彼の計画

 壁を伝い、俺は周囲の目を盗むように走る。一刻も早く駐輪場へ到着しなければ。

 自転車の並ぶスペースへ到着した。いくつも並ぶ大きなタイヤの陰を走り抜ける。和真が自転車を停める位置は知っている。

 そう、ここだ。

 まだ彼の自転車は停められてない。どうやら帰宅時間に間に合ったようだ。俺は呼吸を静めながら、隣の自転車の陰で奴の帰りを待った。


 ギッ、と聞き慣れたブレーキの音がして、俺の隠れる場所のすぐ側にあの自転車が止まった。

 あいつだ。

 黒いジーンズに黒いシューズが、駐輪スペースにタイヤをぐいと押し上げる。

 緊張で思わず全身の毛が逆立つ。

 落ち着け。この後少しの間、あいつはスマホをチェックする時間がある。

 予想通り、彼はジーンズのポケットからスマホを取り出し、いつものように画面に向かい指を動かし始めた。じっと画面に意識を集中している空気が伝わってくる。

 今だ。

 俺は隣のタイヤの陰を素早く出て、あいつのタイヤにガッとしがみついた。後は呼吸すら忘れ、掴める場所を素早く確認しながら頭上のカゴに入ったカバン目がけて猛進した。

 それが一瞬だったのか、長かったのかわからない。とにかく俺は無我夢中でカゴをよじ登り、黒いカバンの入り口に手をかけた。

 あいつはいつも大きなトートバッグに重そうな荷物を持ち運んでいる。いつも通り、その入り口は無造作に開いていた。俺は腕に渾身の力を込め、バッグの中に身体を素早く滑り込ませた。

 やがて、和真がスマホをポケットに戻す気配がし、カバンがぐいっと上に持ち上がった。


 恐怖と緊張でまだ心臓がバクバクしている。

 だが——とにかく、計画はここまですこぶる順調に進んでいる。詰め込まれたテキストやファイルの間に身を隠しながら、俺は束の間の喜びを噛み締めた。

 落ち着け。ここからが本番だ。

 次にすべきことは——。

 計画は、最終段階に近づいていた。





 暗いカバンの中で、和真の歩く振動を感じながら息を潜める。

「5階でございます」

 女性の声のアナウンスの後、またしばらく揺れて歩みが止まった。小さな金属音の後にガチャリとドアの開く音がする。自宅の玄関を開けたようだ。

 どさりとカバンの置かれる大きな振動が体に響く。

 奴は一度自分の部屋から出たようだ。ドアの開閉音がし、部屋の外で水の流れる音が聞こえる。

 この隙に俺は素早くカバンを脱出し、目の前に広がる机の上を素早く走った。

 数本転がるペン、パソコン、開かれたままの分厚い本、細かい文字のぎっしり書かれたノート。

 計画第3段階。あいつのものだとはっきりわかる何かを、持ち帰るのだ。俺の手でも掴めるような何かを。

 こいつの文字の書かれたノートは、きっと証拠になる。

 それから、この分厚い本の一部分。

 あまり時間はない。俺は思いついたことを即座に実行する。

 ノートに爪を立て、歯で咥えて引っ張り、力任せに食いちぎった。そして分厚い本の方も、同様に紙の端をビリッと破り取る。

 ちぎり取った紙片を、俺は両手にしっかり握った。

 絶対に、離しちゃダメだ。何があっても、これだけは。

 そうして心の準備を整えたと同時に、ガチャッとドアが開き、あいつが部屋へ戻ってきた。

 机の上の俺を見つけた瞬間、青白く整った顔が凄まじい形相に変わっていく。

「…………お前、ボタン……

 いつの間に……一体何を……」

 そして机上の千切られたノートと書物に目を移した瞬間、彼の怒りに火がついた。

「てめえ、ひとの物を——!」

 あいつは側にあった本棚から大きく分厚い本を咄嗟に引き出し、机に走り寄ると俺に向かって大きく振り上げた。


 計画は最終段階を迎えた。

 ——頭は、できる限り守れ。

 握った紙切れも、絶対に離すな。

 後は、できるだけ派手な傷を敢えてこいつから受けるんだ。

 こいつが、こういうことを平気でする人間だということを、沙樹に知らせるために。


 ガツッという衝撃と強烈な痛みが、背中や脇腹に繰り返される。

「はっ、いい気味だ、この鼠が! 沙樹の心を性懲りもなく盗みやがって!」

 俺を殴りつけるあいつの目は、もはや怒りを通り越して薄笑いすら滲ませている。振り向いて傷を確認する余裕などないが、皮膚や肉が大きく傷ついたことがはっきりとわかる。

 これでいい。充分だ。

 俺は振り下ろされる本を何とか避けた。

 残った力を振り絞り、机から窓枠へと駆け上った。

 天の助けだ。窓は少しだけ開けられていた。その隙間から、俺は外へと脱出する。

「待て、てめえ——」

 部屋の中から、声が追ってくる。

 いくら騒いでも、もう無駄だ。

 俺は窓からベランダへ飛び降り、手すりの隙間から下を見た。真下には、ツツジの植栽が横一列に植わっている。

 絶対に、沙樹の元へ帰る。

 俺は最後の力を両手足に込めて、手すりの間から外へとジャンプした。


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