策略
8月の半ば。俺が沙樹の家に来て、間もなくひと月だ。
窓ガラス越しに小さく蝉の声が聞こえ、日差しは見ただけで暑さを感じさせるが、俺のケージのある室内はいつも適温ですこぶる快適だ。沙樹がいつも俺向けの室温を気遣ってくれているからだ。
俺が目覚める午後の時間は、沙樹はアルバイトの日以外は机に向かっていることが多い。パソコンを開いていたり、静かに本を開いていたり。そして切りのいい所で立ち上がり、俺に声をかけたり手に乗せて遊んだりしてくれる。沙樹の指からひまわりの種をもらい、彼女の匂いのする柔らかいクッションの上を気ままに散歩する時間は最高に幸せだ。
今日は沙樹のアルバイトの日だ。家の中の静まり方で、彼女が不在なことがはっきりとわかる。
先ほど目を覚ました俺は、いつも通り数分に一度のペースでケージ越しにマンション前の通りを監視していた。マンションの住人の出入りのチェックは、ここ最近の俺の重要な仕事なのだ。
和真という男のことが、とにかく気になって仕方ない。
先日この部屋へ来たあいつと目が合った瞬間の、背筋がざわつく感覚。陽だまりのように温かい昴の気配とは正反対の、全身が硬直するような冷たさだった。そして、あいつがこの前沙樹に残した、思慮深く聞こえながらも残酷極まりない言葉。あれは、大切な相手を想う言葉じゃない。嫌がる相手を自分に縛りつけるための、ただの脅迫だ。
俺たちには、金や能力のことなどわからない。だがその代わり、相手の危険度を瞬時に感じ取るセンサーのようなものが敏感に作動する。あの男は、ダメだ。俺の本能がそう言っている。
沙樹はあの日、和真に「少し考える時間が欲しい」と答えた。深く俯き、掠れるような声で。
このまま、沙樹があいつに抗えないとしたら——彼女の人生は、あの男にあっさりとぶち壊されてしまう。
どうせただのちっぽけなネズミだと思ってるんだろうが、侮るな。
沙樹を、お前になど渡さない。絶対に。
このケージから容易には出られない身の俺ではあるが、あいつに何らかの打撃を加え、沙樹に手を出すなという警告を発したい。あいつがこの部屋へ来るのをただじっと待ってなどいられない。俺が直接あいつと接触できるチャンスを、どうにかして作れないか……。
何ができるかなどわからない。けれど、現状を動かしたいならば、何か策を講じなければ。
そんなことを日々考えながら、ケージ越しに見えるマンション前の通りを見下ろしているうちに、俺はあることに気づいた。
沙樹達の住む部屋は、マンションの2階だ。通りを出入りする人たちの姿はかなりはっきりと見える。そして、背が高く痩身で黒っぽいシャツばかり着る和真は見分けがつきやすい。その姿が、7日おきに一度、必ず決まった時間にマンションへ帰ってくる日があるのだ。俺が目覚めて間もなくの夕刻、絶好の活動タイムだ。
その日時を狙って、何らかのアクションを起こす、というのはどうだろう。自由に行動できるチャンスはかなり限られているが、そこをどうにかして……
沙樹が和真に最悪の答えを出してしまう前に、どうにかして二人の関わりを断ち切りたい。
俺は乾燥キャベツの甘みをひたすら貪り、回し車をむやみやたらに回転させながら策略を考え続けた。
「ただいま」
玄関の開く音と沙樹の声に、はっと我に返る。そういえばもうさっきからずっと回し車に乗りっぱなしだ。
「ボタンただいまー。毎日元気いいね」
部屋へ入ってきた彼女の優しい笑顔が俺を見つめる。
俺は沙樹の笑顔めがけて走り寄った。
「きゅ、きゅっ」
待っててくれ。必ず、君を救うから。
「ん、どうしたの? 何か気合入ってるね。あ、そうだ、砂浴びの砂を換えてあげようね。ほら、さらっさらだよー」
君のその笑顔が見られるならば、どんな時も俺は幸せだ。
俺は沙樹の指先に走り寄り、その甘い匂いを思い切り吸い込んだ。
*
「ねえ、母さん」
その日の夜。
ダイニングテーブルで食事をする沙樹と母親の話し声を、俺はいつものように聞いていた。
「ん、何?」
「あのね……もし母さんだったら、すごいお金持ちで優秀だけどどこか冷たい男性と、平凡だけどすごい優しい男性、どちらを選ぶ?」
「え、どうしたの急に?」
「ん、友達がね、ちょっとそういうことで悩んでるみたいで。母さんだったらどうするかなあって」
会話に少し間が空く。カタリと皿を置く小さな音がした。
やがて、母親の声が続いた。
「……難しいわね。
お金がないせいで関係が悪くなる恋人や夫婦も、ないとは言えないわよね。生きていくには、生活を回せるお金は絶対に必要だし。
けど……お金がなくても、相手が優しい人ならば、お互いに支え合いながら何とか一歩一歩前へ進める気もする。本当に辛い時に、お互いを思い合ったり支え合うことのできない関係が、何より一番寂しく不幸かもしれないと……そんな気もするわ。
人生って、順調な時ばかりじゃないの。長い時間の間には、辛いことや苦しいことも必ず訪れる。だから、何か不幸な出来事が起こった時に、自分自身のことしか見えなくなるような相手は、決して選んではダメ。辛く苦しい時の相手の痛みを深く理解できる優しさを持った人を、私は選びたい……かな。
父さんが、そういう人だったの。自分のことなんか放り出して、私と沙樹の笑顔ばかりを喜ぶ人だった。
幸せな時間も、苦しい時間も、どんな時もお互いの温もりを感じながら歩いていける。それこそ本当の幸せじゃない?」
「……うん。
本当に、そうだね」
「何だか偉そうに喋っちゃって、ちょっと恥ずかしいわ」
「ううん、全然そんなことない。今の話、聞けてよかった」
母親の小さく笑う声と、必死に押し隠そうとしつつも微かに震える沙樹の声が、たまらなく切なかった。
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