第三話 二位真夏② ――血花――

 花が踊る。一筋の切痕から生み出された花々は見る見るうちに周囲を埋め尽くした。

 チョウチンアンコウの内部を何百枚の花弁がミキサーにかけるように斬り刻んでいく。僅かに鼻腔を突く匂いは毒の成分が含まれているので、明原の鼻と口を、鞄から取り出したハンカチで押さえている。

 一片一片は大した事ない大きさのそれは、魔力によって物理法則を無視した埒外の凶器である。

 寸刻の内にチョウチンアンコウをバラバラに斬った――否、千切った。

 雲の切れ間に差し込む陽光のように暗闇が斬り裂かれ、二人がいたのは廃病院の一室だった。

「はあ、はあ……」

 息を荒げてハンカチを明原の口から離し、呼吸させる。周囲に巨魚の死体はなく、断末魔どころか血液さえ流れない深海魚には一周回って違和感も覚えなかった。

「明原……。大丈夫か、息できるか?」

「ん、うん……」

 背中を支えながら身体を起こした明原は、真夏同様に息を荒げながらも徐々に呼吸を落ち着かせた。

 新鮮な空気を肺と脳に取り込んだ事で、混迷していた頭が徐々にクリアになってきた。先程の超常現象に思考を回す。

「あのチョウチンアンコウ(?)は結局何だったんだ……」

 魔法によるものなのか、それとも病院に巣食う怪奇なのか。何故自分たちを待ち伏せのように襲ったのか。

 そして燃々は何処にいるのか。

 再び視界が曇ってきた真夏に、幸か不幸か――、その両方の答えを知る拍手が薄汚い病室に響いた。

「素晴らしい。素晴らしいよMr.ニイ……」

 パチパチパチ。

 場違い且つ無理解な嘆賞。本来なら歓喜の念に打たれる筈のそれは、今の状況では敵襲の事前宣告でしかない。

 心臓が跳ねるのを自覚しながら、独特な艶のある声のした方へ首を回す。

 そこには、青いスーツに身を包んだ金髪の男がいた。

 透くような金色の髪を自然に流し、女性かと見紛う程の端麗な容貌だった。長身でガタイの良い体格は鋼のよう。首にかけたネックレスには二人分の銀の指輪がついている。顔立ちからして日本人ではないようだが、流暢な日本語を喋る辺り、会話は通じるようだ。

「お前は……!?」

「失礼。私の名はアクアノート。日本語で構わないよ、Mr.ニイ」

 明原を背に隠しつつ、静かに立ち上がる。アクアノートと名乗った男から明確な敵意は感じられず、今のところ戦闘の意志はないように思える。真夏も出来ればそうでありたいと思う所存だが――。

 埃塗れの廃病院の一室には相応しくない姿で男は甘い微笑を騙る。

「あんたは……一体何者なんだ。このチョウチンアンコウはあんたの魔法なのか?」

「その通り。しかし私の『遊影魚(シャドウフィッシュ)』をこの短時間で屠るとは、これは遠路遥々君に会いに来た価値があったな。The cat would eat fish, but would not wet her feet……。私は欲しいものには手間暇を惜しまないよ」

 質問しているのに自分の話ばかりする西洋人らしき男。ここ最近うざったい男によく出くわすな、と心中で舌打ちした。

 背後の明原がまだ回復し切っていない。魔法使い故、体力も回復力も尋常ではないが、マリアナ海溝に住む未知なる深海魚のような得体の知れなさを発する男が何をするかわからなかった。

「燃々を攫ったのはあんたか? 何でこんな場所まで陽動した。抑々あんたらの目的は何だ?」

「好奇心旺盛なのは結構だが、質問ぐらい一つに絞り給えよ、Mr.ニイ。Missトツカか。彼女の魔法も非常に魅力的だったのでね、私の部下に捕らえさせていたんだが、その魔法で抵抗されてしまい、ここまで彼女が逃げて来たのさ。つい先程気絶させる事が出来た。安心したまえ、無闇に傷つけてはいないし死んではいない。そして君らの動向は魔法で監視していた。発信機があったとは、迂闊だったよ。彼女の荷物は全て破壊させてもらった」

「……?」

 発信機? 何の事だ。

 疑問に眉をひそめる真夏だったが、ここは一旦無視する。

「何故態々三階に魔法を仕掛けていた?」

「私の魚たちは偏食家でね。一階には調度品が多かったから、嫌がられてしまったんだよ。彼等は影に沈むからね。さて……最後の質問についてだが」

 そこでアクアノートは、両腕をミュージカル俳優のように大仰に広げて見せた。本人の秀麗な風貌も相俟ってやけに様になっていた。

 但しその言葉は万人を感動させる事など不可能だ。

「私は魔法使いを嘆いている」

 突拍子もない発言に、真夏の眉が不自然に吊り上がる。真夏の疑問を解する様子もなくアクアノートは続ける。

「知ってるか、Mr.ニイ? 魔法使い、魔女とは古来より社会に否定され続けていた。凡夫にもなれない衆愚共が『畏怖』という弱者の専売特許で我々を攻撃していたのだ。魔女狩りがいい例だ、弱者はとにかく理由をつけて強者を痛めつける。客席から罵声と空き瓶を演者に投げるしか能の無い観客。我々はその衆愚共を掃除する。魔法使いのあるべき世界に帰すのだ」

 魔女狩り、魔女裁判の知識ぐらいは真夏とて知っている。害悪魔術(マレフィキウム)の概念から始まり、理不尽な拷問と異端審問を繰り返す、それこそ害悪な負の遺産。

 現代日本人たる真夏には当時の時代の価値観は理解不能そのものであり、実際の惨状にも詳しくないが、男の語り口には妙に納得してしまう『力』があった。

「我々『魔法優生思想』は既に動き出している。理想を取り戻す為に。ここ日本を拠点にしてね」

 それは子供の想像する魔王のような大言壮語。しかし現実として魔法という超自然的破滅が存在している以上、ただの夢物語では終わらない。

 男がやろうとしているのは復讐だ。

「君にもその一助になってもらいたいんだよ、二位真夏。我らと共に歩み、凡愚共を溺死させようじゃないか」

「断る」

 即答した真夏に、アクアノートは意外そうな顔はしなかった。

「おれにそんな劇的な過去はない。おれらには関係のない話だ。宗教の勧誘なら他所を当たってくれ」

 抑々論点がズレている。真夏には一般人を虐殺したい等という反社会的思想は持ち合わせていないし、魔法を好きに使いたい訳でもない。仮に連中の言う世界征服が達成したとして、真夏に得はないのだ。

 短くもハッキリとした拒絶に、アクアノートは矢張り人好きのする微笑みを返すだけだった。予想通りとでも言うように。

「ああ、今まで私の誘いに頷く日本の魔法使いはいなかった。君もそうなんだな。――ならば、君が泣き叫ぶまで追い詰めるとしよう」

 アクアノートはつい先刻までの紳士的な人相は何処へやら、残虐な笑みで顔色を塗り替えた。剣戟森森と高ぶる魔力に、真夏はぞくりと怖気が走るのを自覚した。

 彼はその白磁の片手を広げ、そこからが流水が渦を巻いて湧き出た。一見ただの真水に、燃々が作った水とは段違いに潤沢な魔力に満ちているのがわかった。

 水流は、やがて巨大な水禍へ。水禍は瞬きの間に天井まで覆い尽くす程に肥大化した。

「水の魔法……?」

「間違ってはいないが、及第点もあげられないな、Mr.ニイ」

 瞬間、視界に何か暗い突起物のような過ぎり、反射的に顔を僅かにずらす。頬にナイフで切られたような痛みが走った。

 視線だけを後方へ動かすと、そこには見た事はないが、見るからに肉食をアピールしている凶悪な歯と鋼の鱗が並ぶ肉食魚が床を貫いていた。

 鼻腔に揺れる潮の独特な匂い。見た事もない魚。それらのヒントから真夏は一つの答えへと至った。

「海の魔法か!」

 水禍から次々と飛び出してくる肉食魚に、真夏はナイフを一度空に振るっただけだった。

 白銀の刃の軌跡に幾重もの花々が咲き、眼に見えぬ意志によって魚の群れを呑み込み、一掃した。

 一瞬、花びらと刻まれた魚に視界が塞がれる。その奥から螺旋状の水槍が複数、矢のように閃き、真夏に迫った。

 一つ、二つ、と斬り落とすが、三つ目が脚の腿を貫いた。ぐっと痛みを堪え、次の射出を予感し、後方の明原へ手を伸ばした。

 人間程の大きさの水流が空を裂き、部屋の壁まで貫いて破壊した。開いた幾多の風穴から周りに罅が入り、壁ががらがらと崩れていった。

 砂埃が浮かび、そして消えた処で、アクアノートは眉を顰めた。

「ん?」

 真夏がいない。明原を一人残して、跡形もなく消えた。

「逃げたか……」

 もぬけの殻の空間に一人呟くと、返事をするように何処からかガッと何かの音がした。――それが足元の床の下、二階の天井からしている事をアクアノートはまだ気付かない。

 ズガガガとコンクリートを削る音。違和を感じたアクアノートがそこから離れようとするが、時すでに遅し。

 暴嵐の如き血花の塔が男の足元から発生し、心臓が鼓動するよりも速くコンクリートを切り刻み、アクアノートを覆い尽くした。

「……何だと!?」

 真夏は水の槍を回避は出来ても防御は出来ないと即断し、アクアノートの槍の強さを利用し、身を屈めて壁に穴を開けさせた。そしてそこから外に出て、下の階に窓を蹴破って侵入。ちょうどアクアノートのいる辺りの天井を突き刺し、血花を発動したのだ。

 体格のいい男が載った、円状に切り取られた床が重力によって落下する。その前に真夏はナイフを抜いてそこから離れ、すぐ近くの廃れた電灯に筋力で強引に張り付いた。

 アクアノートが落ちてくる。花々を小魚に食わせ、水の鎧でガードしている。その間を縫い、勢いよく顔面に拳を叩き込んだ。

 呻き声を上げながら吹き飛ばされる男に接近し、剣撃を振るう。一陣の風となった白刃は、しかし中途でベキリと圧し折れた。

「……!」

 男の眼前、そこには細い水流の竜巻が螺旋を描きながら高速で旋廻していた。ナイフはこれにぶつかり、小規模の爆発的な回転力に弾かれ、壊されたのだ。

 唯一の武器を失った真夏の心が微かに震撼する。

 その隙を逃がさず、アクアノートはくんっと人差し指をタクトのように上に伸ばすと、それに従って真夏の足元から水禍が発生した。一歩下がって回避すると、渦からカジキマグロのように巨大な肉食魚が顔を出した。

 人一人を容易く呑み込み程に大きな顎を開け、人間という生餌に向かって刃にも似た歯牙を向ける。

 視界の隅から閉じられる上顎と下顎を、両手を上下に開き、力づくで暴食を止める。

 鉄よりも強靭な白い歯は魔法使いであっても容赦なく肌にめり込み、鮮血が滴った。進撃を塞き止める脚が床を沈めて、今にも折れそうだと悲鳴を上げる。

「……ッ!!」

「『杖』も持たぬ君では私に太刀打ちは出来ないよ」

 ぽたぽたと、真上から落ちる血の雫に額が濡れ、目まで届いた。肌を伝う生温さが嫌に気色悪かった。

 ――ああ、そうか。

 ――あの日を思い出すからか。

 魔法使い二位真夏の根源的な恐怖。少年の心の地中に深く強く根付いた痛みの根。どこにもぶつけれない空虚で不確かな怨嗟。

 血が服を汚す。青空に陰る雨雲のように赤色が白い夏服を染め上げていく。

 びっしょりと汗が染みこむ薄手の夏服、血濡れの視界、世界の全てが自分から乖離していく非現実的感。それ等全てがあの日の記憶を真夏に想起させる。

 少年の、ひと夏の絶望を。

 ――おれはどうすればよかった。

 ――なあ。陽太。

 

 

 五年前。

 真夏は昔は身体が弱かった。常に病室のベッドで気だるげにしていた幼い少年が真夏だ。

 外出できぬ程ではないが、学校には登校した事もなく、同い年のコミュニティに触れてもいないから見舞いに来てくれる友達もいない。

 だが真夏は寂しくなかった。

 母がいるからだ。母は毎日見舞いに来てくれた。どんなに仕事で疲れていても、毎日息子の声を聞く事を欠かさなかった。

 彼女は何故かいつも謝っていた。元気な身体で産んであげられなくてごめんね、ひとりぼっちにさせちゃってごめんね。

 真夏は子供ながらに自分の体質の事を割り切っていた。故に、母の謝罪がいまいち読み取れなかった。 

 なんであやまるの。べつにおれはあやまってほしいわけじゃない。おかあさんとすこしでもいっしょにいれれば、それでいい。

 母は明るい人だった。当時は何故だかよく分からなかったが、彼女は魔法使いを自称していた。

「見てて、真夏。お母さんは誰かを笑顔にする魔法使いだから」

 今日も真夏と覚える必要もない他愛ない話をする。今日は本を持ってきたのよ、最近物騒だから外出する時は気を付けてね。

 真夏には一人の親友がいた。名は瀬在陽太。彼もまた、病弱な体質であり、病院で生活していた。院内では貴重な同い年としてよく話をしていた。

 陽太の病気は希少疾患で、治る手立てが今のところ立っていなかった。時折死んだように倒れており、真夏は今日を越えたらもう会えないんじゃないかと思った。

 気丈に振る舞う彼は、何も問題がないかのように我がごとのように気落ちする真夏に笑いかけた。

「大丈夫だよ、真夏。ほら、病は気からっていうだろ? 心を強くもてば病気なんかにまけることなんてない!」

 そう言った彼の瞳が、少し震えている事に気付いた。彼も怖いのだ。目に見えぬ物の怪のような毒が。

 病は陽太の小さな身体を蝕み、いつか彼の精神も病に完敗する時が来る。子供ながらに真夏はそれを感じ取り、一つの決心をした。

「ねえ、陽太」

「どうした真夏?」

「おれは医者になるよ。医者になって、陽太の病気を治す」

 それはまさしく子供の大言壮語。だが夢は願わねば始まらない。真夏は強い意志を持って無二の友に夢を誓った。

 そこから真夏は必死に勉学に勤しんだ。母に頼んで参考書等を買ってもらい、患者や看護師の方に教えてもらいながら、ベッドの上で書物に齧り付いた。

 陽太は最初こそ無理しないで、別におれのためにする必要はない、と言い続けていたが、最終的に根負けし、二人で共に学びを深めた。

 病は気からの言葉通り、陽太は真夏に救われていた。嘘のない純粋な信念に、諦めるという言葉を知らずに心を燃やす友達に。

 真夏も信じていた。現実逃避でも甘い夢を見るのでもなく、自分を信じて努力すれば夢は叶うのだと。

 そう、信じていた。

 陽太が死ぬ、その日まで。

 その日は二人とも体調が良く、天気もいいからと外で散歩をしていた。看護師や担当医には内緒でこっそりと。

 体調が良いとそれに釣られて気分も上昇していく。お喋りに夢中になっていると、何時の間にか院外まで出てしまい、遠くまで来てしまっていた。

 早い話が迷子だった。

「どうしよう、変なとこまで来ちゃった……。ちゃんと戻れるかな」

「大丈夫だって、近くの人に訊けばいいさ」

 そう言って陽太は付近を通った黒い服の男性を見つけるや否や、「あ、すいませーん」と言いながら小走りで駆け寄った。

 喪服のようなジャージを着た男は如何にも怪しく、真夏は嫌な予感がした。陽太の背中を追って真夏も駆け出す。

「あの、実はおれたちちょっと道に迷っちゃって……。ここから病院までってどう行けば――」

 男が握手するように手を差し出す。背中が死角となって見えないが、腕の動きで何となくわかった。

 その瞬間、陽太は台詞を途中で切り、ぐらりと背後にいる真夏にもたれかかった。

「? 陽太?」

 友人の奇怪な行動に真夏は不思議がり、陽太の正面の方を覗くと。

 陽太の柔らかい腹部に、包丁が突き刺さっていた。

「――――――あ、あ、えぁ……?」

 目を疑う。呂律が回らずに訳の分からない言語ばかり口から出た。

 地面に崩れ落ち、恐る恐る包丁に手をやると、無機質な刃の感触が嘲るように真夏に不可解な現実を叩き付けた。

 何度瞬きしても、どれだけ注視しても、は変わってくれなかった。魘されるような悪い夢は覚めてくれなかった。

 何ものにも代えがたい友の腹から、一つの凶器が生えている。

 それは勿論、目の前の男が刺したもの。だが奇行を責め立てる暇も、男から逃げる余裕もなかった。

「よ、よう、陽太!!」

 今まで出した事のない音量で叫ぶ。だが周囲に人はおらず、小さな子供の声が無感情なまでに青い空に吸い取られただけだった。テレビのようにいつでもどこでも現れるヒーローなどいなかった。

 陽太がこふりと血を吐いた。出血が止まらない。大人はいない。ここは病院から遠く離れた場所、いつものように看護師たちが助けてはくれない。

 その時、はっと真夏の脳裏に閃いたのは、今まで培ってきた医学の知識。当時の真夏には既に大量出血時の対応も頭に入っていた。

 弱気に震えたのは一瞬だった。今、ここでおれがやるしかない。

 ナイフは取らない。却って出血が酷くなるだけだ。苦しむ陽太を地べたに寝かせ、ポケットから止血用のハンカチを手に取った。刃物を固定しようと、血が溢れる傷口に指が触れた瞬間。

 自分の中の何かに、ぽっと火が灯った。自分の体内に燻ぶる不可視のエネルギーが、熱を持って指から陽太の傷へと流れ込んだ。

 疑問が浮かぶ間もなく、『それ』は起こった。

 陽太の傷から、一輪の赤い花が咲いたのだ。

「え――」

 聞いた事も見た事もない現象に、真夏の動きが止まる。赤い花の香しい匂いが真夏の鼻腔をふんわりと擽った。

 ――真夏は知らない。その花が自分の魔法である事を。自分が原因である事を。

 ――真夏は気付かない。その花は血を媒体に成長するという事を。

 咄嗟に花をどけようと手で払おうとしたが、如何やらが傷に花の根が根付いているらしく、簡単に千切れてくれなかった。

「……え? え?」

 その一秒後、種類もわからぬ花が、血溜まりの花壇から次々と咲き始めた。総じて全て赤色で、普段ならば素敵だと思うだけだったが、この状況に限ってはそうもいかない。

 突然の怪奇現象に困惑を通り越して恐怖する真夏は、陽太の身体が徐々に冷たくなっている事に気付いた。この謎の花が要因なのではと思い至るまでそう時間はかからなかった。

 しかし。それから行動に移す間もなく、陽太の胴体から今までの比ではない大量の血潮が噴き出した。まだ生温かい血液は、血の雨となって真夏の頭上に降り注いだ。

 人間の血液量は1キログラムで75ミリリットル。陽太の体重はおよそ25キログラムで、血液量はおよそ2リットル弱といったところだ。致死量は総量の三分の一。今溢れた血液量は、どう見ても三分の一どころではなかった。

 死んだ。

「――――――ようた?」

 瀬在陽太は死んだ。

 真夏が培ってきた医学の知識が、信じたくないリアルを肯定する。

 胸にぽかりと風穴が開いた。心の全てを貫くような大きな穴が。

「うそだ、うそだ……。いやだ、陽太……」

 嘘じゃない。薄暗い意識の奥から真夏が返事をする。

 そうだ、陽太は死んだ。お前が殺した。


 

 真夏は覚醒した時いたのは、病院のベッドの上だった。陽太を刺した通り魔はあの後あっさりと捕まった、少年一人が犠牲になったとニュースキャスターが無感動に読み上げていた。

 犯人は「誰でもいいから殺したかった」等と動機を告げていた。勝手に病院から脱け出した事も叱られれず、ただ無事を喜ばれた。多額の損害賠償金が真夏に支払われたようだが、それもどうでもよかった。

「陽太、陽太は……」

「おはよう、二位真夏くん」

 目を覚ました時にベッドの隣の椅子に座っていたのは、白髪の生えた老女だった。細い体躯の割りに、瑠璃色の瞳は芯の強さを表していた。

「あ、貴女は……?」

「初めまして、私は兎束いと。何しに来たかと言われれば……そうね、貴方を助けにきたと」

「助けっ……? そうだ、陽太! 陽太は!?」

 いとに連れて来られたのは、瀬在陽太の葬儀だった。

「ごめんなさい、私達が来た時はもう瀕死だった。遺体の花は取り除いたけど、失血が多すぎた」

「なんで、なんで……」

 棺桶の御扉から見える陽太は目を覚まさない。もう二度と。笑ってくれない。

 夢だ。これは何かの悪い夢だ……。視界の現実を否定したくて、周りの大人が止めるのも聞かずにそこから外へ走り出した。いや、逃げ出した。

 走り疲れた真夏の隣に、いとが並ぶ。諭すようにいとは言った。

「貴方の魔法よ」

「魔法……?」

「貴方の魔法……、『血花』が発動してしまった。血花は発動条件は血に触れる事。貴方は彼が怪我した際に、彼の傷に触れてしまったのでしょう? それによって、血花が発動し、陽太くんを殺めてしまった」

「は……?」

 作り話でも出来過ぎな非現実的な内容に、しかし手に残る陽太の身体の冷たさが、何よりもそれを実証していた。

 冬空の下に丸裸で放り出されたかのような冷たさが全身を這った。

「おれが……、おれが殺したのか……?」

 目に焼き付いて消えないのは、陽太の爛漫とした笑顔。それを赤く塗り潰すのは陽太の身体から溢れる血飛沫。

 真夏が傷に触れたから。応急処置を施そうとしたから。

「おれが余計な事したから……。おれの努力も何もかも、むだだったのか!? 陽太の病気を治したくて……、おれの夢が、陽太を殺したのか?」

 夢の為の弛まぬ努力と友への献身。それ等の軌跡が陽太を殺した。

 無駄だった。全て。

 何が陽太の病を治したいだ。何が人の命を救える医者になりたいだ。自惚れるなよ人殺し。

 目の前の友だち一人救えないこんなゴミ屑に、誰かの命を望めると思うな。

 世界の理不尽に打ちひしがれ、泣き叫ぶ真夏の背に、そっといとが手を回して抱き締めた。

「大丈夫。貴方の所為じゃない。魔法がそうさせただけ。貴方が気に病む必要はないのよ」

「魔法?」

 いとが真夏の正面から視線を合わせた。

「真夏くん。魔法を理解しようと思わない?」

「え……? 理解……?」

「ええ。魔法を理解し、向き合うの。魔法使いになってしまった以上、魔法を無視して生きる事は出来ない。だから知りましょう。……大丈夫。貴方のような同胞は他にもいる」

 いとの孫娘の燃々に出会ったのは、それから数日が経ってからだった。

 燃々もまた、魔法の被害者だった。だが彼女は自分の魔法から目を逸らさず、いつかその力で誰かを救いたいと願っていた。

 彼女の善性に照らされ、真夏は少しずつ前に進み始めた。魔法が発現した日から体調が良くなり、学校にも通えるようになった。

 そして今日、自分を救ってくれた友が命の危機に瀕している。あの日のように、またしても。


 ――見殺しにするのか? また。

 ――いや、駄目だ。同じ轍は踏めない。

 ――今度は、今度こそは。


 友達を、絶対に諦めない。



「う、おおおおおおおお!!」

 五指が人食い魚の歯牙に更に食い込む。劈くような痛みと共に広がった傷痍から多量の血が溢れた。

 痛い、痛い。だがこれでいい。

 二位真夏の魔法は『血花』。血を媒体にして花を生み出す。花びら一片が鋼鉄の硬度であり、名刀の如き切れ味を誇る。それに加え、副次効果として芳香には麻薬成分が含まれており、少量ならば気分が高揚する程度だが、過剰に摂取すれば中毒症状が起こる。

 真夏が傷痍から血を流す度に花へと変わっていく。その花びらは硬度こそそれなりだが、非常に香りが強い。

 そして魚の嗅覚は聴覚以上に優れている。人間の300倍近く鋭い魚もいるぐらいだ。この巨大魚がどうなのかは不明だが、この香りには絶対に反応する。

「……? 一体、何の――」

 アクアノートが血花の匂いに勘付いた。しかし狙いは術師ではない。

「――――――」

 香りを嗅いだ肉食魚から真夏を押さえ付ける顎の力が弱まり、僅かにたじろいだ。

 その隙を逃さず、両手を話して一歩退き、一回転して勢いをつけてから魚眼に上段蹴りの一撃を加えた。水晶のような大きな眼球がぐちゃりと潰れ、青色の巨躯が吹き飛んだ。

 開かれた視野に目を丸にしたアクアノートがいた。出血から更に花びらが生み出され、赤い群雲となって真夏の周囲を泳いだ。

 ダッと真夏が駆け出すと同時、花雲がアクアノートを襲った。

 見た目に反して疾風のような速さで肉迫する斬撃の花嵐にもアクアノートは冷静に対応した。

「一瞬でも喰らえば私でも脱け出せなくなるな」

 片手を頭上に掲げる。それに倣って小規模の黒い津波が床から生み出され、術師を守るように高く上がり、花雲を呑み込んだ。

 そのまま真夏を押し潰そうと物量で迫ってくる。逃げ場を失くしながら圧倒する、黒々とした波濤はまるで神の使者のようにも思えた。後退しようとし、足元には何時の間にか海水が溜まっていた。何故か異様に水が重く、身動きが上手く取れなかった。

 どこに逃げれば――、真夏の思考と行動が停止したその時、天井にスパッと切れ間が入った。

 そして、津波ごと二階の床までもが切断された。

「!? 何だ――」

 突如として津波が斜めに豆腐のように鮮やかに両断され、アクアノートは端麗な顔立ちを歪ませる。地震のように足元が揺れ、真夏は一人の少女の名を呼んだ。

「明原……か!?」

 真夏の叫び声に返答するかのように、連続して二撃、三撃と三階から斬撃の雨が降り注いだ。ズガガガと津波が裁断されていき、切り取られた床から一階へ漏水した。

 瞬きの間に天井が星座の如く斬り刻まれ、そこから砂埃と共に赤毛の少女――明原が飛び下りてきた。

 ばしゃりと海水に着地した明原は、頬を紅潮させ、歯を食いしばりながら真夏を血走った目で見つめた。まるで極上の食事を前にした餓鬼のように。

「ふー、ふー、ふー……。二位、くん……」

「明原……、あんた……」

 少女の手には市販のナイフ。

 自分の意志で発動したのか。忌むべき魔法を。姉を殺した最悪の凶器を。

 真夏を、守らんと。

「わたし、私は……大丈夫だから……! 二位くんは私が守るから……!」

 ナイフの柄を掴む手は今にも砕けそうな程ぎちぎちと締め付けられており、額には青筋が浮かんでいた。ドクンドクンと心臓の鼓動が今にも聞こえてきそうだった。

 魔の暴虐を人間の理性で抑えながら、明原はアクアノートへ兵器じみた刃物を向けた。

「君のそれ……。そうか、君が『死神の鎌』か」

 知った風の口を聞くアクアノートは、手を振るうと潮水が水竜の形を模り、明原へ進撃した。明原は弾丸のようなそれをナイフ一本で苦ともせずに斬り裂き、アクアノートに突貫する。

 鉛の海水に浸かっているにも関わらず、それを感じさせない動きで弾指の間にアクアノートの懐まで近付いた。

 白刃を持つ手を鞭のようにしならせ、縦横無尽に白光の軌跡を閃かせる。アクアノートはサーファーのように波に乗ってザザザと後退しながら海水の攻撃を連続させた。

「死神魔法の存在は文献で知っていたが、ここまで攻撃的な魔法だったとは! しかし、多勢には弱いのではないのかね!?」

 ざぱっと命を持った水の大蛇が四方から明原に襲い掛かる。それが明原に直撃する前に纏めて細切れにしたのは、真夏の血花。大量の花々が明原とアクアノートの間に割って入り、少女を守った。

 花の壁が二人を完全に遮る。

 アクアノートが後方に退こうとした瞬間、血花の雲からアクアノートの目の前に真夏が飛び出してきた。

「なっ」

 人一人が隠れる程の密度の血花を創成し、その中に身を潜めて移動していたのだ。

 突如現れた真夏に驚倒する間もなく、真夏の瞬脚がアクアノートの顔面を捉え、コンクリートの壁まで蹴り飛ばした。

「がはっ」

 背中を強く強打したアクアノートから吐息が漏れる。真夏が浸水した床に着地するのと合わせて明原が駆け、男の前で白刃を振り上げた。

 しかし、苦し気に呻くアクアノートの宝石のような目を見て、明原のモーションは中途に停止した。

 スーツに滲む自分と相手の血。砕けた外壁。弱り切った敵。

 それ等から想起されるは、自分じゃない自分が暴れ狂う絶望のスクロール。

 明原の天然の赤毛を妬み、苛めてきた女子生徒数名の髪を根本から切り、人通りの多い廊下に投げ捨てた。

 セクハラをしてきた男子教諭の両腕を素手で斬り落とし、目を抉った。

 酔っ払ってナンパしてきた男の喉を潰し、歯を圧し折った。

 相手の心胆を笑い種にするような下卑た哄笑を上げながら、人々を傷つけた。彼等は無辜ではなかったかもしれない。だがそれでも、明原は何度も何度もただ自分が楽しむ為に傷つけたのだ。

 自分は今、また同じ事を繰り返そうとしているんじゃないか――。それも、今度ははっきりと自己の意志で。

 それを一度知覚した途端、明原の動きは目に見えて悪くなる。それを認識したアクアノートの顔が愉悦に歪む。

「人を自分の意志で殺そうとするのは初めてかい? 死神少女」

 水連の弾丸がノーモーションで明原に放たれた。

「かっ」 

 避ける間も無く砲弾ほどの大きさの弾丸が胴に刺さり、後方へ吹っ飛ばされた。真夏は明原を、助けない。今助けに行って隙を晒せば、今度は真夏が標的にされると分かっているからだ。

 水上から踊り出る海蛇擬きを裏拳で叩き、一歩、力強く踏み込んだ。

 防御しようと男の前に出る複数の魚ごと、アクアノートの胴体を渾身の力で殴打した。

 繰り返された戦闘に、元より何故か比重の重い魔法の海。ダメ押しに浸水を貫通する程の震脚が加わり。

 ばきりと足元の床に罅が入り、そして全体に広がり、二人が立っていた足場が瓦解した。真夏とアクアノートは勿論、砕けた瓦礫と黒々とした海水がざあと降り注ぐ。

 落下中でも攻撃の手は緩めない。瓦礫を蹴ってアクアノートの眼前まで向かい、肉食魚を回転して躱し、その勢いのまま回し蹴りを振るって直撃させた。

 ドッと垂直に一階まで落ちたアクアノートは、真夏の攻めに痛がる様子もなく、着地した真夏に寧ろ愉快そうに笑った。

「素晴らしい、素晴らしいよMr.ニイ。やはり君は我々と共に来るべきだ。衆愚を沈め、魔法使いを神として君臨させよう」

「興味ないな」

 魔法に似合わぬ男の情熱的な誘いをきっぱりと一言で切り捨て、真夏は構えた。

 明原はまだ二階にいる。気絶しているかどうかは確認していないが、参戦してこない以上、加勢は期待できないだろう。

 沈黙。二人の魔法使いの空間に響くのは流れ落ちる潮の水簾の音のみ。

 先に動いたのは、真夏。神速となった少年が拳を顔面に打ち出す。それを屈めて避けた男が鳩尾に拳固を叩き込んだ。痛みを堪え、衝撃を殺さずに手首を掴んで胴に刃のように硬い強脚をぶつけた。

「くっ」

 体勢を崩したアクアノートに拳の乱打を放つ。連撃を流しつつ下がるアクアノートに追撃を試み、男の視線が微かに上を向いている事に気付く。

 微弱な魔力の反応。恐らく先刻ぶち開けた穴から複数の小魚が、真夏に向かって飛んでいるのだ。

 それを感じ取った真夏は、手近にあった砕けたコンクリートがついた鉄筋を掴み、背後を見ずに無造作に投げ付けた。ガンッ、ぐちゃとぶつかる音がしたが、しかし一匹の魚が肩に喰らい付いた。生き残った一匹は仲間の仇とばかりに力強く嚙みついた。

「チッ」

 舌打ちして強引に肉食魚を肩から引き剥がした。激痛はもう慣れっこだ。手中で暴れる魚の口を濡らす血液から血花の渦を生成し、あっと言う間にバラバラにした。

 真夏の光線がアクアノートの歪んだ瞳を射抜く。

 全身に魔力を滾らせ、お互いの緊張感が絶頂を迎えようとした、その時。

 キキ――と車がスリップしたような音がそれを邪魔した。

「「?」」

 お互いに頭の上に疑問符を浮かべ、反射的に音のする方向――外へと繋がる窓の方を見る。

「は?」

 真夏の口から気の抜けた声が漏れるのも無理はない。

 ――黒塗りの高級車が、急停止出来ないような猛スピードで病院に向かって走っていたのだから。

 突然のカーアクションに口をぽかんと開けて茫然とする。それはアクアノートも例外ではなく、流石に真夏のような間抜け面は晒していないが、顔色に当惑が隠し切れていなかった。

 車のスピードの代わりに思考が停止する。ダメだ、どう見ても真夏たちに激突する速度と進行方向だ。止まる気が微塵も感じられない。

「いや、ちょ――」

 敵手の存在も忘れて立ち往生し、だが身体が反射的に回避を選択していた。壁際まで一気に跳躍して退避する。

 それ以上抵抗する間もなく、ガシャーンッ! と間近で雷が鳴ったかのような轟音が響いた。加速する鉄の塊が病院の壁に突っ込み、壁を壊して備品を破壊しながら真夏たちのいる部屋まで遠慮なく侵攻した。奥の壁までぶち抜く事はなかったが、車体の前面が平らに凹んでいた。見た目は明らかに高級車のそれだった為、そこはかとなく哀愁を感じた。不思議だったのが、何故か衝突していない左側のドアが既にボコボコであり、これ以前に何らかの事故事件が起きていたのだと推測された。

 硝子片やら何やらが粉塵となって辺りに撒き散らされた。それと一緒に埃まで浮き、けほけほと咽た。

「くそっ、誰だよこんな事しやがるのは」

 その言葉に応答するかのようなタイミングでガチャリと運転席のドアが開けられ、人がずるりと零れ落ちた。

「い、いたた……」

「ね、燃々!?」

 エアバッグを退かしながら這いずってきたのは、眼帯を付け、紫がかかった黒髪をぼさぼさに乱した女子中学生――燃々。

 まさかの知り合いに真夏は動揺を禁じ得ない。ちょっと目を離した隙に衝突事故を起こすとは。いや、彼女の魔法を考えれば無理もない事だが。

 旧友の声に魘されながら顔を上げた燃々が、真夏を視界に入れた途端、破顔する。

「真夏ぅ!! 会いたかった~!」

 抱きつこうとする燃々だったが、足が引っ掛かり、こてっと地面に転げ落ちた。

 見れば、足首が縄で繋がれていた。血花でそれを斬ると、完全復活とばかりに立ち上がって真夏に詰め寄った。

「真夏!」

「燃々、お前どうしてここにおれがいると――」

「何か変な奴等に誘拐されて車でどっかに行ってたんだけど魔法で車を事故らせて運転手を脅して真夏たちの居場所を訊いてここに来たの! そしたら魔法が誤作動しちゃってここにぶっこんじゃってさあ!!」

「いやもういい。後で落ち着いてから訊く」

 興奮してピリオドを付けずに喋り出す燃々の舌を一旦止める。兎に角誘拐され、奴等の本拠か何処かに移動中に、魔法で事故を起こしてここまで来たのだろう。

「取り敢えず燃々、お前はここから逃げ――」

 ズパンッと水のカッターが車体が切断され、台詞も途中で途切れる。元凶は勿論シカトされ続けていたアクアノート。

 うひゃあと避けた燃々が真夏に訊く。

「誰、あの人?」

「お前を攫った奴等の頭目だろうよ」

「君がここまで来れるとは想定外だったよ、Miss.トツカ。Mr.ニイと共に君も私が連れていこう」

 再び、水流の大蛇が蠢き出し、真夏たちに襲い掛かる。ふと真夏が分断された車内の後部座席に一振りの太刀を見つけた。他人のものだろうがお構いなしにそれを手に取り、鞘から白刃を振り抜いた。

 当然の如く剣術の心得などない真夏は、力任せで水蛇を刀で斬った――というより弾いた。

「わわっ!」

 討ち漏らした大蛇が燃々に牙を剥くが、声では焦りつつも驚異の身体能力と動体視力で回避する。

「この!」

 地べたに膝をついた燃々が床を手で叩いた。

 その途端、床にバキバキと亀裂が入り、車体や備品の重さを支えきれなかったリノリウム材の床が凹み、ずんっと巨体が沈み込んだ。

 陥没の被害はアクアノートまでに広がる。車体が死角となって対応が遅れたアクアノートはばきりと沈む床に吸い込まれた。

 無論、兎束燃々の魔法の効力である。

 彼女の魔法の仔細を知っていた真夏は宙を飛び、白刃で肌を浅く裂きながら天井を蹴ってアクアノートに飛び込んだ。

「フッ」

 ぶわりと血花と独特な芳香が刀身に纏わり、朱色の大剣となったそれを中空で一振りする。芳香に包まれた血花の旋風がアクアノートに突撃したが、呆気なく回避され、行き場を失った花風がアクアノートの真上の天井に幾つか穴隙を開けた。その間に真夏がアクアノートと対面し、力に物を言わせて刀を振るった。

 だが血花の太刀が直撃する寸前、背中から胸まで雷に打たれたような衝撃が走った。

「……!?」

 感じた事のない傷みに全身から力が抜け、刀から手を離してしまう。ずしゃりとアクアノートの足元の土砂の露出した地面に転がり、かはっと吐血した。

 何だ、何が起こったと胴へ視線をやると、そこには銃弾で狙撃されたかのような丸い穴が開いていた。

 はっと頭上を見上げると、真上の天井には真夏の傷跡とちょうど同じくらいの大きさの穴が穿孔されていた。 

 ――まさか、上階に溜まっていた海水から……?

「水が私の認識下になくても、少量なら操れるんだよ。人間の身体を撃ち抜く水鉄砲程度ならね」

 ぐぐぐ、と歯を噛み締めながら上体を起こそうとする真夏を、強者の余裕で見下ろす男は、勝ち誇った笑みを浮かべていた。

 それを見た燃々が天乃咲手の掌印を結びながら詠唱を始めた。

「カグツチに畏み畏み――」

「『詠唱術』ならやめておいた方がいい。君がそれをすれば私は確実にMr.ニイを殺す。君は大人しくそこで見ていてくれ」

 アクアノートは歯軋りさせる燃々に一瞥だけ与え、目線を切った。

 わざとらしく朱色の花弁を踏み、真夏に声を降らせた。

「『魔法は奇跡』。自己陶酔の極まった無知蒙昧な愚物がそんな尤もらしい事を唱えているようだが……、さて、君はこの状況からどのような奇跡で脱するというのかな?」

「――――――」

 いやらしく蛇の舌が這い寄るようにじわじわと少年の心を追い詰めるアクアノートの言葉に、真夏は――笑った。

 自分が頂点だと信じてやまない国王を嘲るかのような、意地の曲がった悪ガキのような笑い。

 この期に及んで反骨精神の絶えない少年に、アクアノートが端整な顔を顰める。

「奇跡だって……? そんなの起こせる訳ないだろ。奇跡なんて偶然の美化だ。ただ自分に都合の良い出来事に物語性を持たせたいが為の、魔法には過ぎた言葉さ」

「ならば――」

「だから、これから起こるのは只の必然。地べたを這う魔法使いがくそったれな魔法に抗った結果でしかない」

 ――そうだろ。

 曖昧模糊としている台詞にアクアノートが再び眉をひそめ、油断したその一瞬を真夏は突いた。

 柄を持つ左手を僅かに動かし、刀の切先で右腕を浅く傷つけて出血させ、そこから血花を生み出した。アクアノートの意識がそこに向けられた瞬間、真夏は左腕を動かした。

 右手の血花はブラフ。本命は左手の刀だ。

 シャッと最小限の動きで槍のように男の秀麗な面様に投擲した。アクアノートはそれを、首を少々捻じる事で回避した。先端に血花の付いた太刀がアクアノートを通り過ぎ、天井に開けた穴を抜けて、二階の壁に突き刺さる。

 アクアノートの死角。そこを見た真夏はにっと不敵に笑う。 

 ――明原。

 少年の念頭が聞こえた訳でもあるまいが――、傷だらけの少女が返事をするように現れた。

 壁の側面に飛び乗り、真夏がそこに突き刺した刀を握って。

「お姉ちゃん――力を貸して」

 神速。その言葉に相応しい素早さで明原は刀をコンクリートから抜刀し、雷鳴の如く真夏の前まで一息に跳躍した。

 疾風迅雷という言葉があるが、明原の今の速度は真夏では視認も出来なかった。

 瞬間移動宛らの速度に、アクアノートが今度こそ驚倒に目を見張る。燃々もまた、文字通りぎょっとしたが、明原の瞳に気圧され、何も言えなかった。

 血花の太刀を上段に振り上げる。明鏡止水。斬るべきはこの目の前の怨敵。恩人が傷つけられた。ここで止めなければこの男は何度でも同じ事をする。もう迷いはない。

 無音の太刀が一条の流星となり、スーツを一閃した。

 空気を裂き、斬撃の軌跡が男の胴部を撚糸のように斬り付け、そこから血飛沫が迸った。

 音速よりも尚早い渾身の一撃に、がはっと吐血した男の身体がぐらりと後方に引き、背中を壁に預けた。

 致命傷を喰らっているにも関わらず、アクアノートの口角が異様に吊り上がった。

「ふ、ふふ……、はははははは!! 素晴らしい、素晴らしいぞ二位真夏! 明原玖秭名! この力……我らにこそ相応しい! さあ! 私と共に!!」

「静かに死んでろ」

 起き上がった真夏がとんっと掌底をアクアノートの線状の切痕に触れさせた。そこから魔力を通す。すると、赤く濡れた傷口を花壇に、朱色の花々が咲き始めた。瞬きの間に血花が躯幹全体を苗床にした。

 身体から花が咲くという初めての現象に戸惑う男の顔面に拳固を突き出し、顔の骨が折れる音と共に地面に殴り倒した。バゴンッと地響きのような轟音が鳴り、今度こそ完全に沈めた。

 戦闘が終了した安堵からか、どっと疲労が重力のように背に圧し掛かる。大量に失血している為、意識が朦朧とし、明原にもたれかかった。

「二位くん!」

「真夏!」

 駆け寄る燃々に、ギリギリ保った意識で言った。

「燃々、崩せ。ここを倒壊させろ」

 言葉の意図を図りかね、明原が燃々を見つめる。燃々はアクアノート、そして自分が壊した車体とその中にいる気絶したスーツ集団に目を向け、覚悟を決めた顔で頷いた。

「あなた、悪いけど真夏を持っててくれる?」

「は、はい!」

 つい先日に殺そうとした相手から真っ直ぐな目で見られ、明原は上擦った声で返事をする。心中で燻ぶる気炎を封じるように刀を鞘に納刀した。

 自身も大怪我だが、刀片手に軽々と真夏を抱え、燃々の背中に追随して廃病院の外まで出た。

 外から病院を見ると、心霊スポットとしても有名な旧相武病院は現代科学を超えた戦闘で既にボロボロになっていた。これを自分たちがやったのだと、明原は力の責任を痛感した。

「もう少し離れてて! 危ないから!」

「はい! 燃々さんは……」

「私は大丈夫!」

 病院から距離を置く真夏を背負った明原に、燃々は病院のすぐ側から声を張り上げる。それに素直に従ったが、明原は彼女がやる事がまだ分からない。

 不安気な表情の明原に真夏が背中越しに声をかけた。

「……大丈夫。あいつを信じろ」

 安全を確認した燃々は「よし」と呟き、病院の廃れた壁をぴたりと掌で触れた。

 それだけだった。

 しかし変化は絶大であった。明原が質問する間もなく、まず病院の一階がどごっと崩れた。

「え――」

 燃々が病院から手を離し、明原の隣まで走った。その間も破壊は続く。

 一階が崩れ、建物自体に亀裂が入り、バキバキと恐ろしい勢いで二階、三階と崩壊が進む。まるで紙の牙城を足で潰すようにぐしゃぐしゃに崩落していく。老朽化しているとは言え、こうも簡単に一つの建物が倒壊するものなのか。

 言葉もなく口をぽかんと開ける事およそ5秒。ついさっきまで魔法戦闘が行われていた病棟が、まるで局所的な地震にでも起きたかのように、完全に崩壊していた。

 テレビでしか見た事のない光景に、明原はその引き金になっているのであろう少女を唖然と見つめる。

「こ、これは……」

「私の魔法。『事故』だよ」

「事故……?」

「そ。私の魔法は『事故を再現する』。手を触れさせればこんな風に建物を倒壊させる事も出来る。一階の床が崩れていたでしょ? あれは地面を液状化させて床を沈めたの」

 明原がはっと息を吞む。燃々の魔法の恐ろしさを理解したようだ。

 彼女の『事故』に対する認識がどの程度まで広がっているのかは不明だが、人工物に満ちたこの現代社会において燃々の魔法は強力を超えて凶悪だ。

 明原は自分の事は棚に上げて、ごくりと唾を飲むと、背から真夏が呻き声を発した。

「明原……もういい。下ろしてくれ」

「あっ、二位くん」

 真夏を地面に座らせると、深呼吸しながら肩を落ち着かせた。

 まだ立って歩ける状態ではなく、如何やら女子に抱えられている羞恥心から脱したかったようだ。

「二位くん……。あれ、傷は?」

「魔法で止血した。おれの血花なら応用で血液をある程度操作出来る」

「え、そうなの……? そんな事も出来るんだ」

「いや、お前も傷が塞がっているんだが……」

 真夏の台詞に、明原は自分の身体にばっと目を向けた。今まで気付いていなかったようだ。――幾多の負傷が既にほぼ完治している事に。

 流石に泥や服の汗臭さは消えちゃいないが、チョウチンアンコウ擬きに食われかけた腕の穴は見る影もなく消えている。

「……私、本当に魔法使いになっちゃたんだ」

 それは余りにも残酷で無情な、人間の終わりを示す通告。憂虞と愁傷とが煩雑に混ざった表情は、それでもやはり美しかった。

 意気消沈という言葉が生温い程の悲しみに暮れる明原に、真夏が名を呼びかけた。「あまり悲嘆するな。どうしようもない事があっても、少なくとも、あんたは一人じゃない。おれたちがいる。おれたちには弱さを見せていい」

「……!」

 はっと目を丸くする明原が真夏の顔を見る。

「おれたち魔法使いだが、全知全能じゃない。いつか魔法を制御できるようになる。今日あんたがおれを守る為に魔法を使えたようにな」

「二位くん……」

「おれも……、あんたのお陰で、魔法を自分の意志で誰かの為に使いたいと思えた。ありがとう、明原」

 正面からの偽りのない台詞に、明原の頬が綻ぶ。闇間のトンネルのような明原の視界に漸く電灯が灯り始めた。

 魔法に打ちのめされた少年少女が再起を誓った処で――、吐き気を催すような優雅な拍手が響いた。

「「「!?」」」

 寸刻までの微笑は何処へやら、三人して拍手のした方向、倒壊した廃病院の方へ身体を向けた。

 そこには埃が舞っているだけで、人の気配は微塵たりともない。だが、確かにそこに人影が見えた。

「いやぁ、いいもの見せてもらったよ」

 響く声は中性的で、男性か女性か判断がつかないが、少なくともアクアノートではない事に僅かなりとも緊張感が緩和した。

 だが状況は変わっていない。アクアノートであれ何であれ、あの事故から生き残ったという事は、魔法使いに他ならないのだから。

 ――いや待て。この声、どこかで……。

 人影が埃から出て、姿形を得る。そこにいたのは。

「久しぶりだね、二位真夏くん。兎束燃々くん」

 喫茶店で百万円と謎のナイフを渡してきた、謎の男だった。

「お前っ……あの時の!」

「まあまあ落ち着いて。別に僕は君達に害を為すつもりはないんだ」

 仮面を被ったままで喋る男は、飄々とした態度を崩さず、こちらのペースを乱してくる。口元がにやついているのがわかった。

「どの口で言ってんだ、お前の全部が信用出来ないんだよ。害を為さないっていうなら用件はなんだ」

「せっかちだね。ま、僕の用は簡単だよ」

 男は外套に手を入れ、何かを取り出した。

 それは『杖』だった。テーマパークのお土産のような見た目のそれは、言葉に出来ない重圧を発しており、明らかに『本物』だった。

 ゆらりとそれを揺らし、口角を吊り上げた。

「君達を勧誘しに来たんだ」

「……勧誘? さっきの男と同じか」

「彼らと僕らは違うよ。目的も手段も」

 ――何だ。身体が重い。

 ふと横を見ると、明原と燃々もウトウトと昼ご飯を食べた後のように眠そうにしていた。

 突如として意識を揺らす睡魔に、この男が何かしたのだと確信する。しかし、それがわかったとて、何も出来なかった。

 視界の隅、男が仮面を外していた。


「僕らは魔法使いの教室。君達に学びを与える為に来たんだよ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る