Mission completed
ボタンが突然自分の部屋に現れた日から、1週間ほど経った夜。
和真の家の呼び鈴が鳴った。
両親は毎日帰りが遅い。来客の心当たりもなく、夕食をひとり温めようとしていた和真は不審げに玄関へ出た。
「こんばんは」
そこに立っていたのは、沙樹だった。
「あなたに、謝りたくて。
少し上がっていい?」
彼女は、そう言って美しく微笑んだ。
「ボタンがね、ケージから逃げちゃったの」
和真について廊下を歩きながら、彼女は小さく呟いた。
「あんなに、可愛がってたのに。
どれだけ愛しても、動物って何も応えてくれないんだって——なんだか、目が覚めた。『人間の心とペットとどっちが大事なんだ』って言ったあなたの言葉は、本当だった」
彼女の落ち込んだ気配を背後に感じ、和真は満足げに微笑んだ。
「——そうか。
それは、悲しかったね。
でも、君が大事なことに気づいてくれたみたいで、嬉しいよ」
和真は、できる限りさらりとした声を出してそう答え、部屋のドアを開けた。
「コーヒー入れてくるから、ソファに座って待ってて」
「うん。ありがとう」
素直にそう答える沙樹へ優しい微笑みを向け、和真はドアを閉めてキッチンへ向かった。
恐らくあの鼠は、あのままどこかで死んだんだ。
沙樹は、それを何も知らず、ボタンへ向けていた愛情も裏切られ、やっと僕の元へ戻って来た。
やはり、神は僕の味方だ。全てがこの上なく順調だ。
丁寧にコーヒーを入れながら、和真は深い喜びの笑みを浮かべた。
コーヒーのカップを2つトレイに乗せ、部屋へ戻って来た和真は、目の前の光景に思わず硬直した。
沙樹が、自分の机の上の本やノートを開き、スマホで何かを撮影している。
「……沙樹、何を——」
「やっぱり、あなたね」
振り返ることもなく、沙樹は答えた。
「ボタンがいなくなって、マンション中を探したの。
マンションの前の植栽の陰に、血だらけになってるボタンを見つけた。
その小さな両手に、紙が握られてたわ。
法律用語が書かれたノートの一部と、六法の本の切れ端。
六法の、455ページ。あなたの本の同じページも千切られてるのね。それに、ここにべったりついてる血。ボタンの血よね?
写真、撮らせてもらったから」
小刻みに震える手でトレイをテーブルに置き、和真は高ぶる感情を噛み殺しながら静かに答える。
「——あの鼠が、突然僕の部屋に現れて、僕の物を汚く食いちぎったんだ。怒って何が悪い?
薄汚い鼠ごときが、僕のものを散々汚して、君の心まで盗みやがって。それだけじゃない。君までもが僕を捨てて鼠を選ぶなんて。全部、おかしいじゃないか。間違ってるだろう!?
思い上がった鼠など、叩き潰してやって当然だ。それに沙樹、君のこともだよ。僕以外のものに愛情を注ぐなど、本当はそれだって許し難い。それをこうして何とか大目に見てやってるのに——!」
抑えていたはずの声が、最後には怒鳴り声になる。
そこまで聞いた沙樹は、和真を振り返り静かに微笑んだ。
静けさの奥に
「あなたの本性、全部見せてもらった。
今の会話も録音したわ。
——ボタンが、身をもって私に知らせてくれたのね。あなたは危険だって。
もう、私に二度と近づかないで。
少しでも近づいたら、警察に相談するわ。ストーカーに付き纏われてるって。証拠も揃ってるしね。
あなたも、自分自身の輝かしい人生にストーカー嫌疑なんていう汚い泥を塗りたくないでしょう?
コーヒー、悪いけどいらないわ。
用件はこれで全部済んだ。——さよなら、和真」
蒼白になって立ち尽くす和真をこの上なく冷淡な目で一瞥し、沙樹は静かに部屋を出た。
*
その1週間前の水曜日、夜7時。
帰宅した沙樹は、ケージが空になっている事に気づくと、動揺で思わず声を上げた。
「ボタンがいない——!
大変。母さん、ボタンがケージにいないの!!」
部屋の入り口に立った母親は、沙樹の背へ静かに言葉をかけた。
「ボタンを外に出したのは、私よ」
「え……」
驚いて振り返る娘に、母親は淡く微笑んだ。
「ボタンがね、私に頼んだのよ。出してくれって。
どうしてもやりたいことがあるって。
——それを無視してケージに戻したら、ボタンが生きている意味がないと思ったの。
必ずここに戻ってくるって、約束したわ」
沙樹は母親をじっと見つめてから、小さく微笑み返した。
「——そっか。
母さん、わかった。
私、ボタン探すわ。母さんはゆっくりしてていいからね」
「ううん、私も一緒に探す。
ボタン、絶対に帰ってくるわよ」
母親は、確信を感じさせる目で静かに言った。
家中を探したが、どこにもいない。
沙樹のメッセージを受け取った唯が、昴と一緒にマンションにやって来た。
「私たちも一緒に探す!
絶対見つかるって。ボタンが帰ってこないわけないじゃん!」
不安げな沙樹の肩に手を置き、唯が明るく言った。
「うん——ありがとう」
「じゃ、俺、外探すから」
「わかった。私は別の階行ってみる」
そうして4人で手分けしながらボタンを探し、約2時間後。
マンション前の植栽の中を探していた昴が、血塗れになって繁みの奥に横たわっているボタンを発見した。
昴の掌で運ばれたボタンは、部屋に入ると微かに鼻をヒクヒクと動かした。
「ボタン——!」
沙樹のその声で、彼の目が微かに開いた。
「……沙樹。
ボタン、両手に何か握ってる……」
唯の呟きに、沙樹は初めてそのことに気づき、その小さな指にぎゅっと掴まれた紙を優しく
「————」
くしゃくしゃになったその二切れの紙を開いた沙樹は一瞬大きく青ざめたが、黙ったままその紙を丁寧に伸ばし、机の引き出しにしまった。
「昴くん、ボタンを見つけてくれて、ありがとう」
一つ息を吸い込んだ沙樹は小さくそう呟き、昴の手から静かにボタンの身体を受け取ろうとした。
その瞬間、ボタンは昴の指を両手でぐっと掴み、瞳をしっかり見開いて昴を見つめた。
「———ボタン……」
昴の目に、ぶわりと大きく涙が滲む。
「あなたの仕事を、やり遂げたのね。
おかえりなさい、ボタン」
母が、沙樹の後ろで静かにそう呟いた。
沙樹の掌に移されたボタンは、やっと安心したように満足げに鼻を小さくヒクヒクさせ、そのまま動かなくなった。
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