主的に『治療術』も扱えるようになるかもね」

「何だって? ちりょ?」

「知らないで使ってたの?」

 呆れた、とばかりに肩を下ろし、「また後で説明するよ」と真夏の疑問を放置した。

 敗者となった男の頭蓋骨を爪先で軽く小突き、雪丸は言う。

「この人、何で両腕がないの。君が斬ったの?」

「ああ、まあ、色々あって」

「そう」

「そいつ、殺すのか?」

 雪丸ならやりかねない、と思いながら真夏は問うた。

「まさか。下っ端とは言え『優生思想』……。拘束してアンダーまで連れ帰るよ。そこで尋問して適当に処罰を下す。拷問と記憶封印措置が妥当かな」

 当然とばかりの回答に、真夏は思わずほっと胸を撫で下ろす。

 その安堵が、真夏は自分ながら許せなかった。

 ここまで他者を傷つけておいて、人を殺すという一線に臆病になっている自分を内心で罵る。

「止血するから、何か縛るもの……」

 真夏の心境を知って知らずか、雪丸は地面に埋まった男を魔法で持ち上げる。真夏が前回の経験を活かして懐から止血帯を取り出そうとする。

 ――ぶわりと、陰風がホームに流れ込む。

「…………?」

「なに、今の……」

 魔法使いが感じ取ったのは、温かな春の温風と、氷柱の間を通り抜ける浚いの風が交互に吹いたような気味の悪さ。温かさと冷たさが混ざり合って、有り体に言うならば、「胸騒ぎがした」。

 名前の付けられない不穏さに、真夏が肌寒さを覚えた時、ガタガタゴトゴトとレールの奥から聞き馴染んだ音がホームに響き渡った。

「電車か。ここから離れるぞ、雪丸――」

「待って。変な匂いがしない?」

 雪丸の言葉が契機になったように、意識する必要もなく腥風の芬々が真夏の鼻をちくりと刺激した。

 ――血の匂い……か?

 その疑念に答える形で、凄まじい速度で電車がホームに到着し、停止した。

 毎日のように再生される早朝の光景に、二人は何故か動く事が出来なかった。

「……!?」

 電車の窓ガラスが、これでもかという量の鮮血で彩られていたからだ。

 非現実的な景色に対する恐怖心と、少し前まで日常的ではなかったそれに見慣れてしまっている自分との認識のズレを感じながらも、真夏は後退るのを止められなかった。

 ――何だ。何がいる。

 電車の空気式ドアが、ゆっくりと開放されていく。目を背きたいのに、金縛りにあったかのように目線が固定されている。

 ぼたり、ぼたり、とドアから血が溢れて零れ落ちた。

 完全に開放された同時に、一陣の颶風が巻き起こった。血腥い舞台風が、ビュウッと魔法使いを揶揄うように通り過ぎていった。

 脊髄反射で瞼を僅かに下げると、真横からごとっと何か重いものが地べたに落ちたような音がした。

「?」

 金縛りが解けたか、そちらに顔を向ける。

 ごろりと形の悪い岩石のように転がったのは、人間の生首。

 真夏が打ち倒した男の頭部が、物言わぬ一頭身のマネキンとなっていた。

「え」

 心臓が鷲掴みにされ、ばっと雪丸に視線を向ける。魔法に捕らえれた男の身体には、首から上がなく、コップに詰まった液体が零れるように、ドバドバと血が噴き出していた。雪丸が珍しく唖然と目を丸くしていた。

 ――こつん、と足音が嫌になるほど明瞭に耳に届く。

『それ』は、死の象徴、その器には誰もが恐れる畏怖の濁流が注がれている。

 開かれたドアから、刀を持った一人の『武士』が現れた。

「――――――」

『武士』は何も語らず、アニメでしか見ないような赤い甲冑で全身を包んでおり、甲冑越しでも筋骨隆々としているのがわかった。

 180センチを超える長身の、恐らくは男性。性別に確信が持てなかったのは、それに首から上が存在しないからだ。

 デュラハン、と。そんな単語が想起された。

「お前は……、なにだ?」

 その問いに、首無し武士は答える口がない。ジェスチャーや手話をする訳でもなく、無反応を貫いている。元々聞こえているのかも不明だが。

 最大まで警戒心を高める真夏は、首無しにばかり意識を向けていたばかりに、雪丸の表情の変化に気付かなかった。

 今まで見た事のない満面の笑みを浮かべていた事に。



「ああ……。こんな所にいたんだね」

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