第2話 竜に挑む虎
「あなたさまの玉座ですぞ、主上。さ、南面なされませ」
老巧の智将・戚凌雲(せき・りょううん)はそういって、新羅乕(しらぎ・とらき)に着席を勧めた。
ここは旧アカツキ京師太宰(だざい)京城(けいじょう)柱天(ちゅうてん)、その玉座の間。新羅乕をして女帝エーリカを震駭(しんがい)させる「4日で1国まるごと転覆」をなしめた黒幕、それこそがこの老将である。
かつて新羅辰馬の大陸争覇大戦に桃華(とうか)帝国の将として立ちはだかり、しばしば辰馬を危地に陥れつつも神楽坂瑞穂との知略比べに敗れて囚われ、桃華帝国660万の臣民の命と引き替えに降った男はその後辰馬の人的魅力に絡め取られてその盟友となり、その後の統一戦争に大いに貢献した。帝国建立後、元帥にして趙衙(ちょうが)公。辰馬が死ぬと一本気な戚はエーリカとそりが合わず、瑞穂の側に与した。瑞穂が殺宴に誘い出された際戚は必死に第一皇妃を引き留めたものだが、瑞穂は相変わらず儚くほほえむとこれでいいのです、と会食に赴き、そして毒に当たり死んだ。その後戚は元帥位を返上、朝廷を辞し、趙衙の郡守として表向きひっそりと暮らす。
戚凌雲という男は妻子ある身ながら、ある意味神楽坂……新羅瑞穂に惚れていたといってよい。ゆえにこそ辰馬と瑞穂の遺児である乕を保護して、擁立して復辟(ふくへき)させることを悲願とし、躍起になった。先帝の皇統に復す、という名目を掲げ、実際彼の心には新羅辰馬の意志を継ぐという思考があるのは間違いないが、根源にはそれ以上に、瑞穂への思慕がある。
なので、先帝の遺児・新羅乕をお迎えするに当たって乕があきらかに瑞穂の雰囲気を継いでいたことは戚を大いに喜ばせた。新羅乕は現在33歳。男盛りの年頃であり、体格は182センチ77キロと雄偉、引き締まった筋肉質な体躯は実父・新羅辰馬よりたくましく、顔立ちも、一時期「聖女」といわれて男であることを否定された辰馬や可憐そのものだった母瑞穂に比べ男らしい。
のだが、その語り口、物腰は優しく嫋々としてなよやか、あからさまに気弱げであるところは、どう見ても母の性格を受け継いでいた。皇家の正当嫡出子として、皇城柱天……つまり乕は30年ぶりに生地に帰ってきたことになる……の「緋色の間」で生まれた乕は皇家の連枝(れんし)としての育ちなどほとんど体験することがなかったはずなのだが、どうにも「天性の貴族」というべきか、たくましく雄偉な容姿に似合わぬ、性格の手弱女(たおやめ)ぶりである。
まあ、態度で誤解されがちだった父より、明らかにわかりやすくやさしげではあるのだが、アクの弱さは否めない。
そういうわけで威は足りない。しかしおっとりした雰囲気がむしろ好ましく愛される魅力になるという点では、愛されキャラであった父母にそっくりであるといえた。ともかく戚が喜んで擁立するには十分すぎる質であったのは、間違いがない。
玉座に座ることをためらう乕に、もう一度お座りなさいませ、と戚。
乕としては自分が何一つなしていないのに、あなたは皇帝です、城をとってきましたから玉座にお座りください、と玉座を薦められてはいそうですねといえるほど単純でもない。なにせ作戦立案はすべて戚ひとりの白髪(はくはつ)から創出され、資金供出は梁田詩(やなだ・しい)。実働部隊の指揮も戚が鍛え上げて派遣した配下たちの手柄であって、乕は本当に、今回何もしていない。だから分け前の、一番上等な部分をくれるといわれるとかえって困る。戚いわく「あなた様の存在、それこそが天下万民、文武百官・民百姓の力となるのです」というのは理屈としてはわかるが、その当人に祭り上げられる覚悟が乕の中で据わっていない。
「いーんだよ、座っちゃえ♪」
戚に続けて、母のような姉のような、半妖精の少女が促す。牢城雫(ろうじょう・しずく)。すでに78歳という高齢でありながら妖精種の血は彼女を永遠の若さにとどめており、見た目でいえば乕よりはるかに年下に見える。もし往事の、新羅辰馬のそばに立っていたころの彼女を知るものがあったならば、その不変の美貌に驚くに違いない。
乕が雫を見る視線もやはりただ母に対する想いとは違う、明らかな恋情が多分に混じっており、そして雫が自分を可愛がる理由があくまで「新羅辰馬の息子」であるというそこに集約されていることを意識するほどに、乕の中で今は亡い父への憎悪にも似た妬心が募るのだった。
ともかく。
雫に促されて、こくりと首肯。ためらいがちながら、玉座に腰を着ける。
「今上万歳!」
戚の、万雷の如き声。それに唱和して満座の兵が「今上万歳!」を叫び、一番驚くのは乕自身。
そもそもなぜ、雫と一緒に一介の冒険者をやっていた乕がこんな境遇になったのか。さらに遡って新羅乕の出自をたどるとする。
・
・・
・・・
新羅乕は33年前、赤帝紀5年(旧帝紀1837年)、赤竜帝国皇都太宰・皇城柱天の宮室「緋色の間」に生を受けた。もともとこの城は「天つく巨城」の偉容であり、新羅辰馬はアカツキから赤竜帝国への移行に際してほとんど改修工事を入れることがなかったが、妻子たちを住まわせるための居住区周りだけはしっかり改装し、その中でも皇室専用の産室として造営されたのが緋色の間。ここで生を享けた、というそれだけですでに、赤竜帝国の正当後継者としての資格を意味する。異母兄シェティ・新羅・ザントライユが生まれたのは帝国建立より3年前……ついでに言うと実兄新羅獅廉(しらぎ・しれん)はその半年後……なので、資格としては乕が勝るといってよい。ただしそれは新羅皇家の道統であり、エーリカが継承したザントライユ皇家……本来エーリカの姓はヴェスローディアだが、辰馬がみまかった後、自分の権威付けのためにザントライユを名乗った。ヴェスローディア王家の祖は祖帝シーザリオン・リスティ・マルケッスス、エーリカのミドルネームはシーザリオンの後継者としての意味合いを持つわけだが、さらにシーザリオン生誕の地ザントライユを名乗り、ヴェスローディア王城ヴァペンハイムをザントライユと改称、太宰から遷都することで「自分は二重にシーザリオンを継ぐものである」として新羅皇家に対する血の優越を主張した……の理屈はそうではないわけだが。
父は当然、「赤帝」新羅辰馬、母は「国母」神楽坂瑞穗。母は難産であったらしく乕を産むと体調を壊し、父帝・新羅辰馬も世界最後に残った「力の残滓(ざんし)」の内訌(ないこう)により倒れて帰らぬ人となったため生後すぐ、ひそかに牢城雫のもとに托された。その4年後に瑞穗はエーリカによって謀殺されたため、乕としては実母のことはほとんど知らない。雫からしばしば「いい子だったよー。かわいーしやさしーしおっぱいすっごくおっきくってねー、頭もちょお良かった。あたしとは全然ちがうねー、やはは」と聞かされるも、乕にとって最も魅力的な異性は育ての母である雫その人であったため実母の魅力を説かれても実のところ、どうでもいい気分ではあった。ともかくそうしたわけでこの4年後、兄・獅廉とともにエーリカの魔手にかけられそうになったのは乳母が替え玉として育てた、新羅皇家とはなんのゆかりもない幼児である。
ちなみに、それと知ったエーリカの裁断により乳母と赤子は皇帝を欺くという大罪ながら罪に問われることなく、退職金と諸々の手当をつけて市井に返された。このあたり、エーリカは苛烈ではあるが、ゆえなく人を害する毒婦ではない。
かくて乕は皇帝・新羅辰馬と皇妃・新羅瑞穗の間に産まれつつ、市井の冒険者・牢城雫の養子として育つことになる。このあたりは新羅辰馬が魔王と聖女の間に産まれながら、魔王殺しの勇者に育てられたということと符合する。最初、十六夜蓮純のギルド「緋想院蓮華洞(ひそういんれんげどう)」で事務員兼初級冒険者の鍛錬相手という、皇帝の貴妃にして英雄の一角という実績からするとずいぶん安い仕事で満足していた雫ではあるが、乕4歳、瑞穗が弑されエーリカが帝位を簒奪して帝国の箍(たが)がややはずれ始めると、乕を連れて放浪の旅に出た。そこから彼女は一切の自分の痕跡を消し、何十もの偽名を使って各地を転々としつつ、おもに大物の魔獣退治を請負い生計を立てた。神魔の大立者(おおたてもの)は世界から消え去ったが、小物の下級神格や魔獣の全てが綺麗さっぱり、というわけにはいかない。世間さまにご迷惑な存在を狩ることは新羅辰馬の遺志に従うことでもあり、雫にとっては自分に向いた仕事で辰馬との絆を再認しつつ、幼い乕を鍛え上げるという目的も同時に達することができて一石二鳥であった。10歳になるやならずで、乕は大物の魔獣を槍一本で狩るだけの技量を得る。気の弱さはともかく武技の才ということであれば、乕は父・辰馬より上であったかも知れない。辰馬はフィジカルに恵まれず、努力でなんとか天才の末席に達した秀才であったが、乕は恵まれた体格を持ち、慧敏でもあり、瞬発力に加えて持久力にも優れた。雫が辰馬を育てた際そうとうに甘やかしたために辰馬はかなりわがままに育ったわけだが、乕に関しては辺境で、魔力の助けもなく武技のみで生きていかなければならないとあって、甘やかしおねーちゃんモードは封印、厳しくすべきは徹底して厳しく鍛え上げた。おかげで修練に対するストイシズムとか、克己心という点において乕は辰馬と比較にならない。と、いいつつも戦いから離れればやはり、甘やかしたがりの雫がその旺盛な母性本能を発揮しないはずもなく、乕がマザコン気味……というか明確に間違いなくマザコン……に育ったのはやはり教育の賜物による。
この時期までに乕の性格もほぼ形成された。10歳にして170㎝越え、容姿・とくに顔立ちは父のそれをやや男らしくさせたような風貌だが、性格に関してはむしろ控えめでおしとやかな、そのせいで最後まで薄幸だった新羅辰馬の最愛・第一皇妃新羅瑞穗ににてやや大人しく、身体能力や武芸の手腕においてすでに特1級冒険者に比肩しつつも自分を強く主張することがなく、議論となればすぐに自分の言を取り下げ、可能な限り摩擦や争いごとを避ける。「トラちゃんはもーちょっと強引にいったほうがいーよー? ほら、ガーッと!」と雫が促したところで生来の質は変わるものでなく、「いや、僕はそういうのは……ちょっと……」と気弱げに笑う。一人称も一貫して「僕」であり、それ自体やや謙譲的。これはもう性格としてどうしようもないのだが、その乕をして君子豹変させるのが雫に対する侮辱である。
赤帝紀18年、乕が13歳のとき、辺境の郡守による姫狩りが行われたことがあり、たまたま雫はそれに遭遇した。もちろん第2次魔神戦役、そして新羅辰馬の大陸争覇大戦における英雄・牢城雫が辺境のチンピラ貴族とその私兵如きに後れを取るはずもない。ただ雫としては自分から乕のことが露見することは避けたく、その辺境伯に「帝国の正式な命令でもないのに、勝手なことしちゃっていいのかなー?」と、交渉で対処しようとした。これ自体も雫に気概が及ぶことはまずないと考えてよいのだが、このとき雫と不本意ながらも別行動だった乕は大いに激怒し、憤怒し、慷慨(こうがい)した。そして辺境伯邸に乗り込むや、辺境伯とその私兵団をことごとく半殺しにしてしまう。雫が懸命に止めなければ一人二人は殺していたかも知れず、そうなれば犯罪者として手配された乕はすぐに帝国から特定されていただろう。人死にが出ず、彼らを脅迫して口止めできたのはせめてもの幸いだった。というか新羅の親子というのはこういう、自分の大事な女性に関することで、歯止めがきかないほど狂躁的になるところがある。
ちなみに乕は学校というものに行ったことがない。基本的に逃亡と隠蔽しながらの旅暮らしであり、教養と学問のたぐいはほぼすべて雫から相伝したもの。雫自身そこまで学があるわけではなかった……一応、もと教師とは言え体育教師だし、蒼月館2年次における辰馬よりは学があったはずだが3年次で士官学校に入学すべく猛勉強した辰馬に軽く追い抜かれた。ましてやヒノミヤの天才とよばれた瑞穗には及ぶべくもない……ので、乕の学問もやはり、そのレベルに準ずる。地頭がいくらよかろうとやはり、教養にかけるのは弱点。かつて往古の皇帝、百姓(ひゃくせい)の中から頭角を現し至尊についた人物は「文字など名前が書ければ十分」と放言したが、これなど無学者の学問コンプレックスをかえって強烈に印象づける言葉であって、裏では刻苦勉励(こっくべんれい)して密かに学を積んでいるものである。これを真に受けて「あぁ、無学でいいのか」と感じるようではまず先がない。なので雫としてはどうにか乕に正式な学問と教養、そして礼儀作法を望みもしたが、これがなかなか果たせなかった。
とはいえ、そういうものを求めたといっても雫は乕にエーリカを打倒して帝国を奪回施与などといったことも望んだこともない。雫は瑞穂以上に権勢欲というものに対して無欲だったし、乕は乕で雫と一緒にいられれば幸せでありその他大勢の面倒を見て責任を負うという皇帝業に関心をもつこともなかったので、あくまで「生きていくために必要な教養とお行儀」さえ身につけていればよかった。正式の礼儀はともかくとして、その求めるレベルならぎりぎりで越えているといえなくもなかった。
のだが、それがそんな甘いことをいっていられなくなるのは赤帝紀30年、乕25歳の冬。
サトラ・アカツキとサトラ・ラース(旧ラース・イラ)の境界区勁風郡、かつて新羅辰馬が魔人カルナ・イーシャナと渡り合った狼紋地方を含む北方郡のひとつ。そこで乕と雫は、その日も人里を荒らす魔獣を退治していた。
小山ほどもある巨躯、その節々からうじょろうじょろと触手を伸縮させる、単眼の猪を思わす魔獣。ただ、猪の唾液は木や鉄を溶かすことはないだろうし、その吐息が空気を腐らせることもないだろうが、それでも便宜的に適当な言葉がないので大猪と呼ぶ。その前にあって新羅乕は腐毒の息を地を滑るように身を伏せて躱しつつ、間合いを詰める。
詰めながら瞑目。命を刈ることへの謝罪。父・新羅辰馬のように殺すことを後悔していちいち自分を傷つけたりはしない。乕は殺す命に謝って、あとは敢然とそれを刈り摘む。
「はぁぁ!」
手製の槍はやや短く、槍というよりか「半棒」に穂先をつけたもの、という表現が正しい。約1.6メートルという長さは片手でも両手でも、広所も隘路も問わない絶妙の得物だ。すでに魔術というものは前述の通りほとんど絶滅しているわけだが、一応、霊験があるかどうかわからないながら以前しばらく住んだ村にやってきた元・神官という老人から祝福を授かっており、いわれてみれば程度に穂先が煌めきを放つ。
それがただの光の照り返しか、霊験の顕れかはさておき。乕の積んできた研鑽(けんさん)は裏切ることがない。指呼(しこ)の間に入るや大猪は触手をブンブン振り乱し、羽虫をたたきつぶそうとするが、乕はフィギュアスケートを思わせる華麗な動きですべてを回避、槍を頭上で一回、旋回させると大猪の単眼へと投擲する。螺旋を描いて飛ぶ槍は狙い過たず眼球に突き立ち、深く深く刺し貫いて脳髄へと達する。脳をえぐる痛みにのたうつ大猪から槍を回収して飛び退く乕。大猪はしばらく激痛にのたうち回ったが、一分と経たずして脳神経系の崩壊を引き起こし、崩れ落ちた。ずどう、と横倒しに倒れる大猪。舞い上がるもうもうたる砂塵(さじん)の量が、その体格の物量を物語る。
「ふぅ……」
「はいお見事。さすがに堂に入ってきたね~、よしよし」
張り詰めた緊張を解いた乕に、雫がぱちぱちと手をたたく。辰馬相手だったら頭を抱きすくめるところだが、それはしない。父子だからといってやはり、雫にとって乕は辰馬と等質等量の相手ではなかった。
「雫さんに言われてもうれしくないですよ……、その後ろ、山になってるの何体いるんですか?」
うれしくないと言いつつも思わず口元が緩む。雫にとって乕が恋愛対象でなかろうと、乕にとってはそうではないのだ。実父の貴妃だったという話を聞かされても、「だらしなく女々しい父(雫からの話を総合して聞くに、どうしてもそんなイメージでどうして父が大勢の女性たち……雫含む……から熱烈に愛されたのか乕にはさっぱりなのである)より、自分の方が雫にふさわしいと思ってしまう。いわゆる母を父から奪いたいエディプス・コンプレックス的なものがあって、平素ひとと競うことなどついぞない乕は見たこともない父に対してだけは強烈な競争意識を抱いていた。雫に守られることをよしとしていて、そこがまたどぉーしようもなくかわいかった(雫・談)という父の女々しい女たらしのテクがまた、憎たらしい。男ならそういう、弱さで女を釣るようなまねはしないで欲しいものだと思う。
「まあお師匠様としては? 弟子が頑張ってる間にこれっくらいはねー♪ って言ってもやっぱし年かな、このくらいでちょっと疲れちゃった。こんな雪の中だって言うのに汗かくし」
雫はそう言うと、いつものジャケットを恥ずかしげなく半脱ぎしてレオタードの上半身を露出、ハンドタオルでぺたぺたと汗をぬぐう。それを見ないように急速度で首を背ける乕だが、見たいものは見たい。しかしのぞきみたいな真似はするべきではない。いやバレなければ……、バレて嫌われたら死ぬしかない、いや雫さんが人を嫌うとかありえない……とか葛藤しているうちに、雫は下乳やら脇汗を軽く拭いてジャケットを羽織り直す。乕は安心したような失敗したような複雑な気持ちになり、それが表に出て雫はにへら~、といやらしく笑った。半眼ジト目になってずいと近づいてくる雫に、気圧されて乕は半歩下がる。
「な、なん、ですか? 雫さん?」
「トラちゃんさー、いま、あたしのこと見てたよねー?」
「……いえ、見ていませんが。自意識過剰じゃないですかね、そんなに自分が魅力的だとでも? 年を考えた方がいいですよ、雫さん」
つい本心の真逆なことを言ってしまうのは父親に似ていなくもない。雫はそういうところも含めて意地悪したい気持ちになり、しなだれかかるように乕の腕に身を寄せた。
「!?」
「今日はトラちゃん頑張ったから、一緒にお風呂入ってあげよーかと思ったのーにーなー? あー、おねーちゃん一人ではーいろ!」
「え? え? お風呂、一緒に……?」
「入んないよー。トラちゃんはおねーちゃんのこと嫌いだってゆーし」
「ぁ……う……そ、れは……」
顔を青くしたり赤くしたりせわしなく変色させて狼狽える乕に、雫はけたけたと笑う。
「やはは、じょーだんじょーだん。ホントに一緒に入るわけないじゃーん。あたしはたぁくん一筋ですから? たとえ息子相手でも成人男性とお風呂はちょっとー?」
「はぁ……まぁ……そうですよね。心臓に悪い冗談はやめてくださいよ……」
などと語りあいじゃれあいつつ、討伐任務完了の印に魔獣の爪なり毛皮なりを剥ぐのも一苦労。魔法華やかなりしころはギルドから支給のブレスレットが倒した魔物やら何やらを自動でカウントしてくれるシステムがあり、ギルドに腕輪を提出すれば事は済んだのだが現行の技術にそれに代わるものはない。ようやくで家庭用テレビが出回り、洗濯機と掃除機が普及し始めた程度の文明レベルであるから諾(むべ)なるかな。
そうやって、二人黙々と剥ぎ取り作業のさなか。
じゃり、ざり、と。足音が近づく。一人二人のものではなく、人間数十人。それも足並みの整然からして、職業軍人かそれに準じる職業のそれ。
乕が気づいて身を緊張させるが、雫がまったく意に介した風がない。乕に気づける気配を雫が見逃すはずがないから、この近寄ってくる相手に敵意害意はないということなのだろう。
やがて足音がやみ、二人の前に30人ほどの男たちが姿を現す。アカツキ系の人種に近く見えるが、実際のところ肌の色や結い束ねた髪型、まとう甲冑のデザインからして、桃華帝国……トウカ・サトラの軍人らしい。彼らを束ねるのは中背痩躯、顎髭はないが口元には立派な白髯を蓄えた、70がらみの老人。
老人とはいえ背筋はぴんと伸びており、挙措の厳格さは自分にも他人にも厳しい人格を現す。ほかの武臣たちとは違い甲冑で身を鎧っておらず、素服姿だが書生というか軍師、あるいは仙人のふうがあった。
老人が拱手し、膝をつく。髄鞘(ずいしょう)して30人の男たちが、一斉に乕を拝跪した。
「?」
「あー、見つかっちゃったねー……戚さんだよね、30年ぶりくらい?」
「は、貴妃殿下におかれましては昔と変わらずお美しく……かつては私の方が若かったはずですが、あなただけは時間という檻に囚われておられない」
「やはは、まーねー。でもまあ、みんな年取っちゃって変わっていく中で、自分だけ変わんないのもそれはそれで悲しかったりするんだけど」
「雫さん、この方は?」
「あ、そか。トラちゃんは帝国の人と面識ないんだよね……。このひとは戚凌雲さん、もと帝国元帥……もと、だよね?」
「は。今は元帥を退き、趙衙(ちょうが)の郡守に収まっております。ここまで奸悪の僭主(せんしゅ)に面従してきたは、ひとえにあなた方をお迎えする今日のため。決起の時は近うございます」
戚凌運……かつて新羅辰馬と模擬戦大会の決勝を争い、その後大陸争覇大戦の対桃華帝国戦では幾度となく辰馬を危地に陥れた練達の名軍師は、感極まったようにそう言うと改めて乕に平伏する。
・・・
それからはあれよあれよ。乕たちは極秘裏に趙衙に迎えられ、乕は8年間、みっちり教養と皇帝となるにふさわしい立ち居振る舞いを仕込まれた。その間戚の師に当たる呂燦(りょ・さん)将軍の曾孫という少女と面会させられ、明らかに彼女を皇妃に迎えよというサインではあったが雫に操だてしている乕としては断る以外の選択肢がない。再三の見合いを断り続ける乕に戚は「貴方様が想いを懸ける相手は、母に当たるお方ですぞ」といさめるものの、それでも乕が翻意することはなかった。
地下組織の指導者に過ぎなかった戚は8年間でたちまちに勢力を伸張、知略は十分にあったところに、先帝の遺児という錦の御旗を手にしたことで彼の言葉や行動の重みというものが決定的に変わった。つまるところ彼の言葉は「勅旨」となり、ただの言葉ではなく強制力を得た。これにより一挙実力を蓄え人脈を伸ばし、戚と彼が擁立する乕の軍団は公爵とはいえ一郡の郡守には不相応なほどの力を得る。
まずはサトラ・アカツキ解放が大命題。それを果たすには武力ではなく、民の力をもってなす、というのが当初からの計画。広げた人脈をもって旧アカツキの元老院議員、貴族院議員、護民官および全人民を一斉蜂起させ、アカツキ全土40余州を覆すという壮大な策はしかし軍資金の問題で頓挫しかけたが、ここで「錦の御旗・新羅乕」の名を聞きつけて駆けつけた人物がいる。その名を梁田詩(やなだ・しい)。かつて新羅辰馬に仕えた豪商・現帝国海軍元帥・梁田篤の孫にあたる人物で、まだ20代の若さながら祖父譲りの商才と奇貨を逃さぬ眼力をもった具眼の女傑であり、そして山中の末裔として伽耶の裔・新羅家への強い忠誠を誇る忠義の士である。この詩が戚……というより乕に対して全面的な資金援助を持ちかけ、軽く一国の予算10年分に匹敵する家財を傾けた。これによりアカツキ全土に配当金を行き渡らせる財源が確保され、赤帝紀38年(旧皇紀1870)春、深夜に蜂起。もともと、サトラ・アカツキの民は新羅辰馬は歓迎したもののエーリカ・新羅・ザントライユは認めていないものが多い。すでに完璧な形で根回しを済ませていた戚の手際で盤面は見事に一挙覆り、あとはくべた火をどう操るか。そのあたり兵を率いてやりこなすことに関して戚という男は紛れもなく天才であり、そして年経たことによる経験は才能に円熟を加えた。なまなかの相手が彼に比肩髄鞘(ひけんずいしょう)できるはずもなく、戚は各路に兵をおいて抵抗する帝国新支配体制派の郡守たちを同時多発的に連破、ほぼダメージらしいものを被ることなくサトラ・アカツキと旧皇城柱天を解放してしまう。かつて新羅辰馬をおおいに苦しめ、配下となってからは大いに貢献した男は健在を示し、帝国新支配体制派の若手将校たちは伝説再来に恐怖で震え上がる。この間新羅乕と牢城雫がやったことは本陣にあって泰然自若を見せる役であり、民と兵に勇気と安心感を与える効果はともかくとして実質何もしていないに等しい。そのため「今からあなたが皇です」と言われても困惑するのだが、その要請は冗談でなく、すでに後戻りできないところに来たことを乕は悟らざるを得なかった。
かくして今。新羅乕は衆に推戴されて帝位に就く。33歳にして皇位に座した赤竜帝国正統の後継者に戚や往事の新羅辰馬を知る老臣たち目を細め、雫はうんうんと頷く。周囲の「皇帝万歳!」に圧倒されていた乕だが、やがて驚きから醒めると彼らの命をあずかる、という自覚が湧き、それは皇帝としての自覚に繋がる。とはいえまだまだ新人に過ぎない乕としては、軍務政務のすべてを軍務政務の練達、戚に任せるほかないのだが。
「これで……ひとまず足がかりにはなりますか……」
「ですな。しかし、こうなると帝国も黙ってはおりません。訓練の足りぬ兵で、帝国正規兵とどこまで渡り合えるか……敵が本腰を入れる前にどれだけ、帝国内部を切り崩して味方につけることができるか、ですが……」
「やはり、厳しいですか。先生の知謀をもってしても?」
「知略も兵法も万能の技ではないですからな……。用兵の技であれば、私は大元帥・妙染焔にも負けません。しかし政治上の駆け引きということになると、僭称の女帝、あれは別格の怪物です。こちらが切り崩しに出ることは予想されると考えてしかるべきですし、それでもこちらにほかの手がないことも読まれてしまうことでしょう。こちらとしてはその裏をかきたいところですが、政略という面に関しては私はあの女帝に遠く及びません」
「んーと……大輔くんとかをこっちに引き込めばいーんだよね? 行ってこよっか?」
雫が挙手すると乕が目に見えて狼狽える。皇帝は盤石の泰山でなくてはならず、乕という山を忽せにしないためには雫と引き離すことは絶対の愚策。よって戚は説得役としておそらく最適任である牢城雫の派遣を考えから外した。
「その必要はございません。旧赤竜帝国貴妃として、民たちを慰撫(いぶ)なされませ」
・・・
同じ頃。帝都ザントライユ。
「この内乱、鎮圧は私に任せていただきたい」
円卓を囲む大将たちの中から、朝比奈大輔が立ち上がる。
「真に赤帝の子であれば。赤帝の友であった私が情理を尽くして諫めればわかりあえるはず。この任、私以上の適任はないかと思うが?」
70歳となってなお空手の鍛錬は怠らず、胸板厚く矍鑠(かくしゃく)と、直立した頭はわずかとも浮かず沈まず、武毅の老臣はまず口火を切って若手の将帥たちを睥睨(へいげい)する。将らはなにか言おうとして元老の威に口をつぐんだが、女帝エーリカがかぶりを振った。
明染焔と上杉慎太郎は現在、海を越えて新大陸遠征に出征中。残る元勲で武臣というとこの朝比奈大輔と、あとは北嶺院文(ほくれいいん・あや)、本田姫沙良(ほんだ・きさら)だが、彼らは駄目だ。おそらく新羅辰馬の息子という、それだけでエーリカに背く理由になる。使うべきは新羅辰馬に縁が無い将軍ということなるが、かつて才覚の光芒を見せた人間というのは須く新羅辰馬に接触し、その人的魅力に籠絡されている。そもそもがエーリカ自身からしてそうなのだから、推して知るべし。
ゆえに老練老巧の将は、まず使えないということになる。
(まあ、帝国の層の厚さ、見せてあげるとするわ、新羅乕、牢城センセ……)
「ハゲネ・グンヴォルト、ヘラクリウス・オクタヴィア。卿らを大将に昇遷(しょうせん)、今回の内乱討伐の指揮を委ねます。拝命なさい」
「はッ、拝命します!」
「女帝陛下の御心のままに!」
ヴェスローディア王国でエーリカの武芸師範をつとめた騎士・ハゲネの同名の息子と、旧神国ウェルスの聖騎士団屈指の名将の血筋。ハゲネは乕と同年で33歳、ヘラクリウスに至っては28歳と若いが、将才は士官学校校長を兼ねる本田姫沙良が称えたほどだ。ハゲネは堅実で隙のない用兵から朝比奈大輔の後継と目されるし、ヘラクリウスはまだ荒削りながらいったん勝機をつかむや決してそれを逃さない戦術眼の確かさをもつ。
「大将軍印璽と兵員80万を授けます。身の程知らずの虎に、竜に挑むことの愚かさを教えてあげなさい!」
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