第7話・若さゆえの楽観

 

「お静かに願います」


 肩越しの流し目で言ってやる。

 視界の端にムッとした宇藤の表情が残った。


 さて、株価はどう動くか。


 向き直った正面のディスプレイ。

 相変わらず上下30ティックずつの板表示だ。

 正直、こんなに表示段数が多くても仕方ないような気もする。


 値動きもない。株価はあれから13260円のままで約定も無くなっている。

 止まってる状況だ。

 そこで、ちょっと茶目っ気を出して板表示を二列に切り替えてみた。

 左に売り板、右側に買い板が表示される。

 表示は各々60段ずつだが、この銘柄の制限値幅は上下3000円なので売り買い双方に300段ずつある形だ。


 それをスクロールさせ眺めていると奇妙なことに気づいた。

 板がピコピコ(注文数が変化すると数字が点滅するツールの仕様を、トレーダーたちはピコピコと称する)してるのが、売り買いともに5段ずつしかないのだ。


 つまり、一般人が見てる範囲だけ賑やかだという事だ。

 それはつまり……


 と思っていたら、急に売り板の上端(現値から300段上=16260円)の注文数がいきなり10倍増した。

 員数のゼロが一つ増えたのだ。

 それと同時に13260円で約定し、更に続いて、程なく13260円の売り注文が無くなってしまった。


 驚いて板の右に表示されている歩み値を見る。

 その約定数をみると、どうも13260円の売り注文が、売り板の上端の注文数が増えると同時に撤退したようなのだ。


 これは……

 思ううちに、今度は買い板の下端(10260円)の注文数がピコピコし始めた。

 それは売り板の増え方と同様に、注文数が10倍増するという豪快なものだった。

 すると、それから間もなくして今度は13250円の買い板が全て売りつくされてしまったのだ。


 つまりアレだ。

 これは、フル板を見れる大口たち専用の符丁なのだ。

 上下5本しか見れない一般人たちのカネを、大口同士で示し合わせて巻き上げているのだ。


 いやー汚い、実に汚い。

 だがしかし、裏ではこういう風に相場操縦されてるだろう、とは、市場参加者たちの間では、とっくに暗黙の了解事項になっている。

 むしろ、値動きをけしかけてくれる、ありがたい存在とも思われているのだ(無論、場合によるが)。


 しかしこんな露骨にやってるのか。

 初めて見たが、流石にちょっと呆れるね。


 と腕組みをしながら感心していると、今度は13240円の買い板が無くなろうとしていた。

 売られているのだ。

 そこで、13250円の買い分を13240円の買い板に売りつけ、手仕舞いした。

 10円分の損切だ。


「あーあ、だから言ったじゃない」


 またしてもウザい宇藤。

 つーかオマエ、俺に何か有効なアドバイスしたか? してないだろ。

 まあ、してても無視しただろうが。


 しかし大口の符丁が読める。これはデカい。つうか楽勝だ。


 と余裕が出てきたところで、株価は13240円を抜け、一気に13200円(ここはキリなので買い注文数が多くなっていた)の注文が無くなろうとしていた。

 たぶん、ここは一般人の注文が多く入っているのだろう。

 歩み値を見ても、逃げ出している形跡はなかった。


「……そろそろかな」


 株価は、13200円の厚板を完食して、13190円を抜け、13180円をつけた。

 勢いからして、13150円の厚板を目指しているように見えた。

 しかし、歩み値を見ると、約定の一つ一つは少ない株数だ。

 恐らく、いきなりの下落に泡喰った一般人が、損切をかけているのだろう。

 少なくとも、この13200円から下の売りに大口は入っていない。


「準備を……」


 左側のシステム画面で、注文を設定する。

 数はさっき損切りしたのと同じ。値段は……

 と思ったところで、売り板の上端がまたピコピコした!


 現値は13150円。

 そこの買い注文は半分くらい減ったところだった。

 が、それは気にせず、値段を『成り』に設定する。

 それは即座に約定。13160円だった。


「よしっ」

「え、なんで13150円にしないの……」


 またまた宇藤。いいかげんしつこい。

 が、すぐに黙った。

 株価が今度は上昇し始めたからだ。


「よしよし、あがれあがれ」


 現値は左のシステム画面頼りだ(そこでも上下5段ずつは板の表示がある)。

 それでも充分。上端のピコピコを見てれば良いのだから。


「さっきの空売りを買い戻さなくていいの?」

「そんなもん、とっくにし終わって、もう歩み値にも残ってないよ」

「ええっ!?」


 今度はしっかりと顔を向けて言った。

 両建てを何だと思ってるんだ、この女は。


「さっきのは、新たな買い入れだったんじゃないの?」

「同時に空売りの手仕舞いもしたんだ」


 それも成りで入れたので、それらの注文だけ13260円で出来たのだ。

 空売りの儲けは100円分で、買いの損切が10円分だったので、結局儲けは90円分となった。

 

 開始時点では上がるか下がるか分からなかった(あえて考えなかった)ので、どっちに行っても儲けを出せるように張ったのだ。

 こういうのが両建てと呼ばれる張り方で、儲けは少なくなるがリスクはもっと減らせる手法だ。


 もっとも、値動きが少なければ儲けの幅も少ない。

 動かなければ、最悪手数料負けの危険性もある。

 しかし今回は手数料は発生しないという条件なので、細かい注文を幾度も繰り返すやり方が有利になるのが道理だ。


「じゃあ、今は……」

「13160円での買いだけホールド中だ」


 売り板の上端は、注文数が増えたり減ったりして未だにピコピコしている。

 株価はとうとう最初の13260円に戻った。


 そこで考える。

 儲けの幅は、株価の1%あたりが一つの目安。この場合は130円か。

 このピコピコもいつまで続くか分からない以上、そこら辺で売りを入れるべきだろうと。


「え、そんなとこで? もっと上がりそうなのに?」


 目を丸くして、宇藤。とうとう俺の横に来て、テーブルに手をついてディスプレイを凝視してる。

 ちょっと鬱陶しい。


 売り注文は13290円に入れた。

 ただし、これは手仕舞い売りではなく、新規の空売りだ。

 あくまでも両建てで行く。


「いいんだよ」


 実際にトレードをしたら、すぐに熱くなってあっという間に退場しそうな宇藤を無視して、後ろの様子を見てみる。

 他の面子の反応が無いのが気になったのだ。


 すると、黒メイド二人は車いすの両側に移動していて、どこから持ってきたのかノートPCを車いすのひじ掛けの上に置いて、その画面を見ていた。

 楽し気に、ここを見る、とか、わーすごいねー、とか言ってる。


 車いすの主はどうかというと、老もまたその画面を興味深そうに見ていた。

 だから俺のトレードに関する事ではあるのだろうが、それでもなんかモヤッとしたものが残った。


「あ、ほら、約定したよ」

「ああそう」


 黒メイドたちが何を見てるのか気になったが、とりあえず目の前のディスプレイに向き直る。

 すると、宇藤が言った通り注文が約定しており、株価は更にそれより10円上の13300円で推移していた。


 これ以上騰がるようなら、今約定した空売り分を損切して売り直さねばならないが……


 と思ったところで、売り板上端のピコピコが止まった。

 どうやら、ピコピコさせていた大口たちも儲け幅の目安は俺とほぼ同じ(彼らは1%の切り上げで140円だったのだろう)だったようだ。


 大口の注文が無くなったせいで、値動きも出来高も急に萎んでしまった。

 それで株価も少し下がり、13280円辺りとなった。

 例のピコピコは、売り上端も買い下端もしていない。

 宇藤も、どうするの? と言いたげな顔を向けている。


「……頃合いか」


 そう判断し、成りで買いも空売りも手仕舞い注文を出す。

 それらはすぐに約定した。13280円だ。


 この一往復の両建ての結果は、買い-10円、空売り+100円、買い+120円、空売り+10円であり、トータル220円分の儲けだった。

 シミュレータ(?)であり、大口の符丁が見えていたとはいえ、2年ぶりでしかもいきなりだったのにこのトレード。

 我ながら上出来だと思えた。


 だから特に心配もなく、立ち上がって法帖老の方を向いたのだ。

 これで如何でしょうか、と訊くつもりで。

 しかし…… 


「誰が止めていいと言った?」

「…………!?」

 

 意外だった。

 まさか法帖老が、こんな脅しめいた物言いをするとは思ってなかったから。

 だが、内容には反駁すべきものが有る。


「誰が、と言いますか、自分自身の判断です。それに」


 ここは大事なところだ。

 仕事は結果勝負。いくら経過が良くても結果がダメでは話にならない。

 ましてやこれは株のトレード。入出のタイミングはそのトレーダーに任せるべきだ。


「好きにやってみよ、とのご指示でしたので」


 恐らくは俺にプレッシャーをかけるつもりだったのだろう。

 ズラリと並んだディスプレイとPC群。

 巨額の資金に目まぐるしく動くボード。

 それらを操作して相場に乗ってみよ、と。


 だが、俺は基板設計の仕事で、普段からそういうプレッシャーの中で働いているのだ。

 (もちろん、トレードとは全然別の世界だが、それが必ず出来るという保証はない状況なのは同じだ)

 PCやディスプレイの数などは、仕事場の方が遥かに多い。

 そういうものにプレッシャーは感じない。

 そんな気分も乗せて、チクリと言った。


「好きにやらせて頂いたのです」


 それを聞いた法帖老。

 試すような目を更に鋭いものに変えて。


「ふむ、それは分かった。では、建てた枚数がたった一枚ずつだった理由は?」


 テーブルの上の、左側のディスプレイを指さして。


「それだけの資金がありながら、何故だ」


 今しがた手仕舞いした銘柄は、一枚=100株だ。

 つまり、一枚あたり133万円弱で売り買いできるのだ。

 1千億円からしたら耳クソほどの額でしかない。いや、誤差と言ってもいいかも。


「それはもちろん、ご指示が無かったからです」


 確かに、一枚でのトレードだったので、儲けは220円×100株で、2.2万円でしかない。

 税金を引いたら、1.98万円でしかないのだ。

 1千億円の資金がありながら。


「指示?」

「はい。トレードは必ず資金のすべてを使うものではありませんし、指示が無い内容に関しては、最も軽く小さく、お金を使わない方向に設定するのが設計の基本ですから」


 途中から設計の話になったが、まあいいや。特に間違ったことは言ってないし。

 聞いてる法帖老も納得してくれるだろう、と思った。

 思ったんだが。


「指示か……それが無ければ大きな事はしないというのか」

「え、ええはい」


 法帖老は、諦めたように視線を緩めてしまった。

 それには納得の光など微塵もなく。


「……まあ、私の指示不足だったのかもしれんな。だが、先に、儲けの半分は君への報酬になると言っていたら、君は建てる枚数を増やしたかね?」

「え、それは……」


 魅力的な設定だ。

 1千億円の1%の利益。その半分。

 サラリーマンの、生涯収入くらいは楽にある。

 しかし。


「それでも、1枚で張っていたと思います」


 そんな巨額を投入したら、板が壊れてしまう。

 それに、そもそもこれはトレードのシミュレータだろう。

 それならゲームみたいなものだから、他の売買に影響を与えない最小枚数でトレードするのが最適解だ。


「そうだろう……そういう理解だろうな」


 下がっていた視線を再び上げる。

 そこには諦めっぽい色が滲んでいて。


「君のその思考や売買の仕方は、採点するなら100点だ。無論100点満点でな」


 ありがとうございます、と合いの手を入れそうになるのをグッと堪える。

 止めとこう、きっとこれは反対の主張をする場合の前置きだ。


「……だが、発注者には80点や50点の結果が欲しい場合もあるのだよ」


 思った通りに反対の論を述べる法帖老。

 だがしかし、50点……?

 なんで???


「納得できません」

「つまり、見る角度を変えれば、それは50点どころか120点だったり、或いは200点だったりするという事だよ」


 !! そんなこと!

 言いたいことはなんとなく分かる。納得するべきなんだろうけど。

 仕事を受ける際には、広い視野とあらゆる角度からの視界を持ち合わせないとダメだってことになる。

 いや、それが理想だってのも分かる。

 分かるけど……


「そもそも100点満点で、120点や200点というのは有り得ない……」


 と、学生じみた文句を言ってしまう。

 そして言いながら思い出す。

 もともと梶谷さんへ引き継ぎができる程度の情報集めが目的で、決してこの老人から説教を受けるためにトレードをしたんじゃないと。


 と、そこへ。


「え、エネルギー充填120パーセントぉー!?」


 それまで空気だったサラが。

 ヘナヘナと右手の握りこぶしをあげながら。


「それはアニメでしょ」


 即座に美原さんのツッコミ。

 それで、重くなっていた場の空気が緩んだ。

 正直助かった。サンキュー、サラ、美原さん。


「ふむ、そうか、そうだったな」


 俺と同じく、当初の目的から逸脱していることに気づいた風で、法帖老。


「あ、えっと、すみませんでした」


 とりあえず謝っとく。

 これで話が元に戻せるなら安いもんだ。


「いや、謝るには及ばんよ。それより」


 少しとホッした感じの法帖老、続けて。


「君の趣味を聞かせてもらえるかな」


 と言った。


「え、趣味ですか、えっと……」


 お見合いかよ、とか思ったけど、これはきっと法帖老の気づかいに違いない。

 先ほどの、説教になってしまったことへのフォローだろう、と。


 そう思って、遠慮なく自分の趣味を披露しようとした。

 が、次の瞬間、愕然としてしまった。

 俺には、他人に趣味だと言えるものがないのだ。

 株のトレードは唯一趣味みたいなものだったが、それも2年余り前に手を引いて、仕事に専念したくらいだから。


 ガッカリだ、ここまで朴念仁だったのか俺は。

 せっかく法帖老が助け舟を出してくれたというのに。


 って、あ、そういえば。


「カメラ、いや、写真撮影を少し」


 学生時代に、友人から譲り受けたフィルムカメラで、方々に行って風景写真なんかを撮って楽しんでた頃があった。

 就職して、デジカメが出てきて、行きつけのカメラ屋さんが店を畳んでからは撮影することも無くなって、いつの間にか忘れていたんだった。


「ほう、それは難しいのではないかね」

「は、はい、写真にはいわゆる正解というものが有りませんから」

「正解が無いか、いい言葉だな」

「……いえ……」


 ご機嫌取りなのは分かってる。

 でも趣味の事で褒められると、やっぱ嬉しくなるものだ。

 だからつい口が滑る。


「それに較べると、正解が厳然としてあるものは簡単と言えますよね。特にさっきのようなトレードなんかは」


 言ってから、しまったと思った。

 その世界での有名人に向かって、なんてことを。


「ほう、簡単だったかね」

「は、はい、でもあくまでもさっきのトレードに限りますが」


 だから逃げをうった。

 まったく俺って奴は……


「さっきの限定かね。で、それはどういうわけでかね?」

「あ、その、大口の符丁が見えてたからです」


 仕方ないので正直に言った。


「いやしかし、あんなモノまで再現するなんて、すごくよく出来たシミュレータですね。途中からは本物と思っちゃいましたよ」


 持ち上げるのも忘れずに。

 間違いなくこの老人が組んだものではないだろうが、それでも自分の持ち物が褒められるのは(それが遥かに年下の者からでも)嬉しい筈だから。


 しかし、法帖老の顔色はみるみるシリアスなものに変わっていった。

 サラと美原さんも当惑した表情に。


「大口、の、符丁? それは具体的には?」

「あの、板の上端と下端のことですが……その、注文数が増減してピコピコと……」


 しどろもどろになってしまう。

 それを聞いた法帖老、俺の傍らの宇藤に問いかけるような視線を向けるが。


「そんなものはありませんでした」


 呆気にとられたような声で。

 おい、見えてたはずだろオマエには!


「課長」


 シリアスなサラが宇藤を呼ぶ。

 宇藤は、サラたちの傍に行って、車いすの上のノートPCの画面を見始めた。

 そして、何事かをうんうんと頷きあっている。


「えっと、あの……?」


 しばらくして、サラたちが一斉にこちらを向いた。

 上半身も動かしたので、法帖老の前のドアが開いたような格好だ。


 そして、開いたドアの向こうから、法帖老がこう言った。


「今回の仕事、ぜひ君にお願いしたい」



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