ハム友
沙樹の部屋へ来てから、今日で7日目だ。
ハムスターはもともと警戒心が強い。飼い始める時は、ハムスターが新たな環境に慣れるまで1週間程度はそっとしておいてやってください、とペットショップのスタッフが沙樹に説明していた。
まあ、普通はそうなんだろう。普通は。
だが俺の場合は違う。断じて違う。1日たりとも沙樹の顔を見られない日は作りたくない。そんな悠長にしていられるほど寿命は長くないのだ。
が、しかし。前世の記憶のことを相手に知られたら即アウト、と言った転生事務局長の顔がちらつくたび、俺は溢れそうになる想いをぐっと堪えた。
変に世間擦れしたところを見せて、万一沙樹に不審がられたりしたら……こんなところで天界メンバーから約束違反とジャッジされては堪らない。今はまっさら新参者のハムスターという顔をして耐えるべきだ。
それでも、大学から帰宅してちらりと俺の様子を覗いたり、ご飯や水の世話をしてくれる沙樹の笑顔や指先を見るたび、全力疾走してその指にすりすりしたい衝動が突き上げる。
耐えろ、俺。残すは今日1日だ。
全身を掻き毟りたい焦燥を紛らわすべく砂場の砂を掘りまくり、乾燥野菜を手当たり次第ガジガジかじり、とうとう最後の1日が終わった。
「1週間経ったね、ボタン。部屋や私の匂いには慣れてくれた?」
その翌日の夕方。
夜行性な俺がもぞもぞと目を覚ました頃、沙樹はケージに歩み寄って俺を覗き込み、優しく微笑んだ。
綺麗な長い髪が白い頬にさらりと落ちかかる。
ああ、待ちに待ったこの瞬間!! 嫌というほど待った!!!
「きゅきゅきゅっ!!!」
我慢していた感情が一気に弾ける。
思わず声が出てしまった。
「あはは、そんなにここを気に入ってくれたの? 良かった。
私も今日から大学夏休みなんだ。君と一緒にのんびり過ごせるよ」
穏やかな声でそう言い、ケージの外からじっと見つめる彼女の瞳に、前世で出逢ったばかりの頃と同じような輝きが少しだけ戻ったような——そんな気がした。
嬉しさに、胸が熱くなる。
気づけば俺は立ち上がり、沙樹に向かって思い切り身体と両手を伸ばしていた。
「嬉しいの? 君みたいにすぐに懐いてくれる子、すごく珍しいね。
本当にボタンがいた昔に戻ったみたい。
手、入れても大丈夫?」
沙樹がケージを開け、そっと手を差し入れてくれる。
恐る恐る、俺は震える前足をその人差し指にかけ、ふんふんと匂いを嗅いだ。
息が詰まるほどの幸せが身体を駆け巡る。
ああ、もう無理。我慢無理。
思わずはむっと柔らかい甘噛みが出る。
指先の小さな刺激に、ふふっと心地よさげな笑みが綺麗な唇から零れた。
好きだ。君が好きだ。
俺は白く温かい掌に登り、その優しい窪みにすっぽりと身体を添わせた。
静かに俺の背を撫でてくれる沙樹の指が、信じられないほどに甘く心地よかった。
*
その数日後、唯が沙樹の部屋へ遊びに来た。
今日は、また違う匂いの人間が一緒だ。……確か、昔も何度か嗅いだことがある匂い。
「
「新しいハムくんのこと話したら、昴も会いに来たいって言うからさー、ハムくんに。ね、昴?」
「あー、まあな。……久しぶり、沙樹」
その男子は、ちょっと照れたように沙樹を見て、もそっと不明瞭な挨拶をした。
そうだった。こいつも時々唯と一緒にこの部屋に来ていたヤツだったっけ。身体でかいし一見無愛想だけど、おやつのひまわりの種を俺に差し出してくれる時の表情はふわりと優しい空気を漂わせていた。大きくてゴツい指をぬっと差し出されると一瞬怖いのだが、こいつの掌は大丈夫、という直感みたいなものが働いたことを思い出した。
「ハムくん、ここの環境にはもう慣れたー? 沙樹、名前はなんて決めたの?」
「ん、ボタン」
「え、前の子と全く同じ!?」
「だって、あんまりいろいろ似てるから、どうしてもそう呼びたくなっちゃうんだよね……ボタンも気に入ってくれたし。ね、ボタン?」
沙樹にそう話しかけられ、俺は瞳に「異存なし」という意思を精一杯込めて唯と昴を見た。
「……そっか、本当に気に入ったみたいだね。ガンガン気持ちが伝わってくるよ、この子の瞳」
「…………可愛いな、お前。ほんと、ボタンそっくりだ」
昴も、俺をじっと見つめて小さく呟いた。
「ひまわりの種、あげてみる? ボタン、おいで」
沙樹がケージに手を入れ、俺の名をそっと呼んだ。
空気におかしな匂いが混じっていないか立ち上がってふんふんとかいでから、俺は彼女の掌に両手をかける。
ふわりと持ち上げられ、もぞもぞと彼女の掌の上によじ登った。
「あーー、待ってほんと、お尻がぷらーんって一瞬ぶら下がってからもふもふって一生懸命登ってる! きゃーん、キュートが過ぎる!!」
唯は昔から俺の尻で興奮する。尻でキャーキャー言われるとかどうなんだとは思いつつ、愛でられていることがダイレクトに伝わるその空気は俺も結局嫌いじゃない。
沙樹の手の上で、唯に差し出されたひまわりの種を両手で受け取る。はー、香ばしい匂い。食べ過ぎると太ってしまう高カロリーな食品だが、そういうのこそ美味いんだから仕方ない。
美味しいおやつの魅力には何ものも敵わない。沙樹の手の上で夢中になって皮をかじり開け、甘い中身を頬張った。
「……はあ、ボタンの無防備なもふもふのお尻、ぽちっとちっちゃなしっぽがふるふるしてる……可愛い、死ぬ、はあ」
いや死ぬな。
「掌に乗せてみる?」
「んー、まだ飼い始めたばっかだし、私は今日はやめとこっかな。ボタンのストレスになっちゃまずいから……めっちゃ残念だけど」
「もう少ししたら、俺の手の上でも遊んでくれるかな」
昴もテレっと溶けた微笑みで俺を見つめ、ぽつっと言った。
「うん、きっとね。この子もすっごく人懐こくて優しいから。
……にしても、二人とも好きだよね。ハムスター」
「好きだね」
「好きだな」
唯と昴の声がシンクロする。
「ふふっ」
そんな様子に、沙樹は嬉しそうに微笑んだ。
彼女の笑顔を、昴が温かい眼差しで見つめて言った。
「——沙樹、思ったより元気で、ほっとした。
高2の冬にお父さん、その翌年の夏にボタン、立て続けに大切な家族を失って、あの頃の沙樹の様子が本当に心配だったから……なのに、大学受験やいろいろで、何一つしてやれなくて。……ごめん。
今週から俺の大学も夏休み入ったし、またボタンに会いに来てもいいか? 唯と」
「あら、何で私の名前付け足したのかなー? 私抜きでもいいのよ〜全然」
「ばっ、おま、やめろそういう冗談……」
「何照れてんのよ。昴は沙樹と家も近いんだし幼馴染みたいなもんでしょー?
あ、でも、こうやってどかどかお邪魔したりして大丈夫? お母さんの体調は、最近どう?」
「うん、薬が合ってるみたいで最近安定しててね。今日もパート行ってるの。このまま波がなければいいんだけど……。
——あっ、ごめん! ボタンに夢中で二人にお茶も出してなかったね。今持ってくるね」
俺を優しくケージに戻し、沙樹は明るい表情で立ち上がった。
その夜。
自室の机で着信音の鳴ったスマホの画面を確認し、沙樹はどこか思い詰めたように俺に話しかけた。
「——ボタン。彼、明日来るって。
もう、逃げてちゃダメだね」
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