第11話

「謹んで、拝命致します」


 紅姫は頭を垂れて主からの命を受け入れる。

 それを見ていた時雨が立ち上がった。


「潜入の手筈は私が整えましょうか。当主様、この娘を借り受けても? 準備があります故」

「私の式神を頼みましたぞ」

「はい。……では、付いてきなさいな」

「畏まりました」


 紅姫は素直に時雨の後を付いて屋敷を出て行く。政彦も占術で病について調べるため、自室に引っ込んでしまった。

 その場に残ったのは、散乱した花札と中途半端に開いた酒瓶、飲みかけの盃。そして、自身の無力さに打ちひしがれる彰比古だった。

 どんよりと重い空気。雲に覆われた夜空。ついには、雨も降って来た。一瞬で豪雨となり、轟音が縁側に響く。

 彰比古は地面に打ち付けられて跳ねた雫を身体に受けながら、床を拳で思い切り殴った。


「クソッ!」


 紅姫の肉体では、きっと禿として潜入することはできないだろう。つまり、客を取る遊女になる必要が出てくる。


「……紅姫」


 彰比古の瞳に苛烈な光が宿った。


 ***


 営業開始前、早朝の遊郭はどこか疲弊した雰囲気があった。


「へぇ……時雨さんの紹介というから、どんな色っぽい子が来ると思ったら。随分と可愛らしい子じゃないか」


 潜入先の青楼せいろうに時雨の紹介で挨拶に向かった紅姫は、目の前に座っている楼主の不躾な視線を真正面から受け止めた。

 静かな水面のような、一切の動揺も、怯えも見えない紅姫の目を見て、楼主は一つ頷いた。


「ふむ。……なかなか、肝が据わっている」


 そう呟くと、楼主は紅姫に話を振った。


「何故、ここに?」

「私は両親を事故で亡くし、行き倒れていたところを運良く時雨様に拾って頂きました。……実は、父が生前に多額の借金をしていたことが判明致しまして、一人娘である私が返済せねばなりません。恩人である時雨様にご迷惑をお掛けする訳には参りませんので、ここで働かせて頂きたく。確実に返済できる手は、春を売るしかありません」


 紅姫は苦渋に満ちた表情で事前に決めていおいた設定を楼主に訴える。

 楼主は紅姫の設定を違和感なく信じてくれたようで、ふむふむと頷いている。


「ところで、経験はあるのか?」


 楼主の直球な質問に、紅姫は俯いた。


「それが……全く以て」

「生娘か」


 楼主は少し困ったような顔をして顎を指で擦る。


「十八の生娘……時雨さん。なかなか癖のある紹介じゃないか」

「そうかもしれないけどね。この娘、将来有望だよ。少し芸を仕込んでやれば、きっとこの店の看板になる」


 時雨の言葉は楼主も思っているところだったらしく、少し考え込む仕草をして黙る。

 紅姫はその隙に、隣に座る時雨を見上げたが、時雨は口の動きだけで「まあ、見てな」と告げた。

 すると、楼主が決断したのかポンと膝を叩いた。


「……わかったよ。時雨さんがこれまで紹介してきた娘で、売れない娘は居なかったからな。いいだろう。留袖新造として勤めるといい」

「ありがとうございます。これからお世話になります」

「ああ。……時雨さん。この娘、芸事は素人のようだが、教養の方は?」

「そちらもあまり詳しくないから、暫くは姐さんの傍で学ばせてやってくれないか。家事の吞み込みは良かったから。勉強だって、きっと上手くやる」

「わかったよ」


 話が纏まると、楼主は襖の方に声を掛けた。


藍妃あいひ


 美しい遊女が襖の向こうから現れる。首を少し傾けただけで髪飾りが揺れ、小さな光を放つ。

 今の時間を考慮すれば昨夜の疲れも取れていないはずだが、その表情に影はなく、真意の読めない笑みを浮かべている。


「付いてきなさい、新入り。中を案内するよ」


 紅姫は藍妃の指示に従って立ち上がった。立ち上がる時に時雨の顔を見ると、彼女は静かに一つ頷いた。


「それじゃ、私はこれで。……しっかりね」


 時雨は紅姫よりも先に立ち上がって部屋から出て行った。


「新入り」


 藍妃に促されて、紅姫は長い廊下を進んでいった。

 一方、青楼を出た時雨は閑散とした朝の通りを歩き、路地裏に入る。その奥には周囲の建物に埋もれるような形で小さな社があった。


「……潜入は成功しましたよ」


 風雨に晒されて色褪せた社の屋根に白い鷲が留まっていた。政彦の式である。


「手引き、感謝する。あとは、あの子を信じるだけじゃな」

「いいのですか? あの式神はお気に入りでしょう」


 懸念の色を示す時雨に政彦は硬く、迷いのない口調で断じた。


「……どんなに気に入っておっても、紅姫は式に過ぎぬ」


 それを聞いた時雨は瞼を伏せた。朝なのに、遊郭の空気は酷く重い。まるで、女達の哀しみを大気が吸い込んでしまっているようだ。


「……若君様が、貴方と同じように割り切れていれば良いのですが」


 その呟きに対して、鷲は何も言わなかった。

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