第14話

 政彦が廊下を歩いていると、侍女や女中達が少々気になる話をしていた。


「最近、彰比古様がお部屋に籠りっぱなしのようで」

「あら……紅姫様の不在で消沈されて?」

「これが違うみたいなのよ。時々、障子を開けて空を見上げては、また文机に向かわれて。何かの作業をしているようだけれど、私にはさっぱり……」

「紅姫様不在の折に、何かの修行でもされているのでしょうか」


 それを聞いた政彦は視線を滑らせて孫の意図を考えてみるも、それはすぐに思い当たった。


「……そういうことか。あの阿呆」


 昔から占術は地味でつまらない等と抜かしていたくせに。きっと、毎夜苦労しながら星を見ているに違いない。


「さて、占術嫌いに、あの特殊な命運が読めるのか……」


 その時だった。背後にある彰比古の部屋の障子が勢いよく開け放たれて、焦燥に駆られた当人が飛び出してくる。


「紅姫ッ……!」

「あ、彰比古様⁉」


 女中が驚きながら彰比古を咎めようとするのを政彦が扇子を振って止める。


「良い。今回は放免にせい」

「旦那様」


 見る限り、最低限の呪具しか持っていないようだ。まあ、道具がなくとも、あれはどうにかしてのけるだろう。

 政彦は口元に扇子をやり、そっと笑みを浮かべた。


 ***


 紅姫が遊郭潜入を開始して、ひと月半が経過した。

 稽古事や不規則な生活にも慣れてきて、時折やって来る昭人と会話をする。そんな日々を送っていた。

 ある晩、いつも通り雑談を交わしにやって来た昭人は珍しく酒が入っているようだった。顔が上気しているし、少し足元もふらついている。


「昭人様? お酒を召し上がっていたのですか」

「ああ……」


 相手は両替商の若旦那。仕事で酒を交わすこともあるのだろう。

 そんな風に予想して、紅姫は昭人を部屋に招き入れる。

 寝具が用意されているが、これは形式上のものに過ぎない。昭人はいつも、床には目もくれず、窓辺に座って紅姫との会話を楽しむだけだった。

 紅姫は酔い覚ましにと、水を渡す。


「どうぞ。酔っていては、今宵のお話を忘れてしまうやもしれませぬ」


 昭人が頷くような仕草をしながら、湯呑を受け取った。

 その時、彼の視線が一瞬紅姫の瞳を捉えたのだが。


(……?)


 何か、いつもと違うような気がした。

 普段見せる穏やかな眼差しではない。刺すような、鋭い視線を感じた。酔っているせいだろうか。

 渡された水を一気飲みした昭人は、何かを振り払うように額に手を当てて緩く首を振った。酔いを払おうとしているのだろう。

 違和感を無視し、紅姫は昭人の近くに腰を下ろす。


「して、今宵はどのようなお話を」


 その瞬間。


「紅」


 昭人の腕が紅姫に向かって伸ばされ、細い肩と腕が捕らえられる。


「っ、昭人様?」


 勢いのまま畳に身体を押し付けられ、上から昭人が覆い被さってくる。


「……私は、貴女と仲良くなりたいと、言いました」

「……」


 昭人の瞳を見上げ、紅姫は息を呑んだ。その瞳は切なげに揺れ、その奥に宿った炎が垣間見える。これまで抑えてきたのであろう男の情欲が紅姫を捉えた。


(これは、まずい)


 式神でありながらも、紅姫は女として本能的に貞操の危機を悟った。

 抵抗は容易にできる。何せ、凶暴な妖や怒り狂った神にも対抗し得る身体能力が備わっているのだから。

 しかし、今の紅姫は、それが許される立場ではない。このような事態に陥っても、受け入れるしかないのだ。私情で抗ってしまえば、潜入の意味がない。


(諦めて、受け入れる)


 自身が下手な真似をしないよう、紅姫は身体の力を意図的に抜いた。外から聞こえてくる喧騒が、やけに小さなものに感じられた。じとりと、嫌な汗が背を伝う。

 それを了承と受け取ったのか、昭人は紅姫を抱え上げて、床に移動する。

 柔らかな布団に押し倒されると、嫌でも唇が震えた。


「怖いですか」

「……」


 口を開けば拒絶の言葉を放ってしまいそうで、紅姫は無言で昭人を見上げるしかない。


「貴女とは随分と逢瀬を重ねた。……私も、もう限界なのです」


 こうなる日が、いつか来るであろうと頭の片隅で分かってはいたのに。

 いざ、その時が来ると紅姫は身体が強張るのを抑えられない。


「……そのような目は、男を煽るだけですよ」


 目の脇辺りを親指で優しく撫でられる。

 恋は盲目というが、何でも都合よく受け取られるのも困ったものだった。

 別に、紅姫は昭人を煽るつもりもなければ、誘うつもりもない。

 昭人の理性が崩壊したがために、このような状況に陥っているだけだ。


「紅……」


 額、頬、耳、首筋に唇を落とされ、鳥肌が立つ。


「あっ……」


 嫌でも声が零れた。

 昭人の唇が満足そうに弧を描き、更に下へと向かっていく。

 そして、胸元に手を掛けられた刹那だった。


「紅姫ッ!」


 スパンと勢いよく襖が開かれ、聞き慣れた声が飛んできた。


「ッ!」


 不覚にも、紅姫は安堵してしまった。緊張の糸が切れ、じわりと目元に涙が滲む。

 怒りに我を忘れかけた彰比古は、部屋にズカズカと入ってくる。そして、動揺する昭人を容赦なくぶん殴った。

 さして身体を鍛えていない商人の身体は簡単に吹っ飛んで壁に突っ込む。


「紅姫……!」


 半泣きの紅姫を抱き上げ、彰比古は強く抱き締める。


「若、様……」

「すまない。占術が下手くそでな。出遅れた」

「しかし、これでは任務が」

「知るか。クソジジイの指示など今は忘れろ」

「若様! 不在とはいえ、主様に向かって何という」

「いいから今は黙っていろ!」


 紅姫の身体から、紅姫の髪から、知らない男の匂いがする。

 その事実に彰比古の腸は煮えくり返りそうだった。

 男にあばかれかけて怯えているくせに、まだ潜入の件を気にする紅姫の口を自分ので塞ぐ。


「んッ……!?」

「ッ……はっ、今は何も考えるな。ッ……」


 舌と唾液、腔内の粘膜を通して、彰比古の霊力が紅姫の体内に注がれていく。想い人を奪われかけた彰比古の苛立ちと独占欲が込められた口付けだった。

 拒まねば。今はこんなことをしている場合ではない。紅姫の理性は必死に叫ぶ。

 どうにかして彰比古を押し返そうと、弱々しくその胸に手を当てれば、瞬時にその手を取られて、指を絡められる。

 それだけで、紅姫の身体が大きく脈打つ。心ノ臓が存在しない肉体だというのに、大きな鼓動のような衝撃が全身を駆け抜ける。

 思考が霞みがかり、腹の下に甘い痺れが走り始めたところで、ようやく彰比古の接吻が落ち着きを見せた。


「そんなに……ッ、仕事の話がしたいか」

「だって……!」

「なら、手短に言ってやる」


 ようやく唇が離される。つうっと互いの舌から唾液が垂れ、紅姫は見ていられずに視線を逸らす。

 彰比古がそれを手の甲で雑に拭うと、紅姫を抱いたまま低い声で告げた。


「そこで伸びている男はタラシで有名だそうだ」

「は……?」

「様々な遊郭や花街を渡り歩き、何人もの女を囲っている」

「……」

「お前だけを愛している等とほざきながら、実際は何人もの娘を垂らしこんでいる屑だ。それに、この男、本当はここらの遊郭で出禁らしい」

「そうなのですか?」

「ああ。ここの楼主は金を貰って入れていたようだがな。……まあ、女達は知る由もないだろう。……さて、さっさと死病の原因を叩いて、こんな所からおさらばするぞ」


 そう言いつつ、彰比古は口の中で時雨への恨み節を呟く。

 このような胡散臭い青楼に斡旋するとは、どういう意図があったのやら。死病は遊郭全体に広がってしまっているものであり、潜入する青楼はもっと選びようがあったはずだ。


「……」


 すると、腕の中にいる紅姫がやけに大人しいことに気付いた。

 彰比古は紅姫の顔を覗き込んで問い掛ける。


「どうした。……まさか、もう手を出された後だったと言う気か?」

「そ、そんな! 違います!」

「なら、何故そんなしおらしく」

「……当たり前、でしょう」


 ご自身が私に何をされたのか、忘れてしまわれたのですか。

 顔を真っ赤に染めて、責めるような口調をする紅姫。

 すると、彰比古の胸に衝撃が走った。心ノ臓を掴まれるような衝撃を紅姫の身体を抱き締めることで耐える。いや、これではむしろ悪化しそうだ。

 騒ぎを聞き付けた店の者が来る前に退散したいのだが、参ったものである。

 今宵で全ての決着を付ける気でいた彰比古の決心は、いじらしい紅姫によって瓦解しかけていた。

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