第二話 明原玖秭名① ――死神――

 河川敷。段々と仄暗くなりつつある黄昏の海を睨み、真夏は隣で借りてきた猫のようにちょこんと大人しく座る少女に視線をやった。

 まだ信じられないな、というのが正直な感想だった。

 今しがた殺戮の悪風として狂気の限りを尽くしていたとは思えない程、彼女は沈黙していた。自分自身に失望し切って、最底辺の自己評価を叩き付けているその表情は、何だかとても見覚えがあった。

 ――そうか。これは俺だ。

『魔法』に人生を狂わされ、自分にも世界にも恨み言を吐き散らして、どうしようもないと気付いた後の、全て取り返しがつかなくなった後の――自分。 

 くそったれと、少女に聞こえないぐらいの音量で呟く。すると、それが聞こえた訳でもあるまいが、漸く少女が口を開いた。

「そうですよね……。まずは、謝罪からですよね」

 彼女がこちらを向き、地べたに綺麗に正座した。そして、地中に埋まるぐらいの気持ちで深々と平身低頭した。

 日常ではまずお目に掛かれない光景――土下座だった。

「本当に、申し訳ありませんでした……。本当に、本当に……!! 謝ったって仕方ないけど……、本当に、すいませんでした……!!」

 水風呂に浸かったように小刻みに震えながらの謝罪に、真夏は、はあと溜め息を吐いた。

 それを聞いて、少女の身体が一際強く痙攣したが、それ以上動こうとしない。何をされても受け入れると、長身の、しかし今は随分と幼く見える背中が言っていた。

「人間関係の始め方を知らないのか?」

 予想外の真夏の返答に、少女がきょとんとした顔を僅かに上げる。

「まずは自己紹介からだ。――俺は二位真夏。二番目の二位に、季節の真夏。そっちは?」

 瞳を真っ直ぐ貫く紺碧の視線に、少女の薄氷に籠もった心を融かす。

 少女はゆっくり体育座りに戻り、真夏を見つめ返した。慎重に、一つでもミスしたら殺されるぐらいの雰囲気でぽつぽつと語った。

「わたしは……明原。明原玖秭名。明るい野原に、玖はおうへんの九、秭は数の単位、名は名前の名です」

 真夏はしばし悩み、

「……下の名前の漢字、よく分からないんだが」

「あ……、よく言われます。こんなの読めないって」

「俺の名前もよく弄られるよ。永遠の二番手って。下の名前も何か女子っぽいとも言われる」

「わ、わたしは好きですよ。夏」

「無理してフォローしなくていいぞ……。気を遣ってくれてありがとう」

 変な部分で共通点が見つかり、相変わらず表情筋は死んでいるが、それでも少しだけ空気は緩くなったような気がする。

 気の抜けた会話はここまでにして、真夏は本題に入る。

「なあ、明原は『魔法使い』なんだよな?」

 いきなり過ぎたか、とは思ったが、自分は如何やらコミュ力が高くはないという悲しい事実にバイトを始めてから気付いたので、変に遠回りせず核心に踏み込んだ。

 その質問は見越していたか、明原は短く「……はい」と頷いた。 

「……そうか」

 鬼胎を抱いたその顔に、真夏はそれだけ返す。

 魔法は誰にでも発現するものではない。その使い手が死んだら勝手に他の誰かに移動するのだ。そこに本人の意志が介入する事はない。どれだけ拒絶しようと、死以外に破棄する方法はない。

 差出人も中身の詳細も記載されていない返品不可の郵便物が開けっぱなしで窓から投げ捨てられるのだ。

 魔法は人を狂わせる。御伽噺のように美しいものではなく、地獄と惨劇を折り重ねて一生逃げられない牢獄に閉じ込める。それが魔法使いの認識だ。

 ぐっと下唇を噛んで、ふと視界に想起した過去から目を背ける。

「魔法は奇跡じゃない」

 魔法使いにしか言えないその言葉に、明原が同意の沈黙を返した。魔法使いの総意ではない。だが一言で全てを理解できるはずだ。

「……すいません、ちょっと自分語りしてもいいですか?」 

 こちらを見ずに、明原が言う。真夏は「ああ」とだけ返した。

「私、姉がいたんです。双子の姉。名前は来久僂。遊ぶ時も寝る時も、何をするにも一緒で……。本当に仲が良かった。私と来久僂は、一心同体だった」

 五年前。私に魔法が発現したあの日までは。

 私達の誕生日が近付いていました。双子なので誕生日は当然同じです。私達はお互いと両親に日頃の感謝を伝えたく、私は来久僂と二人でケーキをつくることにしました。料理は得意ではありませんでしたが、来久僂の為にと頑張ってつくりました。きっと姉も同じ心情だった筈です。

 そして当日、誕生日。

 家族四人で食べるには十分なホールケーキを卓に並べる事が出来ました。

 父も母もとても喜んでくれました。11本の蝋燭を二人で一緒に吹き消し、いざケーキを切り分けようと、姉はケーキナイフを手に取りました。

 最初の一刀は、来久僂が私の分を切ってくれました。

 次に、私は来久僂の分を取り分けようと包丁を手にしました。

 いっぱい取ってね玖姊名、なんていう姉に、食べ過ぎると太っちゃうよ? なんて笑いながら、私はナイフを来久僂の胸に突き刺していました。

 時が止まった。呼吸をやめた。視線が一点から動かない。

 まるで消し忘れた電灯のスイッチを押すかのように軽々しく、にこにこしながら私は血と魂を分けた姉を殺していた。

 真面な思考などとても出来なかった。

 私は確かにケーキに包丁を向けていました。だが気付けば、視界に映った謎の線をナイフで辿っていました。意志はそのままに、身体だけが動いていました。

 抑々小学生の膂力で、先端の丸まったケーキナイフで人の心臓をそれこそスポンジのように貫くなど、土台無理な話です。

 しかしそんなことは当時の私には関係なかった。姉が血を吐き、私の服を赤く染めた時に、漸く私の時間は覚醒しました。

 その時の私の声はよく覚えていません。絶叫し、啼泣し、絶望し、涙の味しかしない悲鳴の記憶しか。

「父と母は混乱しつつも救急車を呼び、姉を病院まで運びました。しかし然したる意味もなくあっさりと姉は死んだ。その後から半年以上の記憶はすっぽり抜けてます。気付けば、精神病院に入院していました。両親曰く、何を呼び掛けても何の反応もなく、ただ死なないように生きていただけだと。そこから今に至るまで、少しずつ学校に通うようにしたり、クラスメイトとも交流を持つように努力しました。……けど、あの過去に後ろ指さされる日々、そして勝手に動く身体と意志……。恐ろしくて、外出するのは殆どやめました。学校も通信制にしました。両親も納得してくれました」

「……答えなくてもいいが、今日は何故外に出ていた?」

「……黙って家にいても地獄です。姉の血が床に滲み出る幻覚を毎日見る。少しだけ、少しだけと外の空気を吸いに出かけて、姉の死から目を逸らしているんです」

「となると……」

 真夏は憶測を口に出す。

「あんたの魔法はナイフを持つと強制的に発動する、のか? でも、それだけじゃないんだよな。それだけなら学校を完全に拒否する理由がない」

 頭を膝に埋めた状態のまま、彼女はこくりと小さく頷いた。

「……『害意を向けられる』。これが第一の発動条件です」

 つまりナイフ云々の条件を満たさなくても、こっちが満たされれば勝手に発動するという事だ。

「直ぐにそこから逃げれば、耐えられる事はあります。男性教諭の顔を……骨格が変わるまで殴打した事もありますが……。それでも、ナイフを見ると、途端に自我が変貌する。もう歯止めがかからない。『わたし』の気が済めば勝手に止まりますが、自分の意志で止められた事はありません」

 日常生活や学校生活で害意と刃物を向けられる機会などそうない筈だが、彼女の魔法の目覚めは考えられる限り最悪なパターンであり、必要以上に怯えるのも無理はない。先刻のようにナンパでもカウントされると考えると、何から何まで大丈夫なのか、実験する事も出来ない。彼女の美貌は傾国と言って間違いない為、男の劣情以外にも妬み嫉みがあって然りだ。

 或いは、自分自身さえも。

 ぎっと奥歯が軋む音がした。それが自分のものだとは、暫く気付かなかった。

「辛い。苦しい。……でも、死んじゃいけない」

「わかるよ。明原」

 真夏が明原の方を見つめる。明原はゆっくりと顔を上げ、真っ直ぐ目を合わせた。

「おれも同じだ。魔法が怖くて仕方ない」

 思いがけず零れ出た弱気に、明原は元々大きい瞳を更に見張った。しかしすぐに目を逸らそうとそっぽを向いてしまう。

 明原の方をがっと掴み、強引にこちらを向かせた。

「魔法を理解しようと思わないか、明原」

 え――と、真夏に聞こえない程の声量で明原は呟く。

「おれは魔法が嫌いだ。でも、それでも、おれ達は魔法と共に生きていくしかない。死ぬまでこの宿業を背負うしか道はないんだ。おれは、自分の魔法と向き合いたい」

「……私の道には、闇しかない。闇が照らす下じゃ、何も見えない。何も芽吹かない」

「だから一緒にって言っただろ。幸いなのかはわからないけど……、でも、少なくとも、今おれがいる。ここにはいないが燃々もな」

 真夏は立ち上がって、正面まで移動する。仄暗い人相に夕焼けが照らされ、金色の双眼が橙に濡れた。

 手を伸ばす。前は無理だったけど、今ならば。

「……どうして」

 わからない。わからない事は怖い。未知は恐怖の集合でしかない。今の明原にとって真夏はまさにそれだった。

「おれは、燃々みたいなお人好しじゃない。あいつみたいに強くない。ここにいるのが燃々だったら、多分もっと器用な事言えるんだと思う。……でも、今ここであんたを見捨てる事だけは、それだけは絶対に出来ない」

 明原は、真夏の片手が震えている事に気付いた。それでも、瞳だけは真っ直ぐ明原を射している。逃げず、逸らさず。

「――――――」

 すっと白魚のような手を伸ばして、尻込みするように一度引いて、いくらか宙を彷徨った後に、明原は真夏の手を掴み、その場から立ち上がった。

 魔法使いになってから初めて誰かと手を結んだ明原は、その温もりに驚いたようにふうと息を飲み込んだ。

 それを路地裏から見つめる男が、一人。

 

 

 ――――――



 夏の夜はもう間近。夜道を明原一人で歩かせるのは恐ろしかったので、家まで送った。明原から連絡先だけ書いた紙だけ貰い、その日は別れた。抜き身のナイフはポケットに突っ込んでおく。

 真夏は自分と燃々の落としたバッグを取りに行くべく、カフェまで足を運んだが、道中には何もなかった。

 誰かに盗られたか、警察に送られたかだろう。後者であって欲しいが、前者であっても、財布はお小遣い程度しか入れていないし、スマホはロックをかけている――魔法の記録が残されている――。無くなっても割り切ろう。

 と思っていたのだが、カフェの扉の前に看板のように真夏のバッグが立て掛けられていた。燃々のはない。中身を確認したが、特に喪失したものなかった。鞘もそこに入っていた。

「……燃々か、いとさんか」

 燃々か彼女の祖母のいとが回収してくれたのだと考える。

 合鍵で裏口から入っても良かったが、流石に夜分遅くに女子の家に侵入するのは気が引けたので、今日はLINEで連絡だけして帰るとした。

 翌日。燃々は学校に来なかった。

 今日から夏休みだった。


 燃々のコミュニティは男女共に広く、友人全てを把握するのは大変だが、特に仲が良い女子生徒に燃々の事を聞いてみると、彼女らも「昨日から連絡がつかない」と答えた。学校側にも連絡がいっておらず、いとが適当に事情を説明し、欠席扱いとなった。

 問題なのは彼女の祖母も何も知らなかった事。孫は真夏の家に泊まっているものだと思っていたらしい。いとに謎の男と刃物、明原について話すと、柔和な表情が真剣さを帯び、どこかに何度も電話を繋げた。

「今何人かに電話してみたけど……、燃々は見ていないって」

 放課後。いつもならバイトの時間だが、今日はそんな場合ではない。カフェは臨時休業だ。

 知り合いが誰なのかは知らないが、いとの情報ならば確証出来る。燃々は行方不明なのだという負の確証が。

「くそ……。誘拐、か? なら不味いぞ……」

 燃々の魔法は非常に『危険』だ。明原と相当、もしやするとそれ以上に。

 使い方を誤れば、なんてものではない。使えば『危険』なのだ。

「真夏くんはあの子が行きそうな場所に心当たりはある?」

「ありますけど……、でも、あいつはあれで常識人です。何処かに行くなら事後でも連絡はする筈です。スマホが壊れたならいとさんかおれに直接言うでしょう。公衆電話が使えないとも思えない……」

「そうね……」

 その時、コンコンとノックの音が小さく響いた。

 そちらを見ると、制服姿の明原が扉を叩いていた。意外な珍客に少々困惑しつつ、扉まで歩いた。

「どうした?」

 コーヒーを飲みに来た訳でもあるまい。店内に迎え入れると、鞄をぎゅっと過剰に握る明原は真夏に言った。

「一晩、色々考えたんだけど……。わたしも、魔法と向き合いたいって思うようになったの。だから、その……二位くんに、協力してほしくて」

 昨日とは乖離した前向きな気持ちに、真夏は正直驚いた。魔法を制御出来るようになりたいと思うだけならまだしも、積極的に他者を頼ろうとするとは。

 それは同じ境遇の魔法使いが身近にいた事による安心感だけではないだろう。

 ――一晩で随分と変わったな。

「せっかく前向きになった時に申し訳ないんだが……、今は時機が悪い。申し訳ないが後にしてくれないか」

「……時機? もしかして、燃々さんに関係あること?」

 鋭く指摘され、うっと言葉に詰まる。

 適当にはぐらかそうとしたが、よく考えれば燃々も明原の魔法被害の一人でもある。ここで誤魔化せば明原はひょっとして自分の所為だと考えるのではないか。

 ちらとカウンターを見ると、いとは嫋やかな動作で頷いた。

「?」

 きょとんした顔で真夏の言葉を待つ明原に、事態を語り始めた。

 語り終えると、明原は意外にも何か思案にふけるような面持ちになった。

「どうした」

「いや……実は、これ」

 茶色の生徒用鞄から取り出したそれは、黒い封筒だった。如何にも不気味で、これに憎い相手の名前を書いたら呪えそうだ。

「これは?」

「扉の前に置いてあったよ」

「は? ここの?」

「うん」

 真夏が入店したのはおよそ十分前。裏口ではなく正面から入ったので、玄関に何か置いてあれば必ず気付く。しかし今程は絶対にこんなものはなかった。

 魔法によるものだという結論に達するまでそう時間はかからなかった。

「…………」

 ぺり、と糊付けされた封を切り、中身を取り出す。

 パソコンで打ったかのように達筆の文章を読んだ瞬間、大気に弾かれたように真夏は外へ飛び出した。


 旧相武病院。東京都八王子市に存在する廃病院。とうの昔に移転したのだが、現在は心霊スポットとして有名な廃墟だ。

 いとに借りた普通二輪に乗って風を切りながら、真夏はそこに向かっていた。背中に張り付くのは明原。ついてくるなと真夏は言ったが、結局折れて後部座席に乗せた。バイクに乗るのは初めてなのか、恐々した手付きで真夏の腰に手を回していた。

「ねえ、どうしてそこに行ってるの?」

 赤信号でイラつく真夏に恐る恐る聞くと、「ポケットに入ってるから見ろ」とだけ言われた。

 そっと真夏のポケットから封筒にぐしゃぐしゃの紙を取り出す。皺を伸ばして文章を読み上げる。

「『17時、旧相武病院が倒壊する』。…………え? どういうこと?」

 全く要領を得ない文章に明原が眉をひそめる。何かの暗号にしても脈絡が無さ過ぎる。

 現在16時40分。この予知(?)通りならあと20分で病院が倒壊する。らしい。

「まだおれにも確定的な事は言えない。取り敢えず、そこまで行くしかない」

 青信号になって、再び明原は真夏の背中に抱きついた。



「ん、んん……」

 暗がりの中、燃々は目を覚ました。睡眠後のクリアな脳裏は、嫌でも現在自分の状況を的確に燃々に伝える。

 まず最初に気付いたのはここが自分が全く知らない場所である事。そして何故か口を猿轡で、両手両足を縄で縛られている事。

「!?」

 困惑と驚愕とが交雑した内心が「なにこれ!?」と叫ぶ。

 如何やらここは車の中らしい。かなり広いので恐らくはキャラバン。後部座席に座らせられていて、運転席にはスーツを着た長身の誰かがハンドルを握っていた。車体が揺れているので移動はしているのだろうが、フロントガラスから外は見えるが、何処にいるかはわからない。

 落ち着いて状況を顧みる。

 燃々は真夏に蹴飛ばされた後、真夏の下へ戻ろうとした処で何者かにハンカチを口元に当てられ、意想外の出来事に、碌に抵抗もできずに何処かに連れ込まれた処で意識が途絶えた。そして気付いたら誘拐同然の扱いを受けている(今ここ)。

 ――どういうこと……?

 ハリウッド映画のヒロインばりの理解不能の状況に、燃々は戸惑うしかやる事がない。

「眼が覚めたか」

「!」

 男の声がした。隣に視線をやると、矢張りスーツを着た男が座っていた。顔は美形だが、それが怪しさ度を一層増加させた。その隣にはパチンコで遊んでそうな外見をしたガタイのいい男。

 唯一真面に動かせる視線でスーツマンにギッと睨みを利かせると、それに物怖じした様子もなく黙って猿轡を外した。口内に流れ込む酸素が今日程愛しいと思った事はない。

 言葉の自由が許された途端、口早に燃々は男共を罵り始めた。

「なに貴方たち!! 私を攫ってどうするつもり!? この変態! 生涯童貞! エロ親父!!」

 思い付く限りの罵倒を唾と共に一気に吐き出す。圧倒的に不利な状況にも係わらずボロカスに誘拐犯を貶す燃々に、当然スーツマンの隣の男が激昂した。

 首筋をガッと掴まれ、白い肌に日本刀が突き付けられた。現代では滅多にお目にかかれない武器を向けられたのにも関わらず、イーッと威嚇する燃々は少々メンタルが強すぎる。

「このガキ! 大声出すんじゃねえ!! 死にてえのか」

「おい、やめろ。あの方の指示通りに動け。そいつを殺したら次はお前が死ぬぞ」

「ちっ、何だってんだ、こんなガキが!」

「それは俺も同感だが、とにかく俺らの仕事は目的地までこいつを連れていく事だ」

 男二人の会話に燃々は「ん?」と違和感を覚えた。

 発言から察するに、この連中は如何やら燃々の魔法の詳細については知らないらしい。抑々燃々の魔法を知っているのなら、掌を完全に固定するべきだ。猿轡を外したのは、何か訊きたい事があったのか。

 てっきり魔法関連かと思ったが――、そうでもないようだ。

 そこまで推測した燃々はバレないようにほくそ笑む。

 燃々は、掌を車のドアに触れさせた。



 廃病院に着いたが、当然ながら立ち入り禁止の札がかかっていたが、それを飛び越えて堂々と侵入した真夏は、さっさと敷地をまたぎ、鍵を壊して院内まで足を踏み込んだ。明原は躊躇いながらも燃々の為だと真夏の背を追いかけた。

「しかし、何処に行けばいいのか」

 病院はそれなりの広さがある。殆ど無計画で飛び出した為、準備など何もない。

 その時、ぽとっと明原のポケットから何かが落ちた。

 例の謎の手紙だった。

「ん?」

 ポケットの中に突っ込んでくしゃくしゃになったそれは、風のない空間でふわりと独りでに宙に浮いた。

「「?」」

 明らかに魔法によるもの。それは二人とも分かったが、行動原理が掴めない。二人して沈黙したまま糸に吊るされたように浮く魔法の紙を見つめた。

 すると、視線の圧が伝わった訳でもあるまいが、気流に乗るように勝手に付近の階段を昇り始めた。

 ついてこいとでも言いたげに薄ぺっらい背中がひらひらする。

「…………」

 真夏と明原が顔を見合わせる。二人は大体同じぐらいの背丈なので、自然と視線が並ぶ。暫し固まった後に、加速する紙切れの後を追った。

「あの紙、一体何なんだろう……」

「燃々のメッセージだろうと、敵の罠だろうと突っ込むしかないだろ。あれしか手掛かりはないんだから」

 今にも壊れそうな階段を踏む場所を選びながら駆け上がる。黒い紙は三階まで上昇

し、一つの部屋の扉を突いて床に落ちた。

 それを拾った真夏は懐疑の目で紙を睨む。

「ここに燃々がいる……かもしれないのか?」

 結局紙の差出人もその意図も全く読めなかった。文章の意味は分かる。何故なら燃々の魔法なら『それ』が可能だからだ。故に、燃々に関わる事だと真夏は察した。燃々の魔法は非常に稀有且つ凶悪なものである為、仔細を知っている人間は極端に限られている。なれば相手は相当の情報網を持っている事になるが、仮に燃々誘拐犯とここまで誘った相手が同一だとして、何故そんな回りくどい真似を? 違ったとして、そいつはこちらの味方になり得るのか?

 脳裏を走る考えに、一旦ピリオドを打つ。今考えても詮のないことだ、明原を無駄に不安にさせる必要もない。

「……行こう」

 真夏の震えながらも強い言葉に、明原が頷く。

 扉を開け、一歩踏み込んだ瞬間、聞き飽きた大声が響いた。

「真夏!?」

 燃々だった。衣服には皺一つなく、黒髪が乱れた様子もない。燃々は驚いたように愕然と目を見張っている。

 開けた部屋が元々何だったのかはわからないが、そこはかなり広かった。その奥、誘うように燃々が立っている。

「燃々!」

 叫びながら部屋に中央まで進む。そこで、愚かにも漸く不自然さに気付けた。

 ――待て、服も髪も綺麗過ぎる。

 可笑しい。燃々が如何なる手段を用いてここまで来たのかは不明だが、少なくとも丸一日音信不通だったのだ。ホテル等の宿泊施設や友人宅に泊まっていた訳ではない事は確定だ。

 にも拘らず、燃々の容姿はまるで写真に切り取られたかのように目新しいままだ。

 ――連絡が取れないような状況で、ああも綺麗な状態なものか?

 速度が減速し始めた時、ふわりと以前にも感じた浮遊感を覚えた。

 足元に視線を動かすと、そこにはこちらを吞み込まんとする茫漠とした影が床に張り付いてあった。

 いや、違う。

 全長十メートルはあろうかと思われる著大なチョウチンアンコウが地面に沈んでおり、光に掛かった餌二匹を喰らわんと大口を開いていたのだ。

「はっ――」

「え――」

 突如として両脚を支えていた地面の安定感が無くなる感覚。残念ながらこれはつい最近にも感じた。

 チョウチンアンコウは深海200から800メートルに生息するアンコウ目に属する深海魚。いつしか習った豆知識が走馬燈のように脳裏に灯るが、魔法にそんな常識を説いてもしょうがない。

 鮫でも粉々にしそうな鋭利で巨大な歯牙が迫る。

 真夏は首を捻って何とか躱したが、反応が遅れた明原が間に合わなかった。

「あっ、」

 口の外に置き去りになっていた左腕が、深海魚の餌食となった。ギザ歯ががつっと肉を裂き、骨を砕く不協和音が真夏の耳に響いた。

「~~~~あああああああっ!?」

 いくら魔法使いといえども、ただの女子高校生。電撃の風呂に浸かったような痛みに忍耐など敵う筈もない。宙を跳ねる血飛沫が化粧となって端麗な顔立ちに降りかかった。

「このっ!」

 自分の内ポケットから零れ落ちたナイフを掴み、暗い口内を雑に斬り裂いた。チョウチンアンコウは一瞬口を開き、明原はその隙に腕を少々強引に離した。

 深海よりも幽々たる闇に魔法使いが二人、落ちてゆく。


 明原の下敷きになる形で落下した真夏は背中を強く強打し、危うく意識が飛びかけた。

 光一つない真っ暗なそこに、画面に罅の入ったスマホをポケットから取り出し、ライトを点ける。ライトを頭上に向けて地面に置き、松明のように暗闇を照らした。それでもまだ暗いが、お互いの姿が確認出来ない程ではない。

 幸運にもアンコウの胃(?)の底は深くなく、ダメージは低かった。それを安堵したのも束の間、横に倒れる明原を上向きにした。

「明原! 無事か!?」

 真夏の声に明原は、う、と僅かに唸り、荒い呼吸を繰り返す。意識は確認出来たが、どくどくと傷口から血が溢れ、血の気が引いていく。人体にはおおよそ4~5リットルの血液が詰まっており、1リットルを超えると命に関わる。

 上着を脱ぎ、袖を千切る。止血法に倣って上肢の肩口近くを袖で結んだ。本来なら止血帯を使うのが正しいが、当然ながらそんなものは持ち合わせていない。

「はあ、はあ……二位くん……」 

 水泳を行った後のように汗で水浸しの明原は、虚ろな目で真夏を見返した。

「……ごめんなさい。迷惑、かけちゃって……」

「いや、おれのミスだ。燃々に助けたいが為に、焦って行動してしまった……。悪かった、明原。お前まで巻き込んでしまった」

 やはり無理矢理にでも拒絶すればよかった。そうすれば、少なくとも明原はこの状況にいなかった。

 自責の念に囚われ、ぐっと力が加わる真夏の拳に、明原はそっと手を添えた。

「わたし……二位くんに感謝を伝えたくて、ここまでついて来たの。少しでも恩返しがしたいなって……」

「恩返し?」

 意外な言葉に、真夏は声が喉に引っ掛かる。

「魔法使いになってから、わたしの目を正面から見てくれる人なんていなかった。誰も、何も。わたしが悪いって分かってる。……けど、でも、それでも、嬉しかった」

 不幸に優劣を付けるつもりはないが――、明原玖秭名の魔法は数ある中でも相当に性格が捻じ曲がったものだ。実姉を殺し、魔法の夜に怯える日々を過ごした明原を誰も責める事など出来ない。他ならない明原本人以外は。

 二位真夏の偽りなき言葉と真っ直ぐな瞳は、赤毛の魔法使いにとって初めての喜びだった。

「二位くんが真っ直ぐ目線を合わせてくれて、久々に喜べた。名前を紹介し合って、人と繋がれるのがこんなにも尊い事なんて、わたし、今まで知らなかったよ」

「――――――」

 古今東西千古万古ありとあらゆる書物に書かれた事だが、大切なものは失ってから大切だったのだと気付くのが、人という生き物だ。

 いや、失う前から気付いていても同じだ。それが魔法だ。どれだけ誠実に生きていようと知ったこっちゃない。人が悲劇に踊らせられるを指差し、腹を抱えて嘲笑するのが魔法だ。

 だが、彼女は。

「ありがとう、二位くん。わたしと目を合わせてくれて」

 そう告げた明原は、確かに笑っていた。

 魔法を持たされ、現在進行形で死にかけ、散々な運命に巻き込まれながらも、彼女は確かに笑った。

 前を向き、他者への歩みを一歩進めた。

 彼女は魔法と生きる事を決めたのだ。

「――――――」

 血潮に顔を舐められ、金色の瞳を青海の月のように揺蕩わせる赤毛の少女は、それでも美しかった。

 ――助けなければ。この美しく強い少女を。

 明原は瀕死。真夏が使わなければならない。精神の奥に押し込んでいた、友を殺した神秘を。

 ――嫌だ、使いたくない。

 理性が拒否する。怪物になんてなりたくない、ずっと目を背けていたい、夢のままで終わらせたいと。

 だが明原は、進んだ。涙を堪えて、泥沼のような悲劇を背負いながら光明へと前進した。

 ならその立て札の一つとなった真夏が今すべき事はそう難しい事じゃない。

「――血花よ」

 内ポケットから取り出すは、あの男が渡してきた百万のナイフ。人工の光に照らされた白刃の眩さに、しかし真夏は瞼を閉じなかった。

 ナイフを逆手に持ち替え――、躊躇なく右腕を縦に裂いた。ぼとぼと紅血が切痕から零れ落ちる。しかしそれが血痕となってその場に滲む事はない。

 何故なら、赤い血が次々と朱色の花弁に変化していき、中空を舞ったからだ。

 ――ああ、くそ。やっぱり嫌だな。

 この魔法は真夏の『傷』そのものだった。逃げられない『咎』が再び心の表面に浮き出て真夏を縛り付ける。

 赤の一滴が、桃色の一片に。深海の夜空を彩る血花が、人工の光をスポットライトに見立てて円舞する。

「狂い咲け」

 夾竹桃の夏嵐が、暗闇を旋風のように斬り裂いた。

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