悪魔

 和真は、いつになく柔らかい笑みを浮かべて沙樹の部屋へ入ってきた。

 手には、小さなレジ袋を提げている。


「君が今回の僕の提案を受け入れてくれたこと、本当に嬉しいよ。お母さんもとても喜んでくれていたようだし。こうして人助けができることこそ、医師や弁護士の最上の喜びだからね」


「……ありがとう。

 和真の配慮には、感謝してる」


 ローテーブルを挟んで和真の向かい側に座った沙樹は、和真に丁寧に頭を下げた。

 けれど、それ以上の言葉がどうしても見つからないように、彼女はそのまま小さく俯いた。

 そんな相手の空気など全く感じ取っていないのか、和真はイラつくほどに満足げな笑みを浮かべて続ける。

「でね、今日はもう一つ、大事な目的があってここへ来たんだ。

 君の大切なボタンくんとも、ちゃんと友達になれたらと思ってね」

 そう言いながら、彼は手にしていたレジ袋からひまわりの種の入ったペット用のパッケージを取り出した。


「……え……」


 予想外の彼の言葉に、沙樹は驚いたように和真を見た。

 俺も、人間の声が出るなら思い切り「え……!!!??」と叫びたいところだ。思わずヒゲがビリビリと引き攣る。


「ボタンくんは、君の最愛の家族の一員なんだよな。僕は君の気持ちを全く理解できていなかった。許してくれ。

 ボタンくんを見た僕の眼差しがまるで憎いものを見るようだったと、君はそう言ったろう? 君の言葉に、思わず頭を抱えたよ。あんな風にボタンくんと仲良くできないままだったこと、今は心底後悔してる。

 だから、今日は新しいボタンくんと仕切り直しだ。彼にお土産も買ってきたし。ハムスターってひまわりの種が好物なんだよな?」

「うん、ボタンもひまわりの種大好きだよ、でも……」

 沙樹は、不安げな眼差しで俺を見る。俺もまた和真に強い警戒心を抱いていることを、彼女は気づいているのだろう。

 その眼差しに、俺は「こいつヤダ! 絶対イヤだ!」と全身で答える。

「そっか、じゃあよかった。ね、早速ボタンくんに挨拶したいんだけどな?」

 つくづくこいつは空気を察しない男だ。何とも不快な押しの強さで沙樹にずいっと近づき笑いかける。

 そんな風に要求され、沙樹もそれ以上和真の申し出を強く拒否できないようだ。

「うん……じゃあ、ちょっと待って。

 和真、一つだけお願い。ハムスターは臆病で警戒心が強いから、初めて接する相手に懐くことの方が珍しいくらいなの。だから、ボタンとうまく触れ合えなくても、苛立ったり腹を立てたりはしないで欲しい」

「了解」

 立ち上がった沙樹はケージに歩み寄り、心配そうに俺を覗き込む。

 今ここで俺が駄々をこね続けては、きっと沙樹を困らせてしまうだろう。俺は勇気を振り絞り、「大丈夫だ」という眼差しで沙樹を見つめ返した。

 沙樹はほっとしたように小さく微笑むと、ケージをローテーブルに運び、入り口を開けてそっと手を差し入れた。

 その指先の優しい匂いを吸い込み、俺はもそりと沙樹の掌へ身体を移動させる。いいか、平常心を保つんだ俺!!

「ボタン、この人は、和真っていうの。ボタンと仲良くなりたいんだって。ひまわりの種、受け取ってみる?」

「ボタンくん、よろしくな」

 俺は沙樹の掌で身体を硬くしながら、すぐ間近で俺を覗き込む和真の視線にぐっと耐える。

 沙樹の指に背を撫でられ、少し緊張が緩んだところへ、ひまわりの種を摘んだ和真の指がスッと近づいた。


 こいつの指先の匂いが、鼻から肺へ入り込む。

 その瞬間、俺の記憶がバチバチっと凄まじい火花を上げてスパークした。


 昔、こいつに……同じように何かをケージに差し入れられたことがある。

 それは確か、毒のように甘く香ばしい匂いを放つ、黒い塊。

 その匂いに目眩を催した俺は、気づけばそれを無我夢中で貪り、綺麗に平らげていた。

 その深夜、俺は猛烈な苦しみの中で声もあげられず、そのまま——。


 そうだ。

 前世で、俺はこいつに殺されたんだった。


「キッ、キーーーッ!!!!」


 同時に俺は、悲鳴のような声を上げていた。

 弾かれたように体が動き、沙樹の掌から肩へと死に物狂いで駆け上がった。

 全身の震えが、止めたくても止まらない。


「ボタン!!?

 どうしたの、どこか苦しいの!?」


 俺の様子の変化に、沙樹が蒼白になって肩の俺を掌で守るように包み込む。

 沙樹の服にしがみつき、彼女の匂いを無我夢中で吸い込んで、俺は必死に気持ちを落ち着けようと試みた。

 暴れまくっていた心臓の鼓動が、だんだんと静まっていく。

 しかし、こいつと何とか接触を図ってみようという勇気は、もはや自分のどこを探しても見つけ出すことができない。

 今は、とにかく安全なケージに戻りたい。

 俺は沙樹の手の中で、必死にそう訴えた。


「……クッ、クッ」


「ん、わかった」

 沙樹は俺を両手の掌で優しく包んで持ち上げると、ケージのウッドチップの上へそっと戻してくれた。

 俺は一目散に自分の部屋へ飛び込んだ。後は危険が去るのを震えながら待つ以外にない。


「……ごめん、和真。

 私も、今みたいなボタンの反応、ちょっと初めてで……あんな声、普通は出さないのに。もしかしたらどこか体調が悪いんじゃないかって、少し心配」


 沙樹がそう話す声が聞こえる。


「——仕方ないよな。これまで彼を苦手な対象としか思えなかった人間が急に近づくなんて、やっぱりちょっと無理だったか。

 ボタンくん、驚かせて悪かった。でも、少しずつでも君と近づけたらと、心から思ってるよ。

 沙樹、お詫びにこのひまわりの種だけでも、ボタンくんに渡してくれないか」


「わかった」


 和真は、自分が手にしていたひまわりの種を沙樹に預けたようだ。ケージを開け、餌入れの中に一粒ひまわりの種を置いていく沙樹の指先が見えた。

 あいつの持っていたものなんて、実際近づきたくもない。あの嫌な匂いがプンプンするじゃないか!?

 ああ、細かいことは仕方ない。とりあえず、今はひたすら我慢だ。


「ねえ、沙樹。

 こうして努力を続ければ、いずれボタンくんともきっと仲良くなれると思うし——これでもう、君が僕を拒む理由は何もなくなったんじゃないか?」


 和真が、沙樹にそう囁く声がする。

 男が沙樹へ歩み寄る足音と、微かな衣擦れの音。


 瞼に、二人の姿がありありと浮かぶ。


 ————沙樹が、悪魔に喰われる。


 やめろ!!!


「キッ、キキッ!!!」


 先ほどの恐怖とは違う、猛烈な怒りを込めた声が、俺の喉から迸った。


「——和真、ごめん。

 今日、本当にボタンの様子がおかしいの。ちょっと心配だから……悪いけど、今日はもうこれで帰ってくれないかな」


 凛と芯の通った沙樹の声が、静かに部屋に響いた。


「……わかった。

 じゃ、また来るから」


 先ほどまでのおどおどとした怯えを断ち切ったような彼女の声の強さを、流石に和真も感じ取ったのだろうか。彼はそれ以上食い下がることもなく、部屋を出ていった。


 和真の去ったそのドアが閉まるや否や、沙樹は俺のケージに駆け寄った。


「ボタン!!

 ねえ、どうしたの? 本当に大丈夫なの……!!?」


 瞳をざわざわと波立たせた沙樹が、たまりかねたようにケージに手を差し入れる。

 俺は、先ほどの恐怖も怒りも全て放り出し、その手に走り寄って身体を擦り付け、白い指先をはむはむと夢中で甘噛みした。


「あはは、くすぐったいってボタン!

 ——ねえ。もしかして、私を助けてくれたの?」


 助けたというか。

 とにかく俺が、絶っっ対に嫌だっただけだ。


「そっか。

 ボタン、大好き」


 俺の心の声がちゃんと届いたのかどうかはよくわからないが、沙樹は俺の顔やら背やらに所構わずグリグリと甘い頬擦りを繰り返した。


 何とかしなければ。

 何としてでも、沙樹をあの悪魔から守らなければ。

 彼女から注がれる愛に溶けそうになりながら、俺の脳はいよいよ熱を持って動き始めた。



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