巻きつく鎖
沙樹と母親のそんな会話を聞いた数日後の午後。
唯と昴が部屋へやってきた。
「いや、昴から、沙樹がなんだか元気ないみたいだーって聞いてさ。夏だからってアイス食べ過ぎてお腹壊したとか?」
唯はさらっとした笑みで沙樹にそんな冗談を言う。唯のこういう快活さは、どこか薄暗く沈んだ空気をパッと明るくしてくれる。
「ん、元気ない?……昴くん、この前の私、そんな元気ないように見えた?」
ちょっと困ったような沙樹の微笑に、昴は複雑な顔になって頭を搔く。
「んー……なんとなくだけどさ。でも、あの時の空気は、何かいつもと違ったよなって……時間が経つほど、そんな気がしてきて。
沙樹って、いろんなこと自分だけで抱えちゃうところがあるだろ。俺、高校の頃からずっとそう思ってた」
「もっと俺に頼ってくれたらいいのにって、思ってたのよね」
唯の軽いジャブに、昴はいつものようにボッと赤くなる。
「な……そんなこと一言も言ってねえだろ!!」
「今だって顔にデカデカと書いてあるじゃない」
そんな二人のやりとりを聞きながら、沙樹は楽しそうに笑った。
「あはは、二人がいるといつもどうしても笑っちゃうなあ。
——ありがとう、二人とも。心配してくれて。お茶持ってくるから、そこ座ってて。唯が大好きなハーゲン○ッツも買っといたよ」
「うあ〜〜嬉しい!!」
沙樹が部屋を出て、キッチンへ向かう足音が遠ざかった。
「ボタンー、元気だった〜? 沙樹が来たら、みんなで遊ぼーね」
唯が俺のケージへ歩み寄り、俺を見つめてニッと微笑む。そして、ふと振り返った視界に何か見つけたように、彼女は沙樹の机に近づいた。
「……豊崎総合病院の医療費明細書……昨日の日付の?
沙樹のお母さん、あまり調子良くないのかな……
……ん? 何か小さくメモ書き……『豊崎和真が全額支払済』……?」
そこへ、沙樹が麦茶のグラスとアイスを三つずつトレーに乗せて戻ってきた。
「お待たせー」
「ねえ、沙樹。これ……」
「あ……」
沙樹は、トレーをテーブルに置くと慌てて机に走り寄ったが、どこか諦めたように小さく俯いた。
「ごめん、うっかり見ちゃって……お母さん、あまり調子良くないの?」
「……ううん、状態が悪化したとかではなくて、浮き沈みを繰り返している感じだけど……ちょっと、これまでかかっていた病院を変わることになりそうで……昨日は、その病院の初診だったの」
「沙樹、その明細、俺も見ていい?」
「……うん」
唯の側に寄り、昴も明細の内容を確認する。
「——沙樹。すごく聞きづらいんだけど、はっきり聞くね。
この、『豊崎和真が全額支払済』って、何?」
唯の言葉に、沙樹は微かに肩を揺らしたが、ふっとため息を漏らすと小さく話し出した。
「……和真は、私が去年の夏まで付き合ってた人。このマンションの5階に住んでる、中学時代の同級生よ。
今度母さんがかかる豊崎総合病院は、和真の伯父さんが院長をしてる。昨日行ってみたら、大きくて綺麗で、心療内科の担当医もスタッフも申し分ない病院だった。
今後、母さんが診察を受ける時は、病院専用の車がここまで送迎してくれるの。何日も予約待ちしなくていいし、待ち時間もなく診てもらえる。診察の費用やお薬や、そういうものも全部和真が払うから……って」
「…………」
唯も昴も、しばらく黙ったまま明細を見つめた。
昴が、やっと口を開く。
「——こんなこと、沙樹がその和真って男に頼むわけないよな?」
「そんなことするわけない」
沙樹は苦しげに即答する。
「これまで行っていたクリニックだって、とてもいい病院だった。先生は高齢だけど優しくて、患者の気持ちに深く寄り添ってくれた。本当は病院を変わったりなんかしたくない。でも……」
「……でも?」
唯が、小さく問いかける。
「病院を変われば、母さんの負担が軽くなる。体力的にも、経済的にも」
「……ねえ、沙樹。
あんた自身は、どうなのよ?
その元彼っていう男とあんた、今はどういう関係なの?」
「彼に別れを切り出したのは私だし、今もその気持ちは変わってない。
付き合っていた頃、彼がこの部屋でボタンを見つめた時の目が、怖いくらい冷ややかで……もう1年以上経つのに、今もその目が頭から離れないの。こういう人とは、穏やかな気持ちで一緒に歩いて行くことはできないんじゃないかって、どうしてもそんな気がする。
けど、少し前から彼に復縁を求められてて……母さんの今後のためにも、私が選ぶべきものははっきりしているはずだって、彼からそう言われた」
「沙樹、待って。
そいつの話に黙って頷くつもり? こういう卑怯すぎる根回しを、あんた全部受け入れるつもりなの?
それじゃあんた自身の気持ちはどうなっちゃうのよ? あんた自身の幸せは?」
沙樹は顔を上げ、ぐっと強い眼差しで唯を見据える。
「じゃあ、唯。あなたが私の立場だったらどうする? こうやって嘘みたいにいい条件を並べられて、それを選べば間違いなく全てが今より良くなるとしたら……そんな綺麗事、言ってられる?」
「…………」
しばらく続いた沈黙を破り、昴が沙樹を見つめて小さく呟いた。
「——沙樹。
お前、お母さんのために、自分の人生を捨てるのか?」
「……」
「お母さん、それで本当に喜ぶのか?」
「……私が自分の好きに生きてしまって、母さんがひとりで苦しみを背負う未来だけは、想像したくないの……絶対に」
沙樹は、俯いて小さく肩を震わせた。
堪えきれなくなったように、その頬を涙の筋が細く伝い落ちた。
*
「こんばんは、沙樹」
それから数日経った日の夜。
沙樹の部屋を、あの男が訪れた。
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