第20話

「当主様」


 侍女の一人からの声に、彰比古は読書を止めて顔を上げた。


「どうした」


 隠形して控えていた紅姫も険しい表情で顕現する。それを見た彰比古の胸に嫌な予感が走る。

 襖を開けると、侍女がその傍で端座し、すっと頭を下げた。


「来客に御座います」

「村人か」

「ええ」

「客間に通せ。俺も向かう」

「はい」


 早足で客の対応に戻る侍女の背を彰比古がゆっくりと追う。紅姫も顕現したまま彰比古の後に続く。

 客間に足を踏み入れると、蒼白な顔をして座る若い女がいた。


「確か、其方は」


 女には見覚えがあった。数年前、妖に攫われて犯されそうになった娘だ。その時は、間一髪で彰比古が救い出した。

 妖の中には同族ではなく、わざわざ人の女を攫って子を産ませる種類も存在する。そのような目に遭った娘が無事でいられる可能性は極度に低く、犯されて子を孕んでしまえば十中八九心が壊れ、母体が回復することは有り得ない。ただただ、妖を産み落とすためのはらとなり、難産を乗り超えて産み落としたとしても、自らの子に喰い殺されるという悲惨な末路を辿ることとなる。

 そんな運命を辿りかけた女が、今度は何があったというのか。


「その節は、大変お世話になりました。お陰様で、今では幼馴染と夫婦となり、昨年の末に娘も生まれました」

「それは良かった」

「おめでとうございます」


 彰比古がほっと息を吐き、紅姫も慇懃に祝いの言葉を口にする。

 因みに、まだ乳離れもしていない幼い娘をここに連れてくるのは気が引けたらしく、今は同居している両親に預けているらしい。

 ならば早く帰してやらねばと、彰比古は早速本題に入った。


「で、何があった」

「当主様。これは、相談なのですが……」


 何でも、最近裏山で妖達がざわめいていると言う。そのざわめきは、娘が火が付いたように泣き出してしまう程のもので、夫もまた妻が攫われるのではないかと懸念している。そのため、妖除けの符を貰い受けたいと。


「私がここまで外出することすら、夫は渋っていました。しかし、夫は村ではなく、街で働く身。なかなか休みもありませんから」

「なるほど。危険を冒してまで来てくれたか。無事に着いて良かった。そういう事情ならば、帰りは俺の式が護衛しよう。……紅姫、いいな」

「承知致しました」


 紅姫に目を向ければ、紅姫はすっと頭を下げて命を引き受けた。


「あと、妖除けの符も希望通り用意しよう。それと娘が生まれた祝いの品も必要だな。……そうだな。妖が嫌う香も持っていくと良い。赤子が嫌うような匂いではなかったはずだ。もし嫌がるようなら捨ててしまって構わない。ああ、お代は気にするな。其方の娘が健やかに育てば、それで良い」

「そんな! いくら何でも、そんなに頂けません!」

「気にするな」


 村人との信頼関係を大切に。貧しい者が困っているのであれば、代金など気にせずに助けてやれ。

 祖父がよく口にしていた言葉だ。圧倒的な能力を持つ者は、力なき者を助ける義務があるのだと。

 侍女に指示を出して件の品々を揃えると、紅姫がそれらを纏めて風呂敷で包み、両手で抱え、立ち上がる。


「早くお帰りにならねば、娘様が寂しがられましょう。帰路は私めが護衛を務めさせて頂きます」

「何から何まで……本当に、ありがとうございます」

「家族円満に暮らすのだぞ」

「はい。勿論に御座います」


 紅姫に付き添われて客間を出ていった女の背を見送りながら、彰比古は袖の中で腕を組んだ。


「……妖のざわめき、か」


 嫌な予感が止まらなかった。


 ***


 どんよりと分厚い雲が空を覆っていた。雨の匂いこそしないものの、空気は湿気を多く含んでいて、ねっとりと肌に絡んでくるかのようだ。

 家までの近道だという畑の畦道を二人で歩く。


「紅姫様は、前当主様から現当主様の式神様になられたのですか?」


 女の問いに、紅姫は静かに肯定する。


「はい。今は彰比古様が我が主に御座います」

「そうですか……」


 あまり会話が続かない。身内ではない人間との会話が不得手な紅姫である。

 何かこちらから話題を振るべきかと思い悩んでいると、肌を刺すような殺気を感じ取った。


「っ!」

「紅姫様?」

「……失礼。走ります」


 女の手を掴み、仕掛けられる前に駆け出す。背後から無数の邪気が迫ってきていることが感じられる。まだ距離があるものの、詰められるのは時間の問題だ。


「家まではまだ掛かりますか⁉」


 走りながら問えば、女は息を上げながら答える。


「は、はい! もう、すぐそこですが……っ」

「ならば、良かった」


 紅姫は躊躇いなく指の皮膚を食い破った。じわりと滲んだ血を認め、女に声を掛ける。


「止まります!」

「はい……!」


 曇り空の彼方に妖の群れが見える。女が見ては怯えるだけだと思い、紅姫は女を真正面から見据えた。背後から近づいてくるものを見せてはならない。ただでさえ、この人は妖に犯されかけた経験がある。どこまでされたのかわからないが、妖の、特に邪悪な妖の姿は見るだけで嫌な記憶が蘇ってしまうことだろう。それは出来れば避けたかった。


「べ……紅姫、様?」


 出産してから走ることなんてなかったのだろう。女の息が上がっていた。


「申し訳ありません。疲れましたよね。……少し、我慢して下さい」


 すると、紅姫は女の額に掛かった前髪を退けて、そこに指から滲む血で横一文字を描いた。


「これでしばらく妖から姿が見えなくなるはずです。いいですか。私は妖の討伐に向かいます。貴女は、急いで帰って、帰ったら戸をしっかりと閉めて、主様から渡された符と香を準備して、大人しくしていて下さい。そうですね。一晩で片を付けましょう」


 女の顔から血の気が引いた。やはり、妖が恐怖の対象となっているようだ。


「あ、妖が……向かって来ているのですか?」

「ええ。貴女が狙いなのか、私が狙いなのか、わかりませんが。しかし、このまま私が貴女と共に御宅に伺ったとしても、妖まで連れて行ってしまうことは必然。……貴女の娘様を危険に晒す訳にはいきませんから」

「っ……わかりました」


 娘の存在を示唆されたからか。女の顔から恐怖が消え、母の顔になった。何をしてでも我が子を守り抜く、母親の顔だった。


「紅姫様、ここまで送って頂き、ありがとうございました。どうか、お気を付けて」

「ええ。貴女も。……今度は、旦那様や娘様も一緒に遊びにいらして下さい。主様、子供の相手は不得手ですが。歓迎致します」

「はい」


 紅姫は女に符と香の入った風呂敷包みを渡し、駆けるように促す。女は一つ頷いて、家に向かって駆けて行った。

 女の背が森の方に見えなくなると、紅姫は空を見上げた。


 女。

 女。

 女。


 術師の、女。


 嗤い声が天を覆う。


「狙いは私か……!」


 丁度良い。

 紅姫は地を蹴って跳躍し、妖の群れと対峙する。戦装束ではないため、機動力に欠けるが、あの程度の数なら殲滅出来ると踏む。


 若造の女。

 造り物の女。


 造り物でも、爺の造った女ならその肉は美味いはず。


「チッ、下衆共が」


 柔らかな頬。

 柔らかな胸。


 嗚呼、いっそ犯しながら喰ってやろう。


 不愉快極まりない歌に、紅姫は蟀谷をピクリと動かす。


「好きに言わせておけば……!」


 ***


 それが、始まりだった。

 術師と邪悪な妖による全面戦争。

 戦の火蓋が、この些細な衝突を切っ掛けに、切って落とされることとなる。

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