狂った愛

 和真が前世の俺を殺した恐ろしい記憶が蘇り、それでも何とか沙樹をあの悪魔から守った日の夜。

 俺は一晩中、回し車をガンガン回しながらざわつく思いを必死に整理した。


 あの日は、日差しの強い夏の日だった。

 誰もいない部屋に和真が不意にやってきて、甘い匂いのする黒い何かを俺のケージに入れた。

 あの出来事は、どんな経緯で起こったのか。

 まずはそれを思い出さなければいけない気がした。

 ひたすら手足を動かし、込み上げる不快感を紛らわしながら記憶を呼び起こす。


 ——確か、あの日の一週間くらい前に、沙樹がこの部屋で和真に告げたのだ。「別れたい」と。

 和真は、思い直すよう必死に沙樹を説得したが、彼女の意思は変わらなかった。

「ボタンをあからさまに嫌うあなたの様子を見ているのが、悲しかった。ボタンに対して冷たいのは、私に対して冷たいのと同じことだって、気づいて欲しかった」と、あの日沙樹は悲しそうな目で和真に言ったのだ。

 和真は一瞬顔を強張らせ、そして静かに俺に視線を向けた。

 その眼差しに、俺は思わず凍り付いた。

「——あなたのその目が、怖いの。

 私の気持ちは、もう変わらない」

 和真の表情の変化に気づいた沙樹が、震えるような声でそう呟いた。


 そして、あの日。暑かった陽が沈んだ頃。

 あいつは、呼び鈴に玄関へ出た母親といつも通りの穏やかな声で話をしていた。

「お母さん、済みません。この前沙樹さんの部屋へお邪魔した時に、忘れ物をしてしまったようなんです。どこを探しても見つからないので、ここしかないかなと思って。急ぎで必要なので、少し部屋を探させてもらってもいいですか?」


 沙樹は、その時間は不在だった。それを知っていて、あいつは敢えてそのタイミングを狙ったのだ。

「でも……沙樹は、今アルバイトでいないのよ」

 母親が、細い声でそう答える。

「ですよね。沙樹には僕からメッセージしてあります。彼女にも、部屋を探していいと了解もらってますから」

「……ああ、そうなの……」

 父親が事故で他界してまだ数ヶ月しか経っておらず、精神状態が酷く不安定だった母親は、その言葉を一切疑うことなく和真を沙樹の部屋へ通した。


 そうして——沙樹の部屋へ入ってきたあいつはしっかりとドアを閉め、俺のケージに歩み寄った。

 俺を覗き込んで微笑んだ顔と、低い呟きが、はっきりと脳に蘇る。


「全く、君が初めてだよ。今まで完璧だった僕の人生に、こんなにも屈辱的な傷をつけてくれたのはね。

 沙樹の心は、僕だけのものだ。彼女は、常に僕だけを見ていなければならないんだ。

 なのに……父親が死んだ時、僕にも見せたことのないあんな愛おしい顔で、その薄汚れた身体に頬擦りなんかして……許していい訳がない。彼女のことも、君のこともね。

 それを何とか我慢してやったのに、ここまで来て彼女が選んだのが鼠で、この僕が捨てられた?

 嘘だ。こんなこと、絶対に起こってはいけない事態だ。そうだろう?

 だからね。今日は、起こってはいけないバグを『修正』しに来たんだ。 ——バグってのはもちろん君の存在そのものだよ。

 僕は、沙樹を愛している。誰よりも。だから、沙樹が愛していいのも、僕だけだ。当然の話だろ?

 これ、君にお土産。『チョコレート』って言うんだ。数時間後に強い中毒症状が出るらしい。ってことでカカオ成分高めなのを選んでみたよ……君の口に合うといいけど」


 そうして、あいつの手が何の躊躇いもなくケージに入ってきた。

 警戒している俺から少し離れたウッドチップの上にそれを置くと、やつはすいと手を引っ込め、ケージの入り口が静かに閉じられた。

 危険な敵がケージから出たことを確認してから、俺はウッドチップの上のそれに近づきふんふんと匂いを嗅いだ。

 その途端、堪らなく魅力的な香ばしい匂いが肺から全身を駆け巡った。

 ああ、これは食べなきゃダメだ。ひとかけらも残さず。

「危険だ、やめろ!!」脳の片隅で警報音が鳴る。けれど、身体を支配する強烈な欲求には到底抗えなかった。今思えば、何か中毒的な作用だったに違いない。

 気づいた時には、俺はそれを綺麗に平らげていた。

 やつはそれを最後まで見届けると、楽しげに微笑んだ。


「随分美味しかったようだね、良かった。

 じゃあ、さよなら。ボタンくん」


 すっと踵を返し、彼は何事もなかったように部屋を出た。

「探し物、やっと見つかりました。お母さん、急にお邪魔して済みませんでした」

 満足気な声が、部屋を遠ざかった。


 その深夜、俺はこの世から呆気なく消えた。

 彼の目論見通り。


 あいつは、沙樹から「自由」を完全に奪う気なのだ。心の自由も、体の自由も。

 自分自身から一ミリも離れられないように縛り付け、たった一秒間目を逸らすことすら許さないだろう。

 少しでも納得できない行動をしようものなら、あの悪魔は彼女にどんな仕打ちをするかわからない。

 過去の俺の命が、既にあいつの犠牲になっているのだ。これからだって、あいつなら平気でやるだろう。自分の気違いじみた愛のために、何かを傷つけ、殺すことくらい。

 最悪、その矛先が沙樹自身に向く可能性も——。


 脳内に、雷が落ちたような激しい衝撃が走る。


 もう猶予はない。

 来週、やるしかない。

 来週の水曜日。


 水曜日は、和真が夕方5時半に必ずマンションへ帰ってくる。

 駐輪場に自転車を止め、そこで一旦ズボンのポケットからスマホを取り出して、しばらく画面をチェックしたり、指を動かしたりしている。その姿がケージ越しにいつも見えるのだ。

 画面に向かう作業を終えると、あいつはカバンを肩にかけてエントランスへ向かう。

 毎回必ずこの行動を取っているから、よほどのことがなければ来週も同じ流れになるはずだ。


 その時間は、沙樹はアルバイトで不在だ。母親は水曜はパートが休みらしく、一日家にいる。

 この状況を利用し、何とかしてこのケージから脱出する。

 それから——。


 その先の計画の詳細を、俺は手足と脳をフル回転させて練り始めた。



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