覚醒
その声で、俺は目を覚ました。
いや、記憶が覚醒した、というのだろうか。
「——ボタン!?」
そう呼びかける、懐かしい声。
大きく見開いた俺の目に、はっきりと彼女の顔が映った。
スイッチの入った脳が、一気に動作を開始する。
——
俺は両脇でもぞもぞしてる仲間を思わず押しのけ、ペットショップのケージに手をついて立ち上がった。
視線が真っ直ぐに結び合う。
「え、どうしたの沙樹? ボタンって、一年前に死んじゃった子でしょ?」
「あ……ごめん。この子の模様があんまりボタンと似てたから……」
沙樹は友達と一緒に店に来ているようだ。彼女の横で、昔よく聞いた女子の声がする。
その子もケージに近づいてきて俺を見つめた。
「……あー、ほんとだ! 額にボタンマークがある!」
「
「そうそう。高校入学したての私たちを繋いでくれたのがボタンくんだったからねえ。飼い始めたばっかのハムスターがいるんだよって、沙樹が満面の笑みで話しかけてくれて。
まだまだ元気だったのに、2年と少しで急に天国行っちゃって……あの時は、悲しかった」
「…………うん」
そうだった。俺は前世で「ボタン」と呼ばれていた。
「額の濃いブラウンの丸い模様がボタンみたいだから、ボタン。よろしくね」彼女はそう言って俺の名を決め、優しく微笑んだのだった。
どうやら俺は今回も前世と同じ模様を額につけているようだ。
そして、俺の死後から下界では一年ほど時間が経過しているらしかった。
沙樹はケージに顔を寄せ、俺をじっと見つめた。
「——私、この子にする」
「うん、いいんじゃない? むくむくまるくて健康そうだし、目がキラキラしてるし。なんか雰囲気もボタンくんに似てるね」
「やっぱりそう思う?
スタッフさん、すみません。この子をお願いします」
唯の言葉が嬉しかったのか、沙樹は柔らかく微笑んでから店員に声をかけた。
*
「私、今日はこれで帰るね。大学の夏休み前の課題が結構あってさー。大学ってのんびり自由だとばっかり思ってたからびっくりした。大学別々になってから、沙樹にもなかなか会えなくてほんと寂しいよ」
「だよね。でもこれから夏休み始まるし、また時々会えるよね?」
「うん、ちょいちょいお邪魔する! 新しいハムくんにも会いたいし……あー、沙樹が迷惑じゃなければね」
「あはは、迷惑なわけないじゃん」
マンションの前で楽しげに笑って唯と別れた沙樹は、自室に入ると準備してあったケージに俺をそっと入れた。
ああ、懐かしいケージだ。この淡いブルーの透明な壁も、青い回し車も。柔らかなウッドチップの清潔感が手足に心地よい。
そして、彼女の優しい匂いに満たされたこの部屋に再びいることが、まさに奇跡のようだ。
「ねえ。君を『ボタン』って呼んでいい?
だって、本当に似てるから。……前に飼ってた子と同じ名前じゃ、嫌?」
俺を優しく見つめながら、彼女がそう呟く。
こうして君の側にいられるだけで、俺は幸せだ。名前なんて、君がつけてくれるならなんだっていい。それにボタンは元々俺の名だったんだし。
彼女を見つめ返し、俺は精一杯の意思表示をする。
「名前、気に入ってくれたみたいだね。良かった」
俺の思いが届いたようだ。彼女は嬉しそうにそう言うと、昔と変わらぬ綺麗な笑みを浮かべた。
「——父さんがいたら、きっと喜んでくれたのにな」
彼女の眼差しが、ふっと陰った。
俺は、彼女の父親を知っている。
前世で初めてこの家に来た日、ケージを覗き込んで、「これからよろしくな、ボタン!」と明るく笑っていた、あの人だ。
時々ケージをひょいとのぞいては、「うん、元気そうだ」と優しく微笑んでくれた。
俺が2歳になる少し前の冬、彼の気配が急にこの家から消えた。
その日から何日も、沙樹と母親は俯いてただ涙を流し続けた。
「……父さんが、事故に遭うなんて……
神様は酷いね、ボタン……」
泣きながら、彼女は俺をそっと掌で包み、そう呟いた。
彼は、突然の不運により、天界へ引き戻されてしまったのだ。
自分も天界を経験して、今はありありとその悲しみが理解できる。
大切な人と離れ離れにならなければならなかった、家族の悲しみを。
前世の記憶が、次々と呼び起こされる。
あの日から、沙樹は、変わってしまったのだ。
明るく輝いていた瞳から光が消え、以前のように大きな声で弾けるように笑うことはなくなった。
そして、彼女の母も、少しずつ変わっていくのがわかった。
ケージの中の俺をチラリと見ても、笑いかけることはなくなった。
「沙樹。ボタンの車を回す音が夜中うるさくて、眠れないの。
何とかならない?」
ある日、ダイニングテーブルで肘をつき、額を覆うようにした母親の憂鬱そうな視線が、沙樹と俺を見た。
「————ごめんなさい。
ケージ、自分の部屋へ持っていくから」
俺の入ったケージを身体で覆うようにして庇う沙樹の表情は、強い痛みをこらえるようにぐちゃりと歪んでいた。
沙樹の悲しみと痛みが、全部、俺に伝わる。
俺を包んでくれる掌が、震えているのがわかる。
どうしたらいいのかわからないまま、俺はいつも彼女の華奢な指を両腕で力一杯抱き締めた。
「——ありがとう、ボタン。
優しいね。
柔らかくて、あったかい」
その度に、彼女は俺を優しく持ち上げ、濡れている頬のまま俺の額や背に何度も頬擦りした。
こんな時間を経て、俺は誓ったのだ。
生きている限り、全力で彼女を守る。
彼女を笑顔にする、と。
「今日あのペットショップで君に会えて、本当に嬉しいよ。
またハムスターを飼うこと、母さんにやっと許可もらったの。
父さんがいなくなってから、母さん、少しずつ心の病気が始まっちゃってね。通院や薬のおかげでだいぶ落ち着いて、最近パートの仕事も再開したけど、ちょっと不安定なことも多いんだ。
あ、心配しないで。君は、ずっと私の部屋で飼うからね。
これからよろしく、ボタン。思い切り楽しく過ごそうね」
昏い瞳の色をすっと元へ戻し、沙樹は気持ちを切り替えるように明るく微笑んだ。
久しぶりに再会した沙樹は、あの頃に比べると少し大人びて、表情も穏やかに見える。
それでも、今俺の目の前でふっと陰ったその瞳には、あの頃と全く変わらない孤独や寂しさが一杯に湛えられていた。
沙樹を守れるのは、俺だけだ。
清々しいウッドチップの匂いをぎゅうっと肺に吸い込み、俺は胸の底から新たな力を湧き立たせていた。
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