25時、魔法使いの教室に。

小林研輔

第一話 二位真夏①

 魔法。年頃の少年ならば一度は憧れるようなフレーズだ。

 一介の平凡な高校生が突然人智を超えた能力を得て、仲間と共に疾風のように恐ろしくも愉快な世界を駆け抜く――。バトルもののアニメや漫画では鉄板中の鉄板であり、大道だがまあ盛り上がる話ではある。

 空想と神話の再現。人を笑顔にする奇跡。神秘を呼ぶもの。

 きっと世の人々の魔法の認識はそんなものだ。

 もしそれを現代の魔法使いが聞けば、口をそろえてこう吐き捨てるだろう。 

 ――ふざけるな、と。



 ―――――――


 

 全身から血を被った少女がナイフを持ったまま真夜中の校内を歩いていた。

 ナイフ、といっても本来の用途から大きく外れた使い方の所為で、刃はボロボロに毀れて使い物にはならない。

 ぽた、ぽた、と地面に滴る血液は、一滴たりともその少女のものではない。

 地面を赤く濡らすのは、他人の血で染まった少女の涙。

「う、ううぅう~、ああ…………」

 少女の端整な顔立ちも今や見る影もない。水浸しの雑誌のようなぐちゃぐちゃの顔で声にならない嗚咽を溢していた。

 水滴というより最早水溜りのような血痕の軌跡を逆方向に辿ると、小規模の台風が訪れたか如きの暴虐によって校舎が破壊されていた。

 コンクリートが抉られ、幾人もの血だらけの女子生徒が転がっている。女子生徒四名は虫の息であり、翌朝の報道特集に顔写真が取り上げられるのも時間の問題だった。

 救急車のサイレンが深更に響く。暗闇に映える警光灯を見つけて、少女は漸く少しだけ安堵する。

 その場に崩れ落ちた少女は、自分が刃物を持っていた事に今気付いた。

 校舎の壁にもたれかかり、ナイフを放り出す。髪は乱れ、涙は涸れて、心は潰れていた。

「…………もう、いや」

 少女は魔法使いだった。稀代の才媛と評されるであろう災禍だった。

 しかしその魔法を望んだ事はなかった。

 欲しい者がいれば未練なく渡している。――いや、そうすればその者が不幸になるだけだ。願いはしても、実行はしないだろう。

 自分の四肢を切り捨てようと何度思ったかわからない。

 魔法の存在を何度恨んだか覚えてない。

 涙の夜を越え、払暁の訪れをどれだけ憎んだか覚えてない。

 だがそれでも。それでも少女は。

 死にたいとは。生きたくないとは。

 口が裂けても言えないのだった。



 ――――――



 そこは新緑の生い茂る庭に囲まれたカフェだった。

 幾つもの花壇が並べられ、千日紅、マリーゴールド、トレニアといった愉快な花々が咲き誇っており、見るだけでも目の保養になる。

 最も、今現在花壇に水をやっている少年に限ってはそうでもないが。

 黒髪黒目の少年はそのカフェのアルバイトだった。慣れないエプロンが年頃の学生らしさを際立たせる。

 無表情で、ざあああと雨のように如雨露から水を降らせる少年は、ふと何かを感じて背後を振り返る。

 それは百人余りの凡骨には感じ得ない、魔力の流れ。

 ちょうど水が尽きた所で、如雨露を足元に置いてから魔力の源流を目指して歩き出した。

 少年が入ったのはカフェの店内。からんからんと乾いた音が入室を告げる。開店直前のカフェには当然だが客はおらず、店員が一人のみだった。

 左目に眼帯をつけた同僚の少女がカウンターの奥で魔法の呪文を唱え、掌印を結んでいた。

 魔法の行使である。

「ミツチに畏み畏み白す、水心の下に集い給え」

 少女の前に置いてあるのは水道水が適量入ったただのガラス製のコップ。それが都合三つ。

 詠唱を終えた瞬間、コップに入った水が意思を持ったかのように蠢き、空中に飛び出した。あっと言う間にコップの中が空になり、結露一つ見えない。

 中空に浮かぶ水漿は徐々に竜の形を模り、宛ら長崎くんちの龍踊のように空を自由気ままに舞った。ただの水道水でしかないそれが、清澄な水明のようにも思えた。

 自然を我がもののように掌握し、手足として支配する――。それは、現代科学には到底理解も再現もできない神秘の一つだ。

 魔法。それ以上の言葉などない。

 その非日常的な幻想に少年は一瞬見惚れるが、ふと我に返り、同僚に苦言を呈す。

「何やってんだ、燃々」

「あ――真夏」

 少女がこちらに意識を向けた途端、魔法の制御が外れる。

 端的に言うと、水竜が形を失い、固まった雨となってばしゃと真夏に降りかかったのだ。

「…………」

 天気雨にでも見舞われたかのように頭からバイトの制服までびっしょり濡れ、心成しか気分までもが湿気た気がした。

 じとり、とまさしく湿度100%の視線が元凶たる燃々を睨む。

「あ、あー、あははは……」

 真夏の無言の抗議を中身のない空笑いをしながら片目を逸らす燃々。

 はあ、と大きなため息を吐き出し、燃々に詰め寄った。

「お前な、店内で魔法使うのやめろって何度言われればわかるんだ? しかももう店開いてんだぞ。せめて店の裏とかでやれよ」

「でもね真夏! ここでやると……! …………いや、仰る通りです」

「秒で負けるなら最初から挑むな」

 よよよ……と涙ながらにタオルを取り出し、真夏に手渡し、自分はモップを持ってくる燃々。

 兎束燃々。紫紺の長髪をポニーテールに結んだ天真爛漫な明るい中学生だ。魔法には愛された代わりに、学業にはそっぽを向かれている悲しい魔法使いでもある。左目を隠している眼帯は、決して中二病ではない。

 彼女はここのカフェ『ミイヒ』の店主の孫だ。社会勉強の一環でアルバイトの真夏と共に働いている。真夏もまた、彼女に誘われてここに勤めさせてもらっている。

「魔法をそんなに鍛えてどうすんだよ。魔法最盛期の中世でもあるまいし、戦争でもやるつもりか?」

「私はいつか誰かの為に魔法を使いたいから。それに、真夏だって練習してるじゃない」

「――俺は魔法が嫌いだ」

 断固として譲らない真夏に、むう、と唇を尖らせる燃々は、しかしすぐに「まあそれもそうだね」とあっさりと引き下がった。

 ガシガシと大型犬みたいな拭き方で雑に水分を抜き、燃々がモップで濡れた床を拭う。それが終わるのを待ってたかのように、からんからんとドアベルが鳴り、バイト二人に来店を知らせた。

「いらっしゃいませ!」

 相手も見ずに反射的に明るく言う燃々。

 まだ開店直後なのに珍しいな、と思いながら真夏は客の姿を見て、少々ギョッとした。

「もうお店開いてるよね?」

 何故ならその男はかなりの長身であり、如何にも怪しい黒い外套を全身に纏っていたからだ。

 極めつけはその顔。――男は奇妙な狐の仮面で口元以外の顔面を隠していたのだ。

 燃々がぼそりと「うわっ」と鼻白むように呟いたのが聞こえた。素直過ぎる感想に真夏は心の中で同意と苦言を交互に行った。

「お好きな席にどうぞ」

「ああ」

 真夏の近くのカウンター席に着席し、バッグを隣の席に座らせる不審人物。やはり仮面も外套も外さなかった。不思議な事に埃っぽいとか汚いとかそういう訳ではなかった。

 男は立てかけてあるメニューリストを見て、特に迷う事もなく即決する。

「ではアイリッシュコーヒーのアイスを」

「はーい!」

 先程まで「何か変な人来た!」と口に出す一歩手前までだったのに、一瞬でああも明るく振る舞えるのはコミュ力以前に何かの才能だろう。

 因みにアイリッシュコーヒーはウィスキーをベースとするカクテルだが、アルコール度数が低いので正確にはお酒ではない。その為、未成年も飲める。だがどちらにせよ未成年には見えなかったので、年齢は聞かない事にした。

 燃々がカチャカチャと準備を始め、フリーになった真夏は店内の掃除を始めようとした時、男から話しかけてきた。

「ねえ君、ちょっといいかな」

 男とも女ともとれる不可解な美声で話しかけられ、何故か緊張が弛緩した気がした。

 できれば会話はしたくなかったが、客に対して無視も良くないので仕方なく返事をした。

「はい」

「実は僕は根無し草な旅人でね。世界中を回ってるんだ」

「はあ」

「旅は良い。自分の知らない世界を教えてくれる。例え全知の神だとしても、異国の土に足を踏み入れ、情熱の風に呑まれ、人との繫がりを全身で感じる。この幸せは簡単には知り得ない。無知も不識も素晴らしい事だ、ちょっと背伸びして今まで興味もなかった店に入るだけでも新たな気付きをくれる。この広すぎる世界は僕らが楽しむ為にあるのだと思うよ」

 悪戯好きな花風のように要領を得ない旅人の発言に、真夏が眉をひそめると、それがわかったのか、旅人は「ああすまない」と謝罪した。

「趣味に生きるという程ではないけど、自分の好きなものはとことん極めたい質でね……。ああ、また無関係な話をしてしまった。本題に入ろうか」

 ごそごそと隣のバッグから手を突っ込み、どこぞの青い猫型狸のように何かを取り出した。

「あった、これこれ」

「……それは?」

「仕事柄、奇奇怪怪としたものに目が無くてね」

 取り出したのは、一見ただの細長い木箱。何の変哲もない、魔力を感じる訳でもない本当にただの木製の箱。少なくとも見た目は。

「キミ、これ買わない?」

「え、嫌です……」

「あはは、そりゃそうだ。こんな怪しい奴からのプレゼントなんて、詐欺一択だよね」

 自分で分かってるなら何故……。

「って顔してるね、キミ」

 さらりと心を読む詐欺師。いや今の状況ならば誰でもわかるが。

「これは特別なものなんだ。キミに必要かなと思ってね」

 益々詐欺っぽさが増量した。こうまで怪しいと一周回って「本当なのかな」と思い始める。

 だが、矢張り第一印象の俗っぽさ、不審人物、詐欺師とまでランクアップした称号はそう容易く拭い取れるものではない。

「……一応、お値段は?」

「いや取らないけど。六文銭たりとも」

「百万とかの方が安心するんですけどそれ」

 はあ、と真夏は溜め息を吐き、このまま言い続けても平行線になるので、仕方なくこちらが少し妥協する事にした。

「……中身は何が入ってるんですか?」

「自分の目で確かめてごらん。開けていいから。ああ、別に爆発とかしないから安心してね。怪電波とかも流れないから」

「…………」

 すっと差し出されたそれを半眼で受け取る。幸いな事に爆発はしなかったし怪電波も流れなかった。

 重量は恐らく箱の重みだけで、中身は相当に軽いものであると思われる。軽く振るが、内部から音が響く事はなかった。

 微妙に信用出来なかったが、言いだしたのは自分なので、嫌々ながら開封する事とした。

 蓋に手をかけ、ぐっと蓋に手をかける。

「…………?」

 しかし、開かない。ボンドで糊付けされたかのように……、いやそれどころではない。蓋が一体化してるのかと疑うぐらいには強固だった。

 真夏は体力も膂力も相当である。その辺のゴロツキならば五人程度纏めて相手をしたって問題ない。

 その真夏が、渾身の力を籠めているにも関わらず、コンクリートに埋められた電柱が如く微動だにしなかった。

「これ…………開きませんよ」

「うん、そうだよね」

 今度こそ明確に真夏の額に青筋が浮かんだ。もっと厳密に言うならば「こいつシバき倒してやろうか」といった感じの暴力的なイラつきが。

「え、何してんの真夏?」

 アイリッシュコーヒーを持ってきた燃々が珍種の珍行動を目撃したかのような目で真夏を見つめる。それからにこーっと微笑んで詐欺師の前にコーヒーを差し出した。

「やあ、ありがとう」 

 こっちの気も知らないで、というか無視して、嬉しそうにグラスを持ち上げ、クリームに唇をつける詐欺師。

 直径15センチ程の木箱にぐぐぐ……悪戦苦闘する真夏を、燃々は心底可笑しそうに眺める。

「それはこっちが聞きたいぐらいだよ」 

「あ、それ絶対開かないからもういいよ。キミじゃなかったって事だから」

 グラス片手にこちらを見る事もなく呟く男に、真夏は木箱を殴りつけたい衝動にかられたが、最後の自制心でそこは堪えた。

 代わりにガン、とカウンターに力強く木箱を叩きつける。燃々が「ちょっとお客様に乱暴しないで!」と怒鳴られたが、今こちらに精神への乱暴を受けた処なので、無視する。

「で、これをオレにどうしろってんですか」

 口についたクリームを指で拭きながら、男は素っ頓狂な事をにこりと笑いながら告げた。

「預かっておいてくれない? 来る人が来るまで。こっちがお金払うからさ」

「は?」

 あっと言う間にアイリッシュコーヒーを飲み干した男は、空のグラスを燃々に渡した。

「最初と言ってる事違うんですけど」

「えーっと、さっきキミ百万とか言ってたね」

「だから、こっちの話を――え?」

 話題が右往左往する男がバッグから取り出したのは、幾つもの紙幣が帯封に纏められた札束。

 それをお小遣いのようにぽんと差し出された燃々は反射的に受け取ってしまい、初めて持つ札束の感覚に盛大な「?」を浮かべていた。

「え……百万?」

「うん。百万」

 思わず問い返す燃々に、男はただ淡々と事実を告げる。

「はっ、はああ!?」

 日常生活ではとてもじゃないがお目にかかれないそれに、真夏は意味もなく叫び出す。開いた口が塞がらないという慣用句の正しい使い方を真夏は理解した。

「じゃあよろしくね」

 二人が札束の方を注視している隙をつき、男は別れを告げる。 

 ばっとそちらの方を見ると、そこにはもう誰もおらず、不自然に引かれた椅子だけが残っていた。

 

「百万、どうしよっか…………」

「どうしろってもな…………」

 二人で夕焼けに染まる帰り道を歩く。空を焦がす橙色は人間の気分など知らずに、今日も今日とて美しく輝いている。

 あの後。百万渡されるわ、不審者が突然消えるわで、絶賛混乱中だった処に、ちょうど客が入店してきて、札束を咄嗟にポケットに突っ込み、その時はお開きになった。

 閉店後、燃々が祖母に見られたくはないと言ったので、こうして真夏の家路まで燃々が同伴し、降って湧いたような大金とあの妙な男について相談している。

 因みに百万円は祖母にバレないように燃々の自室に隠している。

「てか、あいつさ……多分魔法使いだよな」

「まあそうだろうねー。如何にもな恰好してたし、抑々『開かない箱』って時点で物語でありがちな、性格悪い魔法だもん。何で受け取っちゃったのさ」

「拒否権なかったろ、あれ……。マジで何なんだよあいつ」

 大きな溜め息を吐き出し、手提げから例の謎の箱を取り出す。あれから幾つかの手段を試したが、うんともすんとも言わなかった。時折自分たちは箱相手に何をやってるのかと我に返ったが、結局破壊も出来ずに今に至る。

「もう、おばあちゃんになんて言えばいいの?」

 彼女の祖母も魔法使いなので、一応話は理解できるだろうが、解決できるかは不明だ。

 やはり素直に言うしかないよな、と思いながら夕焼けの道を歩いていると、何処からか穏やかではない声が響いてきた。

「ねー、いいじゃん、ちょっとぐらい」

「そうそう、俺らが金出すよ? 遊び行こうぜ、興味あるっしょ?」

「俺ら、イチオシの店あるからさ、そこでちょっと飲もうぜ。な?」

「いや……、いや、やめてお願い。お願いだから……」

 数人の男が女子一人を囲んで阿呆らしい事を嘯いている――。それは一目瞭然のナンパであった。

 ピアスをつけた金髪、赤メッシュ、髑髏マークが全面に押し出された服をきた長身。こう言ってはあれだが、『テンプレ』だ。恰好も言動も。

 少女の顔はよく見えないが、決して心地よい表情をしている訳ではないのだとわかった。それも、見知った制服を着ているので、恐らくは中高生だ。

 ああいう手合はいくらでもいるんだな、と真夏は、自分の知らない場所を特集するテレビのニュースを見た時のように冷めた目で恥を恥とも思わぬ男を観察した。

 だが、そんな真夏の思考を裏切るように目の前を黒い何かが通り過ぎた。

 燃々だ。

「ちょっとー!! 何してんの!! その子怯えてるじゃない!!」

 残念ながらというべきか、幸いにもというべきか。常人の深慮とか黙考とかを諸々すっ飛ばして自分の心に従って突き動くのが兎束燃々という人間であった。

 後先知らない。自分が困ったら真夏に頼る! 人助けにも他人頼りにも躊躇が無いのは、彼女の美点だろう。

 謎の箱のことは一旦忘れ、バッグにしまって燃々の背中を追随する。数名の軟派たちはまさか大声で怒鳴られるとは思わなかったらしく、わかり易く焦った顔をしていた。

 少女はその隙をつき、男たちの間を通ってこちらに向かってきた。

「――――」

 漸く全身を拝謁し、真夏は一瞬思考が止まる。

 少女は、赤毛だった。

 顔立ちは日本人のそれだが、炎とも血とも言える赤毛がよく目立つ。非常に整った容姿とすらりとした背の高さが目を惹き、端的に言えば大変な美女だった。

 確かに声を掛けたくなるような美貌だな、と真夏は理解する。納得は出来ないが。

「おい、ちょ待てよ! まだ話は終わってねえって!」

 しぶとく声と手を伸ばし、少女の手首を掴む金髪男に、燃々が目の前に立ちはだかる。

 烈火のような義憤に燃える燃々が、男に向かって何か叫ぼうとする前に――。


「やめて!!」


 赤毛の少女が命乞いと聞き間違えるような叫喚を上げた。余りにも唐突な叫び声に、手首を掴んでいた男は手を離し、僅かに一歩引いた。

 ――いや、後にして思えば、これは本人からすれば命乞いにも等しいものだったのかもしれない。

 今まで黙していた少女の金切り声に、真夏と燃々でさえもびくりと肩を震わせ、驚愕に見張った双眸で少女に注目した。だが、少女はこの場にいる誰にも目を合わせず、俯いたままの顔で全身を震わせていた。

 焦点の彷徨う金色の瞳で彼女は何者かに訴えていた。

「なに!? なんで!? どうして、どうしてこんなことするの!? 嫌だ、もう嫌なの!! 私に近づかないで!!」

 誰とも顔を合わせず、流麗な赤毛を握ってヒステリーのように泣き叫ぶ少女は、何かのドラマのワンシーンのようだった。

 乱れた髪を正そうともせずに、誰とも目を合わせずに少女は目に見えない『何か』に心底から懇願する。

 それは、呪詛にも聞こえる悲嘆の声。

 いや。いやだ。もうやめて。こっちにこないで。私が何したっていうの。罰ならいくらでも受けるから。だから、こんなことやめさせて。もう何もしたくない。お願い、お願いだから。

「誰に……何を言ってる……?」

 訳がわからなかった。突如として発狂し、情緒不安定というには極端過ぎる彼女の言動に対する感情は、一つの単語では表せない程に複雑化していた。魔法で精神を汚染されているのでは、いや元々こういう精神病なのか。可能性だけならいくらでも湧いてでるが、今は論理的な行動を取る事ができなかった。

 地べたに座り込む彼女に、真夏が何か言おうとした時、状況に混乱した所為か、思わずバッグを手から落としてしまった。

 スマホや筆記用具が少女の足元に散らばる。その中には、謎の木箱も含まれていた。

 それらを拾おうとした真夏に、次なる衝撃が襲う。

「え――」

 木箱が開いていたのだ。あれほど頑強で不可思議だった箱の蓋が、地面に落とした程度の事で、あっさりと開いた。

 その要因や理由を熟考する暇もなく、更なる驚愕と困惑の渦に呑まれる。

 木箱の中身。それは――一振りのナイフであった。

「はっ?」

 黒い柄に黒い鞘。落下した際に鞘から漏れ出た白刃は、素人目ではただの包丁でしかない。だが、明らかに異端のものである事は分かった。

 それが露わになった時、燃々は勿論、周囲の男にも動揺が走った。何かしらをギャンギャンと喚いているが、それに割く時間はなかった。

 ――何だあいつ、本当に何を渡したんだ?

 一瞬の硬直。それから立ち直り、一先ずナイフを回収しようとし、それがパッと奪われた。

 ナイフを手に取ったのは、赤毛の少女だった。

 ああすまん。怖がらせたよな。悪いけど返してくれるか――と。言葉が続く前に、鉄の鏃を飲み込んだかのような違和感と、生物本能的な嫌悪が腹の底に渦巻いた。

 眼前の光景を理解するのを身体が拒否している。細胞の一つ一つが絶叫するような焦燥、遺伝子に刷り込まれた根源的な恐怖。

 暗がりに沈んだ表情から一転、口角が不気味に吊り上がる。

「あはっ♡」

 少女は、笑った。

 ナイフを持ちながら、老若男女を有無言わさず傀儡にするような甘い微笑を浮かべた。

 その手に持った凶器など、ただのネックレスにしか思えない程に、それは美しい笑顔だった。

 ヒュンッと風塵が巻き上がる。

「?」

 赤毛の少女の姿は、既にそこにはない。

 殆ど同時に――視界の隅に髪の毛よりも細い光線が轢かれた。

 ナンパしていた男のたちの一人、ピアスをつけた金髪男の腕が切断されていた。

 茫然と、何が起きたかわからないどころか、何もわからない男は、漸く痛みに悶絶し、理性を無視して啼泣する前に、その大口に裏拳が叩き込まれ、数十メートル吹き飛ばされた。

「 」

 思考が間に合わない。凶刃に光る残陽の明るさに脳裏が塗り潰される。

 ナイフの少女は、何故か優先的にナンパしてきた男たちばかりを集中して狙っていた。よく見れば何とか視認出来るそれは、流星が赤く穿つようだった。

 数秒の間に、既に男たちは血溜まりに沈んでいた。ピクリとも動かず、生きているか死んでるかなんて判断出来ない。連中には申し訳ないが、自失から覚めるだけの時間は貰った。

 艶麗な笑みの次の標的は、ポニーテールの少女に向いた。

 まだ混沌に打たれた衝撃から復帰出来ていない彼女に、真夏はタックルする形で飛びついた。

「燃々!!」

「え」

 ナイフが直撃スレスレで頭上を素通りし、僅かに切られた髪の毛が宙に舞った。燃々のバッグが電柱にぶつかって地に落ちた。

 ずさっと身体が重なりながら地面に倒れる二人。燃々の胸の膨らみなど気にする間も無く、真夏は立ち上がって強引に手を引いた。 

「立て燃々! 早く逃げろ!」

「うっ、うわぁぁぁあ!?」

 目の前にあった民家の排水管が一刀で切断され、ギャグマンガみたいな反応で駆け出す燃々。幸いにも二人とも運動神経は優秀な方だった。出来る限り人通りの少ない道、また障害物の少ない道を選び、間隔を開けて走り出す。初めての状況にまだ混乱する頭では、これが精一杯の浅慮だった。

 一も二もなく逃遁する二人の後ろで少女が、活きの良い鱧を料理するかのように喜色満面となった。

「今日の主食は貴方たちにしましょ♪」

「美味しくないです私達!!」

 律儀に叫び返す燃々に「いやそこじゃない」と突っ込む余裕もない。

 二重人格どころではない『人格改造』。悪霊でも憑依したかのように切り裂きジャックと化した彼女のそれは、魔法の類で間違いない。しかしどう考えても彼女の意志ではない。いやどちらが本物の彼女なのかもわからない。

 だが、さっきの物静かな方が本来の彼女なのだとしたら――きっと、あの少女も魔法の被害者だ。

 魔法なんていう、人を笑顔にする事も出来ない呪いの。

 同士として胸に去来した惻隠の情は、真夏の燃々の間に入った斬撃の線で消し飛ばされる。

 二人が今蹴り付けていた地面は、橋。川までの高さはそこまででもないが、十分な厚みがあるそれを、紙切れのように刻んだ。

 コンクリートをズカッと切り取った斬撃は、真夏と燃々を別離の運命に追い出す。

 橋の外側にいたのは真夏。

「うっ、そだろこいつ……!」

 唐突な浮遊感、視界に肉薄する川の水流と砂利の道に、落とされたのだと理解する。突如切り離された友人に、橋の上にいる燃々が足を止めて手を伸ばす。まだ届く、まだ諦めない。

「真夏!」

 身体をこちらに傾けた燃々の脇腹に、真夏は蹴りを突き出した。燃々はかはっと唾液が口から漏れながら吹き飛ばされ、路上にごろごろと転がった。

 真夏の意図を察し、かなり強めに蹴られた腹を押さえながら起き上がろうとする燃々。

「ま、なっ……」

「行け燃々!!」

「かっこいいなぁ、まるで王子様だね」

 幸いにも少女は誘いに乗ってくれた。少女は燃々ではなく真夏に向かって突進する。

 上段からの振り下ろし。迫る白刃に、真夏は少女の手首に拳をぶつけて、ガードする。一瞬驚いた少女の頬にストレートを叩き付ける。バキャッと不自然な音と共に砂利道まで殴り飛ばした。

 さぶと水の中に着地した真夏は、少女が豆腐みたいにバラバラにしたガードレールを掴んでフリスビー宛らに投擲した。起き上がった少女によってそれも更に細かく斬られる。その隙に近付いた真夏が顎を狙って回し蹴りを振るうが、身を屈めて躱された。

 真下からの振り上げを一歩下がって躱し、二歩踏み込んで接近し、体重を乗せて拳撃した。広げた片手で男の拳を容易く受け止め、そのまま掴んで後方のコンクリートの壁に叩き付けた。真夏を中心に浅いクレーターが出来上がり、マンションから落下したかのような衝撃が響く。

「ぐはっ!」

「お返し♡」

 詰め寄った少女が真夏の顔面にナイフではなく態々拳を突き刺す。

 砲丸投げをゼロ距離で直接ぶつけられたような強い拳固に口の中が切れ、吐血した。咄嗟に両腕でガードしたが、少女の異常な膂力に叩き伏せられる。

「もう終わり!? 私まだお腹いっぱいになってないよ、魔法使いさん!」

 ナイフの刃を使わずに柄頭でぶん殴り、必要以上にいたぶる彼女は、狂喜の笑みを深めていった。

 一度攻撃を受けてしまえば回避はもう間に合わない。少女の細い腕による乱打の嵐に意識が飛びそうになるが、気力で何とか堪える。

 真夏が殴られ、後方に僅かに退いた瞬間、勢いよく少女の眼前まで飛び出す。予想外の動きに少女の反応が数瞬遅れるのを見逃さず、襟元を乱暴に掴んで手前に引き寄せた。

 そして、ガツンと彼女の額に渾身の力で頭突きをかました。

「……っ!」

 脳裏に星が散らつき、顔をしかめながら後ろに仰け反った少女のナイフを手刀で手元から弾いた。

 そこから、眼に見えて動きが悪くなった。

 足を払って転ばせ、砂利道に押し倒す。ぐっと拳を固めて美女だろうが容赦なく顔面を殴りつける――寸前に、ピタリと拳が少女の眼前で制止した。

 少女の身体から力が抜け、完全に抵抗する意志を失ったのがわかった。

 しかし真夏が攻撃をやめた理由はそれだけではない。

 ぼろぼろ、ぐずぐず、と。

「……ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……!!」

 先程までの殺人鬼とは打って変わって、人相がぐちゃぐちゃになるほどの滝の涙を流し、濁流のような謝罪を吐き出したからだ。

 あまりの豹変っぷりに、しかしとても演技には見えない涙に、真夏は拳を引っ込めた。

 そして少女のボロ雑巾のような泣き顔を見て、女子に馬乗りしている事に気付き、「これ燃々に見られたらヤバい」と滝の汗を流した。

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