始動
水曜日がやってきた。
一か八かの大勝負に挑む、この日が。
「じゃ、バイトいってくるね、ボタン」
午後4時少し前、沙樹はいつものようにケージを覗き込み、俺に明るい笑顔を見せた。
いってらっしゃい、沙樹。
俺はいつもと変わらない顔を作って沙樹を見つめ、ヒゲと鼻をピクピクさせて答えた。
「——いい子にしてるんだよ?」
そう言葉を加える沙樹の瞳が、不意に真っ直ぐ俺を見つめる。
俺は内心ギクリとしつつ、「も、もちろん!!」という意思を全身で表現した。沙樹って本当に俺の心を見抜きそうで怖い。
「だよね。いい子で待ってたら、ひまわりの種あげるからねー」
沙樹は小さく笑いながら右手を顔の横でひらっとさせると、ドアを出ていった。
今日はひまわりの種はナシだ。
ごめん、沙樹。
胸がぎゅうっと痛むのを堪え、俺は計画の第1段階を実行に移すチャンスを待った。
第1段階。それはもちろん、このケージから出ることだ。
方法をいろいろ考えたが、自力でこのケージの入り口を開けるのはやはり不可能だ。であれば、どうするか。
苦し紛れに乾燥カボチャをガジガジ齧っていたら、不意に脳内ランプが点灯した。
母親を利用するのだ。
水曜は母親が家におり、そんな日はだいたい夕方に母親が畳んだ洗濯物を沙樹の部屋に運んでくる。そのチャンスを利用し、母親がケージを開けずにいられないアクションを起こすのだ。
午後4時半頃。
カチャリと、静かにドアが開いた。
綺麗に畳まれた沙樹の洗濯物を抱えた母親の姿が入り口に現れた。
緊張で、心臓が早鐘を打ち始める。
ケージのあるカラーボックスの横の衣装箪笥に彼女が歩み寄ったタイミングで、俺は思い切り声を上げた。
「キッ、キッ、キキーッ!!」
「……ボタン!? どうしたの?
いつもこんな声、出さないのに……」
母親は、驚いた様子でケージを覗き込んだ。
俺は渾身の芝居を打つ。気が狂ったように自分の尻尾を追いかけ、ぐるぐるとその場を回転する。ウッドチップを派手に蹴散らかしながら苦しげにもがき、SOSを全身で表現した。
「……大変……!
どうしよう、ボタン……!」
母親は蒼白になり、洗濯物を放り出すと思わずケージの入り口を開けて俺の前に華奢な手を差し入れた。
よし! いいぞ!
俺はそのまま、苦しげに母親の手のひらに移動した。
ケージから手が持ち上がり、母親が俺を顔の前に引き寄せる。不安にざわつく青ざめた表情が俺を見つめた。
お母さん、ごめん!
俺は弱った表情をきっと切り替えると、母親の手のひらを力強く蹴って猛ダッシュした。彼女の袖やスカートの繊維を手足でしっかりと掴みながら、転げるように母親の足元へ着地する。
「あ……ボタン、待って!!」
母親が一層狼狽した声を上げた。心がぎゅっと痛む。振り返っちゃダメだ。俺はそのまま、ベランダへ繋がる大きな窓のサッシへと疾走した。
少しでも、窓に隙間が開いていれば。
そんな微かな願いは呆気なく消えた。部屋の気温が暑くなり過ぎないよう、沙樹が外気をしっかりと遮断してくれているのだろう。サッシはどこもぴたりと閉じられていた。
出口を求めてサッシの下を必死に右往左往する俺の背後に、母親の慌てた足音が近づいた。
ここで捕まっては、計画は失敗に終わる。そして二度と同じチャンスはやってこないだろう。
俺は振り返り、必死の願いを込めて母親を見上げた。
お母さん、出してくれ!
頼む!!
急いで屈み込み俺を捕獲しようと手を伸ばした母親は、俺と目が合うとふと動きを止めた。
「……ボタン。
部屋から、出たいの?」
俺の目をじっと見つめ、母親が静かに問いかける。
うん、出たいんだ。
何が何でも。
沙樹のために。
目と全身にその思いを力一杯込めて、俺は彼女を真っ直ぐに見据えた。
俺を見つめたまま、彼女は何か考えるようにしばらく沈黙して——やがて、ふっと淡く微笑んだ。
「わかったわ」
母親が、静かにサッシを開く。
むわっと熱された外気と、手すりの向こうの夕暮れが目の前に満ちた。
ありがとう、お母さん。
俺は瞳にその思いを一杯に込めて母親を見上げた。
「——必ず、ここに帰ってくるわよね?」
彼女の温かい声と微笑みに、思わず胸が熱くなる。
「キッ、キッ!」
約束する。必ず、ここに帰ってくる。
俺はそう答えると、大きく一つ息を吸い込んでベランダへ躍り出た。
*
ベランダを走り、手すりの隙間から下を見る。
下のコンクリートまで、ただ真っ直ぐに平らな壁が続いている。
ここは二階だ。大して高さはない。
しかし……怖い。
ハムスターは、壁を登るのは得意だが降りるのはめちゃくちゃ苦手だ。俺のいたケージの中は、ハムスターが遊べる階段やロフトのついた二階建てになっていたから、計画を立て始めた頃からひたすら階段を昇り降りして足腰を鍛えたつもりだが……
だが、怖い。ケージの中とは話が違う。
隙間から手を伸ばして壁を注意深く触ると、幸いたくさんの凹凸があり、手足をかける場所には困らないようだ。
ここで怖気付いて部屋へ引き返すことなどできない。俺は後ろ向きに、ベランダの隙間からまずお尻を出し、両腕でベランダの縁をしっかりと掴みながら最初の足場を探した。
いいぞ。ここだ。両足の足場を何とか確保する。
次に、恐怖を押し殺して片腕をベランダから離し、顔の横にある出っ張りを指でしっかり握った。そしてもう一方の腕も、逆側の出っ張りを掴む。
高い壁に張り付いた姿勢になった途端、平地を離れた恐怖感が襲いかかった。思わずぎゅっと目をつぶる。
おい俺、落ち着け。一歩目は成功したんだ。後はひたすら今の作業を繰り返すだけだ。何も考えずにこれを続ければ、当然のように地面に辿り着く。そうだろう?
地面に着くまで絶対に下は見るな。お前ならできる。使命を帯びたハムスターはその辺のハムスターとは違うのだ!!
俺は大きく一つ深呼吸した。すっと気持ちが落ち着く。
やれそうだ。俺はぐっと奥歯に力を入れ、下へと向かう次の一歩に静かに足をかけた。
ひたすら同じ作業を繰り返す、それだけに集中した俺の足が、ふと安定した平らなものに着いた。
はっとして、初めて下を見る。
地面だ。何とか無事に地面に降り立ったようだ。
俺はほぉっと深く息をつき、極限まで緊張していた神経をようやく緩めた。
だが、こうしてはいられない。日の傾き具合から、和真の帰宅時間まであと少しだ。
陽射しは既に陰り、薄い闇が訪れている。これなら住人達にも簡単には気付かれずに動けそうだ。
俺は休む間もなく、壁の縁を選びながら駐輪場へとダッシュした。
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