第17話

 紅姫の瞳が霊力のように澄んだ水色に変化した。莫大な呪詛の形、その在りよう、気の流れ、滞り、全てを見通していく。そして、仕留めるべき箇所を正確に推し測る。

 政彦を護るために造られた優秀な殺戮人形。その本質は、相手を的確に、最短時間、最低攻撃回数で殺めること。


「……攻撃箇所、必要回数、把握」


 紅姫は本気を出すと人格を犠牲にし、無機質な口調に変化する。彰比古は、普段の小言を零す紅姫も好きだが、この己の本質に忠実な姿も存外好ましく思っていた。人間として受肉してしまえば、失われてしまうであろう性質であるが、彰比古は人形としての紅姫もこの上なく愛おしい。


「若様」


 紅姫が彰比古に視線を向ける。許可を求めるように。

 彰比古は頷いた。


「祓え」


 紅姫が地を蹴った。

 そして、陰気の靄の中に懐刀を手にした腕を突っ込む。気が凝っている箇所を的確に斬り、抉り、潰していく。

 刹那、靄が大きく膨れ上がり、紅姫の身体を呑み込んだ。邪気の奔流に全身を呑まれた紅姫は一瞬だけ苦痛に顔を顰めたが、好機と見て得物を強く構え直す。そして、自身の霊気を周囲の邪気に同調し始めた。隠形する時と同じように、周囲の気と自身の気を融合させていく。

 同調するごとに、女達の嘆き、哀しみ、怒りといった負の感情が体内に流れ込んでくる。その激しい精神的苦痛は、耐え難い肉体的苦痛をも生む。身売りの女が抱える負の感情を全て細い肢体で受け容れていくしかない。そうしなければ、呪詛の深淵には辿り着くことが出来ない。胸に走る激痛のままに生理的な涙を流しながら、紅姫は呪詛の核へと深く深く潜り込む。

 もはや、異世界であった。

 自分がどこにいるのかも忘れそうになるほどに、紅姫は呪詛の中に侵入する。


「……若様」


 己を見失ってしまった瞬間に、自らも女達の呪詛に成り果てる。精神汚染ぎりぎりの境界を保つため、紅姫は外部で待っているであろう男を呼ぶ。

 そして、奈落に堕ちるように、呪詛の深淵へと潜っていく。遊郭全体を侵す呪詛の基幹と思しき邪念を的確に斬り伏せながら、呪詛の核へと迫る。


「あの娘は」


 黒々とした空間の奥底に、座り込む少女の姿を認めた。

 虚ろな目で遠くを見ている。そして、その紫色の唇からは悍ましい呪歌が零れていた。


「死に絶えろ。殺してしまえ。亡くしてしまえ。永久に囚われ、呪い給え。全て、呪いに還り給え」


 口から吐き出されるものは果てしない怨嗟。自身の生への執着、無念、怨念。それらを込めた言葉は、莫大な呪詛を築き、女達の無数の魂を捕らえている。


「……」


 呪詛の底に足をつけた紅姫は気付く。


(この娘、泣いているのか)


 呪歌を口ずさみながら、娘は涙を流していた。光のない瞳は虚空を眺め、目尻からはひたすらに透明な雫が溢れる。細い滝のようなそれは、頬をなぞっては顎から滴り落ちるも、それは娘の纏う着物に着地することなく、虚空で呪詛の一部となって消えていく。


「…………あなた」


 娘が紅姫の存在に気付いた。泣きながら紅姫を見上げる娘の目にも、声にも、悪意や邪気の類は一切感じられない。ただただ、自身の不運を嘆き、それに囚われているだけのようだ。


「……」


 紅姫はそっと懐刀を構えた。人であれば、彼女の心理的苦痛を対話によって取り除こうとすることであろう。しかし、紅姫は式神だ。主の命に従うだけの存在である。

 彼女を救済する術は一つしか持たない。

 しかし、紅姫は刃を振り下ろす前に、ぽつりと尋ねた。


「良いですか」


 抑揚のないその問いは、殺戮人形としての紅姫ではなく、人格としての紅姫のもの。救いの手段を変えることが許される立場ではない。だから、せめて。


「……ええ」


 娘が問いに対して頷く。疲れ切った表情をしていた。もう、終わりたいと言いたげに。

 嘆きのあまり呪詛を生んだ娘は、自身も既に暴走する呪詛に囚われてしまっていた。呪詛からの解放を、望んでいた。


「わかりました」


 紅姫は娘の許可を得ると、躊躇いなく刃を振り下ろした。


 ***


 呪詛の終焉。すなわち、世界の崩壊。

 紅姫は核を失って解体されていく呪詛の様を揺蕩いながら眺めていた。

 魂を斬ったというのに、紅姫の顔面から上半身には、どす黒い鮮血が掛かっていた。血の臭いが鼻につく。


「……この者らに」


 黒い世界に光が差す。女達の悲哀が止まる。

 そして、永らく呪詛に囚われていた魂達が、本来在るべき彼岸へと向かっていく。

 その様を見届けながら、紅姫は静かに祈る。


「どうか、安寧を」


 ***


「紅姫!」


 紅姫がうつつに戻って来た。呪詛から転じた眩い光の中から紅姫の腕が出てくると、彰比古は躊躇いなくそれを掴んで引っ張り出した。そして、女達の血に塗れた細い体躯を抱き締める。


「紅姫、無事か⁉ ……無事のようだな」


 まだ意識が安定しない紅姫は、強く抱き締めてくる彰比古に返事をすることもできない。しかし、自分が戻って来たことを自覚し、まだ力の入らない腕を無理矢理に動かして彰比古の背を撫でる。


「紅姫?」


 彰比古が抱き締める腕の力を緩め、紅姫の顔を覗き込む。無数の血痕の残る顔が微かに笑った。


「ただいま……戻りました。彰比古」

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