第五話 日野森雪丸① ――鎧狗――
ドッペルゲンガー。自分とそっくりの姿をした二重身が現れ、もう一度会わないと死ぬ。夏の怪談話では定番中の定番の、誰もが知ってる怪奇現象だ。歴史の事例では小説家芥川龍之介が目撃したという記録が残されている。
医学的には『自己像幻視』と名付けられている。根も葉もない言い方をすれば鏡像の幻覚、或いは脳腫瘍だ。現実のドッペルゲンガー案件は大抵これで片付いている。
しかし友人の必死の形相を見れば、何も聞かずいきなり幻覚だと切り捨てる事も難しい。取り敢えず出会って早々に爆弾発言をした望愛を落ち着かせ、取り敢えず燃々が自分用に買っていたサイダーを飲ませた。
「望愛、落ち着いてもう一回聞かせてくれない?」
燃々にしては珍しい憂いにふけるような表情で望愛を見つめる。
悶々と瞳を曇らせ、望愛は明原について質問したげだったが――容姿ではなく関係性についてだろう――、一旦視線を切った。
「この前、燃々が学校に来なかった時だよ。ほら、急にお母さんが倒れたとかって……」
「あ、あー、そんな事もあったね」
何で仮病とかにしなかったんだ。
「その日は偶々部活が遅くなっちゃってさ。19時くらいに帰れたんだけど、もう真っ暗で。街灯しか点いてなかったから、お化けを信じるタイプじゃないんだけど、ほんとに怖くてさ……」
「待てよ。今は夏だぞ、19時くらいならまだ明るい時間帯じゃないのか?」
夏は日が落ちるのが遅い。19時くらいならまだ活動出来る時間だ。
日照時間を指摘するが、望愛はふるふると頭を振った。
「だから余計怖かったんだよ。何度かスマホとか時計台で時間を確認したけど、確かに19時だった」
「う~ん、昨日は特別日が落ちるのが遅かったとか聞いてないけどな……」
「うん、私もそう思った。それに学校から出てから一気に暗くなった気もしたの。それで、これなんかヤバいんじゃないかと思って、シャカシャカ足を動かして家に帰ったんだけど……」
「けど?」
「家のすぐ近く、てかポストの前で誰かが蹲ってて! 頭を押さえて丸まってたから、どうしたんだろうと思って話しかけたら……!」
「自分と瓜二つの顔だった訳だ」
「そう! もう、ビックリして! こっち見た途端ににやあってするし! やっば!! てなったもん! これ完全にドッペルゲンガーだ! て」
「いつもの望愛に戻り始めたね」
わあわあと一喜一憂する様に、よかったよかった、と燃々が余りのサイダーに口を付ける。何も状況は好転していないが。
「で、どうなったんだ」
「私が逃げるよりあっちが逃げたんだよ。ウサイン・ボルトかってぐらい速くてさ……。取り逃がしちゃった」
取り逃がさなかったら何をするつもりだったのだろう。
「だから外で探してたんだ。そっか、私が休んだ日に会ったなら、今日で三日目だね」
「そうそう、五日以内に見つからなかった時に死ぬんだよね?」
「いや一週間以内じゃなかったか?」
「え? 遭遇したら、とにかく罵倒すればいいって聞いた事あるけど……」
バラバラである。明原に至っては時間ですらない。
抑々ドッペルゲンガー自体がふわっとし過ぎている。大抵の怪談は娯楽に飢えた人間の享楽でしかない。通説が固定されてなくて当然だ。
とは言え、望愛自身の精神疾患でなければ、魔法使いかカムイの所為だと真夏は確信していた。
「望愛。取り敢えず――」
一先ず真夏は脳の病気である可能性を説き、望愛を納得させた後、病院を受診する事を勧めた。友人からの勧めに望愛は頷き、真夏たちに礼を言ってその場は帰宅した。明原とツーショット写真を撮る事は忘れずに。
「真夏、さっきのってほんと?」
望愛を見送った後に、医学の知識のない燃々が真夏へ訊いた。
「魔法関連じゃないなら、脳の疾患の筈だ。脳の側頭葉と頭骨葉の間に腫瘍が出来た患者に自己幻視の症状が見られるケースが多いと報告されてる。他にも統合失調症とかな。ただの思い込みって事もある」
「あ……、『ドッペルゲンガーに遭遇したら死ぬ』というのも、『発病しても何もしないから死ぬ』という事なのかな」
「ああ、そういう見方もある。まあ……大丈夫とは思うが……、そうだな。本当に魔法かカムイが関わっているなら……」
三人が奇妙な間を置いて、それこそ幻視したのは、薄気味悪くにやける男子小学生(仮)。
如何やら『普通』は長続きしないらしかった。
「ああ、いるよ、そういうカムイ。カムイ『ダブル』とか『妖狐』とかだね」
クレープを食べ終えた後、三人は早速アンダーの学校へ向かった。
順番にノックもせずにガラガラ扉を開けていくと、書物やら玩具やらがめちゃくちゃに散乱している、広間のような大きな部屋があった。その奥でアルマが何かの本を読んでいた。アルマは真夏たちが来るのを知っていたように「やあ、昨日ぶりだね」と挨拶してきた。
望愛の案件を話すと、アルマは愉快そうに事例を語った。
「人に化ける、人を化かすというのはカムイにとってオーソドックスなものでね、位の高いものから低いものまで、こよなく愛されている悪戯さ。よく聞くでしょ? 手袋が欲しくて片足を人間の手に変化させた狐、自分を助けてくれた人間への恩返しに茶釜に化ける狸、とか」
言われて思い出せば、確かにその手の童話は多い。狐と狸の話なら、ほっこりするものからしんみりするものまで千差万別だ。子供への教訓が殆どだろうが、その中に実体験が混ざっていても可笑しくはない。
「じゃあ今回のもただの悪戯?」
「いやあ、それはモノによるね」
「モノ?」
「最初に言ったろ? オーソドックスなものだって。特にダブルは凶悪だ。ダブルは人間に化けてから一定時間が経過すると、本体と偽物が入れ替わるのさ。人間の精神がダブルに、ダブルの精神が人間にね」
「入れ替わる!?」
子供向け童話からいきなり物騒な怪談になり、燃々が思わず大声を張り上げる。声こそ上げなかったが、真夏とて同じ気持ちだ。友人の笑顔が、気付かぬ内にハリボテになっている等、考えたくもない。
「なあ、望愛の場合はどうなんだ?」
「情報が少な過ぎるかな。その望愛って子にやってる事はまだ悪戯の範疇だから、何とも言えない。というのが僕の見解だよ」
はっきりしない答えに、真夏は舌打ちを堪える。これだけの情報提供をしてくれたアルマの前では不義理だ。
「ダブルと人間が入れ替わるのにどれくらいの時間がかかるんだ?」
「結構いるよ? 早くて一週間くらいかな」
「短いじゃん!!」
「いやいや長い方だって。それに、他にも条件がある。例えば、本体から過剰に距離を取れないとか、入れ替わっている間に他の人間に化けてはいけないとか、偽物である事を他人にバレてはいけないとか」
「あれ、最後のならいけそうじゃない?」
「そうだよ。でもダブルを本体だと勘違いして声をかけたりしたら、警戒して付近を近寄らなくなるよ。容姿も声もその人そのものだよ。見分けるのは困難だ」
「望愛ー!!」
「落ち着け、静かにしろ、燃々。……そのダブルを追い払うにはどうすればいい?」
「暴力にものを言わせればいいよ。連中は割とビビりだからね、脅しかければどっか行くと思う」
単純だった。だがダブルの芝居が上手ければ簡単にはいかないかもしれない。
望愛とダブル(違うかもしれないが、ここは最悪を想定する)が遭遇して今日で三日目。早くてもあと四日後には甘原望愛は甘原望愛じゃなくなる。
「んー、君らの友達というなら、放ってはおけないか。まだ仮定とは言え、街にダブルがいるのも、それ自体問題だしね」
その時、ガラリと部屋の扉が開いた。ノックの音はなかった。如何やらアルマは魔法使い全員にこういう扱いを受けているようだった。
入室してきたのは、貴族のように整った顔立ちの美少年だった。
髪色は黒、相貌に似合わぬ野獣の如き青き眼光が真夏たちをちらりと見つめた。背丈はそこまで高くないが、口出しできない異様な威圧感があった。
真夏たちに対しては無反応を貫き、書類を持ってアルマの眼前まで歩いて来た。
「ああ、雪丸。ちょうどいいところに」
名を呼ばれた少年、雪丸がアルマへさっと書類を手渡しする。
「アルマ先生……。客人がいらっしゃる時ぐらい片付けたらどうですか」
「この子たちの事ならお客さんじゃないよ。この前言ってた新米魔法使いさ」
「ああ……。彼等が、例の」
憐憫めいた視線で真夏たちを見つめる雪丸に、そうだ、とアルマが両手を合わせる。嫌な予感がするとばかりに雪丸が怪訝そうな顔をする。
「何ですか」
「実は最近、東京でダブルが出現しているようでね。そう、黒い影のカムイの事さ」
「――! ……それが何か」
雪丸が僅かに目を丸くしたような気がしたが、一瞬の事だったので分からなかった。
「それを調査しておくれよ、君ら四人でさ」
思わぬアルマの助け船に、真夏たちは色めき立つ。
一方、巻き込まれた雪丸はげんなりと美貌を歪ませる。
「はあ、何で僕まで」
「いいじゃないか。魔法使いの先輩として、後輩に諸々教えてあげるいい機会でもあるからね。カムイが暴れてるっていうなら、魔法使いの教室としても放置は容認できない」
「……わかりました。行きますよ」
「それに、折角だし霊器の事も教えてあげなよ」
「…………」
大きく息を吐く雪丸。『霊器』という新出単語に真夏が言及する前に、アルマが言った。
「真夏、燃々、玖秭名。この子は雪丸。年は近いけど君たちの先輩にあたるから、何でも頼ってね」
やはり魔法使いのようだ。紹介されたので、こちらも自己紹介しようと口を開く。
「おれは二位真夏……」
「知ってるよ、言わなくていい。二位真夏に、兎束燃々、明原玖秭名でしょ。もうアルマ先生に聞いてる」
真夏の台詞を遮り、冷たく言い放つ雪丸。返事も聞かず、目も合わせずにスタスタと出口まで足早に歩き始めた。
「何してんの? とっとと行くよ。亀じゃないんだから、テキパキ動いてくれる? こっちは君らの私事に付き合ってあげてるんだから、少しは忖度しなよ」
「「「…………」」」
矢継ぎ早の悪口に、三人が茫然とするが、それを無視して扉が閉じられた。
三人の背後で、くつくつと楽しそうにアルマが笑っていた。
日野森雪丸。彼が出て行った後にアルマが簡単に紹介してくれた。
教室の生徒としては古参に当たる一級の魔法使い。実力も知力も優れているが、素行はともかく人間性に少々問題があり、交友関係は狭い。合理主義で非効率的な人間は嫌い。
「ねえ、その人の情報教えてくれる? スマホに写真とか動画くらいあるでしょ。それ見せて。あと、言動と性格、君らの個人的な印象も教えて」
廊下に出てきた三人を雪丸は諸々すっ飛ばして質問攻めにした。友人の個人情報を少し会っただけの他人に曝け出すのは燃々とて抵抗があったようだが、望愛の為だとスマホをタップし始めた。
「えーっと……、あ、あったあった」
スマホに映し出された望愛は、体操服を着た姿で、あらゆる部分が不明な謎ポーズを取っていた。
「どういう状況だよ、これ……」
「去年の体育祭でうちのクラスが学年リレーで敗けた時のポーズだよ」
「……他にないの。これじゃ普段の服装がわからない」
「んーと……」
燃々が頼りになりそうな写真や動画を雪丸に見せる。どの望愛も女子中学生にしてはキャラが濃過ぎる言動を取っていた。度々燃々と真夏も加担していたが。
「ダブルの行動って何か法則性があるの?」
「本体から一定範囲以内……個体差あるけど、およそ5キロ以内ならば自由に動き回るよ。知っておきなよそれぐらい」
一々棘を吐く雪丸に眉を寄せつつ、しかし何も言えない。知識不足はその通りである上、彼は魔法使いとしての先達だ。関係を悪くさせていい事はない。相手のその気があるのかは知らないが。
一通りデータを確認すると、雪丸は燃々に対し二言三言文句を言いたげだったが、ここは堪えたらしい。溜め息を吐いただけだった。
「……ダブルについてはあまり情報が多くないから、人海戦術で粗探しするしかない。ねえ、紫髪の君、その子に暫く外出するなって言っておいてよ」
「ラジャー!」
「煩い、大声出さないで」
「望愛の家から五キロ圏内っていうと、この辺までだな」
真夏がスマホの地図にぐるりと赤い円を描く。明原のスマホにも共有した。
「ごめんね玖秭名、折角の休日なのに……。でももうちょっとだけ付き合って!」
「いいよ、気にしないで。二人の友達を見捨てる訳にはいかないよ」
謝りつつ助力を願う燃々に、屈託のない笑みで返す明原。真夏が目を離した隙に、よくここまで信頼を築けたものだ。
雪丸が千切ったメモ用紙に自分の連絡先を描いてる最中に、真夏が話しかける。
「人海戦術ってさっき言ってたけど、誰か協力してくれる人がいるのか?」
「暇そうな奴らに声はかけておくよ」
片手でメモを燃々に渡し、もう片方でスマホでメッセージを送る雪丸は、その彼らに対し罪悪感など微塵も感じていないようだった。申し訳なさを感じるのはこちらだが。
そういえば、口は悪いが何やかんや助力してくれる雪丸に、お礼の一つも言っていなかった。
「雪丸……、ありがとう。見ず知らずのおれたちにここまで協力してくれて」
「ほんとだよ。もっと感謝してほしいところだね。……ま。ダブルがいるなら遅かれ早かれこうしてたけど」
「……?」
雪丸の口振りは真夏の胸中に微かな違和感を残したが、燃々が早速『鍵』を使ってアルマの部屋の扉を開けていたので、言葉にする機会は失われた。
一足先にアンダーから飛び出た燃々を追いかける形で三人は表世界に出る。
「一先ず二手に別れる。ダブルの行動に制限はあるけど、規則性はない。とにかく虱潰しに捜索するよ。発見したら僕に連絡して」
「二手? どう別ける」
「どっちか一人はその人の特徴を知っておかなきゃ駄目でしょ。取り敢えず、君はこっちに来て。僕らは東から探すから、そっちは西から探して」
雪丸はぐいっと真夏の襟を掴み、細身に似合わぬ力でぐいぐい引っ張る。「自分で動くからやめろ」と抗議すると、ぱっと離された。
とと、と後ろによろけつつ、明原と燃々に、「そっちは頼む」と声をかける。燃々が親指をぐっと立て、明原がお淑やかに片手を振っていた。
「…………」
「……………………」
「……………………」
「…………………………………………」
無言。沈黙。閑寂。
二人っきりになった男子中学生たちは無の境地に立っていた。真夏はコミュ力が高い方ではなく――医者志望としてアレだが――、雪丸からも仲良くしようと意志が感じられない。いつもは特に意識しない自動車の走行する音がとてもよく聞こえた。
捜索からおよそ30分。やかましい燃々の高音が何故だか懐かしく思えた。
歩道の先頭を歩く雪丸は、時折スマホを見ながらてくてく歩いていた。雪丸の死角に真夏は視線を走らせるが、望愛らしき姿は見えない。行き交う人々に聞き込みを何度か行ったが、首を横に振られるだけだった。
無の圧に耐え切れず、真夏は思い付いた質問を口に出す。
「ダブルって時間が経てば勝手に本体と入れ替わるんだよな? じゃあずっと隠れてるんじゃないのか」
「そうでもないよ。彼等は悪戯好きでもあるから、意外と非合理的な行動を取る。でも本体とはあまり接触したがらないから、人通りが少ない場所を通る傾向にある。驚かすのも集団にはしない。一人か二人しかいない時だけだよ」
「悪戯ってどんなのだ?」
「本人には姿を見せるだけだけど、他は通行人に水をかけたり、壁に落書きする程度だね。まあ、本体からすれば迷惑でしかないけど」
「……Twitterには、それっぽい情報はないな」
会話が途切れ、再び二人の間の空気が沈黙を纏う。
居心地悪いな、と思う真夏に、まるで内心を見透かしたように今度は雪丸が質問した。
「ねえ、僕も君に訊きたい事があるんだけど」
「ん? ああ、別にいいけど、どうした?」
「君の『夢』って何?」
予測の外から飛び込んできた問いに、真夏は言葉を失う。驚愕よりも当惑が勝ち、別にいいと言った直後だが、「急に何だよ?」と質問を質問で返した。
雪丸はその場で止まり、置いてある自販機に寄り掛かった。
彼我の距離は、およそ五メートル。雪丸の冷たい視線が真夏を射抜く。
「別に夢じゃなくてもいいよ。目標とかとかでもいい。とにかく、今君が魔法使いとして戦う理由だよ」
「魔法使いとして……?」
「そう。前までの人間として、じゃなくてね」
言葉の意味は分かったが、意図が読み取れない。何故今そんな事を。
「おれは……、魔法を理解したいんだ。魔法使いになった以上、魔法からは逃げられない。魔法と共に生きる為に、おれは今ここにいる」
「その次」
予見していたかのような即座の切り返しに、「え?」と聞き返す真夏。
「魔法を理解し、それと生きる。そこまで魔法使いになれば当たり前の思考だよ。じゃあ、次は? 魔法を理解してからは何をするの? 何を目印にして生きるの?」
「…………今、おれがやりたい事?」
「そう。ない? 思い付かない?」
言葉が魚の骨のように喉に引っ掛かって吐き出せない。飲み込めない。
――今、おれは何をしたい?
左手の人差し指を見つめる。そこに嵌まってるのは、質素な銀の指輪。一見ただの結婚指輪であるそれは、魔法を律する魔法使いの『杖』だ。
――これを使って、おれは何がしたいんだ?
戦いたいのか。逃げたいのか。それとも。
生きる目的。
一介の中学生である真夏に突き付けられた単純な五文字は、凸凹として扱いにくく、解する事は容易ではなかった。
「おれは……」
雪丸が自販機の正面に回り、ポケットから財布を取り出し、中から小銭を一枚掴んだ。百円玉が投入口へチャリンと音を立てて吸い込まれていく。
その時、ブウウウウンと聞き馴染んだタイヤの駆動音が真夏の耳に届いた。
音源の方向へ目線を向けると、建物の死角から飛び出した中型トラックが、明らかに停止する気のないスピードで直進していた。それも、道路からはみ出して歩道へ踏み込んでいる。
要するに、自動車事故一歩手前の状況であった。残念な事に、つい最近にも見た光景だ。
――え、何かデジャヴ。
雪丸の意味深な問いもこの一瞬だけ忘れ、自失する。
運転席に座る男は若干顔が呆けており、ガラス越しだが恐らく飲酒運転だった。
止まる気配のない鋼鉄のバイソンは、凄まじい速度で真夏と雪丸へ猛進していた。
知って知らずか、雪丸は数メートル先の自動車には目もくれず、自販機のボタンへ指を伸ばしていた。
直撃、コンマ1秒前。
「雪丸――」
発見から反応まで時間にして二秒にも満たない。魔法の発動は間に合わない。一歩、雪丸へ踏み込んだ瞬間。
ピッ
ドゴンッ!
雪丸がボタンを押すのと、自動車の前面が奇妙な形に凹んで後方へ仰け反ったのは、同時だった。
「……!?」
目の前の超常現象に、真夏は愕然と目を見開く。――何だ、何だ今のは。
あわや衝突事故になる処で――いやそれより酷い事故になってるが――、車の前面が突如として破砕し、強風に煽られたかの如くひっくり返ったのだ。
まるで強大な念力に押し潰されたかのように。
がたんっと緊張感のない音が鳴り、紅茶花伝を取り出した雪丸は、プルタブを引いて何事もなかったかのようにごくごくと喉を鳴らした。すぐ側で反転した車には一瞥もやらずに。
「今のは……!」
「僕の魔法だよ」
だろうな、と思いながらも、つい先刻の瞬間を想起する。
――そういえば、フロントの凹み方が可笑しかったような……。
フロントに突然に筒のような谷間が四つ浮かび、気付けば吹っ飛んでいた。
そう、あれは、もし巨人の拳に殴られたのならば、あんな風になるだろう。
轟音を聞きつけてか、周囲から次々と人が現れ、あっと言う間に人だまりが車を覆った。電話で何処かへ凄まじい剣幕で口を動かす者、記念撮影かのようにスマホで事故現場を撮る者、遠巻きから見つめるだけで何もしない者。
ある一点へ強制的に意識が向けられるその場で、二人の魔法使いだけがお互いを見つめていた。
「僕の力は『こう』だ。こんな風に壊して殺して滅茶苦茶にする。僕だけじゃない。君のだってそうだよ。魔法は人の世をかき乱す新たな物理法則。魔法使いはそれを司る化け物。僕らはもう異常なんだ。普通じゃ、子供じゃいられない」
名も知らない人の群れが真夏と雪丸の側を通り過ぎる。こんなにも沢山の言葉と熱が混じり合っているというのに、雪丸の唇の動きがやけに鮮明に映った。
「力のない夢はただの妄想だし、思想のない正義はただの暴力だよ」
外界から隔たれた二人の魔法使い。その気になれば真夏は今ここにいる雪丸以外の全員鏖殺する事が出来る。
「その上で、君はどうしたいの?」
はっと脳裏に浮かんだのは、悲痛に歪む少女の泣き顔。
世界の理不尽に絶望して、何も救えない自分に失望して、叫ぶ事もなくただ滂沱の涙を流す事しか出来なかった少女。
――明原。
彼女の春の陽だまりのような微笑みが、何時からか真夏を突き動かしていた。
自然と、言葉は出ていた。
「魔法使いを助けたい」
強い意志を伴って紡がれた言葉に、雪丸がどう反応したのか、雑踏と騒音にかき消されて表情は見えなかった。
聞こえてると信じて、真夏は更に続けた。
「魔法をただ殺すだけの力にはしたくない。魔法使いたちに、お前は化け物なんかじゃないって言いたい。魔法で誰かを笑顔に出来るのだと、証明するんだ」
「……だから、助けたい? 随分と高尚な自己満足だね」
「別にいいだろ、夢なんてそんなもんだ。……明原の泣き顔は、もう見たくない。心の底から笑ってほしいんだ」
「……そう」
息を吐く雪丸。失望を通り越して呆れ返ったように。君の壮言大語には言葉もないとばかりに。
顔を上げた雪丸が、こちらを見つめる。
彼が見ていたのは、多分、真夏じゃない誰かだったと思う。
しかしそれを問う間もなく、雪丸はぱんと手を叩いて会話を打ち切った。
「話は終わり。ほら、ちんたらしてないで、血眼を皿にしてダブルを探しなよ」
「……話しかけたのお前だろ……」
「僕はアルマ先生に頼まれただけ。あの人には借りがある」
雪丸は事故現場を後に、真夏の横を通り過ぎて一瞥もせずにそれだけ告げる。こちらからの質問は一つとして受け付けないという意思表示だった。
アルマへの借り。十中八九『杖』や教室についてだ。
彼も嘆いたのだろうか。奇跡の皮を被った理不尽を。何も出来ずのうのうと生き残ってる自分の無力さを。
そうだとして、それを自分に話してくれる日は来るのだろうか。
男子にしては小さなその背中が、やけに弱々しく映った。
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