一無所有——異世界中華街動乱——

中原恵一

第一部・もたざるもの

序章

偶然

 連帯意識が強いせいか、はたまた外とは別に自らが帰属するコミュニティが欲しいのか、海外に出た中国人は中華街チャイナタウンを形成する。アメリカでも、イギリスでも、日本でも、たとえそれが異世界でも。


 夕方にもなると、仕事が終わったアジア人たちがこの一帯に集まってくる。完全に日が落ちて夜になれば、辺りはどこからともなく出現する露店と行きかう人々の熱気に満ち溢れ、町全体が雑踏と喧騒に包まれる。

 ヴェリティ王国首都ヴァナヤラ、アギリ——中国語で「安基利アギリ北洋人ほくようじん隔離区かくりく」、または単に「隔区かっく」と呼ばれるこの町はこの国にあってこの国ではない、言わば「小さな中国」だ。

 繁体字で「安基利アギリ華人街かじんがい」や「龍口ヴァナヤラ大飯店だいはんてん」と書かれた看板が建物の壁から所狭しとせり出す町並みは一見、東南アジアの中華街チャイナタウンを彷彿とさせる。しかしここはインドネシアでもマレーシアでもなければ、ひょっとすると地球ですらない。

 時空を捻じ曲げる超自然現象アヴァラ——遥か昔から幾度となく海上で起こってきたこの時空嵐によって南洋大海ロドゥナ・ドゥムーの世界に流れ着いたアジア人、通称「北洋人ほくようじん」たちは四方を石垣で囲われたこの出島のような特殊な場所で奴隷「華奴ブダカン」として使役され、限られた自由を享受していた。


 夜になって、町の至る所に松明やランタンの明りが灯っていた。

 七月のある日の夕方、隔区内の工場で働く穂高誠治ほだかせいじはいつものように仕事終わりに浜辺に寄り、海岸で水浴び程度に少し泳いだ。それから、周りで北京語かも広東語かも分からない中国語の方言が飛び交う中、彼は大通り沿いにある行きつけの露店で一人静かに米粉ビーフンを啜っていた。この日誠治はお金に余裕があったので、米粉ビーフンと一緒に串焼き肉も頼んだ。物欲のあまりない彼にとっては食事だけが唯一の贅沢だった。

 ここでは日本人は珍しく、この界隈ではおそらく彼だけだった。この日も露店の前に並べられたテーブルに座る客は大体中国人で、黙っていれば誠治が日本人だと気づかれることもなかった。目立つのを嫌っていた彼は、こうして自然に周囲に溶け込めるこの場所にやってくるのだった。

 誠治の隣の席では、若い中国人の男が屋台のテーブルを占領して麻雀しながら談笑していた。暑いこともあって、彼らは皆上半身裸だった。

 やがてその四人の男たちを中心に二人、三人と人が集まりだした。盛り上がってきた彼らはテーブルの周りでリズムも振り付けもバラバラの太極拳とも広場舞ともつかない奇妙な踊りを始め、お互いの変な動きを見て笑いあっていた。

 彼らは皆この小さな中華街チャイナタウンの仲間で、ここだけを切り取るととてものどかで平和な光景だった。


 やがて空いた席に二人の女の子が座った。一人は北洋人で、一人は南洋人。この世界としては珍しく彼女ら二人は奴隷と主人の関係ではなく、友達同士だった。

「——それにしても女の子を棒で叩くなんて許せない! まだあんな子供なのに」

 南洋人の女の子がそう言うと、食事をしながら北洋人の女の子が彼女をなだめた。

「あんなのいつものことじゃないか?」

 しかし南洋人の女の子は悲しそうに後悔の念を口にした。

「それでもかわいそうだよ! なんとかして助けてあげたかったな……」

 目の前でおしゃべりに興じる彼女ら二人をうるさく感じて、誠治は食器を片付けて帰ろうとした。

「さて、帰るか……」

 誰も聞いていないだろうと思って、誠治は日本語で独り言を言った。

 すると北洋人の女の子が誠治の顔をちらっと見た。一瞬、二人は視線があった。彼女もまた誠治と同い年ぐらいの東アジア人で、黙っていれば日本人にしか見えなかった。

 ずっと日本人ではないアジア人に囲まれてきて「仲間が欲しい」という微かな希望を抱いてしまうせいか、誠治は無意識のうちに日本人と似た顔の人を日本人と思い込む癖のようなものがついてしまっていた。

 しかし。

 ――「諜報員マール」か。だから、日本語が聞き取れる……って、そんなワケないか。

 諦めて誠治はそのまま立ち上がった。だが今度は、南洋人の女の子の方が誠治に声をかけた。

「あれ……、ひょっとしてあなた、前に会ったことあるかしら?」

 誠治はもう一度南洋人の女の子をよく見た。彼女は誠治と同じ年ぐらいに見え、目が大きいせいか顔も子供らしさを残していた。

 ——この顔とこの長い黒髪。あの時のヴェリ人の子だな。

 確かに、誠治はこのヴェリ人の女の子に見覚えがあった。しかし彼は仕事で疲れていて、早く家に帰って寝たかった。

「……知らない。人違いだろ」

 誠治はヴェリ人の女の子に背を向けて、足早に去った。

 誠治の誕生日は七月四日、今年で二十三歳になる。

 二十歳ぐらいの頃から、誠治は必要以上に他人と仲良くするのをやめた。以来、心を閉ざした彼は誰と出会ってもいつも無愛想だった。


「行っちゃった……」

 誠治が歩いて行った方角を遠目に見つめながら、ヴェリ人の女の子は残念そうに呟いた。誠治はまるで彼女と話すのを拒絶するように立ち去ってしまった。

 赤い提灯の明かりに照らされて、ヴェリ人の女の子は護衛の北洋人の女の子とともに席に座っていた。時折吹き渡る風が、彼女の少しウェーブのかかった長髪と北洋人の女の子のポニーテールを揺らした。

 ほどなくして、北洋人の女の子が彼女に尋ねた。

「ひょっとしてあの男の子が、前からずっと私に会わせたいって言ってた子か? なんだかかなり感じが悪かったが」

 彼女は箸を片手に、怪訝な表情でヴェリ人の女の子を見た。

「……うん。前に話したときはもっと優しそうだったんだけどなぁ。とにかくあの男の子も『出身は中国じゃない』って言ってたよ。ヴェリティ語の発音も中国人らしくなかったし、もしかしたらツバサちゃんと同じ――」

 ヴェリ人の女の子は豊かな表情で、忙しく手を動かしながら力説した。しかし翼と呼ばれた北洋人の女の子は慌てて席から立ち上がり、ヴェリ人の女の子にできるだけ近寄ると、彼女の耳元で囁いた。

「そういうことはあんまり大きな声で言わないで」

「あっ、ごめん!」

 ヴェリ人の女の子はしまったという顔で謝った。翼は周囲に聞こえないように気を使いながら話を続けた。

「……まあでも、だからってってことはないんじゃないかな? 前も言ったけど、北洋には中国以外の国だっていっぱいあるし」

 するとヴェリ人の女の子は一応納得したようで、また残念そうな顔をした。

「それもそうよね。やっとツバサちゃんに同じ国のお友達ができるかと思ったのに……」

 翼は彼女から離れ、再びもとの位置に戻った。

「まあまあ、また紹介してくれたらいいよ」

 彼女は社交辞令でごまかした。するとヴェリ人の女の子はこんなことを言った。

「そういえば、あの男の子も結構ヴェリティ語上手だったわ。あ、でもツバサちゃんの方がもっと上手だけどね」

 ヴェリ人の女の子は慌てて付け足した。その様子がおかしくて、翼は少し笑った。

「チャハヤはいつも優しいよね」

 彼女は誰かを傷つけまいといつも人の気持ちを思いやっていた。それがなんだか危なげで、翼は心配になるときがあった。しかしそれでも翼は彼女の純粋さが好きだった。

 翼はとりあえず彼女に礼を言った。

「今度彼に会ったら私から声をかけてみるよ。気持ちだけでもありがとう」

 翼は軽く微笑んで、結び目から伸びた髪を後ろ手に撫でた。しかし彼女の指先は少し不安げだった。

 ――あの様子じゃ、またどこかでばったり出くわしたとしても向こうも話しかけてこないだろう。

 「諜報員マール」である神崎かんざきつばさは自分たちが隔区で嫌われているということをよく理解していた。だからいつも、隔区の中では理解のある特定の知人としか口をきかなかった。

諜報員部隊ダン・マール」――王国政府のスパイとして諜報活動を行い、隔区に出入りする役人たちについて回って通訳や護衛に当たる北洋人はヴェリティ語で目を意味する「マール」の複数形から「ダン・マール」と呼ばれ、翼もまたそうした「王国の目」の一人だった。

 しかし自らも北洋人でありながらヴェリティ王国に忠誠を誓い仲間を売る彼らは、当然ながら他の北洋人たちに売国奴扱いされ、「漢奸ハンジエン(中華民族の裏切り者)」などと罵られていた。しかしその中華民族の裏切りものですらない日本人の翼はこの世界ではマイノリティの中のマイノリティで、自らが日本人であることを隠して生きていた。

 そして翼が行動を共にしているヴェリ人の女の子・チャハヤは隔区に出入りする役人で、魔術師ヤリディアジでもあった。彼女はナマルゴン族という王国アラハンナでも有力な部族出身で魔力の血ヤラ・ヤリディも濃く、強力な魔術ヤリディを使うことができた。彼女は将来魔術師ヤリディアジのエリートである「正しき魔術師たちヤリディアジン・ジュジュトゥ」の隊員になることも期待されていたが、現時点では行政省隔区管理局の一職員として働いていた。


 この三人が出会ったのは偶然で、たった数分間の出来事だった。そしてそれっきり、彼らの運命が交わることはないはずだった。 

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