波立つ瞳
その翌日の夕方。
呼び鈴の音に、沙樹はぎくりと小さく肩を強張らせた。
しかし、そのすぐ後に彼女は大きく息を吸い込み、背筋をスッと伸ばした。
「ちゃんとするからね、ボタン。
応援してて」
彼女は俺に眼差しを向け、にっこりと微笑んだ。
沙樹が部屋を出て、玄関のドアを開ける音がする。
「久しぶり、沙樹」
低く艶のある声が耳に届いた。
この声。匂い。
これも——記憶に残っている。
やがて、沙樹の後からすらりと背の高い男が部屋に入ってきた。
どこか青白く、綺麗な顔をした男だ。
その視線が、すっと俺を見た。
一瞬、背筋がざわりと寒くなる感覚が走る。
——嫌だ。
思い出したくない。
彼も、俺を認識した瞬間ぐっと視線を固くしたが、すぐに表面的な笑みを作った。
「え——このハムスター、まだ生きてるの?」
「違う子よ。最近飼い始めたばかり。前の子はあなたと別れたすぐ後に急死した」
彼女は小さく俯いたまま、無表情にそう答える。
「お茶持ってくるから、そこのクッションに座って」
「ああ、お茶とかは別にいいよ。
それより——」
「……」
微かに戸惑うように髪を耳にかける仕草をして、沙樹はローテーブルの彼の向かい側のクッションへ座った。
ふうっと、小さなため息が漏れる。
「ごめん、
何度復縁を求められても、答えは変わらない。
あなたとは、もう付き合う気はないの」
「……僕が、こんなに君を想っていても?」
「…………」
「沙樹。
理由を、ちゃんと聞かせて欲しい。納得のいく理由を」
沙樹は、和真という男をまっすぐ見つめる。
そして、ゆっくりと俺の方へ視線を向けた。
「和真、昔、私の部屋に来た時に、ボタンのことすごい嫌そうな目で見たよね。
それに気づいたから——それが辛くてたまらなくなったから、もう関係を続けられないと思った。
短かったけど、あなたと付き合ってた間は楽しかった。
でも、私の大切な家族のことを憎むような目で見られるのは、耐えられなかったの」
「それは前にも聞いた。その理由が、納得できないって言ってるんだ。
僕が動物を苦手なことが、僕を受け入れられない理由なのか?
動物の好みなんて合わなくても、うまく付き合っていくカップルなんていくらでもいるだろう。恋人と好みが合わなければ、普通はペットを飼うことくらい諦めるものじゃないのか?
君は、ペットと人間の心と、どっちが大切なんだ!?」
その言葉に、沙樹は強い視線をぐっと和真に向けた。
「——じゃあ、はっきり言うね。今までずっと言わずにいたけど。
父が他界したすぐ後、あなたが私の部屋に来てくれたことがあったでしょう?
私は泣きながらボタンを手の中に包んで座り込んでた。
ボタンは、あの時の私の悲しみを誰よりも傍で癒してくれる存在だった。
なのに——部屋に入ってきた瞬間、あなたは何か憎い敵でも見るような冷たい目で、ボタンをじっと見つめたのよ。
私には、その目が理解できなかった。どうやっても、あの視線を忘れることができなかった。
あなたのその他の部分を好きだったとしても、ボタンを見るあなたの冷ややかな目をどうしても受け入れることができなかった。——そういうことなの」
和真は、何かを見抜かれでもしたように、青ざめた顔でしばらく黙り込んだ。
だが、やがて感情を切り替えたようにすっと顔を上げ、小さく呟いた。
「————
お父さんを失って、お母さんの体調も思わしくなくて。
君の寂しさは、どれほどだろうと思う。
けれど……こんな状況にいて、君はこれから先のことが、不安じゃないのか?」
「……それ、どういう意味」
「君の大学の費用や、大学卒業後のお母さんのことや、そういうことについてだよ」
「…………だから、国立の大学を選んだし、奨学金で勉強してるし、バイトだって……」
「うん。君の努力はよくわかる。
けれど、それだけで解決できる問題か?
お母さんの精神状態は、君なしではこの先一人でやっていけるようには思えない。君はこれから先ずっと、この家とお母さんに縛りつけられるつもりなのか?」
「——……」
「僕の伯父は、総合病院を経営している。それは知ってるよね。
僕の父は、外資系法律事務所の弁護士だ。僕も将来的には同じ事務所へ所属する。そこで実績を上げれば、収入的には一般のサラリーマンの倍以上の年収は確実だ。
そのためにこれまでずっと勉強してきたし、このまま順調に行けば、大学在学中に間違いなく司法試験予備試験に合格できる。
君がこの先、僕の傍にいてくれるなら、今後の君の不安を全て解決できる。経済的にも、お母さんの医療的な支えも、僕が保証する」
「…………
あなたのことは、尊敬してる。雲の上の人だなあって。中学時代によく勉強を教わった同じマンションのクラスメイトがこんなにもすごい人だなんて、思わなかったから。うちの中学からたった一人都内トップの高校受かった時は、大騒ぎだったよね。
優秀でイケメンなあなたは一躍有名人になっちゃって、高校行くのにたまたま駅まで一緒に歩くだけで、女子の目が怖いくらいだったよ。
だから、高2の時にあなたから告白された時には、本当に驚いたし、嬉しかった。こんな人がなんで私を選んでくれたのか、信じられなかった。
雲の上の大学に合格して、目標の弁護士に手が届きかけてることも、すごいと思う。
でも——」
「だからだよ。目標がはっきりと現実に近づいた今だから、君にもう一度考えて欲しいんだ。僕の隣に戻ることを。
今の君を救えるのは、きっと僕だけだ。将来の見通しが立たないことほど不安で心細いことはないだろう?
僕は、誰よりも強力な君の支えになれる。
今の話を、もう一度よく考えてみて欲しい。——聡明な君なら、気付くはずだ。お母さんのためにも、君が何を選ぶべきか」
「…………」
沙樹の表情が次第に曇り、瞳がざわざわと暗く波立つ。
「ああ、こんな重い話するつもり、なかったんだけどね。ごめん。
——また、連絡してもいい?」
「……」
膝に拳をぐっと握り、沙樹は唇を噛んで俯いた。
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