第17話・役に立たない相場観

 

 上の式は何となく見覚えがある。

 たしか質量欠損だったか。

 陽子や中性子は結合すると軽くなり分裂すると重くなる、ってやつだ。

 高校物理だな。懐かしい。


 しかし下の式は分からん。

 パッと見、二項定理みたく見えるが、ちょっと違う。

 これは、何かの量を求めようとしてるのだろうか?

 しかしΣを使っての発散系の式にしか見えないが……


 …………


 まあいい。

 クルマの元の持ち主が、何かの考えをまとめる若しくは進める為にやった雑記なのだろう。

 こんなものの中身を気にする奴なんて、居ない……?


 宇藤『なにこれキモチワルイ』

 サラ『論理展開が甘い、失格』

 美原さん『この車の名前のスタリオンって、スターとアリオンを足したものだそうですね。そもそもアリオンとはギリシャ神話で……』


 う、ちょっと想像しただけで面倒くせえ……

 ま、まあ、居ないってことにしとけばいいか。

 そう思って車検証入れにメモ書きを戻そうとした。

 しかし。


「……ちょっと待てよ」


 メモ書きなんて、多くの場合は要らなくなった書面とかの裏を使ったりするもんだ。

 適当な大きさに切って、クリップでとめて、机の横に置いておくもんだ。

 このメモ書きも、どうやらそういうもののようだった。


 気になったのは、それが明らかに基板の図面を切ったものだという事だ。


 俺は仕事柄、基板の図面をCADからしょっちゅうプロットアウトしている。

 確認が済んだら用無しなので、ほとんどの場合、適当な大きさに刻んでメモ用紙だ。

 だから、この車検証に入ってたメモ書きの表が基板図でも、それほど気にならなかったのだ。


 しかし基板の図面なんて、普通の生活をしていれば、まずお目にかかれるものではない。

 それに、ほとんどの場合社外秘の塊だ。社外に持ち出すなんてもっての外。

 それを車検証入れの中に入れるなんて、いったいどこのアンポンタンだ?


 いったん気になると、とりあえず確認できるとこまでは確認しないと気が済まない性分だ。

 とりあえず、車検証入れの中に入ってるメモ書きを全部出して表に向けてみた。

 全部で9枚。どうやら一枚の基板図面を切ったもののようだった。

 銅箔部とシンボルプリントが重ね合わせて印刷されている。


 ジグソーパズルよろしく、メモ書きを並べ替えて元の形に戻してみた。

 どうやら、あまり大きくない基板のようだ。

 外形は、ロールシャッハテストの、蝶の形に似ている……


「ま、まさか」


 外形で推測するまでもなく、シンボルプリントに基板の名称があった。

 『Mist2』と書かれている。


「なんでこんなところに」


 この基板は、俺が今の会社に入ったころ、研修用として散々見せられたものだ。

 SACD用とDVD-AUDIO用の、2つの巨大なデコーダーが載せられている。

 オマケに後段のアナログ回路や映像出力もキチンとある。

 光学ディスクメカ用の回路基板だ。


 ペンタソニックと50NYイソニー(どちらも日本を代表する電機メーカーだ)の両社が、各々が開発した次世代オーディオ用のデコーダーを、両方載せた基板の開発を某社に依頼したらしい。

 基板は完成したが、種々の事情により、その2社は採用しなかったらしい。

 それで某社は、開発代を稼ぐためにその基板を使った製品を自社ブランドとして販売したらしいが……全く売れなかったそうな。


 それでもその基板は、現在でも最密クラスの部品密集度や均一な熱分布、ごく低レベルな不要輻射、更に当時始まったばかりのローズ指令の対応までしてあるという、優れものだった。

 その為、その2社が別の基板設計の仕事を外注に出す場合に、参考としてこのMist2の生基板を貸与していたのだ。


 俺も散々見させられた。

 最初はウンザリしていたが、ある程度基板が描けるようになってくると、このMist2は参考になるところの宝庫だというのが分かってきた。

 その為、中堅の設計者たちからは、ある意味でバイブル的な存在だったのだ。


 そういった理由から、このMist2は業界では結構有名な基板である。

 だが、設計した某社がデータの公開を拒否したため、CAD上でのデータはもちろん、プロットアウトの図面も見たことがない者がほとんどだ。


 そのMist2の図面が(9分割とはいえ)いま目の前にある。

 ここは、基板設計とは縁もゆかりもない、那須の山の中なのに……!


 図面を使える、しかも裏紙としてメモ書きにしてしまえることから、このメモ書きをしたのは、Mist2の設計にごく近いところに居た者、または設計者本人だろう。


 その者が残した、その息づかいまで聞こえてきそうなメモ書きの数々。

 何が書かれているのか。

 何を目的にしているのか。


 気になって、寝るどころの騒ぎではなくなってきた……


 ………………


 …………


 8月14日木曜日 午前9時


「さて、ベンチマークの準備はよろしいか?」


 朝食を終わらせて、PCルームにてディスプレイの一枚に向かって話しかける。

 (今朝の分で総菜パンと菓子パンは全て消化し終えた。これで昼食からはまたあの石上さんの美味い料理が堪能できる。やれやれだぜ)


「加治屋、偉そう」


 ディスプレイの中で、サラが。

 朝の挨拶は厨房で済んでいた。


「今日から本格的にベンチマークとなります。昨日一日分の注文データを使ってのシミュレーションとなりますので、現実のお金はかかりません。どうぞ思う存分トレードをなさってください」


 サラの隣から、美原さん。

 さすが見事なチュートリアルだ。


「一昨日みたいに寝てるんじゃないわよ」


 隣に座ってる宇藤が。


「あ、それは大丈夫。夕べはぐっすり寝たから」


 そう、寝れたのだ。

 それは、ある事を法帖老に依頼しようと思ったから。

 それで、とりあえず気になることを先送りにしただけではあったのだが。


「ふむ? カネは使わんのかね?」


 言って、後ろの椅子から立ち上がる法帖老。

 横に立っていた祢宜さんが小首をかしげた。


「では儂は此処に居なくともよいのだな」

「あ、はい、そうなんですが……」


 宇藤が申し訳なさそうに。


「でも、出来ましたら、作業の様子をご覧いただいた方が当方と致しましても」


 一歩を踏み出した法帖老、止まって軽く宇藤の方を見て。


「気遣いは不要だよ。今日は双子と車の様子を見る日とするので」


 クルマという単語が法帖老の口から。チャンスだ。

 機会を逃さじと、椅子から立ち上がって法帖老に話しかける。


「あ、あの、唐突に厚かましいお願いにて大変恐縮なのですが」

 

法帖老、何かね? といった表情で振り返る。


「昨日の代車の調査に関しまして、もし宜しければその結果をお教え頂ければと」


 想像通り、訝しげになる法帖老。

 想像に反し、驚いた風になる祢宜さん。もっと興味ない風を装うと思ったのだが。


「何故、そのようなことを知りたがる?」

「これをご覧ください」


 当然の疑問。

 その為に車検証入れを持ってきておいた。

 それを法帖老の前で開いて見せる。


「これは、代車の車検証入れの中に入っていたものです」


 テーブルの上に、例のメモ書きを置く。

 まずは基板図側を表にして。


「業界内では有名な基板の図面です。それがここにある事自体が異常なのですが」


 月曜日に、法帖老から“知らないものは当てにならない”と言われた事の当てつけになりそうだから、業界内で有名云々はさらっと流しつつ。


「裏にはこのメモ書きが」


 メモ書きを裏返していく。


「これを書いたのは、おそらくはこの有名な基板を設計した人間だと思われます。そして、私はこの人間に会いたいのです」


 言って、法帖老の反応を窺う。

 しかし、反応は別なところからもあった。


「きったないわね、なに広げてるの」


 宇藤だ。俺の脇から覗き込むようにして。


「うっさいな、いま大事な話をしてるんだよ」

「こっちだって仕事の話よ」


 嘘つけ、いま汚いとしか言ってなかったじゃねえか。

 そう思いながら法帖老を見ると、祢宜さんがメモ書きの一枚を取り上げて、法帖老に何事か話しかけてるところだった。


『加治屋、そっちだけで面白そうな話するの禁止』


 ディスプレイからサラ。

 ああ、テーブルの上なら向こうからも見えるのか。

 あいつもこういう話には興味を持ちそうだしな、失敗だったかな。


『加治屋さん、便宜上時刻を合わせる必要がありますから、なろうヘッドはすでに稼働しています。関係ない話は後にして下さい』


 今度は美原さんだ。

 当然の要求に耳が痛い。


「申し訳ない、すぐ終わるので」


 頭を下げながら言って、もう一度法帖老の方を見る。

 すると老は、メモ書きの一枚(たぶん、さっき祢宜さんが持ってたやつだ)を手に持って、しげしげと眺めているところだった。


「これだけはまともに読めるが……これは物理の数式なのかね」

「あ、ええはい、それは質量欠損の公式であったかと」

「欠損……」


 眉間にしわを寄せる法帖老。

 欠損という言葉に、何か引っかかるものでもあるのだろうか?


「……では、これを書いた者と会って、キミはどうしたいのだね?」

「あ、それはもちろん、訊きたいのです、この有名な基板をどうやって設計したのかを。そして、そこに書かれているメモ書きの真意も」

「では、これを書いた者は、キミの関わる業界での有名人なのかね」

「は、はいそうです」

「ふむ……」


 法帖老は視線をメモ書きに戻すが、すぐにそれを傍らの祢宜さんに渡す。

 祢宜さんはそれを、丁寧にテーブルの上に戻した。


「悪用しないというのであれば、調査結果を見せるのにやぶさかではない」

「そ、そうですか」

「ただし、追加の業務をお願いできるのならな」

「追加、ですか」


 な、なんだろう。

 引き換えに何々をしてくれ、ってのも予想しなかったわけじゃないが。


「ああ、簡単なことだ。今の業務にも障らない。詳しくはコレに訊いてくれ」


 と言って、法帖老は祢宜さんに目くばせをした。

 祢宜さんはあらかじめ予想していたのか、ただ小さく頷いただけだった。


「業務追加の件、分かりました。ではよろしくお願い致します」


 法帖老、右手を挙げて了承の意を示しながら、ドアに向かって歩き始めた。


「では加治屋さん、詳しくは前引けの後で」


 と言って、祢宜さんが素早く法帖老の前に立ち、ドアを開ける。

 そして二人とも部屋から出て行った。


 ……何をやらされるのやら……


「さて、大変お待たせしました」


 言って席に着く。

 ディスプレイの中も隣の席も、待たせすぎだバカヤロウという空気で一杯だった。

 だが。


「っと言いたいとこだけど、あともう20分ほどお待ち下さい」


 と冷や水をかけた。


「何故ですか?」


 当然の質問がディスプレイの中の美原さんから出てくる。


 今から行うのは、株売買サーバーのベンチマーク。

 実取引を模して行うからには、実際に行われる手法をベースにしなければ意味がない。


「出来高の多い銘柄を選びたいから、9時半時点での」


 俺の、トレーダーとしての手法は、出来高の多い銘柄のデイトレであるから、場が開いてから最低でも30分は様子を見る必要があるのだ。


 今はまだ午前9時10分だ。


「生温いわね、なんとかならないの」


 これまた当然の感想が隣から。

 しかし、しゃーねーだろ!


「なりますよ、なんとか」


 仕方ない、と言おうとしたところで、美原さんが。


「え、今なんて?」

「なりますよ、なんとでも。今日は昨日の注文データを再度なろうヘッドに与えていると言ったはずです」

「え、えっと、つまり?」

「目の前の値動きは昨日の再現であり、出来高も終値ももう既に分かってるのです。9時半の情報が必要なら、それも今すぐにでも」

「えっ……」


 なんてこった、考えてみれば当たり前の事だった。

 いくら目の前の値動きがリアルだからって、そのことに気づけなかったとは!


「加治屋、向かって左側のディスプレイに相場全般の情報が見られる窓がある筈。それを操作して9時半の情報を得よ」

「りょ、了解」


 サラの言う通り、該当のウィンドウを操作し、出来高ランキングを呼び出す。

 とりあえず一日全部の情報を出してみると……


「ああ、昨日は銀行の日だったのか」


 メガバンクと大き目の銀行が出来高上位を占めている。

 為替を見ると、それほどの動きではないように見えるのだが……


「まあ、それならメガバン2点張りで」


 だめぽと糖蜜の情報を呼び出す。

 右側のディスプレイに、その日中足チャートが出来高と共に表示された。


「足設定を変更、っと」


 日中足チャートを1分足にする。

 チャート図は自動的に拡大され、細かな表示に対応した。


「ほほう、これはこれは」


 真ん中のディスプレイに板を表示させる。

 2銘柄のフル板が画面いっぱいに表示された。


「丸見えだな」


 今現在の状態も、これからどうなるのかも。

 まあ昨日の再現だから当たり前なんだが。


「加治屋、なにかイヤラシイ言い方禁止」

「い、いやらしくありません」


 偏見だろ、そう思ったところで。


「持ち金は無限という設定は不可能なため、とりあえず10兆円としてありますが、足りなくなったらサラちゃんに言ってください。すぐに補充されますから」


 美原さんから何か平和な感じに満ちた助言が。

 つうか、事実上のフリーハンドか。

 相場観もへったくれもねえな。


「あ、それじゃ、今までのような1枚両建てとかは」

「ダメです」

「却下」


 2人揃って即否定してくる。

 まあ、ベンチマークなんだから当然なんだろうけどなあ。

 しかし。


「じゃあ仮に、このメガバン2つにいきなり5兆円ずつ成り売りかましたらどうなんの?」


 もしそれを全て買い切れたとしても、その後の発注データはどっから持ってくるんだろう?

 そんな注文は出てなかった筈なのに?



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