1431年 ルーアン

 “フランスの魔女”がルーアンに移送されたのは、12月23日のことである。オルレアンの囲みを解き、王太子の戴冠式を実現させ、ほとんど一夜にしてヨーロッパの歴史を変えてしまった“魔女”は、しかし、これといった特徴のない、丸顔の田舎くさい娘としか見えなかった。不美人ではない。しかし、神がかりの女ともなれば、いっそ強烈に人目を引くような醜女ででもあったほうが、あるいはそれらしい雰囲気を纏うものではないか。

 審問官、ジャン・ド・ラ・フォンテーヌの“魔女”に対する第一印象は、おおよそこのようなものだった。彼は職業柄、これまでにも女預言者の類を見てきている。それらと比べると、この“フランスの魔女”は明らかに異質だった。まず、彼の知っている神がかりの女たちのような、ヒステリックな狂乱がこの娘にはない。無学な田舎娘であれば、さほど洗練されたレトリックを用いるわけではないが、しかし、その言葉はいかにも理知的で、筋道だっていた。


 この裁判の結論がどのようなものになるかは、すでに誰もが知っている。ブルゴーニュ派に囚われていた“魔女”を、イングランドが身代金を支払ってその身柄を引き取ったときに、この娘の運命は決まったのだ。

 彼女の力でフランス国王となったシャルルがこの娘を救うために動いた形跡がないのは、フランスもまたこの“魔女”を持て余していた、ということなのだろうか。先だって、この娘は貴族に列せられている。奇跡をもたらした神の使いが、爵位を持った騎士として王宮に仕えるとあっては、廷臣たちの娘への感情もまた、微妙なものになったであろう。


 何にせよ、あの娘はルーアンで死ぬ。


 ラ・フォンテーヌはそのことをよく知っている。なんとなれば、この裁判を指揮しているのは、ボーヴェ司教、ピエール・コーションなのだ。コーション司教こそは、あのトロワ条約の立役者である。王太子シャルルの王位継承権を否定し、イングランド国王ヘンリー6世をフランス王国を継ぐものとし、ブルゴーニュ派をも組み込んだ英仏二重王国を樹立するというあの壮大無比な構想。トロワ条約は、コーションの政治生命を賭した作品である。それを粉砕したのが、誰であろう、ジャンヌ・ラ・ピューセル乙女・ジャンヌと名乗るあの“フランスの魔女”なのだ。

 シャルル王太子のランス大聖堂での戴冠式を、誰よりも忌々しく思っていたのがコーションであれば、その彼が、“魔女”を掌中に収めて生かしておくはずがない。コーションは必ず、あの娘を殺すだろう。


 とはいえ、コーション司教の思惑がどうであれ、裁判は裁判として正当な手続きを踏まなければならない。異端審問は、審問官が主観で異端だと言えば被告が異端とみなされる、というようなものではない。無論、異端審問の始まったごく初期の頃にはそういう逸脱もあったであろうし、現に今行われているように、政治的な要因に判決が影響されることもある。それでも、裁判は裁判なのだ。結論が決まっていればこそ、尚のこと“魔女”が異端であるという確固たる、客観的な証拠を、なんとしても揃えなければならない。

 ラ・フォンテーヌには、当初この仕事は容易いものに思われた。神の使いを自称する乙女の、異端であるとか悪魔崇拝者であるとかいう何らかの証拠を見つければ良いだけなのだ。

 ところが、この“魔女”に関する限り、そのような証拠はどこにも見当たらなかった。


 故郷のドンレミで聞き取り調査を行ったが、ジャネットと呼ばれていた娘の不品行の証言も、不信仰の証言も得られない。平凡で慎ましい、信心深い娘。それ以上のどういう情報も見出せない。

 処女検査も行われたが、娘の潔癖を証明したに過ぎない。そして、“魔女”の尋問に対する答えは、いずれも非の打ちどころのないものであった。


 「自分が神の恵みを受けていると思うか」


――もし私が神の恵みを受けているのであれば、神が私をそのままにしてくださいますように。そうでないなら、恵みを与えてくださいますように。けれども、全ては、御心のままに。


 完璧な受け答えである。「私は神の恵みを受けている」と答えれば、あるいは涜神の証拠になったかもしれない。神の真意を人間に理解することなどできるはずがないのに、それを理解していると主張するのは不遜だからだ。しかし、全てを神に委ねる娘の言葉は、彼女の信仰の深さを示すものに他ならない。


 ラ・フォンテーヌは、次第に不安になっていた。この“魔女”は、あるいは本物なのではないか。正真正銘の見神者なのではないか。もし、あの娘が本当に神の使いであるなら、あの娘を殺すことは取り返しのつかない過ちとなる。

 ラ・フォンテーヌは、女預言者の類を見慣れている。異端として処刑された者もいれば、本物と認められた者もいる。しかし、ラ・フォンテーヌ自身は、内心ではあれらはみな、狂人の一種なのであろうという程度にしか思っていない。パリ大学きっての秀才であったこの若き審問官にしてみれば、ろくに文字も読めない女たちが神の声を聞くなどという話には、今ひとつ現実味を覚えなかったのである。

 “フランスの魔女”は違った。

 ラ・フォンテーヌは初めて、これは本物かもしれないと思った。本物かもしれないと思っている、その自分が恐ろしかった。


 「悩んでいるのかね?」

 背中から低い声が聞こえた。ボーヴェ司教、コーションである。振り返ったラ・フォンテーヌの額には、脂汗が滲んでいた。

 「…迷っております」

 「何を」

 コーションの無機質な目は、一体どこを見ているのかよくわからない。ラ・フォンテーヌは、コーションと話しているとき、まるで大理石像と話しているような気になるが、こんな醜い大理石像も無いであろう。

 「あの娘が、本物なのではないかと」

 「なんだ、そんなことか」

 コーションは乾いた笑いを浮かべた。ぞっとするような、怖ろしい笑いだった。あらゆる感情を喪った人間の笑いは、あるいはこういうものになるのではないか。 

 「あれは本物だよ。本物に決まっている」


 冷たい沈黙が、場を包んだ。ラ・フォンテーヌは、しばらくの間、司教の言葉を理解できなかった。理解して、コーションの顔を凝視したが、相変わらずコーションは感情の伴わない微笑を浮かべている。

 「ラ・フォンテーヌ、君はあの娘が嘘をついているように見えるか」

 「…見えません」

 「そうであろう。あれは人をだませるような人間ではない。私とて聖職者の端くれだ。そのくらいのことは、あれの目を見ればわかる。そもそも、嘘をついて富や名誉を得ようというなら、何も神の使者を名乗る者が自ら剣を取って戦場に立つ必要がない。そんな危険を犯す詐欺師など聞いたことがない。…では、嘘つきでないとすれば、あれは狂人か。あの娘は気が狂っているのだろうか」

 「……そのようにも見えません」

 「そうだろう。あんな理にかなった受け答えのできる狂人などあるわけがない」

 コーションの声はどこまでも淡々としていて、その抑揚のなさがラ・フォンテーヌを怯えさせた。

 「いや、そんなことを考える必要さえない。あの娘のやったことを見れば、あれをただの人間だと考える方がどうかしている」

 あの娘は、ドンレミの田舎から王太子のいるシノンまで、夜盗にも敵軍にも襲われることなく辿り着いた。彼女を試そうとした王太子は、廷臣達のなかに混じって身を隠したが、あの娘は迷わずに王太子の前に進み出て跪いた。そして何より、剣の持ち方も知らなかったはずの百姓の娘が、たった2日でオルレアンを解放したのだ。王太子シャルルはフランス国王、シャルル7世となった。ヨーロッパ世界の力関係が決定的に塗り替えられてしまった。

 「それでは、司教は、あの娘をどうなさるおつもりなのですか?」

 ラ・フォンテーヌの声は震えていた。ラ・フォンテーヌは、自分が何に怯えているのか、よくわからないでいた。あの娘の力が本物なのであれば、我々はあの娘をすぐにでも解放しなければならない。しかし……

 「わからないのか、ラ・フォンテーヌ。あの娘は本物だ。正真正銘の見神者だ。だからこそ、我々はあれを殺さなければならんのだ」

 稲妻に打たれたような衝撃が、ラ・フォンテーヌを襲う。彼の心は、激しい怒りと、嫌悪感で満たされた。彼はコーションを、憎悪を込めて睨みつけたが、司教は少しも動じない。

 「あの娘は神の声を聞く。嘘であるとは思えぬ。悪魔に惑わされているとも考えられぬ。それならば、ドンレミの百姓娘に神が語りかけると言うならば、我々は何のために存在しているのだ?教会は、カトリックは何のために在るのだ?」

 カトリック教会は、一般の信徒に聖書を読ませない。聖書を読み、解釈し、信徒に教えるのは選ばれた聖職者の役目だからだ。地上の教会は、そのようにしてヨーロッパの秩序を維持してきたのだ。文字も読めない娘に神が語りかけるとなれば、カトリックの権威は致命的に損なわれる。ラ・フォンテーヌがこれまで学んできたことの価値は否定される。

 「あなたは神に仕えているのか?それとも教会に仕えているのか?」

 コーションは、教会の権威を守るために、神の声を聴くものを殺すと言うのであれば、それこそ、教会とは何のためにあるものかと問わねばなるまい。

 「それは愚問だよ、ラ・フォンテーヌ。君も分かっているはずだ、神と教会は、同じものなのだ」

 「…まるでパリサイ人だな」

 ラ・フォンテーヌは吐き捨てるように言った。

 「違う」

 「どう違うのだ?」

 「ユダヤの国は滅びた。エルサレムの神殿は滅びた。しかし、キリストの教えは生きている。カトリックは生きている。すでに1000年以上、生きているのだ。この先の1000年も、カトリックは滅びぬ。滅ぼさせぬ。カトリックを1000年後にも2000年後にも残すために、私は私のなすべきことをする」

 若き審問官は、思わず息を呑む。初めて、このボーヴェ司教の感情らしきものを見た気がした。きっと、これが、コーションの信仰なのだ。

 正義であるとは思わない。しかし、一人の娘のために教会の権威を損ない、ヨーロッパを支えている秩序を揺るがすことが正しいのだろうか。カトリックは宗教組織であると同時に政治機構である。1人を殺して、1,000人を救う選択を迫るのが政治である。宗教と政治が高次元で融合したところに、コーションの信仰は成立している。



 ラ・フォンテーヌはルーアンを去った。神の使いかもしれない娘を殺害することに、やはりどうしても加担する気にはならなかったからだ。コーションも強いて止めなかった。

 “フランスの魔女”は、処刑された。コーションが彼女を追い詰めたそのやり口は、身の毛のよだつほどに卑劣で、法的にも明らかな不正に満ちたものであったが、それでもラ・フォンテーヌは、コーションを非難する気になれなかった。

 あの娘が死んだことに、それも、自分が直接手をかけることなく死んでくれたことに、安堵している自分をラ・フォンテーヌは知っている。自分は一体、何を信じていたのであったか。

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