2.(新)

 翼の予想通り、チャハヤは当時王立学院の学生で北洋の科学技術や医療などについて学んでいた。

 チャハヤはよくヴェリ人の文化などについて翼に教えてくれ、北洋のことについても好奇心旺盛でよく質問してきた。翼はぐいぐい来る彼女のペースに圧倒されていたが、奴隷だった頃と比べればこうして誰かと普通にお喋りをするだけでも楽しかった。チャハヤはヴェリ人ではあったが、翼にとってはこの世界に来て初めてできた同い年の女の子の友達だったのだ。


 ある日の昼下がり、翼はチャハヤに連れられストリートカフェにやってきた。その店は店で買ったコーヒーを店の外に並べられた椅子やテーブル席で飲む、という東南アジアではよく見かけるもので、二人はそこで一緒に勉強していた。

 一時間ほど経った頃だった。二人が談笑していると、カフェの店主の男がなぜか店から出てきて、チャハヤに話しかけて来た。彼は申し訳ないような、苛立っているような微妙な表情だった。

「お嬢ちゃん、すまないけどそろそろ帰ってくれる?」

 彼はできるだけ翼から目を背けて、チャハヤだけを見ていた。

 ――混んできたのかしら。

 チャハヤはキョロキョロと辺りを見回したが、周囲のテーブル席はまばらに人がいる程度だった。しかし彼女はほどなくして、向こう側のテーブルに座っているヴェリ人たちの若い男たちがこちらを睨んでいるのに気づいた。

「これから夕方どきになって、仕事帰りの人がいっぱい来るから――」

?」

 チャハヤは言葉を濁さずはっきりと言った。すると男は悪びれもせず、すまし顔で答えた。

「うちとしても稼ぎ時なんで、華奴ブダカンに居座られると困るんだよね。商売の邪魔はしないでいただきたい」

 すると彼の声が聞こえていたのか、向こうの方に座っていたヴェリ人の男たちがこちらを見てせせら笑った。

 ――この店も「北洋人立ち入り禁止」だったか。

 翼は昔差別された体験を思い出して暗澹とした気持ちになり、何も言えなくなってしまった。しかしチャハヤは怒って、翼の胸元にかけられた木製の札を見せた。

「彼女は奴隷じゃないわ! これを見て!」

 それは隔区の外にいる隔区民が持たされる外出許可証で、通訳が身に着けているものだった。隔区民以外の北洋人はヴァナヤラ市内では基本的に手足に鎖や枷につけて歩くことを義務付けられており、何も持たずに普通に外を出歩くと最悪それだけで殺されることもあった。

 ――ここなら人も少ないから大丈夫だと思ったのに。

 チャハヤは正当な理由をもって店主の男に抗議した。

「彼女は私の友達で、私に英語を教えてくれてるのよ! それに彼女はあなたたちと話すわけじゃない。私が自分の友達と一緒にコーヒーを飲んでお喋りするぐらいいいでしょ?」

 しかし店主の男はその札を見てもほとんど動じなかった。彼は、華奴ブダカンと友達って、と苦笑しながら露骨に嘲った。

「でもさぁ、お嬢ちゃん。ほとんどの人にゃ華奴ブダカンでも隔区民でも皆同じにしか見えないワケよ? 臭い華奴ブダカンを連れてこられると、他のお客さんにも迷惑なんだよ。早く帰ってくんない?」

 彼は蔑んだように翼を睨みつけて、食器が汚れちまったよ、とも言い出した。

 翼はといえば、俯いたまま一連のやり取りに一切口を挟まずにいた。彼女はただ、今目の前の現実を受け入れようとしていた。

 ――仕方ないか。私たちは結局奴隷なんだし。

 それは彼女がずっと抱えてきた諦めだった。変わらない店主の様子に諦めたのか、チャハヤは押し殺した声で翼に話しかけた。

「……分かったわ。行きましょう、ツバサちゃん」

 チャハヤはそう言って、荷物をまとめて席を立った。

「そうね」

 ――隔区民は隔区から出るな、と。

 翼はそう納得して、椅子から立ち上がった。二人がいなくなったタイミングで、店主の男と向こうの席に座っていたヴェリ人たちがこちらへ向かって移動してきた。彼女らがずっと日陰の席を占領していたのが気に食わなかったようだった。彼らは二人に見せ付けるように、右手から小さく火花を飛ばしていた。

 しかし二人がまさに店を出て通りを歩き出そうとしたとき、チャハヤはくるりと翼の方を振り返るといきなり、

「ちょっと危ないから、今すぐ走って私からできるだけ離れて」

 と言った。このときチャハヤは嫌に落ち着いた様子だった。

「う、うん……?」

 困惑しながらも、翼は彼女に言われたとおり、カフェの前の通りを走って彼女から二、三十メートルほど離れた地点に移動した。

 何が始まるのだろうと思っていると、チャハヤは店の前で突然、右手を大きく天に振り上げた。すると見る見るうちに晴れていた空が曇りだし、ドオン、というすさまじい爆音とともにチャハヤの体が光り輝いた。チャハヤの体に雷が落ちたのだった。

 雷はちょうどチャハヤを避雷針にしたように店を避けて落ち、そこから彼らの座っているテーブルまでは五メートルほどしかなかった。これには店主の男も向こうの席に座っていたヴェリ人たちも腰を抜かした。

「チャハヤ……!」

 翼はチャハヤが心配になって叫んだ。しかし地面からは煙が上がっていたものの、彼女自身は全く無傷だった。そしてさらにその直後、さっきまでの天気がまるで嘘のように彼らの頭上に土砂降りの雨が降り注いだ。辺りは急に水浸しになって、通りを歩いていた人々は急いで建物の中に駆け込んでいった。

 滝のような雨に打たれながらもチャハヤは毅然とした口ぶりで、恐れおののく彼らに言い放った。

「私の友達を私の目の前であんな風に侮辱するなんて許さないわ! 私は『五人の柱ラン・トゥダン』の一人にして現『神の御腕クー・イェナ・ニ・アジ』であるママラガンのガハマラよ。もしこれ以上彼女を侮辱するなら、ナマルゴン族の誇りにかけてあなたたちと戦うわ!」

 彼女の言葉を聞いて彼らはさらに震え上がった。実は彼女は、正しき民たちダン・ジュトゥバラから選ばれる高級参謀「五人の柱ラン・トゥダン」の一人で現国王ラーハが最も信頼を置く王国大臣ママラガンと親戚で、人一倍魔力の血ヤラ・ヤリディも強かった。

 男たちは皆地面に蹲り、彼女に挑もうとする人は誰もいなかった。チャハヤは厳しい顔で、怖気づく彼らに再び問うた。

「もう一度聞くわ。?」



 あれからしばらく経った日の夕方、翼は中華街チャイナタウンにチャハヤを連れてきていた。二人はとある食堂の前に並べられたテーブル席で食事をしていた。夜になって、この辺りの食堂も多少賑わってきていた。

 チャハヤはいつものように、翼にヴェリ人の文化について教えていた。

「――ヴェリティ王国を作ったヴァナ族のトーテムリギはニジヘビっていう蛇の神様で、ヴァナ族の魔術師ヤリディアジは大きな蛇に変身して戦うの。パルバ州のカタ・ヴェッリは大昔にニジヘビが暴れてできたのよ」

 彼女は楽しそうに解説した。しかし翼は心ここにあらずという感じで、何かそわそわしている様子だった。

「……そうなんだ。すごいな」

 彼女はこのごろ少し変だった。チャハヤは自分と目をあわせようとしない翼に少し不安になった。

 ――今日は疲れてるのかしら。

 最近は仕事が忙しいとも聞いていた。気になったチャハヤは、あまり高圧的にならないように翼に聞いた。

「どうしたの、ツバサちゃん? 大丈夫?」

 すると翼は、チャハヤから目を背けたままこう言った。

「……こないだは、ごめんな」

「こないだ?」 

「その……こないだ一緒にカフェに行ったときのことだ」

「え、そのこと? なんで謝るの?」

 チャハヤは怪訝な顔をした。すると翼はやさぐれたような面持ちで、下を向いたまま話した。

「なんか、私のせいでトラブルになっちゃったみたいで……」

 するとチャハヤはとんでもないという風に慰めた。

「そんなことないわ。私が自分の判断でやったことだし」

 彼女はそう言って微笑んだが、翼は俯いていた。そして翼は本当に気になったことについて言った。

「あんなに強い魔術ヤリディが使えるなんて、チャハヤはすごいな。チャハヤはママラガンと親戚なんだろ? 『神の御腕クー・イェナ・ニ・アジ』って国王ラーハユルグルの次に偉い人じゃないか?」

 ママラガンは次期国王ラーハになることが期待されていたが、「隔区の不法滞在者どもを全員殺す」などと言った過激な発言でも知られていた。翼はチャハヤが彼と親戚であるということが少しショックだった。

 するとチャハヤは特に偉ぶることもなく、クスクスと笑いながらこう言った。

「別に私はママラガンのことなんて特に誇りにも思ってないわ。ああいう人たちは権威に弱いから、ただ名前を口にしただけよ」

 翼はだんだん落ち着いてきた。しかし彼女はまだ気になっていることがあった。

「話戻すけど、いずれにしたってあんなことして危なくないのか? 相手もだけど、チャハヤも……」

 チャハヤが翼の目の前で魔術ヤリディを使ったのは、ほとんどこの一回きりだった。しかし翼はチャハヤの強大な魔力にただ圧倒され、恐怖すら感じた。

 しかしチャハヤは平然としていた。

魔力の血ヤラ・ヤリディのある人はそんな簡単には死なないわ。そもそもケンカを吹っかけてきたのは向こうだし。それに……」

 チャハヤは一旦そこで区切ってから、翼の目を見つめて笑いかけた。

「ツバサちゃんは私の友達なんだし、あれぐらい当然でしょう? 今度誰かにひどいことされたら、私が守ってあげるわ」

 チャハヤは力強い口調で言った。これを聞いて翼は、私なんか別に、と言いかけたのを引っ込めた。

 ――こんなに本気で私のことを思ってくれてたなんて。

 あの時、翼はチャハヤが自分のために体を張ってくれたという事実は頭では理解できていた。しかし翼は過去にあった様々な出来事のせいで確信が持てなかったのだった。

 チャハヤが益々頼もしく思えて、翼はなんだか心が温かくなった。

「……ありがとう」

 気恥ずかしくて、翼は小さな声でお礼を言った。


 翼がチャハヤのことを本当の友達だと思い始めたのは、この頃からだった。

 それからもチャハヤは色々なところに翼を引っ張りまわしたが、翼にとってはそれが友達の証に感じられてとても嬉しかった。

 やがて一年が過ぎ、気づけば二人は暇さえあればいつでも会う仲にまでなっていた。

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