第13話

 てっきり問答無用で床に連行されると思っていた紅姫は男の言葉に瞬きした。


「え」

「おや、私がいきなり貴女を求めると思いましたか」


 紅姫はハッとして頭を下げる。


「お客様に、失礼なことを」

「気にしなくて良いのですよ。ここにはちょくちょく顔を出していますが、貴女の顔を見たのは初めてですね。新しい新造ですか」

「はい。……紅と申します」

「良い響きの名ですね。私は昭人あきとと言います」


 その名を聞いた刹那、彰比古の顔が脳裏に浮かんだ。

 遊郭潜入に反対したくとも、それすら許されず、打ちひしがれて俯いていた男の顔が。

 ほんの少し音の似た名を耳にしただけで、紅姫の頭の中には彰比古の顔や何気ない仕草、これまで起こった騒動の数々が甦ってきた。


「っ……」


 動揺を表に出すまいと唇と強く嚙む。


「貴女とは、仲良くなれる気がします。むやみやたらに、女を抱くことは趣味じゃない。……私と話し相手から始めては頂けませんか」


 何の反応もない紅姫の様子に焦れたのか、昭人が紅姫の手を取る。

 そこで、紅姫も我に返った。


「……」


 ここで拒んでしまえば、潜入調査の支障となる。

 頭の中に浮かぶ彰比古の微笑みを振り払い、紅姫は艶やかに微笑んで見せた。


「貴方のような、お優しい方とお話出来るなんて、ほんに嬉しゅう御座いますわ」


 この選択を、後に紅姫は酷く後悔することになる。


 ***


 それから、本当に昭人は紅姫に手を出さず、和やかに茶を飲んで、ひとしきり紅姫と話しただけで帰って行った。

 その様子を見た藍妃は目を丸くした。


「昭人さんと言えば、最近景気のいい両替商の跡取りじゃないか。顔も性格も良くて、あの人が身請けしてくれたらって懸想する女は多いよ?」

「そうなのですか」


 潜入における人間関係を円滑にするため、邪険にしなかったのだが、これは本気になられたら厄介なことになりそうだった。両替商の若旦那では、身請けも現実的なものとなり得る。

 紅姫が対応策を考え始めた時、廊下の向こうから振袖新造の娘が小走りにやってきた。その顔はとても焦っているように見える。


「どうしたんだい?」

「私の……私の姐様が、急に倒れて……酷い熱なんです!」


 紅姫の顔が引き締まる。ようやく機会が巡ってきたようだ。


「……このことを、他に知っている者は」

「いえ、まだ……」

「なら、他言は無用だよ。部屋に戻って休みなさい」

「……はい」


 藍妃は振袖新造に指示を出すと、困ったように紅姫を振り返った。

 やはり、熱病については触れられたくないらしい。


「早く元気になられるといいですね」


 紅姫が警戒されないように当たり障りのない反応を返せば、藍妃は鬱屈とした表情でそれに応じた。


「……そうだね」


 その顔は、助からないことを悟っているようだった。


 ***


 翌日、紅姫は熱病を発症した遊女に付いていた振袖新造の元を訪ねた。無論、昨夜の話を耳にしてしまった以上、人として心配をする体を装って、死病の原因を探るためだった。


「あら、紅ちゃん」


 慕っている姉貴分が臥せっているせいか、娘の顔色は酷いものだった。あの後、恐らくは一睡もできていないのだろう。目の下には濃い隈ができていた。


「お姐さんの容体は?」

「意識が戻らないみたい……うつるから隔離されていて、看病することもできない」

「性病の類かしら……」


 そう呟くと、娘は力なく首を振った。


「お姐様、近々間夫の方に身請けされることが決まっていたの」

「え?」

「だから、もうすぐここから出られるって楽しそうにしていたのに……なんで、こんなことに」


 紅姫は姉貴分を案じて泣く娘の肩を優しく撫でてやりながら、先程の発言を胸の中で反芻していた。


(間夫に、身請け……か)


 自由に身動きが出来ない状況下でも、この情報は有力なものであると紅姫は察していた。


 ***


 早朝。紅姫は皆が起き出す前に遊郭の外れにある小さな社へ向かっていた。そして、澄んだ空気の中に佇む青年を見つけて声を掛ける。


「宗昌殿」

「久しいな。紅姫」

「息災そうで何よりです」

「そちらこそ、まだ無事そうだな」


 待ち人は彰比古の従兄、宗昌であった。

 かなりの早朝であるにも関わらず、宗昌は眠気を一切見せず、小振りな鳥居の傍に立っている。気配を散らしているのか、存在感がひどく希薄だった。これこそ、接触役に相応しい立ち振る舞いと言えよう。

 それにしても、この遠慮のないズケズケとした物言いを聞くのも随分と久方振りだ。


「まさか政彦様が情報交換役に俺を指名されるとは思わなかった」

「……あの方は危惧しておられるのでしょう。若様では、そのまま私のことを連れ帰りかねない」

「ああ。政彦様や貴女の危惧するところを、実際にやる気だったようですよ。あの阿呆たれは」


 宗昌が遊郭に潜入している紅姫との接触役を務めると耳にした彰比古は、それはもう、あからさまに舌打ちしたらしい。ついでに、苛立ちのまま屋敷の柱をぶん殴って、古参の女中にこってり絞られたとか。


「しかし、この程度のこと、式に任せてしまえば良いものを。政彦様も酔狂な方だ」

「主様は、この死病の原因が、どこぞの術者である可能性も疑っております。式では、襲撃された場合に対抗手段が限られますから」

「では、俺は戦力になると思って頂けているということか。光栄だな」


 暫し軽口を叩いた後、紅姫は本題を口にした。


「私が潜入を始めてひと月。死病に冒される遊女の共通点を見つけました」

「本当か」

「はい。……皆、身請けが近かった模様です」

「何だと」

「身請けの時期は皆異なりましたが、そのような話が打診されている遊女のみに、今のところ発症が確認されております。私が潜入してからは、まだ犠牲者は出ておりませんが、それも時間の問題かと」

「これは元凶を早めに叩く必要がありそうだな。……わかった。朝早くに報告ご苦労、紅姫。戻って身体を休めよ。今宵も仕事なのだろう?」


 紅姫は微かに苦笑を零す。


「仕事、というよりはまだ修行中の身と言った扱いですが」

「その方がいい。お前が何処の馬の骨とも知れん男に脚を開いたと知れば、彼奴は我を忘れて此処に殴り込むぞ。きっと」

「そんなことにならなければ良いのですが……無理でしょうね」


 紅姫は困った様子で深く溜息を吐き出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る